ご案内です
HOME
むくむくアーカイブス

物語&評論ページ




いま、写真行為とは何か はじめに

いま、写真行為とは何か

なぜ、釜ヶ崎なのか

釜ヶ崎からの報告-越冬-

映像のはん濫 日常の光景へ

何故、釜ヶ崎なのか

再び、写真とは何かー


むくむくアーカイブス

最新更新日 2012.10.25
いま、写真行為とは何か 1978~
中川繁夫:著


    

いま、写真行為とは何か

<釜ヶ崎からの報告ー越冬ー>

(1)
いま、写真とは何か、という空しい命題を抱えて曲折のあと、釜ヶ崎へ通うようになってもう半年になる。秋から冬へ。暖冬とはいえ、日一日と寒さがきつくなってくるなかで、今年も冬が訪れた。釜ヶ崎に居住する日雇労働者にとって、冬とは何か。その日一日を自力で生活できる労働者は、まだ救われるだろう。しかし、諸々のハンディを背負ってその日を生きている労働者にとって、冬の寒さと飢えは、直接、死につながるだろう。

この「死」につながる、という現実に立ち会ってぼくはこの冬、「生きて春を迎える」ために奔走しておられる人々と、接触を持つことができた。そのひとつは「第九回釜ヶ崎越冬闘争委員会」の人々であり、ひとつは「キリスト教釜ヶ崎越冬委員会」の人々である。

前者発行のアピールには、次の一文がある。

「日雇労働者は、今日仕事があっても、明日仕事があるとは限りません。仕事がなければ賃金が入ってきません。ドヤ代もなく、野宿を強いられ、食事をする金すらなくなります。このことのくりかえしによって、体力が消耗し、「なにくそ」とのむ酒の量がふえ、アル中になり、肝硬変になってゆきます。栄養失調になり、結核菌におかされると抵抗力がないので短期間で発病します。風邪にかかり急性肺炎がもとで死ぬ例がいくつもあります。ふとんをめくると死者が横たわっており、まくらもとには、弁当のパックが、そのまま、ハシもつけずにおいてありました。弁当は受けとったものの食べる元気もなく死んだのでしょう。私達はくやしさがこみあげてきます。(部分)」

このアピールにもいうように、労働者が健康を害していく過程は、ひとりの労働者の肉体そのものがむしばまれてくる過程に他ならないのだが、何故、そうならざるをえないのだろうか、という問いかけなしに通り過ごすことはできないだろう。様々な原因が指摘されている。その原因について、ひとつ一つ詳しく考察していく余裕は、今、ぼくにはない。今後のぼく自身への課題として、別に稿をもつ機会に譲るが、概略を記せば次のように言えるだろう。

単身の労働者にとって、一日の労働は何を意味するのであろうか。世間でいう、地位とか名誉とかは望むべくもなく、労働を終えて帰り着くのはドヤの一室である。帰りを待つ妻子はなく、その日の労働の疲れをいやす場所として、ただ寝るだけのドヤでは、明日への活力など養えるはずがない。明日への希望から拒否されたひとりの人間にとって、その孤独感は、おそらくぼくの想像を絶するものであろう。娯楽といっては、これという何もない。このような環境の中で、みずからの感覚を麻痺させるべく酒を飲む。あるいはバクチに唯一の楽しみをかける。当然といえば当然なるべくして、すさんだ生活をしいられているのが現状であろう。

一方、労働者にとっての労働条件は、といえば、この国の経済体制のもとで最底辺層の沈め石的存在とも言われるように、過酷である。好景気、最高、一ヶ月に二十日間働けたとしても、月収十万円ぽっきりである。もちろんこれは試算であって、現実はもっと過酷だ。なおかつ若くて健康な労働者であっての話しである。しかし、まだ働ける肉体を持つ者は救われる。働きたくても老齢者や病弱者といった、すでに肉体そのものが就労に応じられない人々にとっては、そのことがダイレクトに「死」へと結びついていくのが、現実である。

(2)
キリスト教釜ヶ崎越冬委員会のアピールは、次のようにいっている。

「もし、「福祉」などという言葉があるとすれば、ここにこそ光があてられなければならないのに、こと釜ヶ崎は一向に省みられないのです。(中略)労働者の立場に立って、行政が本来の働きをするならば、何もキリスト者が越冬支援活動などをする必要はないのです。私たちは、「とにかく死者を出さない。生きて春を迎えよう」という嘆きをかこちつつ、今年も越冬支援活動に取り組みたいと考えます。」(部分)

行政側が、何の手当もなしに放置している、というのではないだろうけれど、ただ、それら行政の手が差しのべられる限界の外側にいる人々。この外側などということはあってはならず、それをも含めて救済処置をとることが、本当の行政であるだろうと思うけれど、現場の問題として、多くの労働者が、救済処置を受けることなく、日々生き延びることを余儀なくされておる。

釜ヶ崎越冬闘争委員会とその活動を支援し活動するキリスト教釜ヶ崎越冬委員会の越冬闘争は、この行政の手すら届かない側面部分に、救援の手を差しのべようとする、具体的活動である。第九回目にあたる今年、1978年の活動期間は、12月25日から翌年2月28日までである。この期間と符合させるように、三角公園を除く地域内の公園に、昭和53年12月22日付で、公告が張り出されている。内容は次のごとくである。

  公  告
この公園は下記の期間一般の使用立ち入りを禁止する。
  記
期間 昭和五三年十二月二二日から
    昭和五四年  二月二八日まで
昭和五三年十二月二二日
大阪市公園局

もとより現在は、公園のまわりにはフェンスが張られ、カギがかけられ、飲食物をくばったりビラを張ること、たき火をしたり夜宿することを禁じる看板が出されていて、実質的には閉鎖状態となっているのだから、と思うのだが、敢えて公告を出して立ち入り禁止としているのはどういうことだ。

そして闘争委員会では、具体的には次のような活動をしている。

炊き出し。朝九時、昼一時、夜七時、と一日三回、公園がロックアウトされているため、西成市民会館前路上で、雑炊の配給を行なっている。死者を出さないための活動の、要となる活動のひとつである。その日、その時、食にありつけない事情のある無しにかかわらず、だれでも利用することができるのだ。

夜間医療パトロール。夜十一時から、救急箱を片手にリヤカーを引いて、釜ヶ崎一帯をパトロールし、場合によっては救急車を呼び、あるいは応急手当をし、持参のスープを配る。青カン(野宿)している人たちを、ひとりひとりに声をかけ。健康状態をたづねて歩くのである。

医療センターの軒下に広げられたフトンに、宿るところがない労働者を保護する。夜の炊き出しに集まった労働者は、食べた後、ここへ来て、用意されたフトンにもぐり込むのである。

朝九時には医療券が発行される。朝の炊き出しの場で、医療を必要とされる労働者に発行され、センターの一角にある大阪社会医療センターで診察を受けることができるのである。

列記したような以上のことが、釜ヶ崎における越冬闘争の具体的な活動である。

(3)
ぼくは、写真を撮るという行為の中で、この一か月、断片的ではあるけれど、幾度か釜ヶ崎を訪れ、そしてそれらの活動のひとつひとつを、およそ百本のフィルムに収めた。

写真とは何か、という空しい命題を抱えて、とぼくは冒頭に書いたが、ここでぼくは、写真は記録である、との仮説をもとに、まず被写体に立ちむかわなければならない、と思うのである。写真は、自己を構成している社会的要因への認識作用を通じて被写体を選択していくものだとすれば、そして自己の認識過程が社会現象の記録を支える価値の基本だとすれば、まさに、ぼくの生きざまそのものが、記録のモチーフとなるはずである。

ぼくは、ぼく自身の日常のひとつひとつの、再検討に迫られている。そしてぼくを含めて今や都市生活者は、本質的には釜ヶ崎の労働者と同じ地平線上に置かれているのではないか、と直感的に感じている。敢えてぼくたちが区別できるものといえば、少しばかり沢山の「もの」を持っているだろうということである。

それは家であり家庭であり、また自動車やテレビといった物質。この「もの」を持っているという比較は、友人は自動車を持っているがぼくは持たない、という程度に、ぼくの持っている「もの」を、釜ヶ崎の労働者は持たない、と置きかえられるだろう。そして釜ヶ崎の労働者が持っている「もの」をぼくは持っていない、といえるかも知れない。

釜ヶ崎は特殊地帯ではない。世間一般という尺度から見れば、資本主義体制下全般が持つ、諸々の問題点が集約的に表面化している、といえるのではないかと思うのである。今、ぼくに与えられ考えられる写真の方法は、この地点からの自己検証を置いては、ほかにないように思われるのだ。

正月三日、三角公園は、ここを第二の故郷とする労働者で埋まった。恒例の「もちつき大会」に集まった人々である。正月はどこの職場も休みとなっていて、飯場住まいの労働者たちも、皆、釜ヶ崎へ帰省してくる。きねを握って得意顔の労働者。なかにはきねを頭上でくるくる回して、曲芸師のように軽やかにあつかう労働者。力いっぱいふり下ろして、一回きりでやめてしまう労働者。まるで子供のように、順番が待ちきれなくて、早く変われと催促する労働者。ここに集まった労働者のひとりひとりが、その労働者が生きてきた年月だけの過去を持っているのだ。きねを握るということは、そのひとの過去のあり様を、あたかも示しているようである。

(4)
ある労働者は、ふるさとに妻子を残したまま、きねを握ることによって、そのことの安否を気づかっているのかも知れない。労働者が子供の姿を見かければ、頭を撫でてやり、沢山のこづかい銭を与えてやるのは、ふるさとに残してきた子供の面影をそこに見るからだ、と聞いたが、正月はもちつきで、きねを握ってふるさとを思い出すのかも知れない。労働者の顔は明るい。

唯一、明るい表情を見せる日が、この「もちつき大会」の日である。つきあがったもちは、その場で労働者の胃の中へ収められてしまう。演壇から一列に並んだ労働者の列は、公園をぐるりと取り巻いている。三百人分用意された酒カップはすぐになくなってしまった。

大阪市はこの時期、年末年始にかけて、大阪南港の埋立地に臨時宿泊所として、約千人収容できるプレハブ住宅を用意し、釜ヶ崎の労働者を収容する。ここは二重の鉄条網が張られ、機動隊が常置されていて、その内側へは、部外者は完全立入禁止となる。

この強制収容所なみと言われる臨時宿泊所の宿泊申込みのできる労働者は、就労手帳所有の労働者であることが条件であり、およそ二万人といわれる単身労働者に対して、わずか一千人の収容能力しかないため、そこにすら入れない労働者は、青カンを余儀なくされる。行政の日雇労働者に対するこの宿泊設備は、釜ヶ崎の持つ問題の本質的な解決には何らいたらない、見せかけにすぎない。こう越冬実行委のメンバーは、指摘するのだった。

炊き出しは、越冬期間中は毎日、午前九時、午後一時、午後七時と三回行われている。解放会館一階の釜食堂の調理場で作られた雑炊を、リヤカーにつみ込んで、西成市民館前の路上まで運ぶのである。すでに労働者たちは、長い列を作って、早い人は数時間も前から、待っている。
1979年ー冬ー