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最新更新日 2018.5.24
淡水雑記
中川繁夫:著

 山紫水明blogに連載の文章

淡水雑記-3-

 25~36 2017.8.1~2017.11.9

   

-25- 170801
 いったい此処でなにを為そうとしているのか、はなはだ不明確になってきて、何を書こうかと思案に暮れるところです。思案に暮れるといえば、シアンクレールというジャズ喫茶が荒神口にあった。うんうん、あったあった、と頷かれる方がいらっしゃれば、その方はあきらかに1970年前後に京都にいらした方。学生だったら学生運動に関わっていらした方。

 1970年と記したが、じつは1968年にその、モダンジャズを聴かせる喫茶店の近くの大学に入学したものだから、そのあたりの出来事が頭の中を駆けめぐります。その空間は、薄暗い正方形のボックスだったような記憶です。学生で詰まっていて、たばこの煙がむんむんしていて、めちゃくちゃ大きな音量で、会話ができない。不健康だな、この記憶は、不健康極まりない。このように記していけば、ぼくのその頃なんて、不健康そのモノであった、なんて表記できるんじゃないか。

 載せている写真とは、何ら関係ないんですが、たまたま、思案に暮れるということばから、思い出が噴出してきたわけ。高野悦子って女子がいて、なんたっけ本、二十歳の原点でしたっけ、そこにこのシアンクレールって喫茶店が書かれていたように記憶していますが、だれか、認証してくれ。この写真に写っている代物は、何に使った代物なのだろうか、縁日の露店に並べられていた風景です。この棒には彫り物があって、その彫り物は男と女の交情場面なのです。

-26-
 なにはともあれタブーとなっているのはセクシュアルな人間を語ることではないかと思うのです。その領域へ足を踏み込ませると、不謹慎のそしりで、下品にみられたりする感覚です。どういうことなのか、意識構造、この世には共通の価値観があって、その価値観に基づいて上品下品がマトリクス化されているんですね。ぼくなんかはマージナリーな人間だと思っているから、この世を支えている価値観の底辺部を見ている、見たいと思っている輩です。本質的なもの、根源的なもの、それを極めていかないと死ぬに死にきれないなぁ、と思ってしまうわけです。

 そういえば、写真表現で話題となるのは、やっぱり普通ではない、特別やなぁ、と思うようなイメージですね。もちろん体制を崩してしまうイメージというのは、その体制の中では禁じられるわけですが、そこのギリギリの処、ヘッジといえばよろしいか、縁、ヘリ、きわどいところ、ですね。ステーグリッツなんて高尚で上品ですが、アーバスなんてある種の極みで下品な領域で写真を撮るんですよね。どっちかいうとやっぱりアーバスの方が主流となりますね。その後のドキュメントというのは、ね。

 インターネットがなかった頃といえば今から20年前以前ということになろうかと思いますが、外国から入ってくる写真集に掲載の写真で、男や女の性器が写っているところには黒塗りがされていました。いまならネットの中の写真でモザイクがかけられたもの。そういう施しがなされていない写真が手に入らなかったかといえば、それは内緒で手に入れるyことができたようです。温泉場で売られていた写真、なにかしら陰鬱なイメージを醸しだす写真ですが、これは、いま、ネットででも見られますが、モザイクというかぼかしが入っていて、そこのところは見られない。といいながら、奥の奥で見られるようになっているんですね。ネットの時代、サーバーが日本国内でなかったら、無修正でおいておくことができるとの、もっぱらの噂です。そういう時代の現在です。

-27-
 このまえに縁日の売り物で、反った丸棒が置かれたイメージを載せたところですが、この写真はその反り棒の真ん中あたりに描かれた絵です。なんともまたこれは、男と女の交情場面、戯れあっている図です。この反り棒がなにに使われたのか定かではないけれど、いろいろと想像させえくれる代物ではあります。先の方がくびれておれば、あきらかにそれは男の象徴だとわかって、それを使われるのは、と具体的に想像することにあるのですが、これは、いったい、何に使うための反りあがった丸棒なのかとおもうところです。

-28- 170820
京都にいるから特にそうなのかもしれないけれど、仏教や神道に興味がわきます。
とはいっても、仏教のことや神道のことを、どれだけ知っているのか。
この年になって、あらためて、そういう領域の知識は得てこなかったと思う。
1946年、戦争が終わってからの生まれで、時代のせいだったのかも知れない。
とくに信徒でもないから、無頓着に、宗教心のない人間として育った。
戦争が終わって半世紀というのは、宗教が希薄な時代であったと思う。
でも社会の深い所で宗教思想が、流れていたのかも知れない。
龍谷ミュージアムの平常展でしたが「仏教の思想と文化」を観ました。
七月に観て、今日観て、二回観たことになりますが、深くはわからない。
「インドから日本へ」というサブタイトルがついている展覧会です。
資料が並べられているけれど、それぞれの内容が十分に理解できない。
理屈で理解するなんて無理な自分は、感覚的にわかろうと思うのです。
死に向かっている最中だから、その来迎のきもちを受け入れよう、です。
掲載写真とは関係なくはなくて、大文字の送り火を見る人々。
ぼくもカメラを携えて、大文字の送り火を見ていた部類です。

-29-
人の生き方というか、人の生き様というか、思うところが多々あります。
人のことはどうでもよくて、とは思っていませんが、自分のことを思います。
写真に写った人は、ぼくではありませんが、なんどか露店のところで知りあいました。
浮世とか、この世とか、現世とか、言い方いろいろありますが、現実の場のこと。
京都には蓮台野という地帯があって、ぼくのいるあたりは、そのとっかかりです。
生きてることと、あの世のこと、生きているから思うこと。
一昨日でしたが、龍谷ミュージアムの展示を、ひとりで見に行きました。
同じ展示を7月に文字さんと見に行った<仏教の思想と文化>です。
おおきな世界に包まれて、いま、自分の存在があるんだ、なんて悟ったり。
でも、生きていくことは、食料にありつかないといけません。
食料にありつくために、人はさまざまに努力しなければいけません。
生きてる限り、食べ物を求めていかないと、いけない宿命ですね。
なんやかやいいながら、よく、ここまで生きてこられたなぁ、と思うところです。

-30-
 このまえ大八木元治さんと明石へ撮影に行きました。大八木さんは聞くところによると戦後間なしにこの明石へ仕事しに来たというのです。闇市のあったという魚の棚あたり。大八木さんは懐かしそうに見まわしていやはった、昭和五年生まれで当年87歳におなりになる。その明石というと、魚が美味しい町というイメージですが、そのとおり、ぼくはアナゴを見つけて買いました。タコとアナゴに明石鯛、それからたこ焼きのような明石焼き、食べ物の話ばかりですが、食べることは、いまや最大の関心ごとです。もうこの年齢になると、孤立無援、世の中と交じることがままならないところですが、だから、食べることは、金さえあれば、食べられる。

 食のことが美術手帳に取り上げられて特集「新しい食-未来をつくる、フード・スタディーズ-」となって書店に並んでいるので買いに行ったところです。久々、本屋さんに入って、物色して、そそくさと買って持ち帰ってきました。編集長の岩淵さんはIMIに来ていたので1997年ごろの当時から知っている学徒でした。慶応大学の文学部で勧誘するのに応じて大阪にやってきた。いつのまにか美術手帳の編集長に就任されて、美術手帳は創刊号のころから集めて、フォトハウス資料室に所蔵していたのが、1992年の写真図書館設立のあと、そこに預けていて、今の名称は大阪国際メディア図書館ですが、基礎資料の一角を占めています。

 食のことは、2004年に総合文化研究所を立ち上げたときのコンセプトの基調をなすテーマでした。農産物をつくる百姓、最先端芸術家の定義で、テクノロジーの先端を使った芸術に対抗するがごとくアナログにて生産することの芸術化を実践する輩を最先端芸術家とパロディーしたところ、今になって、決してパロディーではなく、新しいアートの形になっていくというではないか、これはそのとおりだと思うところです。総合文化研究所、むくむく通信社、アグリネットの系列は、反グローバル化の道筋です。アートは食のことを含んで、生きることの本質を包み込まなくては成立しないと思うんだけど、いかがかな、食うことが先、セックスだけじゃだめなんです。

-31-
 新世界には通天閣があります。通天閣といえば大阪。大阪の古臭い、ダサい、大阪のシンボルみたいなものでしょう。このまえ、久々、とはいっても一年ぶりくらいでしょうか、通天閣の見える新世界へ行ってみたんです。カメラを携えているから写真を撮りました。通天閣が写り込むようにとアングルを考えるわけです。日本国民の、といえば大袈裟すぎるか、大阪のシンボル的存在ですから、写真の説明をしなくても、新世界で撮った写真だ、とわかるんですね。すごいもんです、見る人の知識の中にそれは埋め込まれていて、写真を見ることで、その知識の光景が浮かび上がってくるんでしょうね。とうことは、そこに写されたものが、どれだけ認知度が高いかによって理解のされ方が違ってくる、ということでしょうか。

 愛欲と情念の京都案内という単行本を以前に買って、目の前の書架に並んでいるんですけど、作者は花房観音という名の女性、団鬼六賞を受賞されている御方で、ツイッターに記事をあげておられるので、ぼくのツイッターによく載ってきます。小説家さんです。ぼくなんぞは、小説を書いているといっても、表に出していえる代物じゃないから、あまり口にしないですが、青年の頃から、表現の中心は文章表現で、小説を手掛けたけれど20代半ばになっても様にならなくて、もたもたしているうちに、写真表現にはまってしまった、というわけです。愛欲と情念、この言葉が、字面がかもす感覚、感情というもの、これ、人間の性、とでもいえばいいのか、いまだからこそ、かなり公然と話ができる世の中になってきたんですね。

 ぼくが最初に通天閣が見える処へいったのは中学三年生の夏休みでした。徘徊というか彷徨というか、今の言葉でいうなら「プチ家出」みたいなもの、冒険しに京都から阪急電車に乗って、当時国鉄の環状線に乗って、そこへ行ったわけです。今JRの新今宮駅ですが、そこから通天閣への道は、じゃんじゃん横町を通っていくルートでした。このまえ確認すると、じゃんじゃん通り、とかになっていましたね。若い女子グループが、この狭いじゃんじゃん横町を歩いていて、昔懐かし射撃場に群がって、前の商品めがけてコルクの弾を撃っていました。射撃といえば、初めて新世界を訪れた時よりも五、六年も以前で、昭和でいえば31年頃、天神さんの縁日で人形落としの射撃をよくやったものです。お金は、一回10円だったと思うけど、どこからどうしてもらっていたんだろうか、小銭、どうして手に入れていたんでしょうか。とりとめなく、淡水雑記です。

-32-
 日本国内において発行や発信の写真や映像で、ウーマンアンダーヘアーが表立って目に触れることができるようになったのは、いつのことだったか。これは、それほど昔のことではないですね。その写真集はいまぼくの手元にはないから、正式な発行年月がわからないのだけれど、女優の樋口なんだったかさんのヌード写真集でしたね。ビニール本ではなかったように思います。日本における性風俗をあつかう書籍というか本や雑誌には、その部分を表してはいけなくて、これは現在においてもその通りであって、見せてはならないことになっているようです。ところが、アンダーヘアーについては、もう公然と表されていてもよいようです。とはいっても出版社やネット管理者のレベルで自主規制をかけているようなので、どこまでが表出可能なのかの、具体的なレベルはわかりません。

 世界の状況はよくわからないけれど、アンダーヘアーが写った写真というもの、日本よりもはるか以前にあったのかも知れません。これは考証するだけの資料をもちあわせてないから、何とも言えない。でも、1980年頃の状況でいえば、輸入写真集でヌードのアンダーヘアーには黒くマジックインクで塗りつぶされていたり、ナイフかなんかで擦って傷つけて見えないようにしてあるのもありました。もちろんアンダーヘアーだけではなくて、性器の露出、ということが、その奥にあるんだけれど、これは全くの開放だとはいえなくて、外国モノでも大人だけが見れるというような枠があるのではなかろうか。日本の状況でいえば、アンダーヘアーは解禁になったとはいっても、性器の露出は全面的禁止です。

 近年、浮世絵の春画が、日本では私設美術館で展覧会が催されました。浮世絵は絵画・版画であり、実写ではないからリアルな描写のそれを公開しても罪にはならなかったのでしょうか。静止画である写真や動画である映像は、現物がカメラの前にあって写されるということが前提だから、公開してはいけないのでしょうか。よくわからないですね。ただ、ネットの時代になって、通信網が国境を越えていて往来できるようになった現在、日本国内においても外国のサーバーにある画像や動画を見ることができます。かって1950年代だったか、読売アンデパンダン展に吉岡なんとか氏が女性器のクローズアップ写真を展示しようとしたところ、展示を断られたという事象がありました。まだまだ禁句の状態におかれているこの領域ですが、アートを考え、表現を考える領域において、ぼくは排除できない部分だとおもうんですが、いかがでしょうか。

-33- 171023
夜中には台風の窓をガタガタゆわせる音におののき眠られない思いを、目を覚ませた今、思い出します。かなりの強風で、最近には珍しいような雨風の音だったように感じます。何度も目が覚めたけれど、ベッドにいたきりだったから、うつらうつらと眠っていたのだと思う。朦朧、定かでない、夜中の時間のことは、まるで別世界です。内なる世界、そとにひろがる空天の宇宙のように、うちにひろがる身体の内面が、とてつもなく異様な世界へと導いていくかのようです。小野篁だったか、あの世とこの世を行き来した、と言い伝えられていますが、あれは、じつは、昼と夜の世界の違いを言い当てたのに違いない、と思えるのです。

いくつかの事象が、思い浮かんでは消えていくなかで、先ほどの夜半は、自分が今起こした表現塾のこと、第一ステージで参加してきて今はいないメンバーの最近の動向のこと、衆議院選挙における自民・公明党の圧倒的有利だったこと、目が覚めて、新聞の見出しを見ると、三分の二を確保、とあった。怖ろしい時代になった、虚しい気持ちが込みあがってくる。ああ、80年も前の戦前というのも、こんな気持ちを抱いた人がいたのに違いない、と思っていまここにいます。政治の枠組みのことには、ぼくはほぼ言及しませんが、内心は、自分の信念みたいなものもあって、徹底的に野党、外野、イメージ的には底辺からの発想です。ロシア革命において起ちあがったルンプロの群、そのなかのひとりがぼく自身であるようなイメージがあるのです。でも今や、飢えたる者よ起ちあがれ!、なんて失笑してしまいますね。

第一ステージに参加されてきて、結局はぼく自身が撤退に追い込まれたときのメンバーが展覧会を開いているのだが、心情的に見に行くことができない感覚なので、やっぱり見送ろうと思うところです。これまでは、表敬訪問という感覚で、損得勘定もいれながら判断していたように思えるけれど、それはもう、自分に忠実になればいいのではないか、と思ったところです。気分の乗らないことには向いていかない、自分を認めてもらえて迎え入れてもらえるところへ、おもむけばいいんじゃないか、です。善意という気持ちが交差する処、それを究極のところ求めている気がしています。偽善じゃない、張りぼてじゃない、生きている感情を豊かな方へつくっていける関係を求めて、です。昨夜、孫ちゃんの誕生日会に同伴したけれど、娘の対応に交感が持てたことに、ホッと安堵の気持ち、雨風の中、自宅に戻ってきて、選挙報道と台風情報を交差させながら見聞きしていたところでした。

-34-
 BL小説というジャンルがあることは知っていた。ボーイズラブということだ、ということだけど、男の子同士の愛、ということで、その内容については、ぼくにはわからない。一方で腐女子という呼び名を見たことがあって、腐った女の子、どういうことだろうと、そういえば10年ほど前に意識したこともありました。サブカルチャー、サブカルという領域があることは知っていても、具体的な内容はわかりません。昨日、ギャラリー176で開催されている高津吉則さんの写真展のトークイベントに参加したなかで、社会学というのか心理学というのか、そのレベルからのコスプレ女子たちへの、現象と内面の話のなかで、出てきた用語です。BL小説を読む女子のことを腐女子というのだそうです。BL小説を書く人は、男子なのか女子なのか、聞くのを忘れてた、女子なのか、男子なのか、興味ある処ですが、どっちもあるのかもしれません。

 性にまつわる恋愛とか、変質といわれる女装とか、実際には表立っては隠された領域の、人の内面と表装に興味があるといっても、具体的な考証とかに及んだことが無いので、昨日の話は、新鮮でした。ぼく自身が、小説を、ネット上でフィクションを試みているのは、そこに自分の興味の立脚点があるから、のような気がしてきます。たしかにそれらが世に隠れて多く発表されてくるのは、世相ということの内側を表現することなのかも知れません。ぼくの知る資料といえば、ネットで配信されている奇譚クラブらがスキャンされた領域で、男がつくる女の扱いそのもの、商用になったレベルの書籍だったり雑誌だったり、そのなかの記事であり写真でありです。動画は、最近のビデオ装置ができてからのものだから、今の時代、といえばいいのかも知れない。ネットを通じて膨大に保存されている領域で、それなりに見ることができる。

 今の時代、内面の時代、個人の内面を表に出すこと、これ表現すること、そのものだと思えます。小説にしては、私小説の領域といえばいいのかも知れない。写真=実写の静止画しては、私写真の領域といえるのだろうか。といって写真の私写真といえば、どのような作家の作品をいうのだろうか、いま、考えています。荒木の写真が私写真といわれているけれど、私と絵面・被写体との関係というのは、どういうことなのでしょうか。内面の性的なことをイメージに現わして、それのように思わせることだろうか。このときの「それ」とはなんといえばいいのか。セックスそのもの、性にまつわるそのことそのもの、男は女に、女は男に、それと男同士、女同士という感情の交流ということを思えばいいのか。ぼくはいま、ちょっとこれまで言及してこなかった領域に足を踏み入れようとしているような気がします。匿名ではなくて、実名でのなかで、表していくのがいいのかも知れないと。

-35- 171105
訪ねた相手は不在であった、なんて太宰の小説の一説を思い起こします、斜陽でしたか、かず子さんでしたか、すがるような気持で訪ねた相手がいなくておうどんを食べる、という場面があったんですけど、それに似た気持ちでした。太宰といえば、ぼくは女生徒という作品がお気に入りでした。でした、という過去形ではなくて、たぶん今もお気に入りのはずです。というのも太宰の女生徒に触発されて、ぼくの現在の小説の大半が書かれたものだ、と自認しているから、そうおもうわけです。太宰がいまもって若い世代の人たちに読まれているということは、そういうことなんだろうか、癒しの文学、壊れいく精神を支えてくれる文学、小説、問いっていいのかも知れません。

 人間失格という、あの恐ろしい気持ちにさせる小説があるじゃないですか。もちろん、個人差があるとは思うけど、その子は、友達たちが言うほど、驚かなかった、と言った。それは、その子の魅力というか小悪魔的な感覚にさせる要因だったのかも知れません。老人の心をしだいにわしづかみにして、ああ、まるであの女生徒みたいに、見え隠れしながら、ぼくを深く傷つけて、どうしようもなく狂うほどに、繊細に、生命の起源を鋭いナイフで切り裂くようにして、きたじゃないですか。なんだったのだろうか、リセットしても、イメージだけは残されて、あとは時間が過ぎれば遠くの果てに行ってしまうとは思うけど、まだまだ、そこにまでは至っていません。

 もくろみの形としてはできたところですが、中身が伴わないからでしょうか、なんの肩書も捨てた人に興味を示してくれたとしても、くる人なんていないことがわかって、ここでまたリセットしながら、新しい関係を結べる可能性のところへ、船出しようとした矢先のことでした。失意のうちについえ去るのは、どうしてもできないから、せめて人生これでよかったといえる結果がほしいところです。内面の物語は、表現の対象になります。フォトハウス表現塾、ここに行き着いた旅人として、それがどのような形で残せるかということです。残された年月、時間、そんなにあるとは思えないから、切羽詰まってくるのでしょうか。もうやり直しがきかない、最後の砦だと思えるのです。久々に太宰のことを思い出しておりました。

-36-
 京都の観光地へ行くと、なんだか着物姿の女子がやたらと多いですね。西の観光地、嵐山へ行きましたが、レンタルの着物を着て、京都の土産に漬物を買う、なんて光景に出くわしました。漬物が、どうして京都を代表する土産になったのか、それは、ぼくには、どうしてだかわからない。まあ、でも、イメージを作りあげるディレクターがいて、長年にかけて京都イメージの中に組み入れてきたんだと思う。漬物でいえば、千本通りの今出川から寺之内にかけて漬物屋さんがあります。ぼくの子供の頃には小さなお店という感じで、お漬物屋さん。いまや、観光ブームに乗ってかどうかは知らないけれど、有名店になって、店の構えもいかにも京都というイメージで造られているんですね。イメージを作るかというのは、いまや、表現の基本でしょうね。

 作られたイメージの町、京都です。長年、というか生まれてこのかた、京都に住んでいる自分としては、観光客にもなりきれず、地場の住人にもなりきれず、なんともはや中途半端な気持ち、つまり居場所がない感じがしてならない。京都の人間には、表と裏があって、複雑系だと言われているようですが、別にそれは理屈であって、人間には、そういう側面があるのではないでしょうか。特に近代以降の人間といえるかどうかわからないけど、偏屈で、内面で何を思っているのかわからない。たぶん文化度という尺度で計ったら、内面の発達というか、自分を考えるサイクルがあるんじゃないか。自分を考えるサイクルって、内面そのもので、他者が介入する余地がない、そういう領域、内面ですね。話がとんでもないところへ来てしまいましたね。

 人間の本能って生存するための条件を手に入れるために為すことで、食べること、生殖すること、そのために外観を飾ること、本能から派生してそれを実現するために競争原理の中に放り込まれる。人間には個々に資質というものがあって、闘争心の強いやつ、そうではないやつ、弱いやつ、そういうやつは生きにくい、負け犬ということか。どうなんでしょうかね、そういう強弱のある世の中、いつごろから生じているんでしょうかね。弥生時代になって、農耕が営まれるようになって、階級が作られてくると読んだことがありますが、それに先立つ縄文時代には、平等だったのか、あくまで想像にすぎないけれど、共助の精神だった、というけれど、闘争心は本能ではなくて、作られてきたもの、そうかなぁ、そうかも知れないけど、たぶん、生きる極限においては、力の強いやつが生き残る、でしょうね。