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最新更新日 2016.12.27
写真への手紙/風景論
私風景・風景論
中川繁夫:著

 seesaa blogに連載の文章

 1~12 2016.9.1~2016.12.5

私風景-1- 2016.11.23
 

かって写真を語る語り口に「私風景」という言葉をよく使ったものです。わたしのふうけい、なにか特別な意味を込めるような口調で語ったものでした。私風景、しふうけい、これに対応するのが、私小説、ししょうせつ。この私を「し」と読んでいますが「わたくし」と読むのが本来ではないかと思います。わたくししゃしん、私写真。荒木さんなんかが言い出したのかな、わからないですが、明らかに小説のジャンルである私小説を思い描いての対置だと思われます。写真表現の幅でいえば、文学とくに小説による表現展開の歴史をなぞる感じで写真表現がなされてきた、とざっくりではあるけれど、いえるのではないかと思います。もっと細やかな論証が必要でしょうね。

ここに使った写真は、写真作品と呼ぶべき写真ではなくて、ぼくの知り合いの記念写真的な一枚です。左が平木さん、右が佐々木さん。おりしもこのお二人は、近年お亡くなりになられて、もうこの世にはいらっしゃらないお方です。この写真をここに掲載した意図は、いくつかあると思っています。ぼくのなかの記憶を呼び覚ます写真です。それとぼくがこのお二人と知り合っていたという事実の痕跡を、ここに示したいという思いです。なにかしら、有名人の部類にはいると思う二人と知り合っていた自分を、その同列に見せたいという欲求もあると思えます。べつにそれでことの優劣をつけるつもりはないけれど、結局のところ優劣をつけて差別化をはかって、自分をそれなりの過去を持つ人物に仕立て上げたい、我欲でしょうね。

ここに掲載した写真に写っているお二人は、けっこう親しく、本音を語ることができたくらいに親しくなった方です。左の平木収さんは、1984年になっていたでしょうか、国立博物館の技官でおられた金井さんを介して知り合いました。京都の淀出身ということもあって、東京へ赴くと平木さんが様々な方を紹介していただきました。フォトハウス企画のワークショップで、東京メンバーを紹介して、道筋をつけてもらえたのが平木収さん、川崎市民ミュージアムの立ち上げに参加された平木さんでしたが、オープン前の川崎で何度かお会いしました。また右に写っているのはアスタルテ書房の佐々木さんですが、この方とは書房経営者と書籍購入者という立場の関係でしたから、お金が捻出できなくなっていた近年には、ぼくは疎遠になっておりました。佐々木さんを通じて、写真ではないアートの世界を知っていく契機になったと思っています。いずれもすでにお亡くなりになっていて、ご冥福を祈るところです、合掌。

私風景-2- 2016.12.5
 
1975年ごろの家族写真が、最近目に見える形になりました。かって撮ったフィルムを、いまの時代にマッチするデジタルにスキャンして、ここに、こうして、視覚化したところです。家族、ぼくの位置からいえば妻がいて、妻とぼくの子供が二人いて、妻の父がいて、妻の妹がいる。撮影された場所は、この写真からは特定できないが、石川県の内灘の浜、海水浴場になっている場所です。ぼくには、この内灘という場所が、さまざまに記憶のポイントなのです。学生時代に小説を書こうと思って、この内灘の、冬の光景をイメージして、構想して、それなりに書き上げて、「反鎮魂」という同人雑誌に掲載させもらった。なぜ内灘だったのかといえば、講和条約が締結されたあと、米軍試射場が設営されたというゾーンでした。地元の反対運動が起こって、日本の戦後基地反対運動の最初の抗議行動がここにあった、というのを知ったからです。反戦運動に興味あったし、思想も反戦勢力のほうにあったし、セクトには入らなかったけれど、ノンセクトラジカルってやつ、その立場でしたから。そういうことで、私風景、内面の深いところで、いま、この写真がリンクしてきているのです。

風景論-1-
 
風景論(1)-1-
市井の風景といえばいいかと思います。この場所は、大阪、阿波座界隈、iPhoneによって撮ったイメージで、専用ソフトを使って、イメージを変換させています。風景論と名付ける写真集を編もうとしています。何を撮るか、ということは別にして、作り方コンセプトは、最先端のハードウエアであるスマートフォーンに内蔵のカメラを使って撮影し、撮りたまったところで、カメラの量販店、ここではヨドバシカメラの店内にある、写真プリントコーナーの編集機器をつかって、製本にまで至らせるという方法をとります。載せるイメージを選びページ数を選ぶのは、私ですが、レイアウト編集は自動でします。コンピューターに任せるというものです。2016年の現在における最前線の安易写真集つくりを、体現しておきたいと考えるからです。

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風景論(1)-2-
載せた写真の説明を、することを、私は、好まない派です。写っているモノ(物体)を、見た人が解釈するように仕向けていくのは、提示する側の役目、といえば役目です。これ、高御座、たかみくら、と読むんですね。なにするものかといえば、識る人だけが識ればいい、ということではないと思うので説明しますが、天皇の即位のときに入られる器と処なのです。これは、観光ポスターに使われた被写体、です。その観光ポスターをカメラで撮ったモノです。キャッチコピーも意味深いと感じていますが、ここでそこへ論を及ぼしていくことは、ここでは避けておきます。冩眞の在り方論にも及ぶ内容のものだと直感的に思うからです。

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風景論(1)-3-
うなぎ、鰻重、漆器の四角い器、ごはんの飢えに並べられた鰻の蒲焼き、これは牛丼チェーン店が提供している鰻重を、食べた記念に、と撮った冩眞です。風景論と名付けた写真集、12葉のなかの一枚です。好きだから、とはいえ老舗の店で食べるには高すぎるから、廉価で、とはいってもこの店のメニューでこれは千円を越える金額です。鰻の稚魚漁獲にまつわる話題をニュースで見聞きしています。この一枚の冩眞から、何が見えてくるのでしょうか。様々な言葉を紡ぎ出すことができます。でも、しかし、私、撮影者の意図としては、言葉を紡ぎ出させることではなくて、とは思っているところ、では、なにか、という問題です。冩眞の在処を問うわけです。

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風景論(1)-4-
毎年4月、万博記念公園のお祭り広場にて行なわれる「レンタイフェスタ」という催しに、私は、テント張りのスペースで、釜ヶ崎で撮った写真の展示をおこなっています。展示を行なうようになったのは、私にとっては成り行きでした。今年2016年も予定どうり展示をし終え、その後日、打ち上げと称する宴席で出された料理の一品が、ここに使った冩眞の被写体、サラダです。この一枚の冩眞を見ただけでは、いま、ここに、記していることは、まったく、分からないことです。提示された冩眞に、冩眞だけに、そのことを求めても、無理なことで、求めるなら、言葉あるいは文章、ということになります。冩眞に補足説明として文章をつける、ということは、表現の方法として、ままあることですが。

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風景論(1)-5-
何処で食べた料理だったか、記憶を呼び戻しています。というのも、ここに写真に撮られ、載せられたという一枚から連想できること。料理という文化のかたまり、それを目に見えるように残していく道具としてのカメラ。ここで撮られた料理からひろがる奥行き、撮ったカメラからひろがる奥行き。この奥行きというのは、直接には現れて来ないバックヤードです。バックヤードというより、思想とか科学技術とかの総体としての先端に、この写真を見ている。人間の手によって料理された食品、器、その他、人間が培ってきた文化の極みとして被写体がありました。それを記録するカメラ、ここではデジタルカメラ、科学技術の極みとしてのデジタルカメラとパソコンの画面という視覚のモノ、それらに囲まれてこのイメージが存在している。こういうものを風景と呼ぶなら、この風景と対置される自分という存在。この自分という存在において、それがいかなる価値のものかを計ること。これが風景論のなかみとなっていくはじめなのかも知れない。

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風景論(2)-1-
ちょっと高いところから、街角の風景を捉えたシリーズです。2016年、iPhone6のアプリ、プロカメラで撮った静止画をその場で編集した色合いです。なんだか古い時代のイメージを彷彿とさせられるんですが、現在です。作者の視線はどこにあるのか、なにを撮ろうとしているのか、そういったことを構成する内容を消去する、そういうイメージ像を想定していました。風景の発見、ということが文学史上で言われます。近代文学における風景の発見は、つまり自分を対象化させるべく原点となる認識、という概念でしょうか。でも、この静止画イメージに、それを求めるとなると、ちょっと無理があるのではないか。対象化されるイメージが平坦すぎて、そこに風景を発見せよといわれても、論をたてるほどには、私のなかで、成熟していない、ということがここに明らかになっている、ということです。

-7-
 
風景論(2)-2-
1977年だったか、ぼくは<街へ>というテーマをかかげて、大阪へいきました。北井一夫氏が<村へ>のシリーズをアサヒカメラ誌上で発表されていて、訳が分からないままある種の感動を覚えていたところでした。写真を撮りだして、ようやくテーマらしきものが浮上してきたと思ったところでした。当時は、シュピーゲルの流れをくむ、光影会と名前が変わっていたクラブの、達栄作さんの下で勉強させてもらっていました。街へ、の最初は大阪駅前界隈を歩いて、写真を撮る、毎週土曜日の午後、フィルム3本撮る、これが目標。現在のようなビル街はなく、大阪駅もいまの姿ではなく、とはいっても見慣れてはいなかったからか、記憶にはありません。丼池、どぶいけ、闇市のまま、といわれた光景には、幾度か足を踏み入れ、遠くに丸ビルが見えたのを思い出します。カメラを持って、街を徘徊する、思うに任せられずシャッターが切れない、そんな体験を思い出します。

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風景論(2)-3-
1975年だったか、行き遅れていた大学を卒業しました。すでに妻子があったぼくは、学費のかわりでカメラを買いました。自分の子供を写す、というのが目的で、文章を書くということもできなくて、空虚な日々を送っていたところでした。そのうち、太陽の下で写真を撮る、という新鮮さに、小説を書くことでは得られなかった明るさを感じていました。朝日新聞を購読していて、そこに全日本写真連盟の入会案内があり、ぼくは京都支部の個人会員になったのです。いや、京都写真サロンの案内で、京都市美術館で写真展を行なう、というものだったかもしれません。全日写連組織の仕組みがわからなかったときで、写真を一枚、出すことにしたのだと思う、半切一枚、やすらい祭の写真を一枚、お店の人に焼いてもらって、額装して、美術館へ持ち込みました。あっと驚く、まわりの写真のすごいこと、上手、どうみても自分の写真がみすぼらしくてはすかしい、穴があったら入りたい、赤面、羞恥心でドキドキ、という感じで、悲しい気持ちで、家に帰ったとの記憶です。

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風景論(2)-4-
大阪は淀屋橋、京阪電車の淀屋橋駅を地上に出て、橋を渡るとその向こうは大阪市役所、その裏に公会堂があり中之島図書館があり、といった地区になります。この写真の場所は、橋と市役所との間の道、右側が川、左側が市役所、なんとはなしに写真にしてみましたが、道行くひとの姿とか、ああ、この世の光景だな、と思ってしまう、というのは撮影者のぼく自身が思う感覚なのです。

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風景論(2)-5-
かって中学生のとき、一年下で、吹奏楽部に入ってきた男子がいました。後輩ということになりますが、ぼくが吹いていたクラリネットの後輩になったことで、懇意になり、いつのころか彼の家族とも知合いになった。その彼とは高校が一緒で、ぼくが二年生のときに吹奏楽部を創ったときに部員となったひとりでもあった。その彼は、高校卒業後京都音大のクラリネット専攻で、音楽家の道を歩み出した、というところまでは存じていたが、その後、およそ50年間音沙汰なしでした。昨年OB会を開催し、そこで再会、今年になってふたりで遺跡探訪することになったのです。行先は明日香、古代史探訪というところ、ぼくのあたらしい世界がはじまるような気がしています。

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風景論(3)-1-
ニューミュージックの五輪真弓の歌曲に、こころを癒されたというか、新しい心を開いてもらったというか、つまりフアンになっていったのは、1970年代の後半だったように思えます。新しい生活スタイルがはじまって、遅れてきた青年の周りにも新しい生活スタイルがはじまっていきます。朝はコーヒーとトースト、ヨーグルト、ウインナにベーコン、野菜サラダがそろえば、まったくリッチな朝食で、日曜日の朝には、こうして迎える。彼女がいて、そのうち子供が生まれて、家族を形成していく生活スタイルがありました。すでにオーディオではステレオ装置があり、さんさんと光が這入ってくる窓辺に設えたテーブルは、身も心も健康そのものでした。

-12-
 
風景論(3)-2-
地蔵院、俗称椿寺、門を入って正面に鍬形地蔵尊が置かれている地蔵堂があります。右に椿の木があって、左が墓地、地蔵堂の右に十一面観音像の堂があって、その奥に天野屋利兵衛さんでしたか、その方の墓があります。風景とはいっても、目に見える風景と見えない風景があると思っています。見えない風景とは、心のなかの風景でイメージの像といえばいいかもしれません。イメージ像を心の像、心象風景というのもいいのかと思います。これを思い起こすことで感情が伴ってきますね。カメラがとらえる風景は、現実に存在するモノが定着してる。その定着したモノを見て、心象がかさなり、感情が伴って、喜怒哀楽のレベルで、感じるわけでしょうね。ああ、これは視覚だから絵画にもあてはまることかも知れない。