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最新更新日 2018.5.24
淡水雑記
中川繁夫:著

 山紫水明blogに連載の文章

淡水雑記-4- 物語9編
 37~39 2017.12.1~2017.12.31
物語9編
 1~9 2018.2.4~2018.3.8

   

-37-
 12月になったというだけで、気持ちが忙しくなってきた感じです。寒くなってきたので灯油のストーブを入れたけれど、ムッとするくらい暖かい風が吹き出ています。なにから手をつけようかな、と迷います。ここにあげた写真にしても、載せたい写真があるけれど、それをここに載せるとイメージに合わないから、と思うと何を載せようかと、けっこう迷ってしまいます。ここへ来て、この記事を書くのが、今日の最初の記事です。書いておかないといけないブログとか、優先順位からいうとここはどうでもいい順位です。むしろ、本音近いところだから大事にしているけれど、あまり優先できないと思うのです。ここは創作、小説、フィクションのレベルで扱いたいブログだと思っています。淡水なんて名前にしても、どうやらいかがわしいイメージがしていて、最初にはけっこう迷ったペンネームなわけです。

 いまさら文学賞なんて狙ってなんていませんけれど、それなりの文章を書きたいな、とは思うところです。17の頃に詩集を出した。たいしたことないです。ぺらぺらのガリ版刷りの詩集です。三号を編集中に辞めてしまいました。こうして記憶をよみがえらせると、その当時の出来事が、つまり詩集を発行するという作業の背後にあった思いというか感情を思い出してきます。昨日、バスで徘徊していて、卒業した高校の前を通りました。その当時から半世紀が経っているから、市街化された周辺は様変わりしています。その光景と、記憶の光景が交錯して、バスの窓から見る学校の、校舎の、そこらへんに彼女らがちらついて見えるじゃありませんか。妄想というか幻想というか、現実には記憶の像でしかないけれど、かなりはっきりと見えるわけです。その後の今に至る人生の大きな屈折点がその時のなかにあるように思えます。今もってです。

 フォトハウス表現塾なる考えを形にして、昨日、写真講座を受けて頂く人を募集しはじめました。広報というやつです。共同でやりたいと思って、今年の春先から紆余曲折、あっちいったりこっちにきたりで、紆余曲折。なによりも金を使わなくて、収益もあまり考えられなくて、事業といっても些細なことなのに、これしかできない。金をかけて、場所を確保したりパンフを作ったり、もちろんそれらには対価が支払われるわけですが、ぼくにはそういうお金がないから、ひとの善意に頼るしかないところです。なにかしら、空しい気持ちになりますが、負けてはならない、やられたらやりかえす、そういう思いだけが頭の中をよぎるのです。ここから成熟していくことを、願ってやまない気持ちです。こういう無資本のプロジェクトに賛同していただけるメンバーが集まっていければいいんですが、善意だけではやっていけないのかも知れないですね。

-38-
何度かにわたって寫眞と題して、一回に10枚の写真をアップしてアルバムを作っています。ここ最近は奈良の香具山へ取材にいって撮った写真、順次、第一セレクトの段階の写真を載せています。神代の出来事なんて、事実ではなく、想像のたまものだといっても、けっこう興味ある領域になってきています。これは人生、長老になってきて、想像力の世界がひろがっている証拠のようにも感じていて、それを受けとめようという心理です。若いころには実存主義だ、弁証法だ、史的唯物論だ、哲学的なあの手この手を身につけて、語って、それらの知識で自分という鎧をつけようと思っていたように思います。いま、古希を迎え終えて、いまさら、そんな論理より、想像力、空想力、そういった雲の上の出来事のような、ふわふわに興味を持ち、そのなかで生を終えていければ、幸せなんだろうな、と思うようにもなってきています。

かなり昔の、といっても所詮60年ほど前の光景ですが、写真があります。それをここにコピーして載せます。ここには自分も写っていて、気恥ずかしい限りですが、長年、写真とは何か、なんてこと考えてきて、いまだに結論なんて導けていないけれど、ロラン・バルトは母が写った写真をもって、一つの結論らしきものを導いたと思っています。その枠組みから写真についての論を導くならば、ぼくが写った写真、ぼくの家族が写った写真、これらの写真が持つ、その意味を問うことから、もう、写真を離れて、これは哲学だろうか、論理学だろうか、理性で説くより情で説く方が理にかなっているようにもイメージしています。情なんですよ、情感なんですよ、それの伝達媒体が写真という静止した画像の示す意味、分かりにくいな、写真とは何か、ということの答えに近いところで、情、という感覚かも知れないと思うのです。
(続く)

-39- 2017.12.31
 ピエタの像、マリアに抱かれるピエタさま、というところでしょうか。どうしたわけか、手振れが起こっていて画像がぶれていますが、撮るときに心がふるえていたからだとも思っています。もう十数年前のイタリア旅行のときに、撮った一枚です。いま、ちょうど、大晦日の午後二時です。ベートーベンの第九交響曲を聴いています。第二楽章あたりをやっています。トスカニーニ指揮、1952年録音、でしょうか。もう半世紀以上も前の演奏ですね。音響設備が、どんどん良くなって迫力ある音に再現されますが、それでいいというのではないですね。内容、なかみ、それが一番の関心ごとにならないといけないはずですね。なにごとも外見ばっかりで中味の事がおろそかになる、というより論じられることが少ないですね。この中味とは、それが人間個人の感情に、どう入っていくのかということでしょうか。

 感情のことが表面に起ってきて論じられるという手法あるいは内容は、たぶん、最近のことではないでしょうか。ぼくは主たる論の現在形は、この感情というか、情に根ざした論を書き込むことではないのか、と考えています。大きな世界の出来事を、事実だとして論じる論じ方も必要であろうと思いますが、そうではなくて小さなことかも知れないけれど、情のこと、情の事、情事なんていうちょっと裏側的なイメージの言葉にみちびかれていきそうですが、そうではなくて、情のことです。なに?、不倫ってことをマスコミがとらえます。マスコミと言ってもスキャンダルな側面で、週刊誌ネタですね、正当な社会からは、情事はいけないこととなるようですね。でも、多くの人の関心ごとが、そういうスキャンダルを好む、とくに性にまつわるスキャンダルは興味津々ということでしょう。

 表現において、情を主体にするというのは、現在形の有効な考え方だと思っています。タブーにしてはいけない。そう考えています。でも、それは淫らなとか、不健全とか、なにか別のモノという感覚で捉えようとしているところで、芸術の真髄を否定したらいけないよ、と言いたいところです。心のあり方、精神の真髄、それらは人を愛するという基本的なところに立って、物事を考えないといけないと思うのです。第九の合唱のところです、心が洗われるとは、こういう感覚をいうのでしょうか、細い、繊細な、愛情の滴り、とでもいえそうな音です。ピエタの像もベートーベンの第九も、日本的じゃなくて、ヨーロッパ的ですね。これはぼくが」受けた教育によるところから来ている感覚です。戦後からの半世紀は、日本的なんてことは主たる関心ごとからは排除されてきたように思えます。そうですね、ここは日本、極東の文化のなかです。

物語

-1- 或る物語
 京都の北西というと北野天満宮があり、金閣寺があるあたり一帯を西陣といっています。西陣という名称の由来は、応仁の乱で西と東にわかれて戦い、西軍の陣地が置かれたことに由来しています。船岡山にその陣があり、東の陣は上御霊神社にあったらしい。上御霊神社へ赴くと、応仁の乱勃発の地との石碑があるから、そのようです。なにやらあやふやにいうのは、現実に見ていないからです。現実に見ていないけれど、ここに書くというのは、これはフィクション、作り物語なのです。男と女が登場する物語ですが、これは昭和の中頃の出来事です。昭和は63年までありましたが、中頃というと昭和31年前後のことです。西暦いえば1956年あたりということになります。この年に何があったかというと売春防止法が制定されているんです。その頃の男と女の出来事を、書いてみようと思うのです。

 その子の名はタエ子といいます。中学三年生になっていました。そのタエ子に好きな男子ができたというのです。タエ子は、そのことを誰にも打ち明けられずにいました。同級生の男子で、おとなしいけれど勉強はそこそこできてクラスでは上位いるという話を、タエ子は聞いたのです。タエ子は三人姉妹の真ん中で、勉強はあまるできなくて、中学を卒業したら就職する手配になっていました。そんなタエ子が、初恋です。好きになった男子と話をしたい、友だちになりたい、お付き合いをしたい、と思うようになったのです。学校の帰り道が同じ方角なので、自分を知ってもらうための方策を考えます。手紙を書いて渡す。これはラブレターですから、文章を書かないといけません。でもタエ子には、それだけの文章力が、ないように思われ、少女雑誌のなかから恋文という文章があったので、それをまねて書くことにしたのです。

 「わたしはタエ子ともうします。キミのことが好きです。お友だちになっていただけませんか。」これだけの文面ですが、ノートを一枚ちぎって、鉛筆で書いて、四つ折りにして、好きな男子のカバンに入れてしまうという行為に至ったのでした。カバンに手紙を挟んでからというもの、ドキドキしながら武夫の様子を見ます。武夫の反応は何もなく、タエ子はとっても不安な気持ちになってきます。さて、その紙切れを発見した武夫は、タエ子という女子を知らないわけではなくて、なにかしら見られているという意識を抱き始めたとことでした。好きとか嫌いとか、そういう感情はなくて、でも女子への憧れは、並みの男子だから、ありました。女子への興味は、好き嫌いというより、からだのことです。男と違う女のからだ、その違うことへの興味です。

-2-
 タエ子にはお小遣いをくれる小父さんがいるのでした。週に一遍、会ってお話をして、五番町の二人だけになる料理旅館のお部屋で二機関ほど過ごすと、五百円もらえるのです。小父さんの仕事はお寿司屋さんでお寿司を握るひと。千本中立売を上がったところから、千本京極という歓楽街があって、その入り口にあたるところに甘党喫茶の店があって、タエ子はその店、タマヤという名の喫茶店に夜の七時に入って小父さんを待つのです。あんみつ姫という映画を見たから、あんみつを食べます。甘い、あんこがたまらなく美味しい、タエ子は好きになったのです。そのうち小父さんがやってきて、タエ子の前に座って、ミルクコーヒーをお飲みになるんです。
「なあ、タエ子、おかあさん、何かゆうてるんちがうか」
小父さんと知り合ってもう三か月を過ぎていて、週に一遍、こうして夜に家を空けるタエ
子のことを、母親はなんと思っているのか、小父さんは気になるのです。娘の年頃、タエ子は年齢からいって親子ほどの年齢差です。タエ子が15歳、小父さんは40歳を越えたところです。
「おかあちゃん、夜、いやへんから、大丈夫なんよ」
「お姉ちゃんがいるやろ、なんいもゆわへんか」
「姉ちゃん、遅くなっても、心配しやへん、わたしのこと知らん顔」
「そうなん、タエ子、可愛いな、今夜も12時までなら、ええんやな」
小父さんは、タエ子をいつもの料理旅館、市田へ連れていきます。

 タエ子は中学三年生の夏休み、千本中立売のお寿司屋さんでアルバイトしたのです。小父さんはそのお寿司屋さんで、寿司を握っている職人さんです。米を炊くのは住み込みのお姉さんですが、炊けて大きな平桶にご飯がひろげられ、酢がまぶされるのですが、そのときアルバイトのタエ子が、うちわで湯気立つご飯をあおぐのです。小父さんがそのタエ子に、フルーツポンチとか、アイスクリームとかをおごってもらうようになったのでした。
「ええことしにいこ、お金あげるから、内緒やで」
三回目におごってもらったとき、タエ子の夏休みが終わるので、アルバイトができなくなるというので、小父さんが送別会だといって、タマヤでケーキを注文してくれて、料理を食べに行こうといって、その足で、五番町の市田へ、連れられていったのです。
「タエ子は女の子やから、知ってると思うけどなぁ」
「うん、うち、知ってるよ、女は、男に、抱かれるんやって」
「そうか、それで、小父さんは、男やから、抱いてええんか」
「抱いてええけど、赤ちゃんでけへんようにしてね」
タエ子は処女でした。裸にして、股をひろげさせ、指でそこをなぞると,いたい、といったのです。
「いたいけど、がまんし、つぎは、いたいことあらへんから」
遊び人の小父さんは、あっさりと中学三年生のタエ子と、座布団を下敷きにして抱きあって、男と女の関係にしてしまったのです。

-3-
 武夫がタエ子から恋文のような、メモのような紙切れを受け取ったのは、12月のことです。中学三年生、高校受験を控えていた武夫ですが、タエ子は高校へは進学せずに就職するという手配になっていて、家から自転車で通える電機製造工場で働くことになっていたのです。九州の田舎などで中学を卒業した男子や女子は、集団で都会へ就職してきます。そのことでいえばタエ子は境地に生まれ京都に育った女子です。巫女になりたいとタエ子は母に言ったことがありました。でも、母は新興宗教に首ったけだったから、巫女になることを許さなかったのです。武夫のほうはといえば高校進学です。公立高校の普通科を目指していて、それは十分に受かるレベルにありました。学校からの帰り道、夕方五時といえば暗くなってきた時間です。曲がり角でタエ子が武夫を待ち受けていたのです。

 「うん、キミの事、知ってるよ、友だちになってもええけど、高校の試験あるから」
タエ子が待ち伏せしていたのは、その日に限ったことではなくて、ほぼ毎日といってよかった。武夫の興味を引くために、話しかけはしてこなかったが、手紙がカバンに入れられていて、それから数日後、タエ子が武夫の前に立ちはだかったのです。
「受験するの、わかってるけど、わたしは、就職するの、だから、思い出が、ほしいの」
少女雑誌のなかで、男子に告白するセリフがあって、タエ子はそのことを覚えて暗記して、うつむいて武夫に言ったのです。武夫は断らない。断れない性格で、というより女子への憧れがあったから、友だちになることを受け入れたのです。中学の学区だから家と家、多少の距離はあるけれど、自転車なら五分とかからないところに住んでいるタエ子と武夫です。

 それから年末になって、正月になって、武夫はタエ子に誘われるがまま、千本中立売の甘党喫茶店タマヤで話をするようになったのです。タマヤといえばタエ子は小父さんと待ち合わせる店です。タエ子は慣れたことで、お小遣もあったから、武夫におごってやるのです。武夫はホットケーキとミルクセーキのセットで八十円、武夫が頼むとタエ子も同じものを頼んで、食べるという段取りです。仲の良い二人、中学三年生だから喫茶店へ入っていることを先生に見つかると補導される。タエ子と武夫は、入り口のドアからは見えない、奥まったところに隠れるようにして向かい合ったのです。
「お寿司やの、小父さんが、おこずかいをくれるのよ、だから、おごってあげるん」
「そうなん、タエちゃん、お金、持ってるんや、ぼくは、週に100円もらうんやけど」
武夫には、タエ子が一晩五百円もらってる、といってもピンとこないけど、タエ子は女子、学校の保健で身体のことを教わったし、姉の仕草を見ていて、教えられるまでもなく、メンスの事や、男の事を、覚えてしまったのです。


-4- 物語
 一年ほどまえに、ここに書きだした「或る物語」というのがあって、それが書きだしのところで終わっているので、その続きを書こうかと思いながら、いやいや、いまさら、今どきは、ショート、ショートで、輪を描くようにリンクさせていくのがベターではないか、とこの一年の推移を、自分ながらに思うわけです。物語とはいっても、まったくの空想なんてありえなくて、どっかで得たイメージを繋ぎ合わせて別のイメージに仕上げていくということに他ならないわけです。ここに掲載した写真、今日、2018年2月7日、北野天満宮の参道で撮った一枚、鳥居のある風景です。もちろん撮るときのプロセスには、この場所の由来を述べることで意味を持たせようとの魂胆があったわけです。なにもない土のところに、ぼくの脳裏には幻想的にあるイメージが立ち昇ってきます。それは母の姿で、この鳥居の横に、露店の店を出していて、何を売っていたのか、ぼくがいくと、人だかりのなかで母が応対していた。そういうイメージが立ち昇ってくるのでした。いつもの事です。たいてい、ここをこのようにして通るときには、母のイメージを思い出します。割烹着のエプロンを着ていたと思います。お正月で、煙硝をつめてパンパンと鳴らす黒塗りの手の中に収まるブリキの鉄砲を売っていたようです。そうだ、正月の子供のお年玉を当てにして、男の子がよろこぶ煙硝の鉄砲だ。小学校の二年か三年ごろ、そういう玩具でパンパンと、ロールになった煙硝でしたね、そういう玩具を売っていた。それが母なのか他人のおばさんなのか、複雑な思いで、ぼくはその母のいる光景を眺めていた、その光景がイメージされてきます。

-5-
気になるイメージが見つかったのでそれを載せてみた。明日香にある飛鳥寺の大仏だ。ぼくはなんの前知識もなく、彼女と訪れたところに飛鳥寺があって、拝観料を払って、拝観させてもらった。写真を撮ってもよろしいというので、写真を何枚か撮った一枚がこれです。日本で一番古い大仏だと聞いたが、本当なのだろうか。いつ頃なのだろうか。六世紀のころの話らしい。最近、日本の成り立ちに興味をもってきたので、ほんの少しだけそのころの知識を持つ様になった。古事記に描かれる神話もさることながら、国家の成立というか、人間のありさまというか、自分のルーツをどこに求めるかということとか、このあたりがそこへ興味をもっていかせる要因なのかも知れない。

 物語を作ろうと思って、表題を物語としているけれど、いざ書き起こそうとすると、何を書いていこうかと迷う。つまり内容がない。書く内容がない。描くイメージはあっても、文章に落とせないのです。なにしてるんやろ、みたいなことがポッと起こってきて、わけわからなくなってきて、あっちいってこっちきて、うろたえているのが、わかります。生きてるって、どういうことなのか、回答のしようがない問いがふつふつと起こってきて、やっぱりうろたえている。まもなく死ぬ、なんて考えたくなくても考えてしまうわけで、どんなことがあっても100歳まで生きるとしても、30年に満たない。いいとこあと10年ほど、あるのだろうか。こうしてパソコンに向かって、キーボードを打っていけるだけの気力と体力と身体の神経そのものが持てるのかどうか。わからないところまできている。

 あのとき、どうして、別れようと思えたのかといえば、キミが別の男と関係してることが分かったからで、それは僕たちの終わりを示していた。それから何十年ぶりかで会ったとき、ただキミがそこにいたことに、生きていた証しを覚えた。その後、キミに子供がいて、独立する年頃になっていて、旦那はどうなのか、それらを聞くことも為らないまま、今に至っている。それが、どうした、といえば、それまでのことで、人の関係なんてものは、それだけのモノ、その後の消息がわかっただけでも、いいじゃないか。とまあ、そう思うわけだ。感情が伴わないから、かなり冷静に見つめることができる。キミに愛を告白したわけでもなく、関係を持とうとしても持てなかった関係だから、最初から、何もなかったことでしかない。まるで、夢、幻、この世の出来事だったのかどうなのか、それすら不明瞭なことだ。

-6-
 その頃、1982年といえば、まだワープロが貴重な機器で、オフィスといえども一般には高価で手に入らないものだった。東松照明論と題した原稿用紙の束が見つかって、書かれた年を確認したら1982年。その原稿はタイプ打ちされて、映像情報第九号に掲載された。どうしてなのか、その原稿のことを思いだして、棚から出して、スマホのインスタグラムにアップするべく撮った。ナマ原稿とはいえ、書き直して清書したやつで、元はといえば何度も書き込みをしたものだったと思う。原稿用紙に書いて、それをタイプ打ちしてくれる人に頼む。もしくは印刷屋さんを通じて頼む。出版社とはいっても自分出版だから、その原稿をタイプ打ちにして校正して、印刷原稿にしなければならない。それらを自分の手元でやっていて、タイプは事務用のタイプライターでした。ワープロはその後で、パソコンもその後で、いまや、パソコン一つですごいことまで出来るようになっている。

 1962年に高校に進学することになって、入部したのが新聞部でした。一年間で辞めてしまったが、当時は活版印刷で、活字を拾って組んで、印刷機にかかるということ。高校一年の時に、その現場に立ち会った。その後には小物を扱う印刷屋さんにアルバイトした。活字を拾って組んで印刷機にかける。薄暗い裸電球のもとで、夏にはクーラーもなく、裸同然、扇風機の生温い風にふかれて、労働した。いかにも労働者とゆうイメージで、労働運動を担うある種インテリ労働者、ストライキとか、デモとか、そういう時代だった。話は横道にそれたが、原稿用紙に原稿を書いて、タイプで打って、切って貼っての構成をして、版下をつくる。その版下で印刷機にかける。そういう時代のことを思い出しながら、その当時の原稿と、発表した雑誌のページをインスタしたわけだ。

 自己表現の方法と、それを実現する方法というか道具について見てみれば、この半世紀、大きく変化している。かっては手が届かなかった発信環境、それを最近の環境でいえば、放送、出版、といったメディアを、個人で作って、発信できるようになった、ということだ。おおきな資本がなくとも、個人の許す限りの出費で実現するわけだ。パソコンとデジタルカメラ、という環境から、今ではスマホだけで対応できる。もちろん、欲を言えばきりがなくて、およびスマホにしても回線使用料とかいるから、無償ではないけれど、極端に廉価でできるようになった時代だ。半世紀、原稿用紙に書いて、活字を並べて版下つくって、印刷するという原稿作り。それを紙に印刷、書籍や雑誌にしていくといったことから、スマホで用意された環境だけど、かなりイージーに発信できるのが現在だ、ということなのだ。

-7-
 現代文学大系というシリーズが筑摩書房から出版されていたのが1960年代の半ばだった。そのようにいえるのは、その文学大系の55番、野間宏集が手元にあるからだ。この現代文学大系は全巻揃いで手元にあって、そのころ、片っ端からこの全集を読んでいたものだった。文学全集もほとんど手元からなくなってしまったけれど、この現代文学大系はほかさずに残っている。片っ端から読んだ、というのはかなりの嘘が混じっていて、読んだことは読んだが、全部読んだなんてことはなくて、まだ開いたこともない巻があるのではないかと思うくらいだ。ともあれ、明治以降の近代文学を読み解いて、自分のベースにしようと思っていたことは事実で、日本近代文学史はおおむね体系的に捉えられたと思う。そのころ「我らの文学」だったかのシリーズがあり、これは1960年代の現在文学であった。開高健なんか、とんでもなく面白くって、ぐいぐい読んでしまった記憶だ。詩歌全集とか、個人別では大江健三郎全作品とか。

 しかし、こういうベーシックな意識と感覚を根底にして、自分の文体を創り出し、自分のテーマを描いていって、読者を獲得する、というか感動させる。このことができるか否かが問題だ。ということでいえば、ぼくは挫折組であって、なんにも成熟なんてしていかなくて、昔、こんなことがあったよ、とまるで自慢話のようにして生徒を前にして語る。先生したこともあるし、学校作りに携わったこともあるけれど、ぼくは、作家を目指しながら、そうとはならなくて、その周辺で、うだうだとほざいているにすぎない。感動させるための要素は何か、そんなことわかりそうでわからない。わかったら苦労するもんか、ということだ。自分でもわかっているのだ。わかっているけど、やめられない。そういうレベルだから、ぼくは威張ることはしません。恐縮してしまう立場だけど、それにはあまりにも空しすぎて、淋しすぎて、苦慮しているのだ。

 文芸春秋の今月号は、芥川賞受賞作品二編が載った号だから、買った。読むかどうかはまだ未定だが、西部暹さんの死についての対談が載っていたので、それを読んだ。追悼の文だと思う。実際には、ぼくは西部暹さんの著作は読んでいません。名前は15年ほど前に知りました。そういう思想の世界に近づきたかったけれど、近づく接点もなく、遠目に眺めているだけだった。それから2004年頃から、ぼくはフィクションを書き出していて、いま恥ずかしいながら、再読しているところで、ぼく自身の痕跡を、ぼく自身が検証しているところです。自分を分析するなんて、自己満足に過ぎなくて、だれも相手にしてくれないから、それは自分でやるしかないじゃないかという。死んでしまえばそれまでで、ぼくの作業してきた痕跡は、封鎖され、消えていくのだ。恥ずかしいこと、いっぱいしているから、生前に消しておいた方が良いかもしれない。

-8- 嵯峨野に想う
 嵯峨は京都の北西部、双ヶ岡を越え、広沢の池を越え、山ぎわを歩んでいったあたりが嵯峨。ネットで検索すると「嵯峨」「嵯峨野」は、太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称だ、と記されています。ぼくの通った高等学校が嵯峨野高校だったといっても、もう半世紀以上も前に卒業だから、現在の有名進学高校というよりはもう少し鄙びた感じの田舎の高校というイメージでした。その高校から歩いて広沢の池までいって、貸ボートにのって池で遊んだものでした。そういう嵯峨のイメージだけど、しだいにこの嵯峨という名前に、ぼくはある種、古典の風情を感じるようになったのです。たとえば紫式部の源氏物語とか、清少納言の枕草子とか、文学においても古典のなかで、名作を生んだ地域の感性でしょう。

 千鶴子さんは嵯峨野高等学校の卒業生です。広江さんは嵯峨野高等学校の卒業生です。美花さんも嵯峨野高等学校の卒業生です。千鶴子さんはぼくと同じ学年でした。広江さんはぼくより二十年ほど後輩になります。美花さんはぼくより四十年ほど後輩になります。いずれの方も思い出深い女性で、嵯峨の地に十代を過ごされて、やさしい心をお持ちになった包容力のあるお方でした。嵯峨のあたりを散策すると、そのご三方のお顔が、浮かんでは消えていくのです。恋心を抱いたお方ですから、心から消えてしまうことはありません。千鶴子さんはその後の消息がわかりません。広江さんのことは、最近、画家をやっていらっしゃることを知りました。美花さんは、その後の消息がわからなくなってしまいました。嵯峨の野に母のようにしてぼくの心に残ります。ことあるごとに思い出してしまいます。もうお会いすることもないのだと思うと、壊れてしまいそうになります。

 嵯峨大覚寺の裏になる所に名古曽という地名があって、最近、その場所が、高貴なお方の住居があった所だということを知りました。その高貴なお方が住まわれてたのは一千年以上も前のことになり、その後には大覚寺の敷地になっているようです。それはさておき、その名古曽という所の民家に住まっていた女子がおられました。ご存命ならば、古希を迎えられた方ですが、その後の消息がわかりません。先に記した千鶴子さんではありません。そのお方は、一年下のお方で、お姫様のようでした。その方のイメージは、別の所で別人として出会うことになりましたが、本人とは出会うことができませんでした。嵯峨の地には、思い出がたくさんあります。ぼくが生きている心の基底が、そこに支えられているような気がしてなりません。野辺の花が間もなく咲きだします。野辺の花一輪のかよわさとやさしさに、ぼくは支えられているのだと感じるのです。

-9-
 16歳になるとき学ぶ高校が決まって、その高校の名前が嵯峨野高校でした。それまでは、街の中に住んでいた身にとって郊外に所在する高校にいくことになるなど、思いもかけないことでした。当時の京都市内の中学校から公立高校の普通科に通えるのは、個人の選択ではなくて小学区ごとの割り当てで決められていました。前の学年の人は山城高校でしたから、当然の事、ぼくもそこへ行くことになる予定でした。が新聞紙上での発表を見ると、嵯峨野高校になっていました。嵐電の北野白梅町駅から嵐山の方へ、帷子ノ辻の一つ手前の駅、常盤の駅前にある学校です。まわりは農地で、田舎な感じがして、都会センスを失う感じがして、行く気がしない気分にもなって入学式を迎えました。

 住めば都という諺があるように、その学校に慣れていきます。高校野球の夏の選抜大会予選に出場するというので応援にいきます。応援といっても応援団があったのかどうか、ブラスバンドはありませんでした。強いわけがなく最初の試合で敗退していました。入学してすぐのことだったかと思います。気になる女子があらわれました。きっかけはわかりません、なにに惹かれていったのか、わかりません。かわった女子というか、田舎っぽい女子というか、訳ありそうな女子で、夏休み前には気になっていて、40日間の夏休みが哀しみの夏に思えた気持ちがよみがえってきます。初恋ではありませんでしたが、好きになって会話を交わすようになった最初の女子でしたから、これを初恋というべきかも知れません。誘われるままに青少年赤十字のクラブに入部しました。興味のあった新聞部に入部しました。クラブはこの二つで、青少年赤十字は夏のおわりに辞めました。新聞部は、その年のおわりまで在籍していて、先輩になる林という男子の影響をうけます。

 思想的なことはまだわかりません。青少年赤十字が右系だとすれば新聞部は左系的な区分けでしょうか。どちらのクラブも女子が多かったように思います。一年先輩だから二年生の女子たち。いまも何人もの顔を思い出しますが、まるでお姉さまで、まるで弟扱いされたような気がします。新聞部にいた女子は、良家の子みたいな風にみえます。部室のテーブルを囲んだ長椅子に座って隣に女子がいて、押し合う格好で横に並んで、先輩女子は、いいのよいいのよ、と言いながらぐいぐいと腰を寄せてきたのです。そんなに接近して密着するなんて初めての事だし、相手が女子だし、久我美子みたいは顔立ちなので、その密着した女子は好意をもった先輩でしたから、内心、あわてふためき、青春の感性を揺すられました。女子はしょせん女子なので、友達になって交流するということはありませんでしたが、気になったひとりだけに、高校生活の三年間を揺すられてしまいます。