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最新更新日 2014.10.4
釜ヶ崎物語 1979~1983
中川繁夫:著


季刊釜ヶ崎第三号に掲載


    

釜ヶ崎物語-03-

釜ヶ崎’80・春

いま、写真行為とは何か(2)-1-

叛乱から

 ここに釜ヶ崎労働者をとりまく数字がある。
 地域の面積が0.62平方キロ、人口約4万。そのうち単身労働者が2万人と推定されている。このうち結核患者が一割とも二割ともいう。実数として2000人から4000人の単身労働者が、結核患者であることになる。そのうえ、肝機能障害者がこの数をはるかに上回っており、この両方の疾病をあわせ持つ労働者はどのくらいになるのか。

 釜ヶ崎には様々な問題がある。しかしそれらの問題は、釜ヶ崎だけが持つ問題なのではなく、ぼくらの個々にも同質の問題としてあるのだ。それらが集約的に表出しているところに、釜ヶ崎特有の問題であるかのようにぼくらは錯覚しているのだ。
 結核は過去の病気である、と言われ、この豊かに繁栄したぼくらの生活のなかで、何をいまさら、という人もあろう。しかし釜ヶ崎では、この結核が現実の問題としてあり、年々増加の傾向を見せているのだ。

 炊き出しの現場で、あるいは医療券発行の現場で、多くの結核を病む労働者が、この現実にいきどおりをもって語る。このなかで、結核の問題を、労働者個々の生活態度の問題にのみすりかえてはならない、と思う。すでに現場では、個々の生活の場では防衛の限界を越えており、具体的かつ最も有効な解決の手段がつかめないまま、今なお菌は蔓延し、労働者たちのからだを蝕んでいるのだ。

こうして現象として現われている結核。くやしさ、むなしさ、腹立たしさ。労働者が病むことの苦悩を、ぼくは共有することができない。計り知ることすらできない。
 差別的視点や偏見。釜ヶ崎地域に住む人々の、具体的な実情が明らかにされないままイメージとしてしかとらえられていない現状を見るとき、カメラを持ちシャッターを押す行為の責任を、ぼくは痛感する。写真が、釜ヶ崎に対して何をなしてきたのか、と自問するとき、ぼくは何と答えればよいのだろうか。撮影の現場に立った時の腹立たしさやむなしさは、カメラマンとしての本質を問われていることへの解答が見当たらないことに起因しているのだろう。

 さて結核についての根本的な対策はともあれ、すでに結核患者として認定されてしまった労働者が、満足な治療すら受けられない、という現実がある。また、釜ヶ崎の労働者に集中的に発生している結核の社会的要因をも分析していかなければならないだろう。

 労働形態がもつ問題点、生活環境の問題点、ぼくらは差別と偏見の視点を越えて、これらをひとつ一つ明らかにしていく作業が必要なのである。釜ヶ崎が、ぼくらの生活と同じ地平にあることを今までにも指摘してきたところだが、なお世間では、釜ヶ崎があたかも特殊なところであるかのようにイメージsれている。そして、そのようなイメージを抱いて見る。しかし、それら釜ヶ崎が持つ問題点は、ぼくらが今、形成している社会全体の一部としてあり、ぼくらが意識の中で拡散してしまっている問題点と同質のものなのである。

 ぼくはカメラマンとして、こうして様々な社会問題が社会のひずみとして提起されないまま集中的に表出している釜ヶ崎とかかわっている。今、そこから、様々なことが見えてきはじめたと思っている。
 この春、釜ヶ崎では、結核患者たちの叛乱が起こっている。身を病み、身を病まされた者が、その精神の構造そのもの病む社会全体に向けて、の叛乱なのである。
 この社会体制の中で、ひととして生きるための最低の条件すら満たされない、という結核患者たちの人権宣言が、そこには読みとれるのである。

、満足な治療が受けられない、という釜ヶ崎の結核労働者たち。抑圧され、権利を奪われてきた労働者たち。入院加療中の最低限度の保障を求めて、患者たちは病院を脱出し、共同生活を始めた。この問題提起は、単に入院先の病院経営のありかたを問うにとどまらず、社会全体へ向けの告発である。ぼくらの社会の貧困をさらけ出し、病む者は誰か、という問いかけを含めて、この体制の問題点を明確にしつつある点で、根底的な問題提起としてあるのだ。

 この叛乱は、労働者として、人間として、一方的に権利を奪われてきた人々の、胸中深くからの叫び声であると聞くことができる。そして何よりも重要なことは、この叫び声を、ぼくらひとり一人の問題提起と同質のものである、とうことを知ることであろう。


映像の構造

 ぼくがカメラを持つことによって釜ヶ崎にかかわっている今、ぼく自身のなかで問題になるのは、この現実を前にしての写真行為とは何か、という問いかけである。
 この根底的な問いかけを踏まえてのみ、カメラマンとしての社会的責任を明らかにしていくことができる、と思うのである。ぼくの発言なり行為が、おおむね、今ある映像批判にむかい、映像分析に立ち入ろうとするのは、総体としての問題解決を探っていく過程で、この社会構造のありようと根底のところで結合し、その形成の側面から支えてきたのが映像でありその作家であった、と思うからである。

 今、写真行為とは何か、と問いかけることと、釜ヶ崎とは何か、と問いかけることが、ぼくの内部で混然として存在し絡みあっている。そして今、映像の情況はどうなのか、という問いかけと符合して、今、釜ヶ崎はどうなのか、ということが同じ設問のように思えるのだ。
 写真は、この社会情況のなかで、どのような役割を担い位置をしめてきたのか。今ある社会全体の情況の部分として存在する釜ヶ崎の記録していく、という行為の中で、この問題が明確になってきたのであった。

 ちまたに映像が氾濫している現状で、ぼくらが現場で体験することを除いて、疑似体験させるもの、このイメージ化の作業の根底の部分を、映像が担っている。ぼくらは繰り返し、同種の映像を与えられることによって、その映像からの印象を、ぼくらの日常の中へ取り込んでいく。こうして連続して与えられることによって、ひとつの意識の構造を作りあげていく。いわゆる常識化という意識の形成である。それが今、一方的に、この体制の利益のために、特定の目的を持ってぼくらの個々が描きうるイメージを作りあげるのを意図しているとするなら、それは不当であると言わねばならない。

 ことを釜ヶ崎に即して言えば、この地を、ことさら特殊な地域であるかのごとくイメージづけることが、なされてきている。そして釜ヶ崎の労働者の担う仕事が、ぼくらの生活の基幹をなすところでの作業であり、社会財産としての場での作業であるにもかかわらず、従事する労働者を冷遇し、切捨て、その上、特殊な地域であるかのごとくイメージづけることの目的は何なのか。そうして一層、差別や偏見を助長させていく体制の目的は何なのか。

 この体制の要求による特殊地域イメージ化の作業は、逆説的に、この体制を一層繁栄させるための手段として、表層的に豊かなる生活のイメージを先行させ、総体的に釜ヶ崎を低位に置いておくことによって、見かけの豊かさをぼくらが持っているように感じせしめることにあるのだろう。ぼくらの生活基盤の本質を見きわめさせないためのコントロールなのであろう。そして映像が商品として成立してくる過程と、この体制の経済的成長とが軌を同じくしてい、反面、釜ヶ崎が、今あるような単身労働者群の街として形成されてきたことが、偶然のものではないのだ。

 このように複雑化した利害関係の中で、今ある写真を含めた映像の情況を見つめるぼくが、釜ヶ崎での様々な光景に巡りあわせたとき、あの、なぜこの光景を写さなければならないのか、という疑問が生まれてくるのだ。
 写される側の労働者が、なぜ写すのだ、という質問をぶつけてくるとき、そこには明らかに、商品としての写真に対する敬意感じられるのは、まさに、写真が、そのようにしてしか存在しえない、という直感からの告発であろうと受け止めるしかないのである。たとえぼくが、現実の記録であると表明したところで、単なる記録でありえることなど、神話でしかない。

 ぼくらの生活領域での根底となる意識構造。生活を支える行動と知識の全てが、常識という概念のうえに成り立っている。これがぼくらの行動の原理であるのだが、いまぼくらおこうした常識というものが、日本の現状が持つ二重構造の上層を構成している意識である、ということに気づくのである。このことは、釜ヶ崎の存在を、ぼくらの生活とは関わりのないところである、と考え、本当は同じレベルで人間であるのに、体制が切り捨ててしまうことによって、ぼくらも切り捨ててしまうという誤りをおかしているともいえる。これは、すでにぼくらの立場が抑圧する側に立っているということなのであり、このことをぼくらは日々の生活のなかで自覚する必要があるのだ。

 こうして釜ヶ崎を切り捨ててしまったところで形成されてきた意識というもの。これが、どのような過程のもとに形成されてき、ぼくらの共有の同一性となっていたのであろうか。
 ぼくらの意識を形成する体験、このうち疑似体験を与える側として写真家は存在する。そして写真家もまたこれを与えられる側として存在する。実体験を知覚するそのしかたは、疑似体験によって得られたイメージとの相関関係の中で知覚し、意味を判断し、思想化する。そしてその視点にもとづいて、実体験を知覚する。
 写真家は、この意味において、みづからの視点を確立し、ここからの出発として、写真家としての社会的、道義的責任を引き出し、負わねばならないのではないか。


写真の責任

 豊かなる日本。豊かなるぼくらの生活。60年代から70年にかけての価値観の激変。イメージの転換。生活様式の変化。これらは一体、ぼくらに何を与え何を残してきたのか。また、写真は何をつくりあげ、どういう役割を担い、何を残したのか。

 釜ヶ崎が、今あるような形態への変化の過程が、写真家の写真に対する責任の放棄への過程と符合しているように、直感的に感じるのは、ぼくだけであろうか。釜ヶ崎の写真を見た人々が、まるで敗戦当時の姿がそのまま続いているようだ、との感想を語ってくれる。そこからぼくは、写真とは何か、という問いかけが始まるのではないか、と考える。

 あの当時、もちろんぼくは実際には体験していないのだが、写真の方法として、リアリズムという方法論が提起され、ひとつの運動として盛んになったと記されている。今さらぼくが、このリアリズム運動を奉信するというのではないが、今、ぼくが写真を見つめ、写真とは何か、と考えていくとき、頭に浮かぶのが、この方法論なのである。当時、写真家は、写真家の目の前に起立した光景そのものに対して、どのように対処していったのであったろうか。恐らく光景は、それら写真家が、かって得てきた体験の全てを超えたものとして存在したのではなかったか、と推測するのだ。

 手段としての写真が、生々しい現実の前に、裸形のまま存在した。現実の矛盾が明確に露呈しえた。こうした現実の光景、たとえば焦土と化した都市。また広島や長崎、が目の前に、荒野のごとく拡がっている只中に立って、一個の人間としての写真家が、それらの現象の根底に横たわる問題について考察をなし、写真の方法を模索しはじめなければならなかったのではなかったか。

 同時代人としての体験を持たないぼくには、それらの光景と巡りあった写真家の胸中がどのようなものであったかを計り知ることはできない、としても、現実の目のふれる光景のなかから世界の全体を見つめる作業をなし、写真家としての価値観から、現実を内在化させていく作業行程を得、それらの光景の前での現実と自己存在との矛盾に葛藤する姿勢がなくはなかっただろうと思うのである。

 焦土と化した都市。人々は飢え、着の身着のまま、そして焦土のうえにバラックの家々が建ちはじめた。そして写真家の手元には、現実にあった事実が、着実にフィルムに記録されていった。この限りにおいて、写真は力強く、写真としての正当な現実認識の武器であっただろう。しかし、この図式が、来たり来る60年代以後において、正当な方向性を指示しえぬまま、挫折していってしまうのは、何故だったのだろうか。

豊かなる日本。豊かなる生活。商品の氾濫。消費することの美徳。農村の解体。都市への集中。

 豊かなる日本をつくりあげるために描かれた青写真は、国民あげての目標を設定し、その達成に向かうことで高度成長を成し遂げてきた。今さら記すまでもないが、目標は、東京オリンピックであり大阪万国博覧会であった。国鉄新幹線。高速道路網。都市再開発。また、管理機能の中央集権化。マスメディアの普及。こうしたなかでの商品の個人所有欲の高まり。こうして豊かなるイメージを創りあげるために、情報産業が形成されてくるのだった。一方で、エネルギー転換政策にともなう炭鉱の閉山。工業化推進による農漁村の破壊。地方生活者は苦悩を伴い都市への流入をはかり、都市は重層的に拡大形成されてきた。

 こうして、突出した現象を列記するだけでも判断できるように、まさにぼくらの価値観が、激変してきた時代であったといえるだろう。
 こうした情況のなかで、写真家が写真家として存在できる地盤が成立してくるのが、まさに物質の氾濫にともなう個々の所有意欲を高揚させ、消費させるためのイメージの創出作業なのであった。

 経済成長という美徳のもとに、ぼくらの精神構造を、その目的のために変質させられコントロールされてくると同時に、写真と、その担い手である写真家は、写真行為というみづからの責任を回避してしまったのであった。
 釜ヶ崎が、今あるような形態へ至ってくる過程が、写真家がみづから寫眞行為への責任放棄への過程と符合しているのは、決して偶然のことではないのだ。

 体制権力が、その統治下にあるぼくらの意識の転換作業をもくろむとき、必要とするのは一方的に情報を送り込むことであろう。こうして一方的に送り込むことのできる装置を権力が握っているとき、容認される情報の条件は、権力にとって有益なものか、もしくは無害であることなのだ。

 すでに集中的に管理されてしまった情報手段の中で、現実を現実としてとらえる視点をさけ、現実の持つリアリティを全て骨抜きにしてしまうこと、あるいは感情の領域でのみ処理することを要求しているのだ。こうして、今、ぼくらが現実を見る視点、及び感覚が、こうしたところから制作される映像から受けるイメージを基盤に置いてしか見られないという事実を、ぼくらは知るべきである。ぼくらの持ちうる視点そのものが、すでに体制から一方的に押しつけられている片鱗なのである。


写真行為とは

 60年代後半から70年代にかけて、ぼくらがぼくら自身の肉声を外化していく行為のさなかにおいて、この体制がもつ本質を見抜くべき筈であった。写真家は、この体制の根底から見直すべく視点を確立すべき筈であった。にもかかわらず、問題提起とその意識において、その方向を自己の内面性にのみ比重を置き重視したのであった。

 この限りにおいて現実社会へ表出してくる現象の本質と、正面切って向き合うことを放棄し、矮小化した自己の信憑性にのみこだわりすぎたところから、みずからの生きざまの表出と自己の確立が試みられたのであった。こうした写真行為における自己の社会性を放棄してしまうことが、正当だったのだろうか。

 写真行為が、こうして矮小化されてしまったなかで、いわゆる芸術の基底をなすイメージの創出作用のみを前面に押し出すことによって、この中にこそ写真行為が存在するかのごとく錯覚してしまっているところに、現代写真の不幸があるように思えてならない。

 ぼくは今、写真行為とは、決して日常生活空間や社会的実践と無関係に存在しうる営みではないと思うのだ。この行為の絶対性は、それらの価値の軸を中心として、自己にかかわる社会的要因をいかに取り込んでいくか、ということであろうと思うのである。

 失業、飢え、凍死、といった苛酷な現実がある。この現実に対して、ぼくらの意識は全く別の次元で起こっていることであるかのように感じている。しかし戦後、ぼくらの視点は、まさにこの地点から出発した筈なのだ。この映像としての写真をに向けられた問題提起をないがしろにしたまま、もはや写真は救済の余地もないほど、迷宮にはいってしまっている。

 この春、釜ヶ崎の結核患者たちは、ことの不当性に向けてひとつの問題提起をなし、ぼくらに向けている。今まで抑圧され権利を奪われてきた、その人間としての不当に対して小さな叛乱を起こしている。この叛乱を取材している過程で、彼ら結核患者たちが、決して彼ら個人の生活態度からのみ結核を誘発しているのではないことが、明確になってきたのだった。

 社会総体の中での釜ヶ崎の位置、そしてこの位置につけているのが、まぎれもなくぼくらの意識構造であり、この意識を作りあげてきたのが、ぼくの持つ手段と同じカメラであり、ペンであったという事実を確認したとき、ぼくは、その場に立ちつくすしか、なかった。

 写真もまた、この地点から叛乱を起こしていかなければならないのではないか。写真行為とは、赤裸々な現実を撮り込んでいくことであり、ひとりだけでも叛乱を企てていくこと。写真家はこの赤裸々な現実を目撃したことの証言者となることであろう。
(1980.4)