むくむくアーカイブス 中川繁夫履歴書

最新更新日 2018.11.20










































































































































































































































































































































































































































中川繁夫の履歴書

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中川繁夫HP







     中川繁夫履歴書

                   1946〜2014


     
            2008.8.24 ・DOT


☆活動履歴(1)

1946年、京都市中京区壬生の和漢薬を営む家に生まれ6歳まで居住、その後西陣の端っこに家族とともに移り住み現在まで56年間主たる居住としています。


1963年〜1964年、高校時代に個人詩集を編集発行する。

1968年〜1974年、大学時代に同人誌「反鎮魂」に参加し小説を発表する。

1979年8月、釜ヶ崎三角公園で「青空写真展」を実行する (1980年にも実行)

1979年12月、「季刊釜ヶ崎」の編集に携わり写真レポートを執筆する (12号まで)

1980年4月、京都河原町蛸薬師にフリースペース「聖家族」を創出し企画運営する(1981年8月まで)

1982年、大阪長堀橋に写真と映像空間「ザ・フォーラム」を創出し 企画参加する(1983年まで)

1982年、図書館に写真集を!運動に企画参加する

1984年、京都に「フォトハウス」を設立し写真ワークショップを 多数主宰する

1992年、「写真図書館」館長に就任する

1994年、「大阪ビジュアルコミュニケーション専門学校」(現:日本写真映像専門学校)に副校長として就任(1996.3まで)

1996年、「インターメディウム研究所」事務局長に就任する

2001年、綜合文化研究所の設立企画書原案を作成する

2002年、フリーの編集者として独立し綜合文化研究所の設立を計画する 

2004年、綜合文化研究所を設立(2004.4.28)その一環として「通信制あい写真学校」「写真ワークショップ京都」を開校する


活動履歴(2)

中川繁夫の作家活動としてはつぎの3つに分類できます。

☆文学評論、詩、小説、エッセイ

☆写真評論

☆写真作品

本人自身は、作家というよりも実践家(アクティビスト)だと思っております。

2004年6月現在は、主な発表媒体をインターネット上に移し、
生活エッセイ、写真発表、写真評論などをおこなっております。

☆生活履歴

1962年 高校生となりました(嵯峨野高等学校) 高校2年のとき生徒から年間120円を集めてブラスバンド部を創設しました。同年、個人詩集「そなちね」を3号まで発行したんです(定価5円)。高校時代は思想的には地域の影響もあったのでしょうね赤旗の熱心な?読者だった(笑)

1965年 経済的その他の理由で大学進学を断念し、ピアノ調律師を志望して十字屋楽器店技術部に就職しましたが、ヤマハ・エレクトーンが世に出た頃で、ヤマハが発行する技術者証明書第3号のエレクトーン修理技術者となりました(1967年末まで)。

1968年 遅れてきた大学生となりました。早稲田の演劇を志望していましたが不合格、立命館大学文学部人文学科に入学できました。入学と同時期にフランス5月革命がおこり日本では各地で大学封鎖がおこなわれました。セクトには所属しませんでしたがフロント系の思想に近かったかなと思っています。セクトのデモにも参加しましたが、主にはべ平連のデモに参加しましたね。
セクトのデモ隊列に入るときは正直いって怖かったな〜、機動隊にサンドイッチにされて殴られたり蹴られたりむちゃくちゃやったからね。

1969年 東京生活。作家を目指していたんで有信堂という出版者に就職が決まって、大学に休学届け出しました。東大赤門前に会社があったので近くの本郷何丁目だったかな〜に10ヶ月ほど住んでました。東大闘争の陥落、国際反戦デー新宿騒乱の現場近くにいました。(主体とはならなかった)

1970年 京都に戻り大学に復学しましたが学生身分で結婚、郵便局アルバイトから事務員、事務官となって24年間、段階的に昇進し、単身赴任を含め管理職を3期務めました。1994年3月退職まで基本的生活資金はここから調達しました。

1974年 公務員生活と家族を養いながら文学研究や小説を書いていましたが、この頃から小説家への道をあきらめてはじめ、写真を撮りだしました。

1994年 郵政省を退職し専門学校副校長になり給与をもらいました。

1996年 インターメディウム研究所設立に参加し事務局長として6年間給与として役員報酬をもらいました。

2002年6月 インターメディウム研究所退職、フリー宣言。

2004年10月 写真ワークショップ京都を開校。

   
       
京都写真学校/写真ワークショップ京都 2008.4

2007年4月 京都写真学校に改称。

2008年4月 京都写真学校(旧写真ワークショップ京都)第四期を迎える。

2009年4月 京都写真学校(旧写真ワークショップ京都)第五期を迎える。

2010年4月 京都写真学校第六期を迎える。

2011年4月 京都写真学校第七期を迎える。


生活手段としての仕事1965年〜1994年

1965年3月、高校卒業と同時に「十字屋楽器店」に就職しました。
ここでエレクトーンの修理調整を仕事としました。初任給1万5千円だったと記憶しています。大学進学のため1967年3月に退職し、1969年まではフリーター。
1968年から1969年にかけて出版社に籍をおいたのち、1970年京都に戻った中川は郵便局のアルバイトに就きました。
1970年に事務官として採用されましたが、そのときまで郵便局員が国家公務員とは知らなかったのです。それから24年少しの間、郵政省職員で貯金の仕事をしました。
現場上がりでは昇進も早く、1989年に管理職となりました。単身赴任地は海軍の街「舞鶴」でした。そして1994年退職いたしました。
1994年4月、大阪ビジュアルコミュニケーション専門学校の副校長に転職。写真の専門学校の仕事先を紹介されたので、飛んでみたんです。
1996年4月、インターメディウム研究所設立に参加、株式会社組織に移行するなか取締役事務局長に就任しました。
2002年7月、フリー宣言。生活手段はフリーターにもなってないです(笑)
2004年7月現在、写真学校の立ち上げ計画の傍ら、文筆と写真と百姓を営んでおりまして、まだ生活手段にはなっていません。

音楽の時代1960年〜1967年

1960年に中学生となった中川はブラスバンド部に入り3年間を過ごしました。
中学3年時には京都の市中パレード時には先頭指揮者として活躍しました。

1963年、高校生時代にはブラスバンド部を創部しリーダーとして活躍しました。
作曲家または指揮者になる夢をいだき、ひそかにピアノのレッスンを始めました。

高校卒業後十字屋楽器店に入社しヤマハのメンバーらと演奏グループを結成しました。ピアノに魅かれて毎日夕方から9時ごろまでピアノ練習を続けており、そうですね、ジャズピアニストになれたらいいな〜って思っていました。

しかし1967年ごろから文学に傾斜しはじめ大学は文学部ときめて演劇および小説の世界にあこがれました。1986年立命館大学人文学科に入学しました。

文学の時代1968年〜1975年

遅れて大学生になった1968年は激動の年でした。小説家をめざす中川は精力的に原稿用紙に向かいました。

京都で学生運動の一端に参加して大学封鎖や内ゲバの現場や機動隊の学内突入や解放区闘争といった道路封鎖の現場に居合わせました。

その年の秋に「有信堂」という法律書関係の出版社へ入社し、1969年早々から東京生活がはじまりました。1969.10.21の国際反戦デーは、明治公園から飯田橋へのデモに参加しました。ベ平連のデモ隊だったと記憶しています。
1969年11月、東京に残留するか京都に戻るかの判断に迫られましたが、京都へ戻りました。

1970年は大阪万博でこの4月に結婚し、大学に復学し、再び小説を書き始め、友人たちと同人誌を発行しはじめました。
同人誌の名前は「反鎮魂」、毎週日曜日の午後には読書会が開催されていました。河原町今出川の喫茶店が開催場所でした。

友人と漱石研究会なるものをつくり少しは夏目漱石の研究もやったような記憶があります。
高橋和巳が癌で亡くなったことを知ったのは、大学の文学講義を受講中でした。
卒業論文レポートは「私小説批判・太宰治論」だったと思います。

カメラをもったのと文学から離れていくのと、クロスオーバーしながら1976年には写真の領域に立っていました。

映像情報編集室と季刊釜ヶ崎編集部

1979年8月に釜ヶ崎の三角公園で青空写真展を開催したころから、釜ヶ崎の現状を内部からの情報発信として「季刊釜ヶ崎」の創刊企画を計画しました。
現地で活動している稲垣浩氏が発行人となり、季刊釜ヶ崎が1979年12月創刊されました。

中川は1979年12月、京都河原町にあった飲み屋「聖家族」で個展を開催するなかから、聖家族の壁面を写真展に、空間をイベントにつかう企画を進めることになりました。フリースペース聖家族通信を発行しはじめ、壁面と空間が機能しはじめましたが、1980年8月には閉鎖をよぎなくされてしましました。

フリースペース聖家族通信を改組して「映像情報」を発刊しました。第一号は釜ヶ崎解放会館の輪転機を使って制作・発行しました。
映像情報は写真と文化の情報誌として、写真論や写真掲載を中心に発行しました。既存メディアではないメディアを創出することで別のイメージ創造を図る目的がありました。

1980年から1984年までのおよそ5年間の仕事でした。
季刊釜ヶ崎全10巻、映像情報全12巻を発行しました。

写真の時代1975年〜1984年

小説家をめざしていた中川が写真に転向しはじめるのが1975年ごろでした。
朝日新聞の社告で全日本写真連盟の会員募集があったので参加しました。
そこが企画する撮影会等に参加していくうちに、光影会(京都シュピーゲル)の会員になりました。
1978年秋、大阪・釜ヶ崎取材をはじめだしました。
1979年8月、釜ヶ崎三角公園で青空写真展を開催しました。
1979年12月、「季刊釜ヶ崎」編集に携わりました。
1979年12月、京都河原町の聖家族で個展を開催しました。
1980年4月、「フリースペース聖家族」を設立し、写真展企画を行いました。
1980年8月、「映像情報」創刊号を発刊しました。
1981年には、舞踏集団「白虎社」の写真取材をはじめました。
1984年3月、写真撮影を休止しました。

フォトハウス京都の時代1984年〜1992年

1984年11月、フォトハウスの設立企画を発表しました。
1985年夏に最初の写真ワークショップとして「ゾーンシステム講座開催を写真家・里博文氏と共に手がけて、わが国最初の公開講座を実現させました。
その後も、写真のオリジナルプリント制作技術を中心とするワークショップを開催してきました。
1988年には自宅を開放し宿泊のできる「ワークショップルーム」と「フォトハウス京都資料室」をオープンさせました。

写真図書館館長の時代1992年〜1996年

写真図書館は1992年10月、畑祥雄氏と共同で大阪・南森町にオープンさせました。
オープン時に、フォトハウス京都資料室に収蔵していた約3000点の写真関係書籍(写真集や評論集)をこの写真図書館に寄託しました。
その後、大阪市・中津の教文研ビルに移転し、二度目の移転、大阪南港のWTCビル移転までの5年間、館長として写真図書館の運営に携わりました。

インターメディウム研究所の時代1996年〜2002年

デジタル時代のバウハウスを標榜してスタートしたインターメディウム研究所(IMI)の発起人に名を連ね、取締役事務局長に就任しました。
新しいアート環境について、理論と実践の両方から学習させていただいたと思っています。
2000年ごろには、綜合文化研究所の主要コンセプトにあたる個人自立の内容、個人における「アート活動」と「食の生産活動」の並行展開の図式を考えはじめていました。

綜合文化研究所の企画設立の時代2002年〜現在

☆2002年6月会社組織の一員としての仕事に終止符をうってフリー宣言をいたしました。

☆綜合文化研究所の設立企画の原形となる「フリースクール」構想や「カフェ&プレス」構想の原案が2001年8月にはまとまり、フリー宣言以降、2003年7月まで構想をあたためておりました。

☆その間、2002年10月から写真学校のカリキュラム開発をおこない、2003年4月から1年制の綜合表現コースの運営をはじめました。

☆2003年7月には、デジタル時代にふさわしい通信制写真学校の企画をつくりだし、通信制の写真学校のプログラムとカリキュラムの制作にとりかかりました。

☆2004年1月、通信制「あい写真学校」の設立を決定し、4月28日に開校しました。

☆綜合文化研究所を2004年4月28日に設立し、同日、WEB出版社「むくむく通信社」を設立しました。

☆「あい写真学校&綜合文化研究所」、「写真学校フォトハウス京都」、「あい写真学校」「あい文学校」「あい農学校」の日録ホームページを置きました。

☆2004年3月、写真学校「写真ワークショップ京都」を設立準備にはいり、2004年10月10日開校し、メインディテクターに就任。

☆2004.7月から、ブログHPに文学作品を発表しはじめました。


個展

1979年 
 ・青空写真展・釜ヶ崎 於:釜ヶ崎・三角公園
 ・ドキュメント・釜ヶ崎 於:京都河原町・聖家族

1980年 
・ドキュメント・釜ヶ崎-2- 於:京都河原町・聖家族

1982年 
・無名碑 於:ザ・フォーラム
・ドキュメント釜ヶ崎 於:ザ・フォーラム&ギャラリー有
・NISIJIN 82  於:マイ・トレーヤー

1983年 
・ドキュメント釜ヶ崎 於:京都写真壁

2003年 
・webギャラリーを開設し写真を発表し始める。

2004年 
・キャノン、ニコン、ヤフー等にwebギャラリーにおいて
 「痕跡シリーズ」、「山の生活シリーズ」などを発表中
 ・ホームページ上においたギャラリーに
 写真&文章「花物語」を発表

2008年〜
ホームページにて<写真集「京都」>を制作中

2010年〜
ホームページにて<写真集「はな」>を制作中


巡回写真展「釜ヶ崎」

1980年 第一期巡回写真展開催会場
      ・釜ヶ崎・希望の家
      ・大阪・西成教会
      ・京都・宇治教会
      ・東京・青山教会
      ・京都YWCA
      ・立命館大学学園祭
      ・大阪・中の島公会堂


1981年〜1984年 第二次巡回写真展開催会場
      ・大阪・北千里公民館
      ・釜ヶ崎・三角公園
      ・大阪・ザ・フォーラム
      ・大阪・ギャラリー有
      ・京都写真壁
      ・広島女学院大学

1985年以降は稲垣浩氏に保管・展示を依頼し現在も続行中。

      
            2008.4.27釜ヶ崎写真展会場

2008年4月27日 RENTAI FESTA 2008 にて展示しました

   

2009年4月26日 RENTAI FESTA 2009 にて編集&展示しました

  

2010年4月25日 RENTAI FESTA 2010 にて展示しました

  

2011年4月24日 RENTAI FESTA 2011 にて展示しました

  

2013年4月28日 RENTAI FESTA 2013 にて展示しました

  

グループ展

1976年〜1982年
関西二科会 全日本写真連盟 光影会に在籍し、写真コンテストや月例でいろいろ受賞しましたが、1982年までにグループを退会し、以後は個展と出版を中心に展開しました。

1981年 私設「写真の日」展に「無名碑」出品
          (京都・象画廊)

1984年3月 写真の現在展’84に「釜ヶ崎」出品
          (大阪府立現代美術センター)

2009年5月 フォトコンプレックスT展に<着物>発表。
          (ギャラリー・DOT)

2010年4月 フォトコンプレックスU展に<さくら>発表。
          (ギャラリー・DOT)

2011年4月 フォトコンプレックスV展に<花華>発表。
          (ギャラリー・DOT)

2012年5月 フォトコンプレックW展に<祭の神輿>発表。
          (ギャラリー・DOT)

2013年4月 フォトコンプレックスX展に<痕跡>発表。
          (ギャラリー・DOT)

写真評論

1979年 ・釜ヶ崎’79・夏-写真展とその空間
             (季刊釜ヶ崎創刊号)
        ・いま、写真行為とは何か。
      ・釜ヶ崎からの報告−越冬-
      ・映像の氾濫-日常の光景へ-
      ・ある労働者の死 1979・6・20
      ・釜ヶ崎・夏 日替写真展について
 
1980年 ・私風景論(映像情報連載)
      ・釜ヶ崎’80・冬-いま、写真行為とは何か-1-
            (季刊釜ヶ崎)
      ・釜ヶ崎’80・春-いま、写真行為とは何か-2-
            (季刊釜ヶ崎)
      ・浜本雅さんの個人史(季刊釜ヶ崎)

1981年 ・ドヤ(季刊釜ヶ崎)
      ・1981・6・4の記録(季刊釜ヶ崎)
      ・江成常夫・花嫁のアメリカ/その方法と成立
                     (映像情報2号)
      ・土田ヒロミ論(映像情報3号)
      ・写真集「マザー・テレサとその姉妹たち」論
                     (映像情報4号)
      ・記録とは何か<一枚の写真から>
                     (映像情報5号)
      ・写真・映画・ビデオ論
                 (映像情報6号〜8号)
      ・大阪日記・釜ヶ崎取材メモ
                (映像情報4号〜12号)
      ・評論集・いま、写真行為とは何か
                  (映像情報編集室)

1982年 ・1981年8月22日の記録(季刊釜ヶ崎)
      ・労働現場から(季刊釜ヶ崎)
      ・東松照明論(映像情報9号)

1983年 ・釜ヶ崎物語-あるいは写真行為論-1-
                    (季刊釜ヶ崎)
      ・夢幻舞台-あるいはわが風土-
                (映像情報編集室)

1984年 ・釜ヶ崎物語-あるいは写真行為論-2-
               (季刊釜ヶ崎第10号)
      ・現代写真の視座1984(限定版)
 
1994年 ・写真への手紙 覚書第一部(限定版)

2004年 ・ホームページに写真&文章「花物語」を発表
      ・webサイトに写真論、綜合文化論を発表中


  
2004.6.6〜2010.6.12 nakagawa shigeo