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北野天満宮、俗称天神さんは、京都の西北部に位置する、天満宮の本家本元といえる神社です。わたしの住んでい
る家から300メートルほど南に位置しています。子供のころから遊び親しんだ天神さんです。わたしの興味の軸に従っ て、いくつか天神さんにまつわる話を書き記していきたいと思います。
天神さんの北門脇に、末社文子天満宮と名づけられた祠があります。文子と記して<あやこ>と読ませる、この文子
は、巫女多治比文子という霊能者です。説明によると、天慶五年(942年)、右京七条二坊に住んでいた巫女文子 に、菅原道真の神霊より「わが魂を右近馬場に祭れ」とのお告げがあり、巫女文子は、とりあえず自宅に御霊を祭っ た、と記されています。これが北野天満宮の発祥だといいます。右近馬場というのは、現在、北野天満宮がある場所 あたりで、そういえば馬喰町という地名が近くにあります。
現在地に移されたのは、天暦元年(947年)と記されているから、巫女文子がお告げを受けてから5年後ということに
なります。ここに写真を一葉つけましたが、明治六年(1873年)にこの地に祭られた、その祠です。撮影は2006年8月 5日、天神さん発祥から、すでに千年以上の年月を経ているというわけです。
わたしの興味は、わたしが生まれ育った地域のなかに、つまりわたしの記憶の襞に刻み込まれた光景との交差する
場所だからだと思っています。わたしは数年前から、京都地域文化研究という枠組みをみずからにかせて、その研究 をはじめようと思いだしたのです。わたしの京都、とくにその地域を限定するとすれば、子供だったわたしが生活して いた範囲、その空間といった限定です。自分をみつめる鏡として、それらの場所は、現在のわたしの興味なのです。 わたしの物語の初めは、天神さん、その発祥にまつわる話でした。
平成元年に亡くなった母の精霊を迎えに、六道の辻にある珍皇寺へいきました。日ごろから信仰には篤くないボクで
すが、まあ、この年齢になると、妻からせがまれるようにして精霊を迎えにいくのも、そんなに気持ちの抵抗はありま せん。 ![]()
金300円を払って、塔婆を書いてもらい、お迎えの鐘をつき、それから塔婆を線香の煙にまぶして、マキの葉先で水を
かけてあげる。そうすると精霊となった母が、あの世からこの世へやってくるのだそうです。 ![]()
こうして母をあの世から迎えてあげたから、いま、この家のなかにいるのでしょうね。16日の送り火の日まで、滞在な
さるというわけです。そうゆう数日間の日々には、せいぜい亡くなった母を思い出してあげることにしたいと思います。 ![]()
地獄極楽絵図、ボクには、もう23年ぶりの対面でした。
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2006年のお盆行事が終わりました。
これで京都の夏が終わり、秋風が吹きはじめる日々となります。
自室の窓から撮影した大文字の送り火です。
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金閣寺の裏に氷室という地名の場所があります。身代不動明王の祠は、金閣寺の借景とした衣笠山の北裾にあり、
ぼくらはそこの主宰者を拝み屋さんと呼んでいました。この夏は8月12日、京都はお盆の真っ最中に、この祠を訪ね ていきました。50年、そう50年前、ボクが小学校の低学年だったころに、何度か連れられていった場所です。
ボクの家には仏壇はなく、神棚がありました。年に一度、たしか秋に、この神棚のまえで護摩焚きが行われていまし
た。たぶん今も父の居室にある神棚の御神体が、氷室の身代不動明王の祠にあるのです。祠の前に祈祷道場があ り、朽ちかけたかのように見える周辺は、それでも細々と管理されており、存在していました。
こどもの頃によく遊んだ氷室の池は埋め立てられ、小学校の運動場になっていました。不動明王の参拝入り口にあ
たる街道は、火葬場を越えて山裏の原谷へ通じる街道で、今は家屋が密集し、立命館大学法科大学院があります。 街道からは奥まった身代不動明王の祠は、時の流れに抗うかのように、かって見たようにして佇まっておりました。 ![]()
文化の諸相は、衣食住の三要素を元に、構成されていると思います。ここではまづ衣のことを話題にします。着るも
の、衣装、特に和装の領域で、着物、和服、という文化の中味を、考えてます。
この世に男と女があり、日本が西欧化されるまえの衣装としての女性着物を、男のぼくは羨望の気持ちで、眺めて
います。和服の場合、女性が身につける着物は、男が意匠し、女が着る、この視点にぼくの興味があるのです。
その時代、男と女の役割が分担されていたから、男が意匠したにすぎないといえるかもしれないけれど、ここに見よう
とするのは、着物には、男の欲望、欲情が色濃く込められているのではないか、と思うのです。
見る男、見られる女、という視点が情を塗り込めて作りあげてきたのが、着物文化の関係図だと思ってしまうのです。
衣の文化のなかに、男と女の情関係を見るのは、あながち間違いではなかろうと思う視点です。 ![]()
紅葉-もみじ-とは紅い葉のことですが、一般には楓-かえで-の葉が紅葉したものをさして<紅葉>と云うようです。
春の桜と並んで、秋の紅葉が、ぼくの情をとらえてきます。桜は桃色、紅葉は紅色、色の種類でいえば、発情系です ね。
発情というと、えろす気分を誘発させる視覚としての、紅葉があります。春の頃の桜の桃色には、若い初々しさを想
わせますけれど、秋の頃の紅葉は、大人びた干からびた感じの発情です。
身体が干からびていくことで、視覚的情を求めているのではないか、と想ったりして、この秋の風情を愉しんでいるよ
うです。侘び寂びの茶道に金箔の茶室とでもゆうように・・・。 ![]()
さざれいしと名づけられた石があります。 大きな石の塊でもなく、砂利でもなく、砂でもなく、小さな石と砂の塊のよう
な石です。時の流れにしたがって、岩から砂までのかたちを想い、それに苔が生えると、ひとつの美のかたちとなるイ メージです。
天と地。天から光がさしこみ、地にさざれ石がある。ボクの最初のイメージは、このことへの興味として、カメラを向け
だしているようにも想います。写真は、京都・下鴨神社に奉られている「さざれいし」の一部分です。 ![]()
金閣寺から大文字の山にそって北へ5分ほど歩いていくと、山肌に露出した岩というには小さすぎ、石というには大き
な、高さ三メートルほどの石があります。この石のことを、かがみいし-鏡石-と呼んでいるのです。
たしかに石の面は平面に近いから、かってこの石の面で姿を映したのかも知れません。そういえばこの鏡石の前の
通りの、その先は山道で、千束、鷹ヶ峰に至り、京見峠を越えていくと山国、美山へ通じており、若狭小浜へと続く街 道だったのかも知れない。逆に若狭小浜の方から京へ詣でてきたときには、この鏡石におのれの姿を映して身を整 える、と、まあ、ボクの想像が起こってくるわけです。
勝手な想像ではあるけれど、若狭から京へ詣でるときには、高雄の峠を越えるよりも京への近道。この石の前から眺
めると、京都の町並みが俯瞰できるから、ここは京への入り口、京からの出口だったのかも知れません。
子供の頃の聞き覚えではあるけれど、この鏡石は、かって地殻変動が起こって京都盆地ができたとき、地すべりで
岩が割れて、その面が鏡のようになった、とのことです。名前の由来は、旅人が姿を映してどうもそのあたりにありそ うだな、と思っています。 |