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最新更新日 2015.10.20
気ままな日記
中川繁夫:著



 13~23 2015.8.2~2015.10.18

    

-13-

8月に入りました、なんだかあっけなくです。暑い日が続いています。今が一番暑い時期、体調崩さないようにしなくちゃいけませんね。7月はあまり写真撮影ができていなかったので、この間、植物園、街中、と写真を撮ってきました。なんだか、熱中している間というのは、汗かいても、苦にならない。かなり汗をかいているのに、です。植物園へは年会費を払っているのでフリーパスですが、来年からは、年会費がいらなくて敬老扱いになります。こうして日々がすぐに過ぎてしまう。なのに、なにを考えているのでしょう。心がゆすられる光景に会いたい。いえいえ、遭遇しても、いまさらどうにもならないじゃないですか。でも、歳とともにナイーブになっていくようにも思います。みずみずしいことにあこがれます。瘋癲老人日記って谷崎の小説ですが、あんなの読めないよ、といいながら、そういう年代になっている自分。この日記は、フィクションでないから、そういうたぐいにはならなくて、ちょっとイラッとします。明日から、また二泊で金沢へ行きます。

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夏の暑い盛りに寒い冬の光景を思い浮かべる。なんだか突然に、松本清張の「ゼロの焦点」を想い起こしてしまって、書棚を見たら、この文庫本がなくて、だれかに貸してあげてそのままになってしまったのだろうと思いながら、テレビで見た映像の光景を思い起こしながら、小説のイメージとだぶらせ、そこからスキャンした画像を開いて、ここに能登金剛と思われる海の写真を載せようと思ったら、1.3メガの画像がとりこめなくて、どないしょうかと狼狽しながら、この文を書いているところです。写真は別の内灘を使うことにして、アップしたところです。現在は、この内灘からなぎさドライブウエーといって、自動車で砂浜を走れるようになっていて、その先が能登半島につながります。「ゼロの焦点」は東京からみれば、遠い遠い辺鄙な荒海の海岸が登場します。ぼくが高校を卒業するときの2月、この辺鄙な能登の海岸に行ってしまって写真を撮った。もう半世紀以上も前の出来事を思い出しているわけだけれど、それは鮮明に想い起こすことができます。羽咋まで鉄道で行って、そこからバスで海岸へ行きました。荒々しい外海をバスを乗り継ぎながら輪島まで行って泊まりました。ひとりで旅館に泊まった最初です。凍てついた道路、波の華が舞う海岸。そんな光景を思い出してしまうのも、何かの縁、なんてゆうんだろ、シンクロしてる、交叉してるのかも。とんでもない展開になってしまうこの日記、後から読んで、自分の航跡を留めていることに気づいています。内灘の話しは、別途、することにします。

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この気ままな日記では、記事はべたで段落なしで書き進めています。読み辛いのは承知で、内容が内容なので、読んでくださる人が少なくて、それでもいいかと思っています。今日は敗戦の記念日、8月15日です。社会の関心ごとは、戦争への道、新たな段階に入ったということで、それを阻止できない苛立ちが、過半の人々の心だと思います。ぼくだって、それは、そういうことで、戦争への道、危惧していますけど、反対の戦力にはなれてないなぁ、と思うところです。ぼくの興味は、もっともっと小さなこと、矮小化された現実、とでもいえばいいかもしれない。自分の欲望。古希を迎えているのに、若いふりして、小説を書いたり、恋心を体験していたり、悪さばかりの日々なのです。戦争を遂行していく輩よりははるかに、比較にならないほどに善良だと思うけれど、そこから見れば悪の華を咲かせてる、と思われるのだろうな。耽美、エロス、タナトスではなくてカロス、この世界を具体的なイメージに昇華させたいと思っているけど、そんなの無理です。でも、あきらめない、いけるところまでいくのがいい。そう思って今日もフィクションしていこうと思います。敗戦記念日のメモです。

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柄谷行人さんの「日本近代文学の起源」の目次を見ると、風景の発見、内面の発見、告白という制度、病という意味、児童の発見、構成力について、とあります。1980年前後に書かれたこの本を読んだのは、十数年前のことです。日本の近代文学史で、冒頭は夏目漱石という人名から書き出されています。ぼくはこの本を、日本近代文学の基本的な構造を立体的にとらえられた論文だと思っています。久しぶりにこれは講談社文芸文庫の一冊ですが、取りだしてみました。というのも、唐突かもしれませんが、古屋誠一さんの写真集「メモアール」の構造を考えてみたいと思ったからです。古屋さんの奥さん、クリスティーネさんが自死してしまうわけですが、この彼女との出会いから死をこえてそれらを過去としていくある種、私物語なのですが、どうもこの構造を語るにあたって、柄谷さんの論を引き合いにだしてみたらどうだろうかと考えているのです。ぼくの勝手な推論で、私にとっての彼女がこの世からいなくなる、という虚構を作品の形にした小説では堀辰雄の「風立ちぬ」写真では荒木経惟の「センチメンタルな旅冬の旅」それに古屋誠一の「メモアール」あたりを思い浮かべるのです。なぜぼくがこのことにこだわりだしたのか、といえばこの子が古屋誠一さんの写真集を見ているからです。ぼくが解説できるようにこころの準備をしようとしているわけです。今日から9月、新しい月がはじまりました。

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司法試験で大学院の教授が教え子に問題を教えた、ということで話題になっています。昨日には教授の名前も公表されたところです。あほやなぁ、とぼくはつぶやいています。そんなのしたら、ばれたらあかんことぐらい知ってるやろ、なんていってあげても、教授の心情を憶測していくと、その心情がわかるといえば、叱られるかもしれないけれど、わかる気がしています。もう半世紀もまえの芥川賞に選ばれた柴田翔氏の「されどわれらが日々」のなかに書かれたF教授と前川和子だったかの関係を、思い起こしてしまったのです。詳細は控えますが、その小説のなかのエピソードを、最近、ふっと思い出してしまって、それは優子という名前だったと思っていたけれど、そうではなくて、和子という名前でした。うんうん、そういうこともあるんだ、とは思うけど虚構と現実を混同してはいけません。写真は、ぼくが高校三年のとき、九州へ修学旅行に行ったときの、そのころ、神戸から別府へ、何時間ぐらいかかっていたのか、関西汽船のデッキでの写真です。その小説を読んだのは、このころのこと、夏休みのことです。どっかで文学遍歴を書きたいと思いだしたけど、無駄なことかもしれません。

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今日は9月20日で彼岸の入りです。彼岸とは向こうの岸、あの世のことらしい。じゃこっちは、この世、煩悩の多い世界のことらしい。こっちとあっちの間には川が流れていて、その川を渡るのに釈迦さんは「六波羅蜜」を極めろと伝えたそうです。六波羅蜜とは六つのなにやらを悟ることらしい。法華宗の開祖日蓮は「南無妙法蓮華経」と唱えるだけで彼岸に渡れると説いたそうです。ええ、今日、秋季彼岸会施餓鬼法要というのがあって、そこで住職さんが法話してくださったというわけ。その話を、いまここに書いているというところです。なぜこんな話をここに書くのかという必然について触れておかなければいけないと思うんですが、特に必然性があるわけではない、とも思っています。今日あったことを日記にしておけば、記録として残り、のちのちには記憶としてよみがえってくることを、知っているからです。そう、煩悩の意味を引用してみます。
<〘仏〙 人間の心身の苦しみを生みだす精神のはたらき。肉体や心の欲望,他者への怒り,仮の実在への執着など。「三毒」「九十八随眠」「百八煩悩」「八万四千煩悩」などと分類され,これらを仏道の修行によって消滅させることによって悟りを開く。染(ぜん)。漏。結。暴流(ぼる)。使。塵労。随眠。垢。>
この煩悩なるものがぼくの心にあって、それを払い除けたいと思うから、このことを話題にしているようなのです。成熟しない恋はもう終わりにしなければいけません。この天の声に対して、ぼくは悩むわけです。煩悩を断ち切りたい、そう思うわけです。最近、かなり肉食が増えてきて、生きてる証拠をつかみたいと思う反面、つかんじゃダメだという声も幻聴します。いやはや、この世は煩悩でいっぱいじゃ!

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運動不足のせいなのか、からだが重くて痺れる感じがしてならない。運動をするとあとがだるくて筋肉痛になったり、腰痛になったり、気にしだすと、気になって仕方がなくなります。じっとしていてパソコンの画面ばかり見ているから、目が疲れて、目を閉じたくなります。頭が朦朧としてくるのは、酸素不足じゃないかと思ったりします。まあ、こうして体調の悪さを書いていても仕方がないけど、だんだんと年寄り身体になってきているのだと思う。若い身体が欲しい。もういざというときに役に立たない身体では、悲観しか立ち昇ってこない。万歩計は18歩を示しています。早朝からパソコンの前に座って、キーボードを操作して、マウスを操作して、外とつながっています。ブログ、フェースブック、記事を書いても、反応がないからやめようとおもうけれど、中毒みたいになっていて、止められない。

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我が心は石にあらず、という小説のタイトルが奇妙に気になりだして、いま、書架から手元に置きました。高橋和巳の小説です。なんか壊れていく主人公の知識人の話しだったか、と思いながら、うっすらと描かれた光景がよみがえってきます。何度か読み直した小説です。高橋和巳、昭和6年生まれとあります。1931年生まれだから、生きてられたら84才というところです。若くして逝かれた、たしか39才、まだぼくが大学に通っていたときのことで、彼と同僚の先生が西洋哲学かの講義で教壇にたたれたなかで、高橋の訃報を聞いたのでした。いやはや、「我が心は石にあらず」という小説、成熟しそうで成熟しなかった愛(恋)、ものがたりのなかにそんな場面があったよな、と思いだしたわけで、ふっとこの小説を思い出したというわけです。この気ままな日記も、そろそろ終わりにしようか、と思うところです。こころが折れてしまって、書いていくのが辛い。この10年の総決算で、成熟しなかった自分の構想に、別れを告げてもいいのかも知れないと、思う、今日、今、です。修正なしでアップします。

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最近は、文章を読む気力がなくなってきたなぁ、と思っています。小説とか評論とか、そんな硬い文章だけではなくてかなり軽い文章も、読まない。もともと、落ちついて読書にふけるといった性格ではないから、うわべだけ取り繕うといった感じで、蔵書はあるけど、読みこなしてないというのが実態です。ここで話題にしている書籍なんかは、読みこなしたほうだと思っているけど、それは自分でも定かでありません。目をあげると目の前の本棚の並んでいるのが、最後の画家たち(伊藤俊治)シュールリアリズム宣言★溶ける魚(アンドレ・ブルトン)我が心は石にあらず(高橋和巳)日本近代文学の起源(柄谷行人)狭き門(ジッド)面白い程よくわかる仏像の世界(田中義恭)この六冊です。シュールレアリズム宣言は、かなり前に文庫本で読んだような記憶があるけど、内容の細部は覚えていません。シュールリアリズムというキーワードが、最近、ぼくのなかにも浮上していて、おぼろげながらその領域・世界のイメージを抱いていたのを思い出し、そこからの脱却、お百姓、という自分の精神史のながれをつないでいるところです。自分には終わった感覚の領域ですが、ロマンリアルなノベルを書いている自分としては、それはシュールリアルな現象を綴っているようにも思えてきています。ちょっと小説を書くことも中休みしている感じのいまです。

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手元に「わが解体」という本があります。これを引き出してみて、写真に撮ってここに載せようとして、やっさもっさして、ようやく貼り付けることができました。なんで、いま、この本なの?という基本的なことから書かないといけないのかなぁと思って、書き出しますが、高橋和巳という作家の最後の著書ではなかったと記憶していますが、自分を解体する、わが内なる告発・・・・、なんて言葉に猛烈なノスタルジーを感じているのです。手元に置いてますが、1971年8月5日、子供が誕生した日、この本のなかに詩を書きとめてあるのです。いま、忘れかけていた感覚、解体という感覚がよみがえってきています。なんともいえない虚しいきもちが湧いてきています。文章を書く人間は、どんなときでも文章を書く努力をしなければいけません。それにのっとり、ぼくはここに文章を書いているわけです。お恥ずかしい話です。いま、自分を、あらためて、解体したいと思う気持ちが湧いてきています。これまであった恥ずべく自分を解体し、きたるべく自分のために、時を過ごしていかなければならない、なんて考え思っているわけです。陳腐な話しです。昨日、長澤氏と最近オープンしたという丸善へ行きました。先般亡くなられた鶴見俊輔氏のコーナーがあって、同志社の講義を受けに行ったよなぁ、と懐かしんでいたところでした。今朝、ぼくに変調がきたして、巡り巡ってこの文章になっています。わが解体、手元に置いて、少しばかり平常な気持ちになってきたように思います。色褪せた本を写真に撮って載せました。

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昨日、論を構成させていたブログを三つ、閉鎖しました。まだいくつものブログが残っていて、このブログも残っているひとつです。どうしたことなのだろう、認知症とかの症状がでてきたのだろうか。古希を迎えていて、話しに聞くとそういうことも多いらしい。論を形成しづらくなってきているぶん、イメージが旺盛で文字にしていくこともできている。読む人からみれば支離滅裂な文かも知れないが、自分の中では、描けているように思える、と思うのがきっと錯覚なのかも。この10年、大量の文章を書いてきて、ネット上に残っています。小説あり、雑文あり、まるで壮大な世界があるようにしたいとの野望もあって、そうしてきたわけだけど、結局、破たんに終わる、という結末です。あの世とこの世を行き来する心情とイメージ、これは夜と昼のイメージだ。竹取物語、かぐや姫があらわれる、その物語はしらないけれど、輝く姫が年寄りの目の前に現われる、アピアランス、おったまげて、眩しさに目をみはる。そんな光景がイメージの中にあらわれて、現実のものとなったと錯覚したとき、それは恋心、上を見て仰ぐ、天上の人、赤いセーターを着ていた、または紺色の、黒色の、白色の、ううっ、天使さま。そとが明るくなって、ディスカウが歌う曲が「鬼火」、そろそろぼくは立ちあがり、顔を洗いに降りましょう。