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最新更新日 2018.5.24
淡水雑記
中川繁夫:著

 山紫水明blogに連載の文章

淡水雑記-1-

 1~12 2017.1.29~2017.4.3

   

-1-
淡水雑記は風俗をフィクションするために作ったブログです。
エロスを感じる、巷の風俗には、男と女がいます。
それらを読み物風に描いていきたいと思います。

-2-
 嵯峨大覚寺の境内に「大沢の池」があります。その池から山のほうに名古曽の瀧というのがあったということで嵯峨天皇に関係してるらしい。今は、その瀧には水が流れていなくて、石組の跡だけが残っていました。先日、その名古曽の瀧跡へ、導かれるままに行ってまいりました。石組みの、その向こうには、垣根があって、そこからは出られなかったのです。が、そこの住所は、嵯峨名古曽町です。嵯峨名古曽町という地名は、ぼくが高校の一年後輩でいた子が住んでいた住所でした。高校二年生だった当時、一度だけ単車の後ろに乗せて、その子の自宅の前にまで送って行きました。暗い道を走って、その子の家屋は藁葺の家だったように記憶していて、障子戸に縁側がある家だったように記憶しています。そのとき一回切りの送りです。冬でした。素手が凍えるように冷たかったのを覚えています。冷たい道を単車で突っ走った。学生服のズボンの右足の糸がほどけ、ふくらはぎが見えていました。特別な関係にあった子ではありませんでしたが、気になる子ではありました。

 その子は文芸部に所属する女子のひとりでした。文芸部には男女が数人ずついて、仲のよいグループに見えました。ぼくなんぞは、女子と会話するだけでもハニカム派だったと思います。ぼくはその年、ブラスバンド部を立ち上げ、部長として文化祭までがんばって、そのあとのクラブ運営は後輩に譲って、ぼくはフリーになりました。その秋の文化祭で、文芸部の人と知り合うようになったのです。高校生の年齢は16歳から18歳、青春というか感情多感な頃だったと思います。胸が絞めつけられるような醒めた冷たい感覚に襲われます。家庭的に十分でなかったことも原因しているかもしれないけれど、個人の資質に拠るところ大きいのではないかとも思います。というのも、その頃から感じ始める感覚が、起伏はあるとしても今にも続いていて、まるで病気かと思うくらいです。高校一年生のとき、恋をして、恋した相手と何度か逢引したけれど、今でいうお付き合いは成熟しませんでした。

 恋に落ちるというのは青春時代には、誰だってあるもんだと思います。片思い、そうです、片思いというやつです。これは相手への思いの深さによって、こちらの思い悩みが浅かったり、深かったり。深い片思いは、それなりに片思いではなくて、相思相愛かもしれないところまで成熟するけれど、なにかの因縁で途切れてしまう。終わってしまう。これは心の傷が失せるまで、相当な時間がかかるけれど、いずれのときにか忘れてしまうものです。そういう経験を、何度かしています。この個別の経験を紐解いていけばいいのかも知れません。ただ、それらは恋の段階で終わっていて、抱きあったり、接吻したり、性交渉したりというこたはありませんでした。唯一、一緒になった彼女とだけ、性の交渉があって、子供が生まれ、いまとなっては孫が誤認になっていて、それなりに社会人を務めあげてきたところです。外面的には大きな破たんもなく、紆余曲折でしたが、ここにこうして、こんなことをして、生きているところです。

-3-
 高校に入学したのは1963年でしょうか、いま、指折り数えて計算しているところですが、三年生の秋に東京オリンピックがありました。そのころのお話しです。中学のころから知っていたM君、高校に入って同じクラスになって、よく遊んだというより、勉強をしたという方がいいでしょう。そのM君のお父様がお医者さんで病院を経営なさっているのを知りました。恋した人のことで真剣に悩んでいてたぼく自身、それはもう精神病じゃないかと思ってしまって、その病院を訪問して、診察を受けようかと思ったものでした。結局、訪問することなしに、診察を受けることもなしに、そのまま今に至っているのですが、自分では、その気があったと思うところです。男子16歳というのは感情多感な年齢で、好きな子ができて、その子に打ち明けられなくて、一人悩みます。どうしたはずみか、心の内をうちあけて、恋心を伝えたけれど、成熟しなかった。

 M君は病院の跡取り息子だったらしくて、高校一年は公立高校へ入学していましたが、次の歳には私立の進学高校へ転向していく準備をしていました。ぼくには事情がつかめていなかったのですが、M君はたぶん相当に苦痛だったのではないかと思えます。M君は、ぼくのもとへ、何度も電話をかけてきました。ぼくの家には公衆電話、赤電話が置いてあり、そこは道路に面していました。冬で相当寒い日の夜、八時ごろだっかたに電話がかかってきて、一枚の写真に写った女子のことを、執拗に訊いてきました。M君、そのAMという女子に恋していたのです。そもそも、その一枚の写真は、ぼくが学校へ持って行ったブロニー判カメラで撮った、一枚のクラス集合写真です。ぼくはSTという女子に、入学してまもなく恋していて、秋に、STの写真が欲しくてカメラを持って行って集合写真を撮ったのでした。まさにその写真に写った別の女子にM君は恋していたのです。M君とはその後、学校で会うこともなく、顔をあわせる機会もないままに、しだいに遠のいていきます。ぼくはSTと何度か会いましたが、それだけで終わって、二年生になってからは、顔を合わすこともなかったように思います。

 どこから話しをつなげていけばよいのか、恋した女子を忘れるために、ブラスバンド部を立ち上げ、熱中しました。高校は進学校だったし、ぼく自身も大学進学を思っていたところでしたが、勉強どころではなくなってしまいました。ブラスバンドの成熟、それなりに形を整え、秋の文化祭を機に、後輩に引き継ぎました。文芸部のグループと親しくなり、いっしょに行動するようになっていました。どうもぼくはその当時、かなり大人っぽかったようです。標準的高校生の意識レベルより大人っぽかったのか。そういう最中の修学旅行は九州行きでした。クラスは別々になっていたSTと顔を合わせることになって、一気に恋心がよみがえってきたのでした。延岡あたり、列車のなか、夜だったかも知れない、顔を合わせて、見つめあって、言葉は少なかったように思う。忘れていないことを告げた。でもそれで何事かが起こる、付き合いが始まる、というわけでもなかった。終わったものは、すでに終わっていたのでした。精神科の病院へは入院こそしませんでしたが、入っていて治療をうけてもおかしくはなかったと思えます。M君が死でいたということを聴いたのは数年前のことです。詳しくはわかりません、自殺したということでした。

-4
 死者の霊を弔うということであれば、この年齢になると結構たくさん、身近な人を見送っています。それが身内であったり友達であったり、先生であったり、後輩であったり。世にあって有名になった人もいれば無名の人もいます。気になりながら生死がわからないと思う人もいます。人の死というもの、このことをあまり真剣にはとらえてこなかった。でも、最近、死ということの情景を、想うようになってきたと思う。もう名前を明かしておこうとおもうけど、彼女は瀬川恵美。写真に撮られているのは二十歳そこそこだったと記憶しています。どうして、いま、瀬川恵美なのか、そうですね、一昨日だったか高野悦子のことをテレビで見たからかも知れない。瀬川恵美は1982年頃ではなかったか、暑い盛り、梅雨のころだった。マンションの高い階から飛び降りたのだと言います。ええ、棺に入れられた瀬川恵美の顔を見ましたが、死の直後のことは話に聞いただけです。

 どこかにも書いた記憶があるんだけど、知り合った最初は、ぼくの写真展、聖家族での個展のときだから1979年12月、テレビモアというグループで取材申し込みしてきて、純という彼氏とともに聖家族で会った。釜ヶ崎でビデオカメラをまわして、ドキュメント作品を作っているんだということから、かなり親密な知り合いとなっていきます。若い世代、ぼくよりも一回り若かったように思う。生きてたらそれでも還暦を迎えるころでしょうか。釜ヶ崎で会って、一緒に取材したことはなかったけれど、どうして瀬川恵美が釜ヶ崎を撮るのか、ということがわからないまま、死んでしまった。何故撮るのかという命題は、これはぼくに引き当てて考えてみても、明確な答えが見つからない。表の理屈はつけることはできるけれど、何故撮るのか、という本質に近い処は、何故だかわからないのです。瀬川恵美が何故死に至るのか、あるいは至ったのか、これがわからない。

 自殺という行為は、その後、現在でも大きな社会問題となっています。毎年三万人を超える人が自殺している。増加の傾向だと、五木寛之氏のエッセイで読んだことがあります。生きているぼくには、死んでしまった向こうにいってないから、生きて残っているレベルでしか語れないんですが、死ぬ瞬間なんて、怖さとか無くて、ふ~っと行ってしまうんだろうと思う。まあ、それなりの体験をしたと思っているから、このように言えるわけで、でも、そこへ行ってしまうまでのプロセスがあるじゃないですか。文化のなかでそれを食い止められないかというのが、総合文化研究の目的で、総合文化研究所なるものを10年ほど前に立ち上げた。その向こうは闇の世界で、闇の世界を知ったものが死に至る。この闇の世界から救うのは何か。宗教かもしれない、芸術かもしれない。ぼくは芸術におけるエロスの深みがその人を自死から救うのではないか、と思った。

-5-
 京都に生まれて、京都に育って、いまなお京都に住んでいて、制作のテーマは置いとくとして背景は京都にしていることが多いです。たまたま、京都は、知名度があり、それだけでテーマの背景として成り立っていくとも思っていて、写真の被写体として、京都の風物を撮ることが多いです。また小説のステージとしても京都を舞台にします。京都といえば川端康成の古都ですが、そういうイメージもあります。水上勉のイメージなんかも気になります。ぼくは、ぼく自身の表現内容には、どちらかといえばダサイ感じがしているんですけど、そういう体質なのではないかと思います。現代的な美の感覚には遠くて、むしろ近世、近代、平安時代にまで遡るのかもしれない感覚かとも思います。

西陣の生まれで、べったり中学卒業まで、西陣に育ったといえます。高校生になると社会へ向ける目線ができてきて、時代の影響をうけるなかで京都から離れていきます。離れてどこに向かったのかといえば、東京、東京、東京、ですね。中学生の高学年ころから、いや小学生の高学年のころからかも知れない。東京を意識しだします。鉄腕アトムの中には東京の地名がいっぱい出てきました。アトムを作ったお茶の水博士って団子鼻のおじさん。地名だと、池袋とか新宿とか出てきたように思う。今ほど、テレビもなく、情報は主には少年雑誌からだったかと思うけど、それらの発信元が東京だったわけで、京都という地方の少年にとっては、それは憧れの場所でした。そういうことでいえば、いつも東京がターゲットとしてある感じです。

-6-
心ざわめくといえばいいのか、まさかときめいているわけではないと思うけど、黒い服を着た女子がいた。手を出せば抱けるほどの近いところで、髪の毛から顔をみたとき、太宰の孫じゃなかろうかと思ってしまった。突然に太宰のイメージにつながっていたんだけれど、ひょっとしたらKNという名前の写真作家は、かって言ったような無頼派の資質を持っているのではないか。この言葉は、いま、ここで思いついていることだけど、破れたような写真のアングル、テクニカル、なんとなんと、新しいタイプの作家があらわれたとも思う。心の騒めきは、きっとこのことを心象で発見してしまったからではないか。

-7-
元伊勢神社、これは外宮、福知山の大江山にある神社。
こんなところにこんなスポットがと思っていた。
かなり前から、名前に興味があって、気になっていた。
2017年3月3日、大八木元治さんを誘って、行ってきた。
思うところたくさんあるが、いまは言葉にならない。
まだその頃は天皇とは呼んでいなかったらしい時代。
その方が滞在された処に、元伊勢神社があるのだという。
元伊勢という場所が20か所ほどあると文字さんが言っていた。
天照大神、太陽をさす神のようですがご神体はこのお方。
外宮があって、内宮があって、天岩戸神社があった。
天岩戸神社は渓流の岩場で祠があった。
奇妙な場所、狐に騙される、みたいな奇妙な空間でした。

-8-
天岩戸神社があると記されてあったので其処を目指しました。
川縁、渓流、凄い流れで水は波打ち真っ白です。
山の上かと思ったら、岩場の渓流です。
水の流れは心のわだかまりを流してくれる気がします。
水に流そう、という話は、何もなかったことにしようということ。
水杯は別れのときに交わす盃です。
なにかと水にまつわる話は神性なイメージです。
元に戻して、天岩戸神社の本殿というのは岩の上の祠でした。
それにここは元伊勢内宮とあって皇大神社との名前がついています。
元伊勢といわれる場所が日本国のなかに20箇所ほどあると書いてある。
その世界観というかスケールというか、よくわからないイメージです。

-9-
<ネットで人格を創る>
バーチャルリアリティ、VRという単語をまま見聞きます。
仮想空間における現実と解せばいいのでしょうか。
フィクションの世界だという事でしょうね。
現実に、肉体的な目で見ている事象についても、夢幻のように感じることがあるかと思うのだけど、古事記以来の物語というもの、読んで頭の中に描ける図といえば、いってみればバーチャルではないでしょうか。
読む人の体験と照らし合わせてイメージが作られるわけです。
制作する側として思う事、ネット上のツールを使って、ある人格を創りあげる作業。
架空の、小説の登場人物のような、人格をネットワークの中に創りあげる。
このことに取り組んで10年ほどが過ぎます。
人間ってたいがいフェチな面があって、異性に興味をもって、セックスに興味あり。
そんなことナマの実生活においては、夫婦、恋人、という関係の中で成熟すること。
そういう側面を、バーチャル世界で、バーチャル人格で、小説を書く、日記を書く。
男が女に変身、女が男に変身、老人が若者に、若者が老人に、そういう世界が作れる。
そう思って、それらの総合がひとつの芸術の枠にならないか、と思っているわけです。
この領域は、シュールリアリズム領域なのかも知れません。
男が女をやるというのは、歌舞伎では女形があるし、舞踊でもあります。
そう思って考え見てみると、けっこう倒錯という言い方で括られる領域がある。
これは芸術のジャンルとしても成立すると思うが、芸術側は認めないですかね。
(続く)

-10-
<写真の新しい場所へ>
写真家の東松照明さんが京都に取材されていた1982年頃の話です。
東京でのワークショップ写真学校1975年、その後、沖縄取材中の宮古大学でしたか。
東松照明さんが撮影の拠点には地元の若い世代が活性化する、という話がありました。
京都へ来られた時には、京都が活性化される、という期待を持ちました。
まだフォトハウスという名前がなかったころ、中川においては映像情報のころ。
東松照明さんと組んで、いくつかの集まる場を設定しました。
若い写真愛好家が集まって、わいわい、がやがや、新しい潮流が生まれないか。
そういう場つくりをもくろんだのでした。
ここに掲載の写真は喫茶店<ギャラリー写真壁>で行った東松さんを囲む会。
結果として成熟していくことにはならなかったのですが、最近、此処にいた人に会った。
その人は昨年二科会の会友に推挙された方で、当時は高校生だったとおっしゃった。
何回か、こういう機会をつくって、新しい潮流をつくろうとしたが失敗でした。
でも<図書館に写真集を>1981年のムーブメントから大阪での<東松照明の世界展>。
自主ギャラリー<ザ・フォーラム>のオープンでは、かなり主流とは違う方へ来ました。
1984年11月、フォトハウス構想を公開する前史として、それは記憶されることです。
フォトハウスは、その当時の写真界の主流から離れ、周辺から立ち上がったのです。
いま2017年、フォトハウスを再生させますが、それらの前史が反省として役立ちます。
写真研究会の集まりは、なるべく写真から遠い所から、始めていきます。
閉塞した写真の世界を、新たなところに立たせて、開放していくために、です。

-11-
<写真ワークショップのこと>
ここ数日はかって開催したフォトハウスの写真ワークショップのことを思い出しています。
当時の資料がいくつかあって、開催時の記録写真もあって、これは使えるなぁと思っています。
というのも、無為のことではなく、作為のことにして、ことの正当性を表そうとしている。
ことの正当性とは、いま創立しようとしている「フォトハウス写真研究会」の歴史みたいな。
東松さんがいて、企画が生まれて、実行して、終わってきて、次のステップに移行した。
そういう継続してきたことで、価値を高め、立場を確保し、差別化を図ろうとしている。
これは戦略で、森友学園をめぐる騒動をテレビで見ていて、戦略が必要だと思ったわけ。
ひとの感情なんて渦巻いているなかで、自分を目立たせたいという欲望が沸き上がる。
なんなんでしょうね、人間の本性ってゆうか、共同体の中での自分の立場への関心。
今日、載せた写真は、1986年9月13日の夜の出来事、ぼくがそこにいた痕跡です。
アーカイバルプリントの制作レクチャーの場面でしょう、当日の講師三人が写っています。
結局は写真の場に投入された講座でしたが、主流たる写真の現場から遠い処からはじめた。
当時はまだカメラ雑誌が隆盛で、カメラクラブが主流で、独立した個人なんて弱かった。
あきらかに70年代に起こってくる東京の写真状況を背景に、京都で起こった出来事でした。
個人の自立、カメラを持って写真を撮って、アートの領域に足場を固めていくシステム。
人間の欲望、個人の欲望、なにか生きているという実感がほしい、それが底辺にあるようです。
新しくフォトハウス写研を創出しようと思って、具体的には4月9日に創立のところです。
裏話も含め、全体を明らかにしていくことも、このプロジェクトの仕事かと思っています。
いっそう個人の時代に生きていくための個人としての自立を目指して、です。

-12
<鳴滝と芭蕉>
今日の話だけれど鳴滝という滝を見に行きました。
鳴滝には滝があってその滝が音を立てているから鳴滝というのだ、と佐野さんから聞いた。
そこには芭蕉の句碑というのがあって、ということは、芭蕉が此処へ来た。
そうなのか、それは知らなんだ、鳴滝っていう滝があることも知らなんだ。
今日は、常盤、つまり嵯峨野高校のところから歩いて、嵐電鳴滝駅界隈へ行きました。
1965年頃、そこらへんは畑の中に家、だったように思っているけど、いまは家ばかり。
嵐電の駅から桜のトンネルをみて、それから北へあがって高尾へ行く道に出ました。
ゆるゆるやわらかなカーブの道を歩いて、ここらへんか、とおもいしや芭蕉の句碑の表示。
其処へ行って下を見ると、二層の滝があって、崖がって、句碑がありました。
句碑じたいは昭和の年号があったから、最近といえば最近です。
奥の細道に収録されているのではないと思うけど、芭蕉の句のようです。
でも、その句が、どういう句なのかわからない、句碑が読めない、やだね。
野ざらし紀行とか、芭蕉の本は、岩波の古典体系の一冊で、学生の時、買った。
なんとなく、いまもって、芭蕉の旅をイメージして感動していることに気づきます。
写真を撮っている、俳句を詠んでいる、手段は違っても、内面は共通のようにも思う。
でも、ぼくは、芭蕉より西鶴を選んでいて、侘び寂びよりも色艶の方が人間らしい。
嵯峨野病院という表示があって思い出したのが、キクさんが亡くなって安置に立ち会った。
たぶん、この山のどこかにあった安置場で、まだ死体のまま、秋の夕暮れ、でした。
鳴滝、嵐電の駅、高校一年の秋から冬の出来事ですが、克明に覚えています。
思い出されてきます。
どうしたらいいのか、もうここまで来てしまって、どうしたらよかったのか。
鳴滝、見たのは、初めてです。