ご案内です
HOME
むくむくアーカイブス

物語&評論ページ




いま、写真行為とは何か はじめに

いま、写真行為とは何か

なぜ、釜ヶ崎なのか

釜ヶ崎からの報告-越冬-

映像のはん濫 日常の光景へ

何故、釜ヶ崎なのか

再び、写真とは何かー



むくむくアーカイブス

最新更新日 2012.10.21
いま、写真行為とは何か 1978~
中川繁夫:著


    

いま、写真行為とは何か

<映像のはん濫 日常の光景へ>

今、写真はどうあるべきか、あるいは、どうあらねばならないか、という設問は、古くてなお新しい問題である。すでに写真が発明され、技術的な進歩にともない、その時代その状況の各々の位相のなかで考えられ、論じられてきた。写真とは何か、という根底的な問いかけはもちろんのこと、現在、この映像のはん濫の時代に、再度、写真はどうあるべきか、あるいは、どうあらねばならないか、という問題を一歩一歩と問いつめて行かねばならないのだ。

今や、ぼくたちをとりまく状況、とりわけ生活者としてのぼくの日々の中の、ありとあらゆる場面で、おびただしい量の映像が、一方的に侵入してきているという現実が露呈している。ぼくが、ぼくの生活に必要な「物」を獲得しようとするとき、ぼく自身の価値基準を決定せしめるその大部分は、ちまたにはん濫している映像に拠っているのだ。

それら映像は「物」をイメージ化し、イメージ化したものを、あたかも、その「物」であるかのような錯覚を起こさせてしまう。イメージに転化された「物」は、ストレートにぼくの欲求となって、そのイメージを追い、「物」の本性を見失しなってしまうのだ。

映像のはん濫、おびただしいそれらの群れ、ちまたにあふれる様々な映像群。ぼくたちはこれらの情報群に、日々圧迫されながら生活している。ぼくたちはこの状況が、どういうことであるのかを、見極めて行かねばならないであろう。

いうまでもなく、これら情報群は、この体制の要請に拠っている。日々、マス・メディアを通して流される映像。テレビ、広告写真、雑誌のグラビア写真、新聞紙面の報道写真。これらの映像の全てが、ある意図のもと明確な目的を持って、一方的に流されている。そしてこれらは、ぼくたちの生活のあり様から生活の方法の決定さえ、確定させてしまう要因を持っているのだ。

これらの映像は、一見、全く無定形であり手前勝手に存在しているかのごとくに見えるが、実は、あらかじめ意図された仕組まれたものであり、ある一定の方向へねじていこうとするものである。それは暴力以外の何ものでもない。

一見、自から選択しているように見える自己の生活。自己の価値観。自己の思想。常にあいまいな空間に放り出されて不安の中に過ごす自己の生、そのものが、全くリモコンロボットに相似したかたちで、ぼくたちはコントロールされながら、この体制の中にどっぷりとつかりきってしまっているのだ。

日常性とは、まさに、このような状況の中で、一方的な暴力を加えられているにもかかわらず、それが物理的な痛みを感じないがゆえに、暴力行為であると認知しえない状態の中に生活することを、意味するのだ。


こと写真に限って言えば、ちなみにマス・メディアを通じて伝達されるおびただしい量の写真。それらパブリックな写真の全てが、この体制を維持するためだけを目的とするものであり、その要求に応じているのである。心ある個としての制作者のジレンマ。あるいは生活の手段としてやむをえないと言えば、それまでだが、個としての制作者が、どれほどジダを踏んでも、ジレンマにおちいっても、この体制維持に貢献していることは、自明なのだ。

先にぼくは、「物」をイメージ化し、イメージ化したものを、あたかもその「物」であるような錯覚を起こさせてしまう、と書いた。このことは、利潤追求を第一義とするこの体制の、メディアの所有者、つまり国家とそれを支える企業体の利潤のために従属させられた映像、おおむねコマーシャル制作者たちの映像への関わりを想定して記したのであったが、その責任の全ては、この体制の体質そのものにある、といえるだろう。

商品をイメージとしてとらえ、イメージとして売る、その入り組んだトリックへの告発として、ぼくはあえて発言しているのである。このイメージ化の作業は、実は、映像に限ったことではない。イメージ化するということは、こうも言えるだろう。それは、ある特定への記号化である、と。この作業は、本来、特定の個人と個人、この二者間の相互に意志を伝達する、その初原の目的のためになされた伝達行為の基本であったはずである。これは現在においても本質的には変わらない。複数の人間が共存する限りにおいて、意味の伝達に伴う必然的作業なのである。

このイメージ化、つまり記号化が、個別の横の連携のためにだけ有用であった時代は、まだ救われていた。だが、この作業が、今あるような形、つまり一方的に放出されて、受け手はそれに対しては選択の余地がない、この時代にあっては、人は、敢えて拒否の方向を探る作業を持たない限り、やがて翻弄され尽くしてしまうだろう。

ぼくの今、問われてる写真の方法は、個人的な体験の、私性の露呈のみに執着するものではない、との見当がつく。そしてまた、だからといって一時期その主流となりえたリアリズムそのものでもないはずである。写真が今さら、芸術であるとかないとかの、不毛の論理を構築しようなどとは考えないが、少なくとも、その表出の内容としてクリエイティブなものである、と言えるだろう。

写真の基本的性格として、幾多表現行為としてあるそれらクリエイティブな作業の中で、唯一、現実に存在する形象が、その素材となる、ということがあげられる。このことは、他のジャンルのどこにもない特質である。そしてこのことが、だからこそ、一般に、写真は記録である、と言われる由縁である。しかしこれは、写されたものは、その「もの」の真の姿を記録するかのごとく、短絡した思考へと結びついていると、思われる。写真における記録とは、決してそんなに単純なものではないはずである。
(1979・6)