文学評論集-1-
瓦版
文学評論集-1-
by nakagawa shigeo 2004〜
September 01, 2004
文学と映像芸術-1-
<見ること、聴くこと、読むこと>
ヒトの感情を触発する媒体に見る、聴くということがあります。
見る、は目で見ること、聴く、は耳で聞くことです。
見ることはイメージをそのまま、つまり絵画や写真映像の類です。
聴くことは音を感じとること、つまり自然の音や音楽の類です。
ちなみに5感とは、視る、聴く、臭う、味わう、触わるの感覚です。
そうすると文学ってのは読むことでもって理解しなあかんですね〜
感覚だけで受け止められるのではないんですね。
書かれた文章を読むというのは身体感覚、皮膚感覚ではないんですね。
ということは、そうすると「字を読む」ということが特殊なことなんです。
字を読んでそれが何を指すのかという関連を身につけんならんですね。
そうすると理解するしないは置いといて、
絵画や写真映像や音楽とはちょっと違います。
これが文字、文章、文学の世界です。
こんなことゆうほどのこととちゃう!
なにをあたりまえのことゆうちょるん!
と、いってこの確認をあなどっていたらいけませんよ。
文学はエロスか!っていう命題をといていく入り口なんですからね。
われらが、すでに文章読める状態のは、これ教育のおかげなんです。
教育の根幹なんです。
母国語なんていいますけれど、これ母国語で書いてます。
ぼくは母国語しか書けない読めないです。
記号としての文字と現物の像を結びつけるには、
それを理解するプロセスが必要なんですね。
これが文字・文章・文学の特質なんですね。
文学のすすめ August 28, 2004
文学っていうのは、文字で書かれた表現物だから、簡単なようで難しい!
絵画も写真も音楽も、日常生活に密着した表現ツールではないです。
文学は、日常の生活で、日常に使っている、言葉や文字を使うのですから、
日常生活に一番密着した表現ツールなんですね。
でも、書かれた文章が、文学か文学でないかなんていう判断は、難しいと思います。
文章を書く技術というのがあります。文章作法です。
詩を書く、小説を書く、それぞれに作法というものがあります。
写真でゆうならカメラ操作の技術編ですね。
絵画でゆうなら材料の吟味と使い方ですね。
音楽でゆうなら楽器演奏の技術ですね。
でも、それだけやないな〜
表現するってことは技術だけじゃないんよな〜
そしたら、いったいなんやねん、それっていうのは??
感動!感動するこころ!
この感動することがその前提になくてはなりません。
技法以前に感動ありき、ですね。
どの程度の感動なんですか?って聞かれたら、
即座に答えます、恍惚状態になる感動量です。
エクスタシーなんていったらエロすぎますか?
でも、これでしょ!究極のところ求めてるものってのは、ね、ねっ。。。
ハメハメグリグリやらなくってもいっちゃう瞬間。
これが快感、求めている感動の質ですね。
人間、低俗かくして高尚求めるから、いかに高尚イメージで恍惚するか。
感動を技術を使って高揚させていく、難しいね。
でもチャレンジする価値ってありますよね。
文字を書きながら、冷静に恍惚していくんですから〜〜
文学のすすめ、でした。
文学はエロスをめざす August 26, 2004
文学、なかでも小説は花盛り、それもハメハメ文学です。
そりゃ人間ってエロスな動物さ、ねえ。
そじゃないかい、食って寝てセクスして、ってとこが根本だろ〜?
関心ごとがそこに集中するのが当然といえば当然のことです。
じゃあ、小説はハメハメの代償を担っているんかね。
そうかも知れませんね、人間の欲望を満たしていくのに安上がりだしね。
世の中には一本線が引かれてて、
その線上より上の方へ行くように仕向けてるんだけど、
どうも人間は線より下を覗き見したくなるようですな。
それは神代の時代からそうなんです。
そうかな〜神代の時代にはそんな一本線なんてなかったんじゃない。
ん、神代の時代ってのは人間は自然物だったってことか、そうですね。
希望と絶望ってことばがあるでしょ、線の上方へいくほど希望なんだよね。
高尚とか上品とかということばで誤魔化されて、そ〜かな〜って思ってね。
でも、科学分析が進展してきて、
生物領域と自然領域の境界にまで至っていくということは、
つまり、線より下の下の下まで明るみに出されるってことですよね。
科学が文化力を拡大するんですから、この線引きってのは下へ下へと降りてくる。
そうそう、そうなんです、科学とモラルのせめぎあいですね。
だいたい芸術ってこのせめぎあいによって生じるように思ってるんで、
昨日の不良俗域は今日の良領域へとなっていく、当然。
商品化されるって線はこの辺ですね。
WEBblog時代の文学 September 14, 2004
もうだれでもがパソコン前にして自分のホームページで作品を発表する。
できる時代になりましたね〜。
文学が近代社会のなかで、聖域化されてきたように思ってるんです。
これは文学だけじゃないですね、芸術?って呼ばれる分野の作品ですね。
ある特別なもの、っていう感覚ですね。
その背後にもちろん商品化っていう戦略が見え隠れしてもです。
言語活動を紙媒体にして商品化することで、カリスマ性を創りあげる。
そんな時代から、自分のホームページで塵のように文章を書き込む。
ボクなんか典型だと思っているんです、この雑文は塵(笑)
ブログ、blog、この文章はこれに載せています。
毎日、日記のように文章をアップして公開する。
仰々しい形式から簡単便宜な形式へ変わってきましたね。
この時代を文学としてどのように捉えるのか?ってのがあるんでしょうね。
ネットワークからの情報量が増えて表層しか見られなくなった時代?
でも必要なのは、もっと人間本質に迫る感覚を取り戻す作業としての文学。
文学とは言語でありますが、言語にならない領域をどのようにして言語化するのか。
この領域を感じさせるのか、共感するのか、ですかね。
表層のネットワーク環境が激変したから文学の本質が変わる、なんて思わないな〜
だったら、本質って何や、ってことですね。
本質って、生きてくことに勇気や希望や幸福感覚を伝授する代物かな〜。
ネットワーク時代に誰もが文学作品らしきものが発表できるようになった。
塵もいっぱい出るけれど、受容者の感覚をこそ砥ぎ澄ませ!かも知れないですね。
メディアは双方向、発信者が受信者になる、生産者が消費者になる、そんな時代ですからね。
文章を書く行為 September 06, 2004
ある文化に根ざした文字をつかって文章を書いています。
もんだいとなるのは、何をモチーフに書くのか、ということが必要なんですね。
こんなアタリ前の話から始めるんですが、このモチーフ・主題についてです。
文化の諸相を輪切りにしてみると、上位〜下位の区分がそれとなくできています。
いっぱんに上位だと認知されている文化の相は、高級文化・ハイカルチャー。
エリート文化っていう言い方が可能なら、この言い方ですね。
芸術っていう言葉ってのは、だいたいこの相に置かれていますね。
それとは逆の下位にあるのが大衆文化、エロ・グロ・ナンセンス分野ですね〜
情報メディアを、テレビ文化、出版文化なんていう分け方で業態を割ってみれば、
もんだいは、視聴率とベストセラーですね。
国際政治・経済の領域でいけば、これは明らか一極集中過程の真っ只中ですね。
どうなんでしょう?文学って、どこに位置するんでしょうかね?
いや、昔の文学じゃないんですよ、現在の「文学」っていうものです。
社会分析、そこにおける人間分析、それを批判的に気づかせる手段と方法〜〜
もう固定的に文学はこうあるべきだ!って声高に叫ぶなんてない時代かな?
ぼくにもよくわからないんです、実のところ、ホンネです。
で、効用面から発想していきますと、どれだけ読んだヒトがインパクト受けるか、
が判断基準になるのかな〜〜
とすると、そのインパクトの質ですね、問題は、ね。
もう思考回路が短絡していて、視覚イメージー自分イメージとなる映像群があります。
文章もそれに準じて容易にイメージ化できる代物でしか通用しない。
インパクトの質は恍惚感覚!
それも高級文化の領域において実現させる!
まだ見えてこないこころの深淵へ、
どのような文章を送り込めば触発して顕在化してくるんやろね〜
モラルをどうして超えたらいいのかな〜です、ハイ。
自分の記録をつくる August 23, 2004
あい文学校がご提案申し上げておりますことはですね。
なにも本業で文学を自分のものにして、
作家稼業を目指さなくてもいいんです。
その前に記録ということ、つまり歴史認識ですね〜。
歴史をつくっていく主体は誰なんですか?
織田信長とか徳川家康とか・・・
歴代の総理大臣とか・・・
そ〜ゆ〜ヒトの痕跡をとどめていくことだけが歴史をつくるんじゃないですよ〜
それから記録をし、されるという関係のことですが、
これまで記録するヒトは作家や学者先生、
そして記録されるヒトは民衆・大衆・人民・・・
記録するヒトが自らを記録することで真の記録となる・・・
柳田国男せんせいがそう言っていたような記憶があります。
そのように捉えると、いまインターネットで日記をつけるブログ、
つまりこのサイトのような形式が開放されています。
これの運用で記録者が記録者本人、という環境になってきた!
この現状認識なんです。
ネグりというヒトが、マルチチュードという概念を提示してますね。
昔の労働者階級っていって括っていた群。
ここに新しい民衆像が立ち上がってくるとしたら、
この情報ツールを手に入れた新しい人々の今後の動向ですね。
これに注目!!
自分の記録を自分がつくる、それも生産手段を手にしていく道筋の記録です。
ここからの出発なんですよね、自立するヒト個人の立ち位置って・・・
文章を書く目的は? August 19, 2004
あい文学校を開校して、
同人「翔・翔」というのを立ち上げて、
そこで何をしようというのかね?
さきに文学校、写真学校、農学校という3つの学校のことを書きまして、
その一角をになう文章を書くということについて、もう少し言っておかなければ、
と思っているんですが、ここではその目的についてまとめます。
文章を書く手習いは学校でやりだすんですが、
いまや小学校へ上がる前から数字やひらがなは読めるんです。
日常の会話や手紙(今ならメール)が意味深くまとまられるように、
トレーニングするわけですね。
言葉や文章を駆使できることは日常生活の必須条件です。
そこから一歩ふみだして、文の学問として文学を見るということは、
日常の無意識的につむぎ出している言葉や文章と、
やっぱり少し違うですね、だいぶん違うともいえますね。
文学の形式というのがあります。
小説(散文)や詩の形式ですね。
この形式のなかに構造を持ち込むことも必要ですね。
これは目的を達成させるための手段です。
そうすると文章を書く目的って何なんでしょうかね。
自分で自分を明らかにしていくことです。
でもそれだけじゃないですよね。
そこに自分と他者との関係を織り込まないといけませんね。
でもまだそれだけじゃないですよね。
自分と他者のいる世界を明らかにしていかないといけないんじゃないですか?
といいつつも、自分のために、自分のヒストリーを作るために書く。
なんだか私小説の焼き直しのような感じもしますが、
つまるところそこに自分の存在、自分が存在すること、
その確認の作業工程なんだと思います。
ヒト個人が自立することを基軸において全体を考えるとき、
文章作業は自分の立場を自分で明確にしていくプロセスです。
大きなテーマを他人事のように語るのではなくて、
自分の視点をもって自分に対処する、
自分というヒト個人のいる場所を確認していく作業です。
自己意識が目覚めてきた時代とはなってきたとはいいつつも、
自分を発見できない、自分を知る術がない、自分の居場所がわからない。
そういう時代にこそ自分を見つめる手段として、文章を書こう!
文学と写真と農作業 August 18, 2004
ここは「あい文学校」です。その相棒に「あい写真学校」があります。
それにプラスして「あい農学校」があります。
この3つの学校についての思いを記しておきます。
文章を書く、という作業は「密室」での作業です。
写真を撮る、という作業は「屋外」での作業です。
農作業は、身体を駆使する作業です。
文学と写真の制作現場の相違点、
この密室と屋外の違いに着目しているんです。
でもこれらは頭の体操です。
身体と心という二律背反的な存在に対して、
そこに農作業という身体の体操を介入させることなんです。
この3つの領域を融合させることで何が起こってくるのかなのです。
日常を超える日常をつくりだすことで、ヒト(私)の全体をつむぎ出す。
何が起こってくるかわからないんですが、これが実験なんです。
今の時代に限ったことではないですが、自分に篭ってしまうことがあります。
引きこもり、不登校、出社拒否、現象として括られてしまうヒトのあり方があります。
むしろこういう括り方をされてしまったヒトの抜け道としての道具として捉えます。
確かに文学も写真も一面は、オリンピック同様に勝った負けたの世界です。
でも全てが商品となる社会の主流に対して、否と答える身体と心があるんです。
癒しとかセラピーとかいう言葉もありますが、そうでもない場所なんです。
一定のカテゴリーに括ってしまうことで顕在化されたところからの逸脱。
心の奥深くに渦巻いている無意識の無明の領域ですね。
この場所に照射することが社会においては無価値であるとしても、
ヒト個人にとっては価値となるんです。
このヒト個人にとっての価値を認めてあげることが必要なんですね。
文学と写真がヒト個人の自分へのコミュニケーションツールとして機能するとき、
そこは疎外された場所じゃなくて、社会的存在の場所となる。
その流通場はインターネットに代表されるヴァーチャル領域です。
新しいコミュニケーション場としてのネットワークを捉えています。
閉じた心を開く場所としてのネットワーク環境です。
ここに設定した「あい文学校」「あい写真学校」はネットワークのなかに存在する学校!
そして「あい農学校」は現実現場、身体と身体のふれあう場所、共同体です。
(あい文学校blog記事より掲載 2004.10.26)
中川せんせ著作集/写真&文章
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