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最新更新日 2021.8.25
日々
中川繁夫:著

 seesaa きままにっきblogに連載の文章

気儘に雑記
-1-

 2020.3.31~2020.5.20

 

20200331
気儘に雑記、なにを書くのか、どんな写真を載せるのか、成り行きしだいです。
阿保の戯言とでもしようかと思ったけれど、このタイトルは温存しておこうと思います。
桜、きれいですね、写真にして見ても、現場で見ていた以上に心にしみてきます。
気になっていることは、自分の行く末のことです。
こうして写真を撮り、文章を書いているけれど、いつ絶筆になるやも知れない年代です。
身の回り清潔にしておかないといけないなぁと思って、羞恥部を清算しております。
これからもよろしくおねがいいたします。

20200401
表現の現在的なテーマのひとつは、性にまつわるイメージと言葉だろうと思います。
社会問題や経済問題が底辺にあって、そのことが具体的な話題になって作品になる。
そういう話題を追いかけていくストーリーというのは、外面をなぞることだと思います。
そうではなくて内面を綴るとなると、どういうことになるのか、これが問題なところです。
内面というのは、肉体があって精神がある、単純に体があって心がある、この組み合わせです。
食べて、寝て、性交する、この人間の基本的存続の条件をベースにした表現物の創出ですね。

社会の下部構造、あるいは水面下、とでもイメージされそうで、関心事なセックスのこと。
文学にしろ、映像にしろ、絵画にしても、その領域について、正統に評価されていません。
あるいは異端として扱ったり、アートの外側に置いたり、あの手この手で排除しています。
この世の中が白々しく見えて思えるのは、それは理性、知性、というモラルに乗せるからです。
もうこの年齢まできて、肉体が枯れていこうとしているから、瑞々しさを求めたいのです。
肉体の瑞々しさは枯れても、心の瑞々しさは枯れない、むしろいっそう瑞々しくなります。

これからの作品創りのことを考えているわけです。
静止画である写真を撮っていこうと思います、あらためて花の写真とか。
文章を書いていこうと思います、おもにフィクション、小説の部類です。
文章に付随する静止画は、借り物で、ネットからいただくとしています。
制作物は、営業には使いません、個人が内面の瑞々しさを維持していくためのものです。
さて、どこまで続けられるか、それが自分の中で、問題となるところです。

20200404
散りかけの桜、4月4日、船岡山で撮影した桜、ソメイヨシノでしょうね。
4月になって、自分の身の回りを、いろいろ変えています。
毎朝の発信、インスタグラムをやめました、ツイッターもやめました。
フェースブックは朝いちばん、ストーリーズは続けます。
フィールドへの投稿をします。
ブログにアップした記事はことごとくフェースブックに連動させます。

これまで学校案内の広報に使っていた発信媒体ですが、見直しています。
学校案内もするけれど、もう入学者が来てくれる期待は持ちません。
学校をつくるプロジェクトも、言いっぱなしの状態です。
なので方向転換して、自分の作品創りに邁進しようと思うわけです。
資料を放出したので、あとはイメージの湧くまま、文章化していくだけです。
阿保の戯言、こんなタイトルでもつけて、エロスカロス論を書きたいなぁ。

20200406
岩波新書で柄谷行人さんの「世界史の実験」という文章を読んでいます。
柳田国男論で民間伝承論の話があったり、言語学の話題になったりで興味尽きない。
言語学ですけれど国語学ですね、日本語研究みたいな枠組みで、お名前が出てきます。
言語過程説が導かれる橋本進吉氏の国語学概論、時枝誠記氏の国語学言論です。

ぼくが学生の頃、小説の構造を考えるために、その辺を読もうとしました。
それから三浦つとむ氏の認識と言語の理論、日本語はどういう言語か、という本。
吉本隆明氏の言語にとって美とは何か、共同幻想論につながるんですが、このあたり。
手元にあるので欲しい方いらっしゃったら、お譲りします。

まあ、自分の思想というか、モノのとらえ方の原点が、このへんから来てると思っています。
ぼくはたいした思想家でもなく、表現者でもないけれど、表現の原点は、ここです。
それぞれ、表現者には、他者から受け継ぐ思想の原点があるかと思うのです。
なにもないところから、自立する表現のかたちが、でてくるということではないですね。

拠って起つ思想の原点、なんて全共闘世代の戯言かも知れませんが、そんなフレーズが蘇ります。
写真表現の考え方の原点といえると思うし、小説フィクションの枠組みともいえると思います。
いやいやこれは枠組みであって、時代の表現されるべくテーマではないのです。
テーマは感覚、研ぎ澄ました時代感覚、その感覚を収容する器、この枠組みをどうするか、です。

20200407
もう5年ほど前から「風景論」と名付けたアルバムを作って発表しておりました。
久しく「表現論」と名付けようと思っていますがアルバムを作ってみようと思います。
今回は縦位置、携帯、スマホの時代になって、静止画も動画も縦位置になっています。
書籍雑誌の文字は縦書きですが、でも公用文は横書きにかわって久しいです。
スマホで撮った写真、縦位置でそのまま、縦に撮って、加工します。

スマホのカメラのアプリで、適当に加工しながら自分でのベストなのに仕上げます。
文章はある文字を入れる選ぶ候補が二段になって羅列されます。
このなかから、つぎつぎと選択しながら、ちょっと変な文体の文章が出来上がります。
AI機能を駆使し、そこに自分の意識が介入して、AIコラボ表現論のシリーズです。
現代表現の方法として、枠組みをこのように作っていて、あとは中身の現代性を、です。

ドキュメンタリーの方法論、アートフォトの方法論、それに文章論をどう扱うか。
現代表現とは何か、という命題を自分に課せて、試行錯誤しているところです。
風景論といい、表現論といい、論は言葉ではなくて画像で表記しています。
論への反論みたいな、言葉を紡ぎ文章を連ねるというのが本来の「論」です。
これを廃棄して、止揚してという言葉を使いたいけれど、これは言い過ぎか。

20200408
今日は「花まつり」、お釈迦さんの誕生日ということで、花まつりがおこなわれました。
掲載している写真のこれは、京都は西陣、雨宝院の飾りつけです。
毎年、この日に、この飾りがなされて、お誕生日おめでとう、ですね。
生まれたときに立ち上がって数歩あるいて、右手をうえ、左手をしたにされた。
そうして唯我独尊といったという言い伝えですね。
亡くなられたとき、入滅というのか、涅槃図に描かれる釈迦さんですね。

まあ京都にいるといろいろ古いことが今に引き継がれています。
みやび文化のなかの日本文化、そういうところに興味があります。
といっても平安京が造られた794年、これ以後ですが、これ以前は奈良とか。
写真を撮っていますが、テーマは「京都」です。
いくつもの側面があり、とらえどころがない京都ですが、確かに混沌としています。
残された年月は五年ぐらいか、と想定していて、今日も頑張ったなぁ、です。

20200410
昨日、御室仁和寺へ桜を見にいきました。
白い桜、背の低い御室桜、境内には五重塔があって、桜園からそれが見える。
記念にと五重塔をバックに桜を撮りました。
コロナウイルスの影響でしょうね、お客さんがほとんど来ていません。
この時期、桜を見るだけで拝観料500円、初めて支払って入りました。

ニュースでは、東京の感染者数、今日は181人とか報じてます。
京都も近場でマクドナルドが昨日から営業再開したようですが、客さん少ない。
ぼくも人混みを避けていることもありますが、バスなんか乗っても空いています。
個人経営の店、飲食店とか大変ですね、大手チェーン店は潰れるところは潰れたらいい。
資本家についてはそう思うけど、個人経営者には、支援が必要だと思います。

ぼくは年金生活者で、路頭に迷っていないレベルですが、生活が大変です。
コロナ騒ぎにかかわりなく、じわじわと食料品が値上げされていて、大変です。
日々、出費は、ほぼ、食料品しか買わないレベルです、それも割引のを優先してる。
それはそれで日々、そんなに心配はしてないですけど、若い世代は大変ですね。
さあ、いまから、買い物に、この時間あたりから割引になるから、それを目当てに。

20200412
雨が降っているので外出はしていません。
それにしてもコロナウイルスの感染で、外出を控えるようにとの要請です。
こちらは京都市内ですが、感染者が近場で見つかっているので、気になります。
東西南北、自宅より1キロ以内くらいまでのところで、感染者が出ています。
風評には気をつけないとだまされそうですが、あんまりニュースは見ないのですが。
こちら、高齢者だから、かかると重症化する恐れがあると思うので、要注意しています。

緑の桜、御衣黄(ぎょいこう)って品種の桜ですが、珍しい品種のようです。
これは平野神社の御衣黄ですが、雨宝院にも、千本釈迦堂にも、ありますね。
ちょうど四月中旬で、花が咲きだしたところです。
枝垂れや八重の桜が、まだこれから見ごろになります。
ひところは雨の日でも撮影に出かけたものですが、最近は、自粛しますね。
いつまでも現役でやっていけたらいいなと思っているところです。

20200414
街の中、バスで移動しますが、バスの乗客が少なくて、バス停で時間待ちな感じですね。
まだまだ続く気配で、息苦しくなるじゃないですか、それより生活していかなくちゃ、です。
カメラが壊れて、修理にだすのもお金がかかるからと、修理、控えています。
5年ほど前に買った古いのがあるので、それで撮っています。
それより、スマホ、これももう4年目ですが、これで写真を撮っています。
ノーマルに撮って、ノーマルに仕上げて、見栄えよくして、ブログに載せます。

写真を載せる器を、SNSのサイトに求めて、インスタグラム、ツイッター、フェースブック。
インスタグラムで無題シリーズを終えて、今日から表現論シリーズをはじめました。
この表現論シリーズはツイッターでもやりだしてこちらは縦長サイズの写真です。
インスタフラムは正方形で、縦長サイズのいいとこをカットして正方形にします。
撮った写真は、かなり加工して、アブストラクトなイメージに仕上げていきます。
載せてみて、イケてるの、イケてないの、判断しますが、制作のプロセスが未熟です。

4年前のエクスペリアのカメラを使っているけど、最新はまたプロセスが違うと思う。
5Gになるから、最新にするのはもう少し後にしますから、新シリーズはこの機種で。
風景論はiPhone6で撮った写真を9冊の本にまとめています。
その後の「無題」はまだ印刷本にしていません。
新しくはじめた「表現論」シリーズを、どう展開するか、考慮中です。
意味不明にして迷路にしていく現代表現プロセスです、まさに現代表現として。

20200415
なにから手をつけようかと思案しながら、このブログの記事投稿画面にやってきました。
ここは自由気儘にキーボードを打って文字を起こし文章にしていきます。
キーボードで別のキーに指が触れて、思うように思う文字や熟語が出てこなくて、イライラ。
もう原稿用紙を捨てて、キーボードから文章を作るようになって40年近くになります。
原稿用紙に書いたのを和文タイプライターで打ち上げて、軽オフ印刷の輪転機にかけた。
そんな昔の作業を思い起こすこともあるけれど、いまは、ネットにあげて閲覧してもらう。

1970年頃といえばワープロがなかったから組版で活版印刷で、活字を並べてました。
半世紀、すごい変わり方、そういうことでいえば、昔はもう少し進歩が遅かったのかも。
写真制作についていえば、モノクロからカラーにかわってプリントするようになりました。
カメラも大きく変わって、いまではデジタルで、スマホに内蔵されて、写真が撮れる。
ここに載せてる写真は、スマホで撮ってパソコンに取り込んでブログにアップです。
1963年に手づくり詩集を作ったんですけど、ガリ版で原紙をつくって、一枚づつの手刷り。

1980年のはじめに「映像情報」を発行し始めて12号まで発行できました。
最初は手書きの版下を輪転機印刷してホッチキスでとめた冊子でした。
3号からタイプライターで打った文字に写真で拡大したタイトルを使ったり。
そんな日々のことを思い起こしながら、現在、パソコンで、ネットにアップしてる。
まだぼくはパソコン中心で、電話はNTTの光回線をつかっている状態です。
これもいまは、スマホですべてできる時代になっている、と思います。

20200420
チャイコフスキーの交響曲を聴きだしたのは高校生だったころですね。
LPレコードを買ってきて、サンヨーのプレーヤー一体型のステレオ装置で聴いていました。
いま、パソコンで四番を聴いているところですが、胸のつっかえをはきだそう、の気持ちです。
四番のLPレコードは、バーゲンで千円で買った記憶がよみがえります。
一日のバイト料が500円で、二日分のバイト料、レコード、定価では2000円してたと思う。

バイトといえば、その頃は寿司寅さんで日曜日には朝からバイトに入っていました。
好きな人がおって、片思いのような両思いのような交流でしたけど、気持ちは淋しかった。
そういう冬の夜の空気感を思い出してしまいますが、そて、青春真っ只中ってとこです。
もう半世紀以上が経って、断片的に記憶がよみがえってきて、ああ、生きてる証拠や、と思う。
近い処の知った人が亡くなっていくので、終活ですね、過去の痕跡を処分しております。

まだまだあります、処分しておいたほうがいい過去、清算するのは淋しいですが、です。
性にまつわる物品は、ほぼ処分して過去を消しているところですが、少し残っています。
棄てるものはバッサリと目をつむってごみ袋にいれて、持って行ってもらいます。
棄てるものは記憶が詰まっているから、その記憶を断ち切って、こころの中で決断します。
他者には関係なくても、自分にとっては生きた証の、重いものですから、悩みますね。

20200424
コロナウイルスの話題で世の中覆いつくされている感じです。
外出などを自粛要請して、蔓延を食い止めようとするわけです。
そのとおりで、人が動かなければ感染リスクが低くなる、というのです。
ぼくもかなり自粛していますが、先週から神社巡りをしだしたところです。
桜の取材が終わっていくので、デジカメGX1の前ので撮っています。
3台あるうち2台が壊れて、修理にだなないまま、接写の効かない奴です。

スマホでは、現代に特有のモノを主に撮ってみようと思って、撮りだしたところです。
インスタグラムには毎日一枚、撮って加工した写真をアップする、題して表現論です。
まあこじつけみたいなところですが、自動販売機とか街角の風景、これ現代です。
反転させるのが主ですが、撮ったのを加工して、スマホからネットにアップします。
試みとして、現代のツールを使って、現代特有の被写体を撮る、そのシリーズです。
ツイッターはやめようと思ったけど、ここは縦版で撮ったモノを加工してアップです。

文章は控え気味ですが、朝の挨拶を、フェースブックにおいてやっています。
人とつながるツールで、数人、イイネの挨拶をいただくので、とても嬉しいです。
この交流ですね、現代のコミュニケーション、かってあった手紙交換みたいな。
内面と内面がストレートに交わる、メール出現以降の人間関係ですね。
かってあって今もある作品概念とは違った写真と文章の交換、イイネ!ですね。
ちょっと現代の表現の形が、見えて、感じられてきたように、思えます。

20200426
街から人が消えた、新型コロナウイルス蔓延で、外出自粛の要請が出されているのです。
ぼくは、適当に、一日二時間ほどカメラを持って散歩している感じです。
バスにも乗りますが、がら空き状態ですね、こちらは京都市内です。
経済的に生活ダメージ大きいですね、世界的に、日本も多分に漏れずです。
ぼく自身は、外出できないくらいで、大きなダメージは受けていません。

毎日、時間を自分の好きなように使えるから、これはラッキーです。
夫婦二人生活で、生活する歩調を合わせないといけないから、制約はこれくらい。
もうお勤めはしていません、収入は年金だけ、もう困窮にも慣れました。
そのぶん、好きなことして、好きなように生きたい、と思っていますが。
まあ、パソコンに向かっている時間が、際限なく長いですね、不健康ですね。

ブログのいくつかに写真を載せて文章を書きます。
この文章書きが、けっこうめんどくさい、というか気が乗らない。
けっこう難しいこと書こうと思うから、他者の目を気にするからでしょう。
ペンネームというか匿名で書いてる文章は、けっこうノリノリで書いています。
でも、仮面をかぶった自分だから、ちょっとイライラして、どないしょ、と思う。

20200429
イタドリにスイートピーの花、春の風景、水辺の風景です。
昭和の日、祝日ですね、1960年代あたりの映画音楽をパソコンで聴いています。
休日の午前中、エデンの東、禁じられた遊び、太陽がいっぱい、懐かしのメロディーです。
高校生の頃の、休日の午前中って、レコードをよく聴いていた記憶がよみがえります。
音楽と記憶って、ひとの心のなかでは、密接に結びついている気がします。
その頃の、自分がいる光景が、物語のようによみがえってきます。
感情的には、胸が詰まる、砂糖菓子が崩れる、こんな表現がいいのかどうか。

ついつい昔の話をしてしまう、そういう衝動に駆られてしまう、年寄の習性ですかね。
祇園会館、美松大劇場、京都の映画館で、封切館ではなくて、二番か三番館でした。
高校生のときの日曜日、そうですね、ひとりで観に行きましたよ。
鉄道員、終着駅、何度も観ましたよ、けっこう感動していた記憶があります。
浪人時代になると、パートカラー、成人映画をかなり観たし、大映映画も観ました。
イタリア映画は正方形画面のモノクロ、日本映画は部分的にカラーになる。
大学生になってからは、映画はほとんど観に行きませんでした、観る時間がなかったです。

そのころって、無限大の未来がありましたよ、若いということですが、十代の終わりごろ。
1970年に結婚したんですが、その頃は同棲なんて言葉はなくて結婚でした。
男と女が愛しあい一緒に棲む、その時代のことは、昭和、レトロイメージで語られますね。
ぼくも最近、令和になって、昭和レトロでいいじゃないか、と思うようになってきています。
恋愛のかたちとか性愛のかたちとか、行為は変わらなくてもイメージは昭和レトロがいいなぁ。
小説を書いていて、その背景となるイメージは、昭和中頃イメージ、つまり自分の青春時代。
今日もまた、自分のイメージで、語っていこうと思うところです。

20200501
5月になりましたけど、コロナウイルスの影響が、世界経済を揺るがしています。
ぼく自身のことでいえば、会いたい人にも会えないんじゃないか、このことです。
生活のことでいえば、ぼく自身は、そんなにダメージは受けていません。
もとからいまや年金生活者だから、一定の収入は確保できているからです。
この年金が崩れるということはないと思うけど、インフレが起こりそうですね。
デフレだのにインフレになる、生活者が必要とする物資の値段があがる。

密を避けるためにということで、安く買えるサービスが見送られています。
あるいはポイントがつかない、実質、3%還元の特典がなくなる。
それに、じわじわと、食料品のベースな値段があがっている。
いずれ、どっかで、大きな変化を起こして、国家財政を正常に戻さないといけない。
そう思っている輩ですが、あんまり言うと、危険分子になるから、いいません。
ぼくは、気分的には、好きなことして、気持ちを開放していきたいと思っています。

マスクもってないから、マスクしていません。
国から送られてくるのを待っているんですが、まだ送られてきません。
マスク買いにいっても、品切れで売っていないし、通販で買えるみたいだけど。
通販で買う習慣はもっていないし、使いたくないので、手元にはいりません。
ちょっとマスクしてないから、外出時には気が引けます。
どうしたものか、いつまで続くのか、ちょっと先が見えませんね、困ります。

20200503
ここで使う写真は、直近にスマホで撮ったものを枠付きに加工したイメージを載せます。
ほかのブログにでもそうしているんですが、黒枠付きにしています。
黒枠にはいろいろな意味があるんですが、ノートリミングであることの意思表示です。
それからスマホで撮って、撮りっぱなしではなくて、露出調整しています。
おおむね、明るくして、コントラスト強くして、明部と暗部の調整とかしています。

撮りっぱなしではなくて、加工しているといえばいいのかなぁ。
この加工の段階で、フォトショップとかライトルームを使って、ということがある。
ぼくはスマホやパソコンに添付されている無料のツールを使って、加工しています。
その加工も、最小にとどめてきたところで、あまり得意でないから、内容で勝負。
この内容を導き出すのに、論を立てるわけです、写真論とか表現論とか、です。

言語にとって美とは何か、俗に、げんび、吉本隆明さんの著書1960年かな、これ参照。
写真にとって美とは何か、この写真のことを、静止画とか、イメージとか言っています。
言語という枠にたいして画像イメージという枠を設定するわけです。
げんびを詳しく読み込んだわけではないので、ほんの表面イメージだけを参考に、です。
写真を解析するところのアプローチには、ほかにもいろんな理論背景があると思います。

20200506
5月の今頃って、街路に植えられたツツジが満開ですね。
街のなかがパ~っと明るいくなったような気分です。
白い奴から紅い奴まで、微妙なトーンを見せながら、咲いております。
さて、写真にとると、ナマの色が再現できていなくて、人工の天然色です。
ぼくは、原色にはこだわっていなくて、明るく美的に撮れればいい派です。

花とわれらの風情に想いをはせると、ぼくは源氏物語につきあたります。
日本の風土から生まれてくる固有の情感みたいな情緒にうっとりしています。
いやいや、この情感といってもぼく個人の感覚だから、他者のはわかりません。
でも、共有するところがあると思っているから、それはそれでいいかと思う。
花は恋の気持ちの代弁みたいな思いがあって、花を介して恋愛を思います。

文学における恋愛描写ですが、夜に会って朝に別れる、その中身が描かれません。
紫式部なんて、恋のこころ描写だけで、行為の顛末は描かれていません。
太宰なんか、お姉さんが男に会って、身ごもっていた、それだけの描写です。
日本の文学の文章表現のヘッジの拡大を求めて、戦後の文学があったように思う。
ぼくなんか、そこの拡大を究極まで求めていて、あの手この手で模索しています。

20200510
コロナウイルスに負けている人間社会、そんな感じがしています。
勝ち負けではないといっても、人間が培ってきた社会を脅威に晒しています。
ぼくは、もう、この世の中の主要な構成員ではなくて、余り者の部類です。
これまでに見てきたこと、世の中の金と権威を持たない処で生きる人間のこと。
いつも、虐げられている人々がいる資本主義社会の真っ只中です。
これを解消していく道筋を、と思っても、いまさら、どうしようもない。

まだ、若かったころ、革命なんて言葉に酔っていたけど、目が覚めてしまった。
持つ者と持たない者、いまさらどうしようもできないかも知れないが、平等がいい。
理念としての平等は、結果として貧富がある、権力を持つ者と持たない者がいる。
そんなのもう関係なくて、今日一日、平穏に過ごせれば、それが最高なのかも。
50年ほど働いてきて、年金としてもらっていて、国があるかぎり、お金がきます。
世の中では非生産者だから厄介者の部類ですが、好きに生きさせてもらっています。

いやはや、自分で稼ぎださないといけない人間だったから、これは苦しかった。
貯えを持たないレベルだから、せっせせっせとお金を得ないとやっていけなかった。
それでも、積み立てをしてきたから、いま年金という名称で、貯えを崩しています。
まあ、フリーターひと月分の稼ぎくらい、年金でもらっていると思っています。
なんとか、夫婦で生活しているから、家計も保っているところです。
好きなことができてる今は、とってもいい日々だと思うのがいいですね。

20200513
フェースブックでブックカバーチャレンジという企画に参加しています。
ねずみ講みたいな感じで、自分の読んだ本を紹介することがおこなわれています。
まあ、たぶん、ぼくもそうだけど、おもしろがって、気に入ったブックのカバーを載せています。
なにか、そのひとの過去であったり、思考であったり、趣向であたり、これが反映しますね。
人のぶんをじっくり見るほどに、その人には興味がないので、うんうん、やってる、程度ですが。
もし、お気に入りの人がこれやったら、ぼくは興味を持って、詮索するほどに見入ると思います。

ぼくは、万葉集から載せだして、今日で五日目、迷ったけど三島由紀夫を取り上げました。
いい機会だと思って、文学に興味を持ったころの本をリストアップしたのです。
万葉集は大島貴代さんからの引継ぎで、そのあと柴田翔、高橋和巳、大江健三郎、三島由紀夫。
今日は福永武彦を、と思っていたけれど、急遽三島にすることにして、流れを作りました。
梅原猛さんの湖の伝説、これが最初にするべくところから始めて、まだ手元に残っています。
井伏鱒二さんの黒い雨も取り上げたいところですが、七冊限定ですから、どうなるか、です。

20200516
今日は雨が降っているので散歩なしで部屋に籠っています。
パソコンの前に座りっぱなしで、作業を進めるのは、寿命を縮めるようですね。
なるべく毎日外に出て歩きを中心にして、健康を保つようにとしています。
でも、しだいに体力が衰えてきていて、だんだんと無理できなくなってきています。
まあ、好きなことやっているんだから、苦にはならないから、いけるところまでいこう。
SNSでは、三種の神器ですね、フェースブック、ツイッター、インスタグラム。
それぞれを活用して、自分が生きている証拠を、示していければいいなぁ、と思う。

ブログは、いくつかの枠を決めていて、それに沿って記事を作っています。
興味の対象は、ネット上で展開する作家活動、といえばいいかなぁ。
あまりお金をかけないで、自分出版社を運営する要領で、展開しています。
ミニコミの時代から、マイナーな処から、発信しているところです。
学校作りをもくろんでいますけど、どうもうまく進んでいきません。
だから、現在は、すこし引いたところで、ものごとをとらえようと思います。
あとどれだけ続けられるかわからないけれど、よろしくお願いいたします。

20200518
このまえにフェースブックでまわってきたブックカバーチャレンジ7回を終えました。
その7回のうちのひとつに高橋和巳「わが解体」をえらんで載せたところでした。
わが解体の本一冊は長女が生まれた記念に購入して短文を書き込んだ本でした。
そういうことで記念の一冊として載せましたが、それに先立つ数年前に読んだ本がこれ。
「憂鬱なる党派」「我が心は石にあらず」もちろん他にも単行本も選集も買いました。
長編には「邪宗門」がありますが、若き高橋和巳がよくぞ書いたなぁ、と今更思います。

憂鬱なる党派は、一回しか読んでいませんし、内容が濃いから評論は避けます。
でも、ここに登場する主人公の西村という男の生きざまに、ぼくは感動していた。
大きな仕事をするんです、原爆被爆者の聞き歩きをまとめて出版しようとします。
どこの出版社にも断られ、そのまま日の目を見ない、最後には釜ヶ崎で死に絶える西村。
見つかった原稿用紙は、飛行機にされてしまう、という落ちです。
文学青年を装いながら、破滅型小説にはまり込んでいく、まさにその時代の典型ですね。

我が心は石にあらずは、何回も読みなおした小説のなかの一冊です。
出世街道をいく主人公が、労働組合の指導者になる、やっぱり自滅していきますね。
いま、ね、読んでから、半世紀がたって、振り返ってみると、影響受けていますね。
出世街道をいくということであれば、ぼくは幹部候補を途中辞退して、写真の道を選んだ。
その道も途中で、権力になることから、外してしまって、我が道を歩いてる、これが現在です。
反権力志向が結構あって、生成と解体を繰り返してきたように思っています。

 

20200520
この50日ほど、家族以外には、ほとんど人と会わずに、過ごしてきました。
毎日、SNSに連動して、ブログ書いたり、HPにページを作ったり、交流してる気分です。
現代の、現在の、人との関係の在り方が、ネットを介してというのが、時流だと思う。
ZOOMとか、ネットで画面をだして、交流する、この時代に来ているのを実感します。
でも、もう、これ以上、ぼくは乗らない、乗車しないでいこうと、思っています。
だからこそ、対面で交流する、という本来的な人間関係に、いたいなぁ、と思うのです。

メールの時代からだともう25年、ネットでやりとりしだして、四半世紀が経過です。
ミクシーの時代はまだハンドルネームでしたが、フェースブックになって実名が主流です。
使い方も、交流の内容も、バーチャルだといいながら、リアルな感じで、やりとりです。
もう、新しい時代になっているなぁ、旧人類からいえば、そのように思うところです。
ネットを駆使する人、新人類、いやいや現代人といえばいいのでしょう、現代人ですね。
ぼくも現代人の仲間入りしたい、現役作家でありたい、そのように思うところです。