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最新更新日 2018.9.7
美術・写真・映像・音楽・文学
中川繁夫:著

 美術・写真・映像・音楽・文学blogに連載の文章

写真とは何か

 1~4 2017.1.3~2018.8.17

  

-1-
はじめに
これまでにも幾度か<写真とは何か>と問いかけ、論を重ねてきたところです。にもかかわらず、明確な答えが出せないまま、おぼろげに写真というものの、その外形が語られたかと思うところです。あらためて、ここに写真とは何かという枠組みで、論を形成していこうと思うところです。写真というものの定義からはじめて、さまざまな側面から論じていく、という流れになろうかと思います。制作技術的な側面、カメラ機材の側面、それから撮られる内容について、つまりは写真を撮る行為の核心を明らかにしていきたいと思うのです。

写真そのものの歴史は、年月的には、写真の発明とされた1839年から180年ほどが過ぎたところです。ところが、その後、写真というものの内容を論じようとすると、その前史としての絵画史を紐解かなくてはならないだろうし、絵画史を紐解くためには、文学や哲学の領域を念頭におかなくてはならないだろう。そのように枠をひろげていくと、際限なく写真という目に見える形としての像を定着させたモノを、どのように捉えればよういのかという考察の対象に向かっていくように思えます。なので、どこで区切るかということが、その時々に生じてきます。

論を完全な形でまとめられるはずもなく、いくつかの論を、群としてまとめる。そのまとめを作り出すことで、その総体が浮かび上がってくるのではないか。この予測は、まったく一般論でしかないのだけれど、そこに準拠して、入り口をマトリクス化し、その個々から内部へ入っていくことになるのではないか。また、ここに描かれる個々の論がマトリクス化され、立体化され、見えなかった処が見えだして、全体が新しい見方につながっていくこと。ここから書き進められる<写真への覚書>と題した文章が、写真という表現の方法を、共存する社会のなかで意味づけるものでありたいと思うところです。

-2-
<論-1->
写真について論を立てようと思って、この枠組みを作ったところですが、なにをどのように、という回路が組み立てられなくて、しばらく放置したままでした。なるべくやさしく、わかりやすいように書こうと思っているところですが、やっぱり難しい感じがします。というのも、技術的側面を現状に合わせてなぞっていく内容だと、それはそれなりにわかりやすく論じられるように思えます。でも、ここで論を立てようと思うところは、写真とは何か。これはやっぱり漠然としていて、どこからつついていけばいいのか、入り口をどこにするのか、などなど思うところが多いから書きだしてこれなかったと思っています。

たわ言、戯れ言、独りよがり論、そのようになっていく可能性があるのは、論拠の底辺を揺らめかせて書こうと思うからかもしれません。予定調和的に、こうあるべきだから、このように書いて、思うような枠組みを作っていく。論というのはおおむねこのような枠組みだと思っていますが、あえて、その枠組み崩しができないかと思っているわけです。写真って、カメラが必要じゃないですか。としたら、カメラを使わなかったら写真という代物が成立しないのか、というようなことを論立てていけたらいいな、と思うわけです。これは無謀な試みというより、論にならないのかも知れません。

でも、やっぱり、写真の定義からやっていかないといけないようなので、写真というモノの有る姿としての枠組みを作っていきます。写真は、おおむねカメラ装置を使って制作するモノです。カメラとはカメラオブスクラ、カメラルシダ、ロランバルトには後者のカメラルシダですかね、明るい部屋と訳された論書があります。この論を書く背後には、ちらちらとその論書のことを意識してしまいます。どうして、ロランバルトの写真論が気になるのかといえば、ぼくは影響を受けていると思うからです。文献を見ないで書いているのでおぼろげですが、それは1980年頃に書かれた論だと思うんです。それから写真をとりまく環境が大きく変わっていると認定します。フィルムからデジタルに移行しているし、カメラはスマートフォーンに内在されていて、そこまで含めるなら、カメラを扱う人の数がめちゃくちゃ多くなっているのが現状でしょう。

-3-
 写真の定義をする、といいながらそれらしき論を立てていますが、いまひとつピンとこない感じがしています。これは「写真」という枠が大きすぎて広すぎて、何を枠組みとして書くのか、という各論を組み立てていくことに他ならないと思うところです。風景写真とか肖像写真とか記録写真とか、写真の前に単語をつけることで、かなりの限定ができます。いわゆるジャンル分けすればいい、ということかも知れないんです。でも、ジャンルに分けて論じることへの是非についていえば、1980年代にロラン・バルトによって、このジャンル分けへの無意味さが明らかにされたと考えています。でも、それからかなりの年月が経っていて、いま、あらためて「写真とは何か」と問うことは、ジャンルというか内容が持つ質の分類によって、各論を組み立てれば、全体像が明らかにされていくのではないか、と推定しています。

 というより、そもそも「写真とは何か」と大上段に構えて論じることにこそ現代的な問題があって、それは技術の説明であったり、画像処理の説明であったり、撮られた現場の話であったり、そういうレベルでいいのではないか。たとえば、インスタといえばインスタグラムというSNSの枠組みで画像を交換できるサイトで、アップされる画像は、ひとつひとつへの吟味は必要ないのかも知れません。ハートをぽつんと印すれば、見ました、良いです、との合図になり、お互いに感覚を交換できる仕組みです。まるで恋文のような感覚で、楽しむことができる。そういう時代になっているんだと思えます。だから、あえて、写真とは何か、なんて論の立て方は過去のもので、もはや化石に近い、とでも言えそうです。

 でも、やっぱり、気になるんですよね、写真とは何か、ここでは何をもって写真とするのか、という視点の逆転によっても言葉化していかないといけませんね。「写真」って文字がややこしいんです。いまや「静止画」という言い方の方が分かりやすいかもしれません。動画に対して静止画です。動画には、イメージと音声が合わされているのが通例で、イメージは静止画の連続したモノです。逆に言えば動画のイメージを切り取ったものが静止画=写真、ということになりはしませんか。でも、これは在り方の問題であって、静止したイメージの画像を、物理的な制作方法によって作られ、分類されたにすぎません。そうそう、イメージの指し示す意味について考える、これが必要でしょう。でもやっぱり、「意味」とは何、っていう問題が立ち現れてきます。意味とは何か、いやはや、ややこしくなってきますね。

-4-
写真への覚書
再びカメラを持って写真を撮ろうとして、何を撮るか、ということが自分の中で問題となるのは、2006年頃だったと記憶しています。かなり遠くから帰ってきた感覚で、1984年以来だから20数年ぶりにデジタルカメラを手にしたのでした。何を撮るのか、泥沼のような釜ヶ崎へもう一度行くなんてことは考えられなくて、自然風物、生命の起源、なんて命題をもっていて、末裔として自分存在にいたってくる原点をまとめてみようと思うに至ったのです。痕跡シリーズと名付けて、太陽と海と地表の光景。空、海、地、という写真集にまとめるのは2012年のことでした。
 ここに連載した写真は、限定五部の写真集にした元データーです。別のアルバムにも載せていて、ネットで見られるようにしてあります。というより、発表の仕方について、デジタルカメラで撮ったデーターはデジタルデーターです。基本的に紙媒体にするのはフィルムで撮った写真、という固守があって、印刷物にはしませんでした。ところが井上さんという編集をしてくれる方に巡り合って、小部数出版ができるようになっていて、彼女に編集を委ねることにしたのでした。そうして完成したのが、空海地の三部作でした。ほかに自然物三種、文化背景の作品六種、合わせてその年、12冊を刊行したのです。