むくむくアーカイブス 最新更新日 2015.8.27

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夢幻舞台2015-1-
夢幻舞台2015

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2015.05.10 Sunday

 

毎年、夏のお盆の頃を夢幻舞台と称して写真を構成しています。
それを、通年に拡大して、ここのタイトルにしました。
夢幻舞台とか、どんな装置なのか、想像におまかせします。
夢と幻の舞台、ということです。
舞台といえば、能を舞う舞台、狂言する舞台、演劇の舞台など。
それの夢幻版といえばいいかもしれません。
ぼくのイメージは、この世のこと、浮世のことかなぁ。
色艶あり、侘寂あり、もうひとつの世界、って思うけれど。
もうひとつの世界は、ご法度、禁制、タブーです。
だから、こちらの今いる世界のことを、モラルに従って書きます。
それとぼくの気にいった写真を一枚載せますが、本文とは関係なし。

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こんなイメージが出てきました。
女相撲、横綱の土俵入りの図です。
この光景は夢か幻か。
でも夢や幻はフィルムには写りません。
そんなことはどうでもいい。
たしかにこの現場に居合わせたわけです。

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ひと足遅れて、後ろからしか撮れなかった。
葵祭行列の最後の御所車のうしろ姿です。
迷ったのがいけなかった、迷いは禁物です。
この世では、様々なことが幻のごとく起こって消えます。
夜露のごとく、とでもいいましょうか、斎王台。
身を高貴なお人へ任せに行くんですね、葵祭の行列。

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夢を見て目が覚めた。
夢の内容は記憶に残っていないが、怖かった。
どうも加齢のせいか欝的状態にあるようです。
10代のころには精神科医を訪問しようかと思った。
20代のころにはいつも奈落へ落ちそうな気持だった。
30代のころには外化していたとはいえ紙一重だった。
40代、50代、これはいけなかった。
もう死ぬ方がましだと思うことがたびたびあった。
そうしてつらぬけて仙人みたいになってきたところでした。
最近、内面での葛藤、やり残した感、それらが混在している。
写真は1983年だったか、京都写真壁での写真展です。
SEさんが見に来てくれて、その後に自死した。
会えていたら、そうはならなかったかもと、悔いに残っています。

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2015.06.05 Friday

 

縁切り、縁結び、そのために穴を通る。
行って切って、帰って結ぶ、これで結ばれた。
怨念が渦巻く人間の世界です。
仙人様のような生きかたができないものか。
遠い遠い記憶が、よみがえってきます。
もう半世紀も前の出来事が、よみがえってきます。

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和服を着た女子が目立つ京都の観光地です。
レンタル着物のお店があって、観光目的のひとつです。
おそろいの着物地で仲良く手をつないだふたり。
なんとなく、ほほえましくなった光景です。
場所は、清水寺の門前です。

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どうもこれは老人性欝というのかも知れないな、と思う。
いろいろと情報が入ってきて、老人性というところに引っかかる。
若いと思っていても、頭脳の構造がそのように変わってきてる。
そのことをどのように自分で処理すればいいのかがわからない。
なにかしら、ドストエフスキーの告白みたいな、思いです。
彼がロシアの閉ざされた(と思える)風土の中で、自分を見つめた。
罪と罰なんて、よくもあんな文章が書けたものだ。
それは、彼が、そういう欝と闘っていた証拠ではないか。
そう思ったりすると、なにか同伴者がいるような気持ちだ。

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最初に、この写真に写っている女子について書いておきます。
名前は、瀬川恵美、撮影は1981年の夏で、二十歳を過ぎていた。
白虎社の夏季合宿で鞍馬の奥の百井の民家で撮った一枚です。
ビデオ作家だった彼女とは、1979年12月釜ヶ崎関連で知りあった。
ぼくが白虎社と懇意になったのは、彼の純クンと瀬川恵美を通じて。
いっしょに、ザ・フォーラムという自主ギャラリーを運営します。
運営の主宰者として、瀬川恵美さんが立ち振る舞っていました。
この彼女が、自死してしまうのは1983年だったでしょうか。
ぼくの心に残る、忘れられない人のひとりです。

さて、これから記述するのは、それよりも10年程昔の話です。
ぼくは1968年に大学に入学できたんです、21才でした。
学園闘争が起こってきた年で、勉強どころではありません。
この年の秋に、ぼくはある法律専門の出版社に勤めだしました。
出版社の名前は有信堂高文社、所在地は京大北門の前でした。
東京へ行きたかったから、東京勤務を希望して東京住まいになりました。
本郷、東大の正門と赤門の間、通りをはさんだその前に出版社がありました。
1968年から1969年にかけて、東大紛争で安田講堂が封鎖されていた時。
陥落のすぐあとに、ぼくは東京へ行きました。
安田講堂の前はまだ石が散乱し、催涙弾の匂いが漂っていました。
そうして1969年10月21日を東京で過ごして、京都へ帰ってきたのです。

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この世の出来事、体験してきたことを心の中によみがえらせます。
記憶というものが、ふっとイメージとなって心の中に浮かびます。
夢か幻か、死者の姿がよみがえってきます。
生きて別れたままになっている人の姿が想い起こされてきます。
生死が不明で、ひとづてに消息を聞いて、生死が確認できることもあります。
けっこう長い年月生きてきて、蓄積された記憶の群がよみがえるのです。
心というか、うちがわの感情が動きます。

さて1969年10月21日というのは、国際反戦デー、という日でした。
その日は、東京にいて、べ平連のデモの隊列にはいっていました。
この日、昼間の東京は騒然としていて、夕方から夜は静寂でした。
ゴーストタウン、死の街、人がいない街、そんな感じがよみがえります。
明治公園から水道橋の交差点までがデモコースでした。
警察に捕まったら、連絡先としての電話番号のメモをもらった。
完全黙秘で通すこと、つまりなにもしゃべるな、ということです。
水道橋で、機動隊にはさまれ、逮捕されていった人たちがいます。
ぼくは、運よく、そうはならなかったなかの一人です。
それまでにも、京都で、二度、そういう現場に立ち合っていました。
三度目の現場で、逮捕をまぬがれた、そのことはある種、負い目です。

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なぜかしらいま第九のティンパニーの響きが聞こえてきてます。
ベートーベンの交響曲全集、昨日から聞いていて、いま最終です。
白虎社をバックにツーショット、あの取材の時、一緒にいたんだ。
彼女には岡崎純くんがいて、同棲してたんですけど、仲よくしてもらった。
ザ・フォーラムという自主ギャラリーを作ったのは1982年だったか。
ギャラリー兼住居の管理をしてくれていたんですが、自死してしまった。
最近でも、近辺で、何故死んでしまったの、との質問を受けます。
何故なのかは、死者にしかわからない、死者すらわからないかも、と。
直前三ヶ月ほど会っていなかった、個展へ来てサインしてくれた。
個展で会っていたら、それは防げたかもしれないな、と後悔してます。

さて1968年のころという時代のことを、断続的に考えています。
フランスではドゴール体制が倒れる革命が、プラハの春もこのころか。
日本では、学生運動のさなか、学園封鎖が起こっていたときです。
ここだよな、日本の文化の転換点、写真表現においても、ここだよな。
1945年ではなくて1968年というエポックだと、認識します。
写真同人誌プロヴォーグが中平卓馬氏らによって創刊されるころ。
ぼくの論では、写真が文学と遭遇する、写真の私小説がはじまる。
ぼく自身でいえば、まったく昼も夜も文学青年でした。
小説を読み、小説を書き、大学の文学サークルで冊子を発行していた。
第九番第四楽章が、ただいま始まった、コントラバスの音が響く。

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夢幻舞台というタイトルを使ったのは、1982年だったかに出した本です
夢幻舞台-あるいはわが風土-と題して、写真と四編の文章の本。
なによりその年の夏前に自死してしまった人へのレクイエムでした。
あの世とこの世が交錯する日々、それがこの題の奥行です。
記憶と今、人のことはわからないけど、自分のことです。
記憶が立ち現れてきて、自分の存在を確認しているように思います。
ここでは、1968年というところに着目して、いくつかの記憶をたどっています。

1968年の4月に、ぼくは三年遅れで立命館大学の夜間部に入学します。
立命館大学の敷地は京都御所に近い広小路にありました。
ぼくが小学生だったころ、母が立命館大学の理髪部で仕事をしていた。
なので、小学生のころから、その敷地、職場へ、遊びに行っていました。
立命館大学では、象徴的に、わだつみの像がありました。
1968年、入学の年に、大学内が騒然となります。
ぼくは、中川会館封鎖賛成派になっていました。
セクトには入っていなくて、ノンセクトラジカル、と呼ばれた部類です。
そのなかの一点、群れの中の一点でしかないのに、全部のように思っていました。
この年の秋には、京大北門前の出版社に入っていました。
あこがれの出版社に入社できて、東京勤務を希望していました。

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手元のアルバムのなかにある、自分が写った写真の最初です。
生をもってこの世に出てきて、数年が経った頃でしょうか。
平成元年に亡くなった母から、写真館で撮ってもらったのだと聞いています。
自分を見つめていくのに、記憶は、写真を見ることで想い起こされます。
この写真を撮ってもらったときのことは幼少すぎて記憶にありません。
でも、この写真を巡って、聞いた話は覚えていて、記憶が重なります。
やっぱり母親という人物は、特別な存在であるように思います。
自分の生命の源泉である以上に、人間の愛情を授かりつながっています。
この母が、手が後ろに回るようなことしたらあかんよ、と言っていた。
大学が紛争に巻き込まれていて、ぼくがそこに参加している姿を見ていた。
幸いというか、不幸というか、ぼくは、そうはならなかったのですが。

1969年の2月に東京勤務で行きました。
出版社が東京大学の正門と赤門の間の前にあって、そこが拠点でした。
遅れて行った青年とでもいえばいいのか、さあやるぞ、との思いです。
でも、いつのときも周辺にしかいないから、そこでも周辺です。
小説を書こうと思っていても、書けない、落ちつけない。
労働組合を作るんだといって、秘密結社みたいな「紅」分会。
出版労連には入れなくて印刷労連だったか、その分会です。
結局、旗揚げのときには、会社を辞めてしまったので、卑怯者です。
夏を過ごして、秋、10月21日の国際反戦デーを迎えて、デモに参加しました。
そうして生活力がないぼくは、それを期に京都に戻ったのでした。
もちろん出版社をやめて、京都に戻って、仕事を探します。
そのまま残留していたら、人生そのものが変わっていたと思っています。
なにかしら、大きな分岐点、であったように思えます。
京都に戻って家電量販店に採用され、スーパーの電器売り場で、配達の仕事に就きます。
でもここはひと月ほどで辞め、郵便局のアルバイト、臨時補充員になります。

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今年もお盆の日々を迎えております。
朝から仏壇の水を入れ替え、簡単な掃除をする。
線香は燃やさなかった、蝋燭も灯さなかった。
淡々と作業を続けながら、父母の面影を想う。
ふつふつと湧く情に、幻燈のように光景が流れでます。
いよいよ、今年も夢幻舞台の日々だ、と思う。
このまえ、毎年行ってる六道の道を今年も歩いた。
京都は松原通りを鴨川から東へ向かっていくと六道の道。
むかし、死者を葬る行列が通る道、その先は清水寺だ。
西行寺へ辿りつき、地獄絵をカメラに収めながら見る。
この子のことを想像しながら、夢幻の世界へと歩む。
小野篁があの世とこの世を行き来したポイントに辿りつく。
夢想のなかがあの世なら、目の前の光景がこの世なのか。
其処に立った自分の、頭の中と目の前の光景が交錯する。
真昼間の明るい光景、人々がうごめいている光景。
地獄絵に描かれた光景をダブらせているこの世。
撮った写真はただいまセレクト中だ。

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ツイゴイネルワイゼン、サラサーテ、諏訪内晶子、バイオリン。
今朝の音楽は、ここから始まりました。
朝早くに目が覚め、薄明るい今、胸が詰まってきます。
生きていること、生老病死、これじたい苦悩だといいます。
ぼくは只今、生老のところにいます。
病は、精神が尋常でないから病んでいる、と言えるかも知れない。
四苦のうちの三つを、ただいま敢行しているところです。
古希だというから、希なるところにいるのに、青春気分です。
ヴァイオリンの音色は、甘い、胸を突いてきます。
スラブ舞曲、これは中学生の頃に聴いた曲。
ハンガリー舞曲、これも同様です。
諏訪内晶子さんのバイオリンで、聞こえてきます。
千本えんま堂へ行ったら、閻魔大王の叱る顔があった。
ぼくだって、わるいこと、いっぱいしてきたよなぁ、なんて。
悪徳はしていませんが、悪、これはやっている最中だと思います。
体制を批判し行動するやからは、悪の人だとぼくは考えています。

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お盆のさなか、70年前に戦争が終わった日。
ぼくはその翌年に生まれていて、戦争は知りません。
そんな日なのに、ドリフトする自分の気持ち。
今年は、13年間の時間が、短絡しています。
まわりのメンバーは一変ですが元に戻った感があります。
戻ってきたなかで、どう対処するのがいいのか、迷います。
自分が若返ってくるというわけではなくて、経年変化してる。
からだが衰えてきているのに、気持ちが先走ります。
どうしようかと、迷います。

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夢幻舞台の締め括りは大文字送り火ですね。
今年もまた、その日、その時間がやってきて、出かけました。
いつも、金閣寺の近く、西大路から北大路になる場所で撮ります。
少し雨模様だった今年の送り火。
そろそろ、幕引きしようかと思うところです。