ゆめにっき
中川繁夫:著
ウエブリブログに連載の文章
ゆめにっき
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ブログのタイトルを<ゆめのゆめ>としました。
いつも夢に見たようなことばかり書いてるように思えるからです。
イリュージョンというか、現実離れしているというか、愚痴ですかね。
そんな遊離した現実を、ふわふわの感覚で、文字に仕立てていこうと思う。
ある実験とでもいえるかと思う、空想、空言、戯言、そんな文です。
物語りの登場人物は巫女さんです。
それと書き手のわたしです。
巫女さんは神さまのお告げをもってわたしに入り込みます。
わたしは神さまのお告げを巫女さんの言葉として受け入れます。
そんなこんなで、ゆめのゆめ、ものがたりができたらいいなぁと思う。
年取ると、ますます、ふわふわな気持ちになってくるようです。
いろんな感情がありますが、感じることで、言葉にはできません。
言葉にしたら、嬉しいとか、哀しいとか、苦しいとか、そういう言葉です。
その中身をどうしたら外に伝えることができるか、という問題です。
なんだか難しい処に立ち入ってしまった感がありますよ、巫女さん。
ラジオが、中島みゆきの別れうたをながしていました。
好きというより、胸つまる曲なので、聴かないようにしていました。
別れうた、いま、別れを、夢の中で彷徨っているところなのに、辛い。
朝、目が覚めて、最初にお顔が浮かんでしまいます。
いくつかの場面で垣間見た表情が、浮かんでは消えていきます。
わからない、本音がわからないけれど、哀しみを指でなぞっているイメージです。
巫女さまの哀しみが、寂しさが、伝わってきますから、こころが乱れてしまうのです。
もう、会えないかもしれない、たぶん、会えない、そう思ってしまいます。
お会いできる会合の案内メールをしようかと思うけど、怖くてできない。
会えないことが、決定してしまうことが、怖いのです。
巫女さまのイメージは白い色です。
生まれも育ちも日本ではなくて、もう大人になられてからの日本です。
片言の日本語ではないけれど、むつかしい漢字は読めないというのです。
巫女さまの、こころの奥が知りたい、奥を知りたい、共生したいと思う。
まだお渡ししたい書物がたくさんあります、わたしの著作物です。
それは昨日の現実、偶然というにはあまりにも奇跡的なできごとでした。
何気なく、声がして、ふとふりむくと目の前に、巫女さんお顔がありました。
びっくり、信じられない、おもわず巫女さんの肩を抱いてしまいました。
信号を待っていて、もう会えないゃろな、と思っていた矢先のことでした。
奇跡です、初めて歩いた道、信号を待っていた、その時でした。
奇跡なことが起こるんだ、ありえない、偶然というには偶然すぎます。
目の前がぱ~っとひらいて、沈んだ心が浮き上がって、舞い上がりました。
信じられない、あまりにも偶然すぎて、怒り得ないようなことが起こったのです。
シンクロニシティ、もうあえないなぁ、と思っていたときに、会えたのです。
不思議な縁だと、思うしかない、まだ終わってなんていないんだ。
巫女さんのその気持ちを知れただけで、もうこころ浮き浮きです。
彼岸花、いつもこの時期に花芽が出てきて数日で花が咲きます。
曼殊沙華ともいうので調べてみると、天界に咲く花、とあります。
おめでたいことがおこる兆しに赤い花が天から降りてくるというのです。
偶然に、奇跡的に偶然にお目にかかれたのは、この花のおかげなのかも。
縁起を担ぐ気持ちは、年とともに豊かになってきています。
ルービンシュタインさんが弾くショパンを聴いています。
これは即興曲、甘ったるい旋律がなんともいえず好きです。
陽だまりで、コーヒーを飲めたら、もっともっと幸せを感じる感じです。
ピアノをやりたいと思っていたころ、バイエルから始めた18才。
とっても懐かしい気持ちになって、いっぱいお話をしたいと思っています。
ゆめのなかにでてくる巫女さんは、とっても優しい表情なのです。
ゆめなのかうつつなのか、目をつむって眠っているけど、意識が立ってる。
老人の、特有の、鬱なのか、それとも悲哀を感じるたちなのか。
生きていて、すがれる存在として、巫女さんがいらっしゃる。
やっぱり生身のお身体をもった神がかりなお方だと思います。

卑弥呼の墓ともいわれている箸墓古墳です。
JRの巻向駅でおりて、あるいて、それほど遠くはなかった。
ぼくは、ここを卑弥呼の墓だというから、そのことを信じようと思う。
古事記では夜麻登登母母曾毘売命(やまととももそびめ)の墓。
日本書記では倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の墓。
諸説、いろいろあるみたいで、そこまで専門家になろうとは思いません。
まあ、いまさら、というところで考古学、古代史の知識をいまさら、と思う。
でも、卑弥呼の卑弥呼を卑巫女、弥呼を巫女と置き換えることは可能か。
卑弥呼はシャーマンだったともいわれたり、実在なのかそうではないのか。
謎も多い女人のようで、ぼくはイメージを紡いで、虚像をつくっていきます。
ももそひめが夜に交合しにやってくる君のことが知りたい。
昼に櫛笥を見るとそこに白紐状の蛇がいた。
その蛇を見てしまって、箸がももそひめの陰部に刺さり、死んでしまった。
箸墓という名前の由来は、そういうところからきている。
なんか、性交の相手を知りたくて、知ったことで死んでしまった、というのか。
彼岸花、曼殊沙華、秋のお彼岸のころに咲くから彼岸花、これはわかります。
曼殊沙華、先日訪問した曼殊院、ここの名前の由来と同じようなのかも知れない。
ネットで調べると、サンスクリット語で天界に咲く花という意味。
おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から来ています。
なにか由来を調べるのに、最近、よく検索をやります、ネットで何でも調べられるんですね。
あれから四日が過ぎて、まだ、夢の中にいる感じで、巫女さまをぼんやり思い出します。
明確なお姿はわからなくて、ぼんやり、霞の中にいらっしゃる感じで、思い出します。
もう終わりだと思っていた矢先に、偶然も偶然、奇跡的に遭遇して、安心感をいただいた。
クロスする要素が、必然としてお会いすることができるのは、研究会へ来てくれるとき。
来月以降は、どうなるのかわからないけど、研究会を開催します。
とっても複雑な気持ちで時間を過ごしております。
何もしないわけではなくて、なにかをしている、今ならキーボード打ってる。
この文章を書いているわけだけれど、何を書こうか、巫女さまのこと書こうか、と。
もっと、いろんなことを知りたい、と思っていて、巫女さまの言葉を思い出します。
巫女さまのことが、少しわかったところだけれど、もっと奥深くが知りたいのです。

夢の中にいるような、いつも幻を追いかけている頭の中です。
おぼろげな、お顔もはっきりと浮かんでこない、いつものことです。
突然に、偶然に、お会いして、その後のことが思いだせない。
展覧会に行ったこと、バス停でうずくまっていたこと、最後に握手したこと。
それは、イメージが鮮明に脳裏に焼き付いていて、払拭できないんですが。
愛情を感じながら、とラジオからの声、みょうけいさんの声。
愛情を感じて生きていこうと思います。
家族への愛情が欠けているなぁ、とも思うので、家族を愛そう。
それからやね、他人様への愛情、まもなくお彼岸です、といっています。
残された人生、笑顔で生きたいと思います。
依存心が強いのかもしれないなぁ、子供が母親に抱きつくような。
仏さまに抱きつきたいと思うのは、本質的な依存心かもしれません。
何を求めているんやろ、巫女さま、また会える、そういうことですね。
あのとき、絶望から希望になった、それだけで救われた気持ちになりました。
ほんとです、あのときから一週間がたっています、長い時間です。
わからないことが多すぎて、立ち往生しています。
心が揺れ動き、浮遊して、とっても不安定になっている感じです。
神や仏にすがる、神や仏を見上げて仰ぐ、そういう心境にもなります。
目に見えない神、動かない仏像、それよりも生身の女人を求めています。
家族、巫女さまと呼ぶヒト、自分の生命は、のこりどこまでなのか。
もう高齢者なので、この先のことを思い考えます。
いや、心のあり方というか、気持ちのあり方、持ち方、というところです。
内面とかいう、理屈ではない、感情のところ、その感覚のことです。
言葉にはならない、情の動きそのもの、満足、不満足、安心、不安、みたいな。
ここのところを、共有することができるかできないか、究極の課題ではないか。
どうしたらいいのか、成り行きに任せる、でも自意識で向きをかえる。
もうあかんと思っていたのに、救われたという思いになりました。
関係が終わったという区切りではなくて、終わっていないという過渡期です。
会いたい、お顔を拝みたい、言葉を交わしたい、もっと知りたい、深くまで。
ただ、じっとしているのが、辛いです。
日曜日の朝、仁鶴の思い出メロディー、いま、聴いています。
聴きながら、ゆめにっきを綴っています。
明日には、金沢へ向けて二泊三日、昨日JRの券を買ってきました。
これもいつまで続けられるのか、健康しだいですけど、いつまでいける。
なにもかも、終わりに近づいていくのを、ただ、眺めている感じです。
もう会えないのかなぁ、、いやいやまた会える、会えると思う。
ぐるぐると思いが変わって、もう会えないかも、と思うと寂しいです。
でも、会えるかもしれない、でも、会えたところでどうなる、どうにもならない。
ちらちらと、お顔が、表情が、お姿が、ちらついてきます。
もう会えなくてもしやないなぁ、と思うと、やっぱりとっても淋しいです。
日向の巫女さま、いつのまにか心を近づけてしまって、いま虜になっています。
終わりがなるなんて、思えなかったけど、やっぱり終わりがあるわけです。
会いたいなぁ、会いたい気持ちが込みあがってきます、会いたいです。
こうして書いていることで、ガス抜きになるので、あえて書いています。
ぐっとこらえているのが辛いから、なんとか拡散させようと、思っているのです。

真如堂にある、殺生石鎌倉地蔵尊だと説明がある、お地蔵さんです。
お地蔵さんの素性は、説明書きを読めばわかるので、ぼくはそれを読みました。
崇められるだけの過去があり、お地蔵さんの過去を知ることで、価値をつけます。
ものごととは、そういうことで、価値があるのか、意味があるのか、崇めて拝む。
そういうことで、素性を知る、素性を知りたい、知ることで近しい存在になってきます。
ゆめのゆめ、ゆめにっき、ホンネの気持ちを書き残そうと思っています。
あまり人に知られたくないと思う羞恥があるので、他にはリンクさせません。
でもツイッターには、このブログが連動させられるので、リンクさせます。
ぜんぶとはいいません、部分ですが、ツイッターの友だちには読んでもらいたい。
秘密だ、本音だ、と思っているのは本当で、その心情を、作品として書いています。
巫女さんを、生きた仏さま神さまの化身、いや生き神さまとして崇めます。
巫女さんは実在の女人で、ぼくによってイメージつくられる、物語の女、です。
現実と夢幻と交錯するなかで、命が尽きていく男の、創作にしたいと思うのです。
その揺れ動く心を、巫女さまは知る由もないわけで、だから、ぼくは、悩む。
で、残してきたものを、受け取ってもらう現実の時間が、もう無いかも知れぬ。
毎年、この時節には、茗荷が採れます。
金沢の田舎に家を建て、老後には悠々自適生活を送るつもりでした。
もう20年も前、田舎の生活、自然と戯れる日々を想定しておりました。
カナコという女人がいて、夢の中、神のお告げを伝えてくれたりしました。
いま、別のカナコがいらして、夢の中、でも、もう、終わるのがいいのかな。
朝、早くに目覚めて、最初に思い浮かぶのがカナコ、日向の巫女さまのお顔です。
ゆめまぼろし、明確な、輪郭をもったお顔ではなくて、ぼやけています。
前のカナコのお写真は、全くありません、その後のカナコは動画もあります。
でも、それは、もう、封印した方がいいのかも知れない、見ると辛くなるから。
そんなものよなぁ、未練がましいけど、どうしたらいいのか、未練たっぷりです。
もう会えないかもしれない、お会いできないかもしれない。
もとから遠い所にいらして、それでよいと思っていました。
接近して、これから始まると思った矢先の、この始末です。
相手は変わらず、ぼくのほうが変わっただけのこと、始まりが終わり。
なんか、ひとり空回りしている、そういう滑稽なことなのだと、思います。
夢から覚めて地獄へ落ちそうになる。
と、ぼくは無意識、巫女さまのお顔を脳裏に描きます。
奈落の底へ堕ちなくても、救われた気持ちになります。
年取ると朝の目覚めは、あまりいい気分ではないです。
たぶん、だから、巫女さまのお顔を思う浮かばせるのだと思う。
偶然に遭遇してからもうかなりの時間が経ちました。
遠のいていくお顔とお姿、足元まで覚えていたのに、忘れます。
こうして遠のいていくことで、気持ちも少しずつ遠のいていきます。
引き戻したい、昨日は、戻橋の袂にまでいきまして、戻ってきました。
再会したい、でも、もう、終わりだと思う方がいいみたい。
またお会いできますね。
そう思ってつながるのを待ちます。
まだお渡しできていないぼく自身の資料があります。
お渡しして、引き継いでもらえたら、うれしいです。
ほんとにそうなってくれたら、とってもうれしいです。
いいお天気です。
気分も晴、すっかり前向きになっています。
カフェ&プレス、ライフ・ラボ、このはなしを出しました。
やっぱり、これの実現に向けるのは、ぼくの根底の欲求なのだとの思いです。
企画自体は2001年だから、もう、20年前です。
IMIをやっていて、ブレーンワークだけではダメで、ボディワークが必要、と思いました。
土とたわむれる、自然と向きあい、そこに生きる、生きてる実感を得られないか。
新しい生き方として、新しい価値観を作っていく、その個人の生き方を作り出す。
そんなことを、わいわい、がやがや、話題を出しあいながら実践していけないか。
そう思って、20年前、文章化して、その後には、カフェ&プレスを開催しました。
その後、あっちこっちで、これに対応できる枠が出来てきて、ぼくも参加してきました。
いま、コロナ禍で、全体が稼働していないように思えますが、その実行場はあります。
農をおこなう場、流通をおこなう場、交流をおこなう場、それに学びの場。
いまある主流の潮流から、新しい生き方の潮流を、創り出していく実践場として、です。
言うの簡単、でも人が集まらない、その原因は、ぼくの独断にあるのかとの自覚です。
なにしてるんやろなぁ、じぶんでじぶんのことを、かえりみているんです。
朝から、ラジオの番組を聴いていて、先ほどスイッチを切りました。
懐かしい歌謡曲が、とりとめもなく流されてきます。
こころを揺さぶられます、なつかしい、どうしようもなくなつかしい。
そんな気分をいだきながら、いま、巫女さまのことを脳裏に描きます。
お寺の法要があって、馳せ参じて、瓦寄付を要請されて、振り込むことにします。
金額は一口一万円で、見栄はって三万にしようか、一万にしようか、迷います。
水火天満宮に寄ると、社殿に御輿が飾られていたので、写真に撮って、ここに載せた。
ここに載せる写真は、なるべく直近のもので、脈略はありません。
なにもしないわけにもいかないから、カメラをもって、ぶらぶら歩きします。
ええっ、DOTの家屋がもう壊されて更地になっている、ええっ、驚きです。
思えば記憶がいっぱい残った空間で、思い出が詰まっていた空間です。
Googleのフォト、以前ピカサアルバムのときにアップしていた動画が消えています。
一瞬、どうしようかと戸惑いましたが、もう過去だから、消えてもいいと思った。
ニコンのもキャノンのも、アルバムは削除している矢先です、時代の中で消えていく。
紫式部という紫色の花の実が、いま見頃、写真は平野神社境内です。
紫式部さんは源氏物語の作者です。
このお方のお墓があり、昨日文字さんを連れていってあげました。
場所は堀川鞍馬口上がる、昔は雲林院の境内だったのかな?。
京都では、なにかと紫式部というお方の名前が話題になってきます。
京都北物語、なんていう場の構想を考えていて、そこには紫式部さんもいます。
ベースになるイメージに源氏物語、そのうえに風物、写真とか文章とかでなぞります。
カフェ&プレスの会合を10月から再開させる気持ちでいます。
来てくれたら嬉しいお方がいらして、いっしょに京都北物語を作っていきたいです。
集まってわいわい、発信は写真と文章、カフェ&プレスです。
あんまりむつかしいこと言ったら、みんな引いてしまうよ、ということですね。
むつかしいことを言うつもりはないんですが、そう聞こえてしまうのかなぁ。
でも、まあ、いろいろ本質的なレベルのことが語りあえ、実践していける場です。
そんな場を必要としている人がいるとは思っているんですが、無理かなぁ。
巫女さんは、むつかしいこと言いすぎるといい、場からお離れになった原因かも、ですが。

今日のこれ、モーニングセットは次女と初めて喫茶店へ行って食べた記念です。
妻が心筋梗塞の気がでて、急遽、中央病院で検査、そののち処置をしてもらった。
そのことを心配して、いっしょにいてくれて、モーニングしながら、話しをしました。
家族、ぼくらの核家族は四人でした、ぼくと妻、長女と次女、この四人、それに孫五人。
ぼくと妻の終活、土地家屋の相続をどうするか、ぼくは結論をすでにもっています。
これまでほとんど心の交流がなかった長女が、様子を聞きたいと電話してきました。
今日は、これまでになかった家族との交流、長女と次女に、初めて胸襟を開いた。
親子、しょせん親子、父と娘、一番の身内、そのことを実感しています。
土地家屋を生前贈与するよ、と伝えました。
姉妹が仲良く、将来を過ごしてくれたら、言うことなし、嬉しいことです。
たいした財産があるわけではなくて、土地家屋が二つあるだけ、現金は少ない。
それを、どうする、売ることは考えていなくて、贈与します。
だれに贈与するか、そのことでいがみあわないように、と思うのです。
ぼくら親は、もうあと数十年もいないのだから、娘二人に分け与えます。
そういう話しができるようになったので、とっても安心をもらった気持ちです。
どうしたらいいのかわからないまま、時間と日にちは過ぎていきます。
いまは勤務するという時間を持っていないから、ほぼ自由な時間と日々です。
きままにといってるけど、好き勝手しているわけない、と書こうとして、好き勝手してる。
こんな自由になる日々は、最高に幸せ、と思わないといけないな。
からだも自由に動くし、時間も自由に使えるし、いまが最高なのかも知れません。
あとどれだけ生きるのか、だんだんとその年月が短くなっていて、あと10年が目安。
健康体でどれだけ生きられるのか、と問えば5年とか思ってしまう。
不都合は突然にやってくる、そういうことを念頭に置いて、終活しないといけない。
こんなこと考え、思い巡らしていると、あまりいい気持ではないですね。
老人性の鬱というのは、こういうことの積み重なりなのかも知れません。
なるべく前に向いて、交流を作っていかないと、いけないなぁ。
でも、けっこう、体力と気力がいるので、ついつい億劫になってしまいます。
ブログに、あんまりこういうことを書かない方がいいなぁ、と思ってはいます。
でも、書いておく方が、後々のためにはいいのかなぁ、本音ですから、とも思う。
いまさら、かっこつけてもしやないやろ、生のまま、素のままでいいのだ、と。
なんか宙に浮いてる感覚で、自分のことを思っています。
頭の脳が、いろいろな空間認識をするみたいで、幻想領域も認識したりしてる。
ふ~っと起ち現れては消えていくイメージがあります。
脳のなかを駆け巡るというよりも、スロー動画で動いています。
顔が浮かんで消えていく、別のヒトの顔が浮かんで消えていきます。
松屋で牛めしを食べました。
味噌汁がついて380円でした。
定番メニューなので、久しぶりに注文して、食べました。
吉野家、松屋、すき家、なか卯、これくらいですか牛丼のお店。
松屋の牛めし、味がひと頃より美味しくなった気がします。
ひとりずまいなので、自由気ままに食べ物を食べています。
食べ物以外は食べられないけど、ビデオは見たい放題に見ています。
ネットで、無料のアダルト作品を、昔を思い出しながら、見ています。
あまり鮮明でない画像の、局部がぼかしてあるやつ、懐かしいです。
でも最近の無修正って映像、ひと頃では見れるなんて考えられなかったのに。