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最新更新日 2018.5.27
淡水日記
中川繁夫:著

 山紫水明blogに連載の文章

淡水日記-2-

 10~18 2018.2.17~2018.3.23

   

-10-
内海淡水というペンネームを使って、小説を書き、小文を書こうと思っています。
フェースブックに内海淡水の名前で新たに登録しました。
とはいってもフェースブックはほぼ実名ですから、友達がいません、つくれません。
このブログは、淡水の名前を使っていて、フィクションのようなノンフィクション。
物語のような非物語を書いていこうとしています。
困ったな、どうしようか、なにを表現したいのか、そのことです。
ぼくはネットに発表する文章は、すべてフィクションだと思っています。
まるっきり嘘ばっかり書いているわけではないですが、それほど信憑性もない。
知ってほしいのはそのときの気持ちだけど、これも一定の蓋をしておかないと。
太宰のお道化ではないけれど、ぼくのこれらは作りごと、フィクションです。
テレビの世界も、小説の世界も、メディアに乗って流れてくるものは、フィクション。
そう思っておいたほうがよさそうです。
虚構、って言いかたもあるんですね、嘘で固めたお城、みたいなイメージです。
非情にセクシュアルな事柄に興味がある、といってそのことを表に出すことも憚られる。
その境界線が、現実と虚構の境界線を、どこで引いたらいいのか。
錯覚、倒錯、生命、性、生きている証し、実感として身体に感じること、これです。
好きなことを「好き」といえることが、一番いいのだけど、いつもこれを隠蔽します。

-11-
今日スマホで撮った写真、上賀茂神社の朱塗りの門、真新しい、目に沁みる朱色です。
今年は戌のまわり年で、なんと驚くなかれ72才になってしまうのです。
自分ながらに、信じられない、50台で居なくなっていた筈なのに、ここにいる。
そういえば体力がなくなってきたな、精力もなくなったな、そんな感じです。
淡水というペンネームを使いだしたのは最近のことで、昔、中山明、なんて使っていたことも。
ペンネームは、実存の自分を隠すために使う、ハンドルネームというのもある、似たモノです。
日常の生活の世界の自分を、違う自分にしてフィクションする、そんな感じがします。
別人になったような感覚、活動家中山明、エロティシズム家内海淡水、いい感じです。
もうここまで来たんだから、秘密を持つのも、持ったまま死ねないからなぁ、と思った。
かなり時間の大半を、こっちのほうに使っているのに、現実の中で反故にすることもない。
表現の枠をひろげて、欲望とか本能とか、それに根ざした活動が、人間らしさだろうと。
そんな感じがしていて、人間として最後を生きる、なんてこと公言している淡水さんです。
まあ、小説の世界というか、フィクションは別の人格を創っていくことですからね。
今日のおしゃべりはこんなところです。

-12-
ヒトの内面なんてもろいものだと思います。
もろいけど、支えられることで維持できると思うんです。
家族に、友達に、個人の関係のなかで支えられることが必要だと思うんです。
中学生や高校生が、いじめを受けて、自分で死ぬことを選んでしまう。
いじめを受けるということは、支えを失うということで、別の支えが必要なのに。
その支えが得られなくて、絶望の淵を歩きだして、あっちへ行ってしまう。
なんとも、心が痛むばかりです。

はなしは変わって、食べることの話に転じます。
掲載の写真は、最近流行りの「牛すき鍋」定食ですね、あっちもこっちも。
牛丼屋さんだけではなくて、定食のチエーン店でも、食べられます。
価格は600円から1000円までくらいで、独り者にはお手軽、便利メニューです。
でも、これでも高い、税込み味噌汁付き290円の牛丼があります、これはお勧め。
でも、これらは、食問題ではあまり感心しませんね、良品ではない判定だからです。
良品とは、無農薬、自然飼料、人体に優しくて、地産地消の食材であること、とか。

関心ごとは、食べることだけじゃなくて、性の現象について、です。
ネットでは、男女の関係が、セックスの関係で、話題になります。
成人男女の潜在的な関心ごとは、セックスのことですが、これは表に出せない。
スマホやパソコンがあれば、セックスサイトへ、簡単につなげられます。
第三者に接触することなく、ひそかに見ることができるというのが現状です。
もっと開放的になれば、犯罪とされることが減る、というものでもないでしょうね。
美術や文学の古典的な領域から、そういう世界が表現されてきて、今はその延長です。
もう少し、議論をしていかないと、表現者としては、立ちいかれませんね。

-13-
窓からの眺めシリーズを続けているところですが、これは写真の原点をもじった行為。
ニエプスってゆう人が、自分の部屋の窓からカメラを向けて、外の光景を撮った。
1820年頃だったかと思うけど、ニエプスの<窓からの眺め>は二百年ほど前の出来事です。
この世に現存する最初の写真として有名なイメージです。
今日、ここに載せているのは、スマホで撮ったやつで、少しアレンジしてあります。
むこうに大の字の山があるのは京都の左大文字です。
いうまでもなく、場所を特定されてしまうイメージで、やばいといえばやばい。

芥川賞の受賞作が載った文藝春秋を買ったんだけど、読む気にならないなぁ。
参考文献として、いま、受賞作品の小説って、どんなんなのか、それが知りたい。
ひところ必死になって本を読んだ時期があったけど、今は、ほぼ読まない。
田辺聖子さんの「とりかえばや物語」を本屋の棚に見つけて買おうか迷った。
結局、買わなかったのは、たぶん買っても積読だけだろうと思ったから。
その近くに、春画の本が、けっこう並んでいて、ひらくと無修正です。
俳句の本は、テレビで見かける夏井いつきさんでしたか、本が並んでいますね。
これまで、大量に本を買い、ほぼみんな手元から無くなって、でもまだがらくたがある。
もう、これくらいで、いまさら、買っても読めないから、買うのはやめよう、です。

フォトハウス表現研究所を立ち上げているけれど、空しいばかりのこと、です。
もうやめようかしら、いつもそう思いながら、記事をアップしていますが。
空しいったらありゃしない。
それより、えろすフィクションに精出していて、からだを潰しているんだな。
三篇をクロスさせながら書いているところですが、ちょっとイラつきますね。
ほかに「淡雪の街」ってタイトルでフィクションしだしたけれど、話がつながらない。
頭の中で、構想が浮かんできて、それを忘れてしまって、くっつけられないのだ。
これって、老化の真っただ中にいるんだと、いま、これを書きながら、自覚してる。
高齢であるけど、初々しさにチャレンジしているんだけど、無理かなぁ。

-14-
2月が終わっていきますが、心残りばかりで、惜しくて怖くて、仕方がないです。
なんだこれは、第三番、英雄、エロイカ、ベートーベンの交響曲じゃないか。
硬い演奏ですね、演奏だけじゃなくて、楽譜が硬いんだ、まだ三番あたりは、ね。
五番の運命だと、第三楽章なんて、もういてもたってもいられないほど、心、揺すられます。
先日、天神さんの縁日で、久しぶりに古着を売っているところを、スマホで撮りました。
スマホで撮ったのは初めてです、縁日の写真を、スマホで撮りました。
それとなく、それなりの絵になっていると思っています。
けっこう、イージーに撮って、ほぼ棄てることなく採用して、残しています。
アンドロイドを使っているので、スマホとパソコンとが、直接にはつなげていません。
撮ったものがパソコンに入るのは、iPhoneでした。
アンドロイドは、グーグルのフォトに入って、それをダウンロードして保存です。
たぶん、直接、繋げられるとおもうけど、その方法が分からないのです。

きょうさんからプリントが仕上がったとの連絡をもらいました。
現在のぼくにはできない技を持っておられるきょうさんです。
4月にある展覧会へ出品するんですが、それの加工とプリントを引き受けていただけた。
それの仕上がりです。
そうそう、4月以降のフォトハウス表現研究所のイベントを、どうしようかと。
中澤さんから聞いた、ワールド・カフェをアマノコーヒーさんで開催しようか。
気長に、やっていくしかないなぁ、くじけたら、おしまいだからね。
月が替わると、なにかしら気分まで変わる気がして、その感覚が変えてくれる。
区切るのに都合がいいです、月、年、そうしてすべてが過去となり、忘却です。
でも、もう、あと、そんなに残っていないことを、自覚しています。
あせってもしやないと思うけど、やっぱり焦ってしまうのかなぁ。

-15- 2018.3.5
雨が降っていて、外出するのが億劫なので、朝から断続的に文章を書いています。
ぐだぐだと意味不明な方法で、文字を連ねている、といえばいいのかも知れません。
ここは日記を書こうとして、その日記のスタイルがわからないままでいます。
淡水日記という名称で、写真を一枚、それと出来事を書いて残しておこうとしています。
この方法を、ぼくは良しとしているわけで、そんなの残さない、という人もいます。
ぼくは文学を志向してしてきた輩だから、残さないなんて考えは毛頭ありません。
饒舌になってでも残しておかなくてはいけない、と思う派です。

侘び寂びというより饒舌色艶といった方がいいな、と年を重ねるごとに思います。
松尾芭蕉や吉田兼好や鴨長明、彼らはきっと、侘び寂びイメージで過ごされた老後。
歳を取るにつれて、年齢を重ねるにつれて、ヒトというものは侘び寂びの境地に至るのだ。
そのように思っていた時期がありました。
かなり若い年代のころで、まだ身体がしっかりしていて生殖機能もあったころです。
そういう年齢を過ぎてしまうと、枯れていくのとは反対に、饒舌に色艶を求めます。
性愛ではなくて、空想の領域で生殖の在処を探す、みたいな感覚でしょうか。

ふれてはならないことにふれているのではなく、ふれなければならないところです。
生きがいを追求することは、生の在処を探すことで、それは、生殖にかかる処です。
がらくたばかりの店先に、興味を持って写真に撮って、あとでじっくり眺めています。
古本の話で、新本なら数万円の本も、古本になって百円、という値段です。
その時には価値があっても、その後の時代では価値がないといえばいいのでしょうか。
そういえば堀辰雄の小説集を百円で買ったことがありました。
シリーズのなかの一冊だから、そういう値段になったというより、買い手がいない。
風立ちぬという動画が作られ、人気を博し、同名の小説を書いた堀辰雄の名がでました。
でも、たくさんの小説家がいる中で、知る人ぞ知るレベルで、大半は忘れられていきます。
それが、歴史というもので、問題は、歴史の中にいかにして残すか、でしょうか。
良いものが残るとは決して言えなくて、だれから守っていくから残る、というものです。

-16-
いちばん最近に撮った写真を掲載しています。
昨日、ライト商会三条店で開催されている「京都極彩秘宝館」展を見に行った。
会場の写真撮影をしていて、その最後の写真がこれでした。
坂井美桜さんの「壁面コラージュ作品」です。
ホックニーのコラージュを思い出しながら、これは一枚一枚が別写真です。
心情にフィットしてくるイメージで、パッと眺めて、一枚一枚に見入ります。
興味あるから見入るわけで、特別にエロスでもないのに、エロスを感じます。
いや、エロスと表現したけれど、何をもってエロスという言葉を紡ぐのか。

ぼく的にいうなら、かって、ひらがなで「えろすかろす」という言葉を使った。
エロスタナトスかなとも考えながらエロスカロスとの表記を使いました。
エロス、えろす、は生、生きる、生き生きした感性、感覚、歓喜、そんなイメージです。
カロス、かろす、は美、美しい、見て心ときめく、そういう感覚、身体内部が濡れてくる。
そこでエロスとカロスを組み合わせて、あまり使いたくないけど「官能」なんてイメージを。
そういえば官能小説っていうジャンルがあるのかどうか、官能小説、って言いますね。
そんな区分の問題じゃなくて、描かれる中身の問題だけど、人はタイトルで興味を示します。
ネットでエロスとか官能とか、そういう言葉を表出させると、アクセスが一気に増える。

特別に新しいということでもありません、絵画や写真、それに文章にも描かれています。
近代絵画や近代文学に限ったことではなく、絵画にしてもビーナス誕生とか、小説にしても。
小説は、近代以前、ちょっと思い浮かばないけれど、小説そのものが近代の産物ですかね。
表わすためには道具を使いますが、ひと頃は印刷しかなかったけれど、いまはネットですね。
インターネット環境ですが、ハード機器があって通信インフラがあって、それが使える今です。
ひとことで言ってしまいますが、すごい時代になったなぁ、と感嘆するしかないですね。
この感嘆する内容、ひとつひとつを、詳細に見ていくことが、この先、求められていますね。
ぼくとしても、できるだけ、細部を描いて、あぶり出していければいいな、と思う次第ですが。

-17-
あれから三年、この三年、なにをしてきたんだろうと、反省期に入っている気がします。
三年前といえば2015年ですね、図書館に通ってたころです。
いろいろあって、気持ちが動揺し、我を捉えることができなくなって、浮動してた。
個別には語らないけれど、なんだか追い詰められていた気がします。
二年前には、2016年、風景論シリーズを秋までやっていて、終わりました。

それから、独立して、あらたに現在の<カフェ&プレス>の基本形を提起しました。
紆余曲折、ここまでやって来て、ちょっと屈折点に来ているのかな、とも思います。
といっても、この先のこと、屈折させて次の展開が分からない、ここに来ています。
作品をつくること、組織をつくること、それの総合としての活動、表現の形として。
まあ、そういうことでいえば、遠い所に来てしまったのかも知れません。

刑期中の人が、支援してくれている人に、文章やら色紙を預けている、とのニュース
信頼できる人へ、信じられる人へ、その人は、ひとりだけでいい、その気持ちだろう。
わかる、わかる、というより、推測する、推測します、その答えを我に返します。
過去を振り返ることが多くなりました。
もう老年にまでやってきたからだとも思うが、未来をみていきたい、と思います。

京都へやってきたときの長谷川等伯をブロンズ像にしたのが、掲載の写真です。
能登から京都の本法寺へ来て、世話してもらって、画業を達成していく等伯です。
等伯のことは、直木賞作家の小説で、読ませていただきました。
どうしたわけか、たまたま、ぼくのお寺が、この本法寺なのです。
なにかのご縁というところでしょうか、ぼくもがんばってみようと思います。

-18- 2018.5.23
最近、京都紹介番組で現れる京都イメージの五重塔を撮ってきました。
昨日、2018.5.22、平日なのに、観光のレンタル和服の若い女性がいっぱいでした。
このブログも、文章が主体でしたが、内容変更していきます。
写真イメージを主体にします、よろしくお願いします。