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文学評論 1968年の大学1年生
あい文学校の日録-1-
2004.9.10〜2005.2.11

1968年の大学1年生:連載1〜14
nakagawa shigeo

September 10, 2004
1968年の大学1年生

そうなんですよ、ぼくが大学生になったのが1968年なんです。
文学部で文学研究やろうと思って入学できたまではよかったんですけどね。
入学した4月はまだ学校封鎖はされていませんでしたね。

しばらくして5月ですよね、フランスで、ほれ、あったでしょ!
大きなデモ、フランスの5月危機っていってましたっけ、革命?
それからアメリカがあったでしょ、ベトナム戦争の話題ばっかり。
近場では大学、学生がストする?!ってど〜ゆ〜こと?
ストって労働者がするもんだって思ってましたから、ね。

そんな年1968年s43に大学生になったんです。
小説家になりたい〜って真剣に思ってました。
毎日、夜な夜な原稿用紙に向ってた、っていったらカッコいいね。
でもさ、世の中騒然としてるじゃないですか。

デモに参加したけど、最初はやっぱり昂奮しましたね。
民青さんのデモ隊でした、機動隊、見かけなかったんです。
当然、ヘルメットに盾と催眠ガス銃もった機動隊がいるって思ってたんです。
ぼくの知識ってそのレベルでした、ハイ。

太宰治と高橋和巳、サルトルとかいう作家も居たですね。
太宰さんは高校のときからの愛読者でした。
高橋さんはぼくが入った大学でかって講師をしてたというんです。
サルトルさんは、その数年前にこっちへ来たとき、京都でお見かけしたんです。

筑摩書房から出てた文学全集を買って読みはじめました。
いちおう文学史の順番に・・・って思ったんですけど、
外が気になって、つまり、デモ、デモ、デモです。
議論はよくしましたけど、本は読めなかったです、事実です。

-自伝-時折連載します。


September 16, 2004
1968年の大学1年生-2-

1968年に大学1年生になったボクは、アルバイトに精を出す日々でした。
地元出版社の書籍倉庫で荷造りしたり、簡易印刷所で名刺を刷ったりの日々・・・
大学へは3年遅れで入学しました。
文学やりたくって文学部、ホント演劇もやりたかったけれども、
そっちの大学は当然のことながら落っこちたんですが、
晴れて大学生とはいっても夜間学生でありました。

その当時って、フリーターという稼業は無かったですし、
就職か学生かの選択しかなかったんです、ボクの頭ん中ではね。
それから蛇足、結婚は祝福されて結婚、これは今も変わらないかな?
駆け落ち、祝福されない同居は、これ、この呼び名ですね。
同棲、同じに棲む、こんな言葉が贈られなかった頃です。

地元の大学でしたから、先輩に高校時代の後輩が沢山いました!
ボクに、や〜先輩!って呼ぶのがボクの、大学では先輩になる子らでした。
誘われて学友会の部屋へ参じました。

地域柄ってのもありますよね、
日刊の赤旗なんてのも数年前から読んでました。
これの購読には訳ありで、ちょっと好きな子が勧めたからでした。

バイトに精出していてほとんど学校に行かなかったんですが(記憶)
んでもパーカーの太字万年筆をもって原稿用紙を汚していたな〜。
小説家の生原稿の複写って本の中にみかけるじゃないですか、
そうなんや〜、筆を加えるって、消し→して枠外に吹き出すんや〜、とか、
文体の研究!なんていって名文複写ですね、そんなことや、です、
トレーニングしましたね〜〜!

夢も希望もあったデスけれど、不安もダメージもいっぱいありました。
東京の方の大学ではもう封鎖されていたんですね、その頃って・・・
京都の地元ではどうやったんですか?もう始まってましたかね。

新米ボクの高校時代の友達は、そのとき大学4年生でした。


September 29, 2004
1968年の大学1年生-3-

その年の夏、ボクは長沢正毅君と二人で北海道へ4週間、旅しました。
かに族って呼んでいましたね、リュックを背負って歩く様は、なるほどですね。
京都から夜行列車で東京まで、東京から夜行列車で青森まで、
青森から夜の青函連絡船に乗り継いで早朝、函館に着きました。
函館からは急行を乗り継いで夕方に天売島へ到着しました。

ボクのリュックは冬スキー用のブルー、大抵は茶色のリュックだから目立ちました。
時刻表と地図を今日、明日の目的地を定めて列車やバス便を乗り継いでいきました。
観光地、名所スポットには余り行かなかったです、というのもお金かけられなかった。
ユースホステルを利用するんですが、4〜5日に一泊程度の予約でした。
それ以外は簡易テントを張っての野宿でした。

そういう意味でいえば、ボクはノンポリ学生のひとりでした。
そりゃ当時の学生ですから、政治の動向に無頓着ではなかったです。
でもセクトに入って活動するというほど熱中はしなかった。
田舎から出てきた同じクラスのメンバーが、急速に政治化していくのには、
ちょっと距離をもっていたようでした。

旅に途中でセクトの幹部?というヒトに出会いました。
彼はスーツ姿でしたね、それから二人連れの女子学生とも出会いました。
つまり5人で数日間を一緒に旅しました。
彼は旅館泊まり、彼女らはユースホステル、ボクたちは野宿。
天売島から稚内へ行き、そっから網走へ移動し、
摩周湖とかの中央部へ移動していきました。

セクト幹部?のスーツ姿のお兄さんは27歳といいました。
基礎講座、学生セクトの歴史や解説をしてもらった記憶があります。
旅する途中はまったくのノン政治の浮浪でした。
そうこうしているうちに帰還の日が迫ってきておりまして、
青森で長沢君と別れて、ボクは日本海沿いの列車に乗りました。
目的は金沢。金沢の実家に彼女が帰っていたからでした。
その夜は、彼女の家に泊めてもらいました。

翌日、1968年8月20日。
ボクは金沢駅の食堂でコーヒーを飲んでおりました。
食堂の隅においてあったテレビがニュースを伝えておりました。
忘れもしません、ソ連他の軍隊がチェコに侵入している、との報道でした。
2千語宣言なんてのが、ボクたちが旅する前に出されてましたし、
ソ連の動向ってのが学生間で話題だったですから、
ボクも多分にもれず関心派ではありました・・・

金沢駅から電車に乗って内灘の砂丘へ行く途中の出来事でした。
内灘の砂丘には、米軍試射場の跡、廃墟となった弾薬庫群がありました。
ボクと彼女は、よく内灘へ行きました。
小説家を目指していたボクは、この場所が持っている意味を考えるようになっていました。
そうなんですね、米軍基地闘争の最初が、その内灘だったんです。

北海道への旅の途中に遭ったセクトのお兄さんの話や、
5月のフランス革命や、8月のソ連軍他チェコ侵入事件。
それに方々の大学も本部占拠やストが起こっておりましたから、
ボクはやっぱり当時の学生として関心をもっておりました。

1969年3月に東京へ移り棲むことになる気分が、
そこにあったのだろうと思います。


October 04, 2004
1968年の大学1年生-4-

ボクが大学入試に臨んでいた頃の1968年1月には、
九州の佐世保港に米軍空母エンタープライズ号が寄港するのを阻止しようとして、
大学生が大挙して佐世保を目指して集結していきます。
当時の国鉄の九州行き夜行列車が学生を積み込んでいきます。
出発前の東京の大学構内、九州到着後の博多駅、現地の佐世保。
学生軍団と機動隊との衝突がテレビをとおして報じられていました。

ボクは、高校卒業後、十字屋楽器店というお店の技術部におよそ2年間いました。
それから1年間の浪人生活のうえ、大学生になったのですが・・・。
この入試を控えての、気分もからだも身動き取れないと判断していたころです。

テレビで報じられるニュースを見ながら、気持ちが高揚していくのがわかりました。
もともと野次馬てきな要素をもったボクですから、無頓着だったわけではありません。
でも、そんなこと知らんフリするしか方法がないように思っていました。
その頃は、赤尾の豆単でしたね、英語の単語を覚えるのに使ったモノ。
太宰治全集を、片っ端から読んでいたように思います。

彼女は女子大の2年生でした。
週に2編ぐらい会っていたと思います。
三条京阪で待ち合わせして、
そこから四条河原町界隈の喫茶店へいきました。
同伴喫茶というのがあって、そんなところへも入った記憶があります。
また、寺町通りを北へ上がって御所へもよくいきました。

そうですね、気持ち的には、暗かったな〜って思います。
なんかもう、遅れてきた青年の私番?
太宰の言葉に酔いしれて、そこを過ぎれば悲しみの町、なんて言葉にも感動したり。
もう年齢は21歳の冬から春への時期です。
暗かったな〜って思います。

電灯が点いてないんですよ、行き先に。
そのころ目標は、小説家になりたい〜って、思ってたようです。
関西文学っていう同人があったんですが、そこの準会員だったかに登録してました。
でも例会には行ってません、小説は独学でございました。
ボクの小説っていうか、文章って周りの友達と比べたらの話ですが、
少しましな文章を書いてたんかな〜、程度ですね。

小説家になりたい、と思って東京へ行くのは翌年1969年3月?でした。


October 07, 2004
1968年の大学1年生-5-

夏が終わって秋の頃になると、ボクはもう学校へはほとんど行かなくなりましたね。
というのもアルバイトに精出さないといけない状態だったので、
簡易印刷所で1時間70円のアルバイトでした。
作業の中味は、名刺印刷や案内ハガキ印刷です。
鉛の活字を枠に並べたのを印刷機にセットして、
紙を一枚一枚差し込んで刷ります。

このアルバイトには、目的もあったんです。
というのも、ボクは小説家になりたくって文章を書いて練習してたんですが、
自分の手作りで自費出版できるかな〜っていう思いがあったんです。
数年後に同人「反鎮魂」というのをやりますが、
このときは和文タイプで打ってもらっての製本でしたけれど、
簡易印刷のアルバイトの目的はそんなところにありました。

世の中、騒然としておりました。
この年の10月21日には、新宿駅周辺で大規模なデモがあって、
多数の逮捕者があり、未明には騒乱罪が適用されることになった。
そんな最中のボクは、簡易印刷所で活字拾いと印刷機運転のアルバイトでした。

気持ち的には遠いところにいるような感じでした。
ノンポリではなかったですが、ノンポリを決め込んでいたんです。
高校時代の友達はもう大学4年生になっていましたから、
就職問題を抱えて、デモへの参加に躊躇するのが多かったように思います。

そんなある日の夜、同じクラスの連中がボクの家へ駆け込んできました。
デモに参加し、機動隊に殴られ蹴られした直後に、
いく当てなくなって駆け込んできたんです。
クラスの連中は現役で入学1年生ですから年齢が19かはたちです。
血相変えてボクに、学校へ来てほしいと要請しました。

そんなこともあって、数日後の夜、ボクは大学へ赴いていきました。


October 14, 2004
1968年の大学1年生-6-

ボクは久しぶりに学校へ赴いていきました。
ちょうどその日は、学友会主催の集会をやっておりました。
階段式の講堂へ入って後ろの方の席に座りました。
演壇では、学友会の役員なのでしょうか、
マイクをもって「大学の民主化」がどうのこうのと話をしていました。
顔見知りの活動家タイプの学生が何人かおりました。

学友会と文学部自治会は、ともに民青が主導権を握っておりましたから、
その集会も民青系の人たちでが中心でした。
ボクの入学した大学は圧倒的に民青系の活動家。
それにシンパの学生。集会には総勢500人が集まっていたと思います。

そのうち顔見知り、入学した頃に話を交わした先輩、がボクの側にきました。
そしていうのです、ブラックリストに載せたるからな。
大きな声で罵声を浴びせるなんてことじゃなくて、そっと寄ってきて囁く。

きっと自治会は、ボクがどっかのセクトに所属したために、学校へ来なくなった。
そのように認定していたんだと思います。
ボクは、ただ簡易印刷所のアルバイトに精出しながら、
夜な夜な、小説を書いていたにすぎないんですが。

ボクのいたクラスからラディカルなメンバーが輩出されていた。
このことを知ったのが、その集会のあった日です。
その首謀者がボクなのだとの判断をしていたんでしょう。
入学から夏休み前までのボクの言動をすれば、
そう判断されても仕方がないです。

というのも3年遅れの大学1年生であったし、先輩に高校の後輩がおりましたし、学友会や自
治会の部屋でよく議論したし、民青への加盟を求められたけれど、批判的に断った経緯もあっ
たし、なにかと噂の種になっていたんだと思います。

その頃には、京都の大学正門が次々とバリケード封鎖されておりました。
でもボクが在籍していた大学は、まだ封鎖されてはおりませんでした。
だけどバリケード封鎖の噂は、もう学生の間には広がっていました。
心情的には、バリケード封鎖ってやりたいな〜という期待感。

全共闘っていってました、全学共闘会議。
各クラスで闘争委員会なるものを旗揚げして認知させるんです。
クラスの闘争委員会、ヘルメットに「L3闘」とか書いてデモに参加。
これが結成セレモニー、ということでわがクラスが一番乗りだったんです。

東京では、東大や日大の話題が連日、大きく報道されておりました。
京都の活動家たちも東京の方へ集結していたようでした。


October 20, 2004
1968年の大学1年生-7-

東京でも京都でもその他の地域でも、
大学が学生の手によって封鎖されている。
街のど真ん中で学生が集まって道路を封鎖する、
歩行者天国ってのはそのころかまだ無かったと思いますが、
そんな道路空間をカルチャーラタンなんて呼んでましたね。

当然、道路管理者は警察機動隊を投入して解除する。
火炎瓶なんて代物も出てきて道路上に投げられましたね〜。
この年の10月21日でした。
新宿駅構内とその周辺で大規模な騒動が起こりました。

ボクは、その日は京都におりました。
東山の丸山音楽堂で集会、その後にデモ、というのに参加しました。
ヘルメットはかぶってないです、ノンセクトでしたから。
三千人集会、多いようですが、ただの三千人。
当時、京都市内の学生数は10万人とも云ってましたからね。

ボクは当時、個別セクトの理論というのは詳しくはなかったです。
でも大きな歴史的な流れというのは、
社会運動&学生運動を理解するための参考書(笑)があった。
朝日ジャーナルっていう週刊誌がありました。
状況っていう月刊誌がありました。
現代の目なんていう月刊誌もありましたね。
そんな週刊誌や雑誌を読んでは、おりましたけれど・・・

いま思うと、その頃はまだ、ノンセクト野次馬の部類でしたね。
学友会&自治会主催の集会に参加して、
顔見知りの先輩に静かなる恫喝をされて、
それでいく場所っていうのは、もう決まりですね。
赤や白のヘルメット部隊の側へ〜〜です。

議論というのはよくやった部類に入るかも知れません。
状況についての知識も多少は多く持っていたのかも知れません。

そのうちボクの通う大学でも封鎖が始まりました。


October 25, 2004
1968年の大学1年生-8-

モダンジャズを聴く!
その当時、河原町荒神口にあったジャズ喫茶、シアンクレール。
河原町にはポパイなんてジャズ喫茶もありました。
喫茶店では今もあります、六曜社、侘助。

そのころって居酒屋チェーンはなかったですが、飲み屋ですね。
ボクはお酒は弱いので、喫茶店ですね。
特にシアンクレールというジャズ喫茶。
狭い暗いルームにがんがんボリューム上げて、
っていうのがジャズの正式な聴き方?
なんせ暗〜い時代イメージの1968年なんです。

そんな暗〜い時代感覚は、現在にはありませんですね。
そのように感じていた記憶です。
1968年から1970年を越えるころまでの時間帯のようです。
デモに参加して死ぬ、なんてことがよぎった記憶もありますし、
文学に傾斜していたこころが現場とどのようにリンクするのか、
なんてことを議論しあっていたですね、
革命なんて言葉もよく使ったような気がします。

秋深くになって、大学本部会館がバリケード封鎖されました。
ボクはその内部には入りませんでした。
かといってノンポリ学生でもなかったようです。
かなり強烈な衝動を受けていました。
正門入ったところの校庭で集会があり大学総長が壇上にいました。

ボクたちは混乱していたと思います。
一種神秘化された大学総長像がありました。
その偶像を壊すことへの畏れと偶像破壊理論です。
でも封鎖された大学本部会館を解除することには反対の立場でした。

民青同盟による封鎖解除を阻止する側にいましたけれど、
機動隊が導入されての解除にはヤジるしか術なかったです。

ジャズ喫茶シアンクレールっていうのは、思案暮れ〜るなのかな?
ボク自身のモノにたいする捉え方は一変していく時期ではありました。
3年遅れての大学1年生1968年秋、21歳。


November 04, 2004
1968年の大学1年生-9-

1968年頃っていうのは、もう今や昔。
ですから、ここでのはなしも、出だしは「昔々あるところに・・・」ですね。
まさに、そのような感じがしますし、状況も一変していますからね。

その頃って世界の枠組みが現在(2004.11)とは違いますしね。
いま、革命なんて言葉を使うことって、ありますね「IT革命」。
で、その頃って、革命、社会システムを変える革命、ですが、
革命、革命ってよく言ってましたけれど、
単なるお題目?だったのかもしれないですね。
ロシア革命史だとか、蒼ざめた馬をみよ!でしたかね、
そんな本を読んだ記憶もありますが、なんだったんでしょうね。

1968年秋ごろから1969年春ごろまでの間ですね。
具体的には、10月21日の新宿騒乱から東大安田講堂の封鎖解除までの間です。
その期間、ボクは京都に居りました。

日時の記録は手許にないのでアバウトですが、
ボクのいた大学の封鎖されていた本部が機動隊によって解除された夜。
それから再び、別の校舎が封鎖された日。
そしてこの校舎が機動隊によって封鎖解除された夜。
ボクはたまたまその場には居合わせなかったんです。
ただ、その直前のその場には居合わせておりました。

冬の夜、機動隊が封鎖解除するかも知れないという頃、
ボクは封鎖された校舎のなかに入りました。
それまで散乱して騒然としていた校舎の内部は整理され、
機動隊へのメッセージが落書されておりました。

気持ちは解放空間のなかでしたが、冷たい空気に満ちていたように感じます。
失望感といいますか、敗北感といいますか、侘びしい気持ちですね。
もう夜も更けてしまいました。ボクは自宅へ戻りました。

その数時間後です、機動隊の封鎖解除。
校舎に残った十数名が逮捕されていきました。


December 16, 2004
1968年の大学1年生-10-

いまさら1968年〜1970年のお話なんて?!
それから36年も経っていますよね。
そのとき生まれたヒトが、36歳ですから、
もう昔、むかしのおとぎばなしみたいな感じですね。

でもいま、この国の歴史をさかのぼっていって、
現在進行形の軍事関連なんかを見ていると、
どうもこの1968年前後が、ターニングポイントだったのかな〜。

その頃って、ベトナム戦争がありましたし、
その反戦運動も活発になってきたころです。
フランスでは、5月革命っていうのが起こっていたですよね。
アラファトさん率いるPLOも活動を始めていましたしね。
よど号ハイジャックなんかも起こりましたよね。

大学と大学生は、そういう動きに敏感に反応していたと思います。
まだ、東京も京都も、大学の校舎が都市の中にあったころです。
その後、国際世界の枠組みも大きく変わりました。
国際政治と経済の枠組み変更は、将来に何をもたらすのでしょうか?

この何をもたらすのか、という問いかけを発して、将来を予測するときに、
帰っていく原点が、この1968年ごろになるのではないかな?と思うんですね。
ヒッピー(族)現象は、現在のフリーターの原点かも知れません。
個人の完全管理体制は、その当時のゆるさの反省から今に至ってる?

こんなふうにいろいろな社会現象をみていくと、
結構その前後にさかのぼれるようです。
このブログは、文学の範疇ですから、
当然、将来の文学のあり方を探っていく意図があるんです。


January 09, 2005
1968年の大学1年生-11-

1968年に大学生になったボクの専攻は日本文学。
自分では現代文学を勉強しようと決めておりました。
文学関係で愛読したのが、高橋和巳ってゆう作家でした。
もちろん他にも読んでいましたけれど、その代表として彼ですね。

その当時の文学部学生には大人気の作家だったと思います。
京都大学の助教授で、ぼくの入学した学校にも講師としていた。
そんな因縁も多分に影響していたと思います。
大学紛争って括られる一連の出来事にもリンクしていましたね。

ボクの読書歴っていえば、高校時代には主に詩集でした。
リルケとかアポリネールとか・・・島崎藤村、高村光太郎・・・
それから小説っていえば、堀辰雄、太宰治、夏目漱石・・・あたりですね。
それで高校3年のときの芥川賞に「されどわれらが日々」ってのが選ばれて、
夏休みでしたね、一気に読んで、かなりショックを受けた。

そのころから読書傾向が変わったように思います。
サルトルとかカミュとかの仏文、実存主義ですか、
この傾向にはまってしまいましたね。
すでにその頃って早稲田とか日大とか、
東京レベルで大学紛争のニュースが日常化してました。

いきおいボク自身も感化されていきます。
なんか追いかけられてるような切迫感がありました。
でも、まだ遠い存在でした、身近に迫ってくることは無かったです。

高校卒業が1965年、それから2年間、
京都の十字屋楽器店とゆうところで働きました。
1967年に2年間のお勤めをリセットして、1年間の浪人生活です。
1968年に大学生になった、とはいっても年齢は21歳になっておりました。

そんなボクの年代図鑑が描くことが、いまなら出来るように思っています。


January 24, 2005
1968年の大学1年生-12-

1969年の春、大学に休学届けをだして東京へいきました。
本郷の大学の前にある法律専門を扱う出版社への仕事に就きました。
気分的には内側に篭った抑圧感と切なさ、作家への第一歩とゆう恍惚感が混在していたよう
に思います。
出版社前の大学構内は、その冬に学生運動の拠点として学生と機動隊が攻防を繰り返した場
所でした。
廃墟のようになっていたその象徴的講堂をみながら、1969年10月21日までその出版社で仕事
をしました。

その当時のボクの気分とはいえば、切なさ気分に満ちていたように思います。
目の前の現実に起こっていることの意味が掴めない、そのような苛立ちもありました。
とりわけ現実が突き詰めてきたものを内側に溜め込みながら、
力によって正常化されていく表面への空々しさを痛感していたように思います。

1969年の春には、大学の封鎖が解かれていったとはいえ、まだかすかな希望がありました。
日米安保条約の改定時期まで、まだ時間があったからだしょう。
革命が起こるかもしれないとゆう夢想もなくはなかったように思います。

気持は揺れ動いていきました。むなしさ切なさの気分は溜まっていきました。
日々生活の実態は、出版社の在庫本の運搬運転手が主な仕事内容、
新刊本をニコライ堂の側の取次ぎへ運搬する、
でも出版社にいることだけで何か特別な存在になったような気分にもなっておりました。
日曜日には新宿へ赴き、もう立ち止まり禁止になった構内をいそいそと通り抜けて、
歓楽の街へ足を運んでいきました。
デモがあるとデモ隊列のなかにいました。

労組のなかった出版社でしたので、労働組合を作ろうとゆう話が持ち上がりました。
印刷労連というオープン性の労組があって、その組合員になりました。
数人で支部を結成しました。もちろん会社には極秘ではありました。
学生の運動から労働者の運動へと参入していったことになります。


January 31, 2005
1968年の大学1年生-13-

学生運動の発展形として労働運動を捉える視点とゆうことは、
当時の学生運動の主流ではなかったと思います。
それよりも心情的に参加する学生運動とゆう色が濃かったようにも思っています。
学生を終えて社会人になっていったとき、学生の頃の考え方を捨て去っていく流れです。
このような心情での労働運動への参入とゆうのには、実感の重さがありました。
率直にいってボクの場合はかなり軽薄・軽率な乗りだったと思っています。
でも周りにいた大方の学生よりもまだ真摯に受け止めていた部類だったかも知れません。

組合結成の動きは会社には隠密に行動しなくてはいけなかったので、
ボクは中山明なんてゆう名を名乗りました。
所属は文京区の暁分会だったかと記憶しています。
4人のメンバーで3人はいずれもボクより年配でした。
なのでボクは主体ではなかったですね。
後にその出版社の代表者になるメンバーがキャップでした。
銀座の朝日新聞社の壁面にアポロの乗組員が月面着陸したとゆう大きな写真看板を出してい
た頃です。
でもボクは結成3ヶ月ほどでその出版社を辞しました、1969.10.21。

何かしら切羽詰った気持がありました。
安保改定は絶対反対、なんてことを本気で思ってたのかどうか、
いまや不明ですが、その当時はそのことを云っていました。
反体制なんていえばカッコいいですが、それも心情的に思ってたようですね。
その頃、1969年の夏には、もう負け気分のほうが先にあったようにも思います。

何に勝って何に負けるのかということも未明のまま、
日々が過ぎていったのだと思います。


February 11, 2005
1968年の大学1年生-14-

1969.10.21とゆう日は、国際反戦ディーの日で、都心がマヒ状態になってしまった日です。
その日のボクは、明治公園から飯田橋ルートのデモに参加しました。
べ平連が主宰する市民レベルのデモでした。
夕刻から夜半にかけて新宿駅では学生と機動隊が衝突しておりました。

気持としては心の中騒然としていた記憶があります。
明治公園に集まって出発前にメモが配られました。
そのメモには電話番号と弁護士の名前が記してありました。
逮捕されたときは完黙、このメモに書かれた名前と電話番号のみ云う。
そのためのメモなのでした。
そのメモを胸ポケットに入れて、デモ隊が出発しました。
デモ参列者は数千人?いや万人に達していたかもしれません。

静かなデモ隊列には違いありませんでした。
終着解散点の飯田橋まで来て、デモはジグザグデモに変わりました。
機動隊の指令車のスピーカーが違法であることを告げておりました。
ボクはそこそこ疲れたので隊列から離れて陸橋にあがりました。
その直後に機動隊がデモの隊列に突っ込んできました。

当日その場で相当数の参加者が現行犯逮捕されました。
ボクは逮捕を免れました。免れてしまって無傷です。
京都で2度免れてこれが3度目でした。
後々、この免れた結果を自分なりに総括していくことになるのですが、
この時点では助かった!ってゆう感じでした。

※14回連載してきたこの話をここで終了します。
追ってこの1968年から1969年までを今に引き寄せて検証したいと思っております。

(C)nakagawa shigeo 2005