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最新更新日 2016.2.19
気儘日記
中川繁夫:著


 
気儘日記-1-

 1~13 2015.8.1~2015.10.31

    

-1-

むかし小説を書こうとしていたころ、気儘、という漢字を使っていた記憶があります。
1960年代の後半のことで半世紀前のことです。
その当時に書いていた原稿用紙は、現在、手元にはありません。
家を建てるときに整理して出してしまったと思っています。
現在、手元にある原稿用紙の束は、新しい家になってからのものしかありません。
一部大学の論文用紙を使っていたり、コクヨのあの罫線が茶色の400字詰原稿用紙があります。
昨年からブログ公開で小説を書いて、半年にひとつ仕上げようとしています。
ただいま四つ目、ということになっています。
プルーストの「失われた時を求めて」のイメージで、ぼくの文章全体が一つになる。
アダルトもふくめ、文学研究、小説実践、あれやこれやで10年ほどです。
ぼくはただいま古希の年だといっています、数え年70才のことです。
書き流し、構成なし、流れるがまま、書き進めていくスタイルに挑戦しています。
ネット時代のネット配信の小説とエッセイ、軽いのがいいようですね。
それがこの夏は別件用事で、パソコンに向かえないので休筆状態です。
このあと再開しようと思っているけれど、気持ちが乗れるかどうかです。
ここは、あまり人が来ない処なので、むしろ本音を書いてもいいのかな。
歳をとるにつれて気分はエロスのほうへ、と向かっているようです。

-2-

かってドストエフスキーが書いた小説に「悪霊」がありました。
それにもうひとつ「罪と罰」という小説もありました。
まだ革命前のロシアの時代の小説家です。
ぼくは「貧しき人々」、これは短編の部類だから、何度か読みました。
フランスではボードレールが「悪の華」という、これは詩集でしたね。
十九世紀半ばのころだったように記憶していますが、どうだったか。
小説や詩集ではないけど、ベルメールの人形は二十世紀ですね。
ぼくのなかでは、いずれも反権力、としてとらえています。
閻魔さま、なにを大それたことを企てているんだ、なんて言わないでください。
地獄へ行けとおっしゃるなら、それでも構いませんが、この世の悪は「善」です。
この場合、悪は、悪徳ではなくて、権力に背く者、その行為、反権力のこと。
人々をけらけら笑かして、性欲の極みへと導けるかどうか、真の芸術です。
真の芸術は、反権力で、欲望の極みで、体制を突き崩していくものでしょう。
いやいや、なにを真剣ぶって書いてるんだ、そんなんじゃないでしょ、と言っています。
もっとべたに、助べえなだけなんじゃないの、ねぇ、メープルソープさん!

-3- 2015.9.4

涼しくなって朝、あれこれと思索らしきものをめぐらしています。
気にかかってくることを、解明していくとする前向き思考のようです。
数日前から気にかかっているのは、アンドレ・ジッドの「狭き門」です。
書棚から文庫本を取りだして、年表と解説を拾い読み、そうして本文へ。
もう十数年前に読んだ記憶でしたが2002年8月に読んだと記しています。
そうかそうか、そのころの記憶をたどって、そうしていま、つながってると思う。
この小説の内容は、亡くなってしまうアリサという女性が主人公かな。
この世の男子ジェロームを想いながら、信仰に向かう狭き門。
ジェロームはアリサの死後、自分と神とのあいだで、悩んでいたことを知る。
発表されたのは1902年(明治42年)、ジッド40才、というから漱石の頃。
もう100年以上の前のこと、フランス文学のなかの小説ですか。
ぼくの興味は、アリサとジェロームの関係、ということですが。
その小説中の背景、時間、物語の語り口、等々、構成にかかる部分。
信仰ということでいえば、ジッドはむしろ反逆者のような気がしますが。
ともあれ、古屋誠一氏の「メモワール・・・・」を解釈するための、周辺固め。
ぼくの知識のなさが、悔やまれる。
かっこよくいえば、日本文学のむこうに、フランス文学を置いていた学生時代。
フローベル、ボードレール、サルトル、カミュ、等々、それなりに本を揃えました。
こんなこと書いていたら、まるで知識家みたいにかいているけど、まったくでたらめ。
まあ、いまや、本の名前や、人物の名前を知ってる、といった知識だけです。
でも、ぼくが整理したいのは、その心のありかた、今にどう引き継ぐか、です。
構造的にとらえて、情緒を、時代の中で共有したいと思っているようなのです。
なんかしら、文字で書くと格好いいけど、内心めためたです。
ああ、この世の出来事、こころが、うっとり、潤んできちゃいます。

-4-

どこで手に入れたイメージだったかの記憶は曖昧ですが。
突然にこの写真と文字がぼくのパソコンのなかから見つかったのです。
だれやらがポーランドへ行きたいと言ったから、ですが。
偶然にもこの写真が撮られた現場は、1939年のポーランド国内のようです。
ドイツの独裁者ヒトラーが率いるナチスが侵入し、市民を吊るし首にした、という。
ぼくはこの目で現場を見た訳ではないが、説明を読むと、そのようなのです。
ぼくは、ポーランドへ、行ったことはありません。
ポーランドを含め東欧諸国へ旅したい欲求はありましたが、実現していません。
ぼくのイメージのなかに、揺れ動いた東欧諸国があり、その現場に立ちたかった。
ポーランドを旅したいと言ったひとの言葉の背景になにがあるのかを知りたい。
それはその国の歴史をふまえたなかから出てきた言葉なのかも知れないから。
それにしても、揺れ動く国際情勢に、日本国も揺れ動こうとしているわけです。
為政者の、その実利的な気持ちが、わからなくはないと思いますよ。
権力者が傲慢であっても、民衆が犠牲にならなければいいんですが。
やっぱり戦争は悲惨です。

 

-5-

庭の彼岸花が満開なので、先ほど写真に撮りました。
秋海棠の花も咲いているので、これも写真に撮りました。
撮ったイメージは、まだカメラの中に収められたままです。
朝から、メールを送って、ブログを更新しています。
この気儘日記は、昨日、記事アップしていて、今日、再びです。
昨日は、ヘビーな気持ちになって、暗いイメージを載せてしまいました。
少しどころか大いに反省して、なるべく主張を避けて通る文章にします。
もともと文章を書くことが好きだったから、文章が主になります。
現在、ネットを使うかぎり、文章は読まれなくて、見られるのは画像でしょう。
記事にはかならず画像をつけることにしています。
ここにつけた画像、彼岸花は昨年に撮った画像です。
毎年、同じ頃には同じような写真を撮っていることがわかります。
あんましパッとしないなぁ、そんな気がしています。

 

-6-

天から降りてこられた天女さま、といったように感じられたお人です。
人という字、一画とに二画のうち、一画めが自分としたらそのお人は二画め。
そんなイメージでその人を認知しているけれど、そのお人には迷惑なはなしかも。
幻想といえばいいか、妄想といえばいいのか、一画めの勝手な思い込みでしょう。
でも、まあ、人には、同行者必要な気持ちが、よくわかります。
おの同行者は、知りすぎると現実のすがたを表わしてくるから、秘密あるところがいい。
でも、まあ、その秘密をあばいて、現実に降りてくれるようにお願いしてる。
夢のなかでの話で、幻ですが、それはそれは美しいお顔立ちなのです。
そのお顔立ちを写真に撮らせていただけないのは、やっぱり天女さまだからか。
この世で、狐につままれる、こころが奪われてしまう、狐に憑かれる。
こんな現象が起こっています。

-7- 2015.10.2

秋風が吹いてきて、半袖シャツでいると肌寒いです。
隙間風、こころのなかへこの隙間風が入りこんできます。
自作自演の劇が終わった感じで、喪失感に襲われています。
行く場所がない、いる場所がない、自分を見失いそう。
釜ヶ崎へ行く、解放会館に入る。
釜ソニが始まりつつある。
昨年、取材したが、今年は行かない。
何を撮ろうか、インストグラムで身の回りを撮ろうか。
auでスマホを契約して、使いだした矢先です。
このツールを使ってできること、それに慣れようと思う。
でも、むなしい気持ちに見舞われる、なんだ、これは?
もう、終わろうと思うが、終れない、未練が残る。

-8- 2015.10.13

気持が揺らいで、萎えて、消えてしまいそうな感覚です。
それなのに、この気儘日記のページを開きました。
こころが癒されるわけがない、いや、癒されるかも知れない。
今しがた郵便局まで所用ででかけました。
青空、抜けるような秋晴れ、すがすがしい風。
密室の作業はやめにして、そのまま、脳天気でいたい。
なのに、行く当てなく、自宅に戻って、ふたたびパソコン。
ああ、もういやだ、と思っても、時間をすごさなければいけない。
このあとは、11:45に診療所で特定健康診査を受診します。
午後からは細見美術館へ乾山を見に行く予定です。
こころが晴れない、隠れたい。

-9-

身の回りの整理をしなくちゃと思い、整理し始める。
といっても未練のかたまりだから、そんなにできない。
でも、やらなくちゃいけないと思って、ブログを2つ削除した。
こころのなかの記憶も削除しなくちゃいけない。
内面の劇なんて、だれにもわからないところの劇です。
その劇の幕が上がって、幕を降ろすことを決断したわけで。
もう後戻りはいけません、決断した事は、通さなければいけない。
すこし気を落ちつけようと思う。
劇が終わっていって、余韻が覚めて、思い出となるまでの時。
耐えるしかない、そのうち、楽になってくると思う。

-10- 2015.10.19

とはいえ、消したブログは。ここにあったブログを二つ、論理を展開していたブログでした。
気持の整理といっても、そんなに簡単ではないほどに、心深くに絡まっています。
整理しようと思って、あらためて。その深さに、たじろいでしまう。
なにごとも起こっていなかったから、なにごとでもない話です。
世の中には、まったく関係のない、縁のない、ぼく個人の内面のことです。
なんでしょう、「情」というものが絡んでくるから、これが深さになる。
立ち入ってはいけない情の中へと入りこみはじめたから、封印しなくちゃ。
そう思うと思うほど、あっちとこっちとの綱引きが始まるわけです。
風景を淡々と眺めておればよいものを、そこに内面が絡んでしまった。
まあ、小説の筋書きとしては成立しても、内面に抱えたのでは、小説にならない。
ああ、これは、フィクション、私小説、現在進行形の私小説の文体です。

-11-

アイフォン、iphoneと表記すればいいんでしょうけど、カタカナ表記にします。
単純に、キーボードから打ち込みにくいから、です。
このアイフォンを使い始めてまもなく一ヶ月になります。
多機能のうち、数機能しか使っていないけど、これでよろしい。
でも、使おうと思って手に入れたのに、そのもくろみは破綻です。
物事の初めと終わりって、そういうものだ。
アイフォン、あと数日でバージョンアップするというのに、旧バージョン。
前々のバージョンパソコンをエディオンへ持って行って処分してもらった。
今使っているのも、ウインドウズ10にバージョンアップする予定です。
環境も気持ちの一新して、残りの年月につなげていきたい。
ただいま、気分が少し落ち着いています。

-12-

人間の感情なんて自由にコントロールできないじゃないですか。
おそらくこの感情の種類も中身も、千差万別、いろいろあるんじゃないか。
ぼくなんかは、どちらかというと、本質、暗いタイプで、欝的かも、と思う。
他人の感情は推測ですけど、この感情が合う、合わない、があるのかな。
よくわからないですが、合う、合わない、っていったいどうゆうことなのか。
よくわからないまま古希まできてしまいました。
情、情動、感情、なにかしら、身体の生理活動と一体のものですね。
慟哭とか、嘆きとか、遠吠えとか、理屈ではないですよね。
手業による表現の奥には、こういう情が流れているのですね。

-13- 2015.10.31

10月の末日、土曜日、図書館へ出勤前の少しの時間が、ここにあります。
この気儘日記を、まだ残しているけど、どうしようかと迷っています。
この10年余り培ってきたことをいったんリセットしようかとも思うのです。
生きるための方法論が、変ってきていて、このままでは対処できない。
そのように思って、混沌の中で、どうしようかと思い悩むのです。
そんなこと、たいしたことじゃない、どうでもいいことだよ!
なんて思ったりもするけれど、不惑どころか古希を迎えた今です。
初々しい16才の少年のような感覚がよみがえってきているみたい。
世の中にいることの不安、人との対応のしかたに困惑、みたいな。
恋心とでもいえそうな、そんな気持ちもなくはない、秋の日です。
明日はもう11月、区切りといえば区切りなのか、なにか変化をつけなくちゃ。