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February 17, 2005
あい文学校って?
そうですね、あい文学校って何なんでしょうね?
あい文学校の「あい」は愛でもいいんですが、
ここでは「i」、アイモードのあいを想定しています。
インターネット時代の現在&未来。
このツールを使っての個人表現手段のありかた模索です。
「文学校」は文学の学校ではなくて、文の学校だと考えています。
「文」、ふみ、手紙、この類ですね。
文学の学校だと、イメージ的には芥川賞を狙え、とかのお題目になるんですが、
ちょっと待って、それ以前に、文表現は心の告白みたいなものでしょ?!
インターネット時代の文の学校。さて、ここから本題がはじまります。
インターネット環境を利用したホームページやブログがあります。
この、いま記しているこの文の発信はブログです。
ある種、個人が簡単に出版機能を手にした時代に入ってますね。
それも相手の身体の見えない仮想空間に向けて発信すれば、
けっこう反応があって、交流が成立していきます。
つまり読者の確保ができます。
まもなく放送機能も充実してきて放送ができるのでしょうね。
つまり現在は、個人情報発信ツールが、個人の手に入った時代なわけです。
この個人、自分発信のツールをコミュニケーション手段とする世界です。
これって人間の歴史のなかでも画期的な変容だと思っています。
とゆうことは、新しい時代区分に入っているかも知れないんです。
ボク自身は新しい時代、400年かけて成熟してきた近・現代の次の時代。
あたらしい人間の時代が始まっているとみなしているわけです。
こうゆう時代に、芥川賞を狙うとゆうことではないです、文学校。
ブログを見ていると、経済活動に収斂されていけない人たち、
対面では自分の心が開けられない人たち、
特に思春期の子供たち、内面の衝動を発信することで自分の均衡をとる。
インターネット仮想空間は、このような情報に満ち溢れています。
あい文学校の課題は、この新しいツールの認識と研究です。
と同時に、自分をみつめる文章表現の手法を研究します。
なによりも自分とゆう枠を拡げて、生きる豊かさを体感するために、です。
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February 24, 2005
文章を綴る
日々の生活のなかでは、食べて活動して寝て、の繰り返しです。
食べるものの展開では、食品種や料理方法などが登場します。
活動することの展開では、これが経済活動または非経済活動で仕事が登場します。
寝ることの展開では、これは夢の中ですね(笑)これが登場します。
文章を綴るという舞台は活動する展開のなかにあります。
直接の現場ではない場所に移動して文章は綴られる。
書斎があればこの書斎の机のうえで作業される。
現場から離れて現場を描いていくことです。
そこには現実に遭遇したことの記述があり、想像があり、意見があります。
生活をフィクション化して文章とゆう枠にはめていきます。
文章は人間文化の痕跡を残すための基層をなしています。
文学校という器をどのように捉えるかと考えているわけです。
学校だから教える人と教えられる人がいて成立します。
ボクはその文学校の生徒です。
生きていく練習をし続けている生徒です。
文章を綴るとゆうことは、人間文化のひとつの領域です。
ボクは自分を文化の枠組みに置いておくために文章を綴ります。
文章を綴るまえに生活者としての人、ボクがあります。
この生活者には、感情、欲情があり、食べるために働きます。
この生活者に起承転結する出来事をベースに文章を作り上げます。
フィクションとして、あなたとコミュニケーションするためのツール。
境界線をこえていけるかどうか・・・
文章を綴るという欲情をどのように捉えるのか、とゆう命題。
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March 05, 2005
文字と写真・映像
文学は文章を読み取らせることで頭の中にイメージを作りだします。
ところで写真や映像は直接イメージです。
文学のコードに対して、写真映像はコードの無いメッセージだといいます。
つまり直接イメージを提示することで一次的には完結するものです。
表現方法について、文学と写真映像とどちらが優位かなんてことは問いません。
でも写真映像に表せられたものを理解していく行為は、言葉行為です。
つまり文学につながる文字・言葉が基底にあります。
写真映像の内容を表し理解させるのは文学行為に拠ります。
言語表現、イメージ表現、音による表現、この三つが表現形式の原点です。
イメージ表現を、イメージそれ自体で成立させることが原点であろうとすると、
イメージから受けるインパクト、感情の揺れ動きを交換することになります。
言語と映像と音がミックスさせて成立するのが演劇や映画ですが、
その原点を独立させて単独なかたちで成立するものとしての写真映像。
文章や言語を介在なしに成立させる「写真」を考えなければいけないのかもしれません。
文学が、言語活動を原点におくように、
写真映像は第一次的写真を原点に、感動を生み出させる必要があるのでしょうね。
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March 10, 2005
作品発表の場
文学作品発表の場といえば、同人雑誌が主流だった時代がありました。
それがいまや、インターネットが普及したことで、発表の場がwebに変わった。
インターネット10年、昨今はブログが注目の的です。
だれでも簡単に作れて、自分の日記をオンラインで発表していく。
これが小学生でも扱える当たり前のスタイルとなっています。
ライブドアとニッポン放送の見解の相違は、
明らかに両者の時代認識の乖離だと思えます。
一方通行のマスメディアから、双方向のパーソナルメディアへと、
メディアの形態が変容していくなかで起こっている事象です。
もう明らかにライブドアの認識が未来を予見しているように見えます。
でも、どっちにしても貨幣経済でのシナジー効果を期待しているに過ぎないですがね。
文学や芸術の発生場所が、経済活動に組み込まれた現代ですが、
もともと文学の根本は、どうなんでしょう?
経済活動とは別の位相で行われる作業領域なのではないのか?
こんなアナクロな思いが過ぎっては消えていくんですが〜!
まあね、ここまで云ってしまうと、大衆的興味の埒外になっちゃうから、
これは触れてはいけない領域なんでしょうけれど、ね。
なんだか不自然な喧嘩であるようなきがしますな〜、ホント。
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March 13, 2005
表と裏
表裏一体、表と裏、あるいは明と暗、光と影、
いくつか対置ができる概念で「表と裏」を捉えてみます。
表は公然と容認される領域です。
裏は非公然で、あることは認めるが容認されない領域です。
文学であれ写真や映像であれ、
いつも作家個人にとって問題になるのが、
この境界線のところだと思います。
現実には、表現されるものの合法と非合法の境界線です。
言論や視覚の自由がどこまで容認されるのか、という社会モラルの問題です。
現在点で問題となるのは、性の表現領域の表と裏の境界線です。
ヒトの欲望や情動に由来する性表現の倫理です。
科学が解明しようとしている生命現象の諸領域や、
心理学が明るみに出していこうとする意識の深層を、
文学や写真・映像が立ち入って表現しようとするとき、
おのずと立ち入っていく先が裏といわれる領域になりますね。
裏が表になっていく様子を、解放されていく、と表現しますが、
これの現在地点は、いったい何処なのでしょうかね〜。
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March 20, 2005
地域文化研究の枠組み
京都地域文化研究所を設立して、あらためて文化とは何か?と問いだしております。
そこで、「文化」の定義を参照してみたい。
文化とは「物質的、知的、精神的な生活の全体的なあり方」だと、
ウイリアムズとゆう人が言っています(1966年、カルチャラルスタディーズ)。
文化は、生活のある特定のあり方の記述であります。単に芸術や教育だけでなく、
制度や日常の態度の中にある一定の意味や価値を表現するものです。
特定の生活感覚とは、感情の構造をいうのでしょう。このことが、その時代の文化そのもので
す。
なにごともイベント化されスペクタル化される時代です。
京都に花灯路のイベントが繰り広げられ、まもなく万博、愛!地球博が開幕します。
ショービジネスとアートが合流したかのような、花灯路イベントがあり、科学成果のご開陳万博
イベントです。
豊かさを追求してきた20世紀型のビジネスシーンが、人の心を豊かにするか?とゆう問題で
す。
地域文化研究は、これら新しいビジネスシーンを創りだすためにあるのではない。
表層を綺麗に着飾るムードやビジネスに結びつく発想ではなくて、人の心の開放をめざす。
文化における感情の構造は、支配的な文化の定義とは逆の方向にも進めることができる。
むしろマージナリー、いつも縁に追いやられる感情の開放こそが求められるのではないか。
京都地域文化研究所のコンセプトとして、ショービジネスに収斂されるのではない、
庶民の心を探りだし、庶民の心を活性化させるものを見つけていきたい、このように考えてお
ります。 ![]()
March 31, 2005
文学のこころ
いまどき-文学のこころ-なんて表題をつけてなんってこったね〜なんて思わないでください。
ここでは文学のあり方ってのを捉えてみようと思っているんです。
個人のこころの中を表現する言葉・文章を書き連ねていくことに、
一定の形式を嵌めることで文学となる。
いってみれば小説の枠組みです。
やっぱりテーマとなる領域は、中心となる自分の関心事です。
ここに感情や感覚をもって、書くことに酔う、ということは有りかな〜?!って思うんです。
作家は冷静にして読者を感動に至らしめるということが本筋ならば、
作家が冷静さを亡失して感情に溺れ、その感情がなせるところの言葉を文章にしていく。
こんな作家態度ってどうなんでしょう?
ここに金平糖を並べた屋台があります。
色とりどりの金平糖を袋につめて自分の宝物にする子供がいます。
この図をみているボクは、古い記憶を辿っていって、金平糖への思いを巡らす。
もう冷静さを失って、感動のままを文章にしていく。
このときのこころのありようのことです。
文学行為って自分の追体験に酔うていくことで、相手に伝わる感情が表出できないのかな〜。
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April 28, 2005
京都地域文化研究の枠組み
こんにちわ!あい文学校です。
今日は4月28日、このグループが設立されて一周年になります。
2004年4月28日、綜合文化研究所、むくむく通信社、あい写真学校が設立されました。
この<あい文学校>は2004年8月1日に活動を開始しました。
現在、文学同人<翔・翔>のメンバーで運営しています。
あい文学校は、文章表現を主体に活動をしていくのですが、
その研究の一環として、京都地域文化研究所に参画しています。
世界は大きく、アジアも広く、この島国の文化の根源は京都、との仮説をたて、
京都の文化を研究対象にしていこうとの考えです。
文章表現と写真・映像表現は、現在の二大表現領域です。
もちろん音、音楽や絵、絵画・イラストという表現もありますが・・・
というなかで、文章表現をおこなう方式として、
フィクション系とノンフィクション系に分けられるとしたら、
京都地域文化研究はノンフィクション系の文章化作業になります。
文と画像は、記録ツールであると共に、表現(フィクション)ツールでもあるわけです。
この記録ツールとして、あい文学校の文章記録を、京都地域文化研究にリンクさせます。
世の中の流れは、ルーラル化のほうへと進んでいます。
その流れのなかで、雅の基底文化を鄙の基底文化と合流させる。
こんな思いを抱いての、あい文学校の内容を詰めていきたいと思っています。
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2005.5.13
地域新聞発行の話題
なの力で創刊しよう、との学内募集したところ13名の学生が応募したとの話です。
この新聞発行、京都北野に大学の学外キャンバスがあるのですが、そこは北野商店街の一
角、この商店街の強力を得て、学生の教育の一環として、実際に一般に読まれる新聞つくりを 目指しています。新聞つくりの学外推進母体は、京都経済新聞社。
京都北野は、北野天満宮の南にある通称「下の森」商店街。下の森とは、北野天満宮の境内
の南(下)から来ている名称。北野天満宮界隈は、門前町として栄えたところです。
この北野地域において、大学の教育の一環として、学生グループが地域新聞を創刊する(7月
1日発行予定)。
綜合文化研究所グループにある、あい文学校。地域文化研究を文学の対象の一つに取り上
げており、その関連でもこの地域新聞発行プロジェクトに協力をします。 ![]() |