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最新更新日 2018.5.24
淡水雑記
中川繁夫:著

 山紫水明blogに連載の文章

淡水雑記-2-

 13~24 2017.4.5~2017.7.4

   

-13-
<フォトハウスのこと>
フォトハウス、その生成物語を作っておかなくちゃいけないな、と思うところです。
というのも古事記って書物があるけれど、この記述って、つまり自己正当化作業だったとか。
ことの正当化を図るために為政者がよくする手段で、嘘ではないが本当でもない、というような。
あっちこっちを張り付けて、物語にして、自分の正当性を世に示す、ということですね。
ということで、これから立ち上がるフォトハウス写真研究会を正当化してみようと思うのです。
キーワードは、関西の歴史あるカメラクラブを持ち出し、作家では東松照明さんを持ち出します。
というのも、ぼくが関係してきた過去を振り返って、その痕跡を関連付けて記述していくからです。
浪華写真俱楽部が大阪で創立されるのが1904年だと書いてあります。
ここが元祖です。
というのも、浪華写真倶楽部に集まった人たちが、全部とはいいません、一部の人ですが、1930年には大阪で丹平写真倶楽部を創立し、戦後1946年には京都において京都丹平が誕生します。
その後、1953年シュピーゲル写真家協会が設立され、京都丹平ひとつだった京都に1964年、京都シュピーゲルが生まれます。
1975年には京都シュピーゲルが、名称を「光影会」と変更して2017年に至ります。
このカメラクラブのまわりを囲むように、かぶさるように、朝日新聞社系の全日本写真連盟が、美術団体の二科会が、東京に本部を置いた全国支部組織を構成して、ヒエラルキーを構成します。
この構造は、2017年現在にもその通りであって、三つの写真倶楽部も健在です。
詳細は追って検証していきますが、フォトハウス写研を提案する中川が、この流れの中にいた。
1980年頃までですが、その中でどっぷり写真の勉強をしてきた、基礎を培ったと思うのです。
一方で、写真家東松照明氏の京都取材にあわすかのように、撮影助手的役割を担います。
東松照明氏とマンツーマンでのトーキング、理論だけではなく酒の場で本音らしきものも語られます。
フォトハウスの原形があらわれるのは、東松照明氏とのセッション、トークのなかでまとまります。
それが1984年だから、第一次、第二次のフォトハウス活動を終えて、2017年4月第三次がはじまる。
フォトハウス写真研究会は固定ではなく、生成しながら変容していく運動体として捉えます。
集まる場としての写真倶楽部と運動体としての写真研究会とが軸にあって、それが動くのです。
このことをいくつもの場面から記述していこうと思うところです。
写真はたまたま先日大阪城公園へ赴いて撮った一枚、これを載せておきます。

-14-
<東松照明さんとの約束>
1984年、東松照明さんに、フォトハウスを始めるといったときのはなしです。
写真を撮り続けないといけないよ。
下から支える存在にならないと成熟しないよ。
とこの二つのことを申し受けました。
教える立場の人は、おおむね現役作家ではなくなって、過去の栄誉でもってその職に就いている方がたくさんいらっしゃることを言い当てられたことです。
それから、ことを起こしていくときに、だれもが前に立って自分の名誉だというのが人の常だから、事務方がそのことを支えないと成熟しない、と言われたのです。
これまでにも、何度もその約束を思い起こしながら、バックヤードから下支えしてきたとは思っています。
作家であることで、現在的なテーマが見えてくる、ということですが、これは最近の実践です。
どちらも、全体を把握していくには、欠かせないことだと、思えるようになりました。
(続く)

-15-
<性的興奮ということ>
文学作品とか映像作品とか、静止画である写真作品とか、それを読んで、見て、興奮する。
俗に性的興奮という、性的という二文字が入る興奮のことを四文字熟語としているこのこと。
文学であれ、写真を含む映像であれ、見る側に、つまり鑑賞者に、ある種の興奮を与える。
作品は興奮を与えるためにある、といっても過言ではないと考えています。
興奮は、感動といってもいいかと思います。
それに性的という範疇がつくわけで、性的とは、セックス的ということでしょうか。
性というのは、おおむねセックスすること、性的というのは、それへの類似ということ。
読む、見る人に、その感動を生成させ、からだをセックスのときのように奮い立たさせる。
この度合いが高ければ高いほど、その作品は優れている、と評価していいのではないか。
でも、この尺度ではかって、優れている作品は、じつは既存の文学や映像からはみだします。
芸術としての文学作品や映像作品や写真作品とは一線を画している、というのが現状ではないか。
性的興奮を起こさせる作品は、芸術ではない、というのでしょうかね。
では、芸術とは何か、と問い直して枠をひろげなければ、ならないのではないでしょうか。
まどろっこしい言い方していますが、今、現時点のメディアのなかで、再考すべきでしょう。
性的興奮は美に背いているものなのか、それとも美に昇華されていくものなのか。
様々なメディアを使う表現者には、この問題を考えないといけないのではないかと思うのです。

-16- 170506
<性の光景>
今日は4月30日で月末です。
あれよあれよと日が過ぎていく感じで、ちょっとうろたえたりします。
もっと時間を楽しんで、生きてることの味を十分にかみしめて、楽しもう。
そう思っても、なかなかそうはいかなくて、もたもたと時間を過ごして終わっていく。
一日の午前中、まだ頭が冴えているときは、フィクションを書いています。
小説仕立てで3本、連載物で書いていて、読み返すことはほとんどない。
その時ばったりの言葉で書き連ねて、自己満足している、性欲求を満たしてる。
ほぼ10年ほど、毎日のように書いていて、相当な分量になるのを、まとめています。
はなしはここにあげた写真の、被写体になっている台の上の代物のこと。
天神さんの屋台で、並べられて売られている性具と性を描いた焼物、器です。
文化のなかで、こういうものが作られ、所持され、重宝される。
隠された文化といえばいいかと思うが、この領域に興味を持っているわけです。
だから、そこで、小説を書き、写真は借り物、ビデオも見るけど、写真が多い。
ひろげるべき開放すべき領域は、ここだと思う。
メイプルソープがチャレンジした性の深部を探った写真群。
匿名作家のエロ作品など、世の半分はこの類の作品ではないのかと思い程です。
性欲が衰えた男が描くのは、過去の肉体的高揚を、再現しようとしているのか。
ぼくなんぞは、古希を迎えて、枯れていくかと思ったけれど、精神は健在です。
そういうもんなんだろうなと思うところ、これは空しい部類に入る性ですな。

-17-
<性の光景>
北野天満宮の縁日に出ている店の品物に、性を扱った商品を置いている店があります。
性を扱うといったって、様々な商品構成があると思うけど、この店は陶器の焼物、彫り物の置物、それに性器の張形そのものを並べてあります。
ここに並んでいるということは、それらが作られたということであり、作られ、人の手に渡ることです。
そこにお金がいかほどかかっていくのか、はたまたお金がかからないのか、いずれにせよ、流通するわけです。
ここのテーブルに並んでいるのは、すべて商品で、お金をだせば手に入るという品物です。

この品物が何に使われるのかは、言うまでもなく、というか言わなければわからないから想定される使い方を記述して見ようと思う。女子の股間に入れられる物品で、誰が入れるのかといえば、本人が入れる、その関係にある相手から入れられる、飾られる、それくらいだと思うが、いずれも想像力をかきたてられる物品ですね。大人の玩具という言い方をすれば、街の片隅の店の中、その類の商品がパッケージされて売られています。やっぱりこれは男が買い求める品物だと思う。というのも経験的にいうなれば、男たるもの、精力が衰えてくるものです。女子の衰えよりも男子の衰えが先にくるとでもいうのか、男自身のモノを使うだけでは足らなくて、物品を使って女子の欲求を満たしていくということです。

まわりを見まわしてみれば、性に関連する商品は山ほどあります。大人の玩具だけでなく、視覚には写真集、かってならビデオテープ、今様なら映像を見るDVD、コンビニの成人雑誌にはその類の記事と写真、それにDVDがついている。ネットの中には、膨大に、性を扱うサイトがあって、外国のサイトへも行ってしまえる現在です。かって、陰毛が写ることなんてなかった1980年代のはじめごろ。まだビデオが一般的ではなかった時代には、一般にはフィルムは手に入らなかったから、簡単に目に触れることはありませんでした。変われば変わる世の中、いまやハードコアな映像を、無償で見れるのです。性のことは、人間の最大の関心ごとなのかも知れません。

-17-
<性の光景>
焼物にされた性の光景。九谷焼との裏書があるけれど、どこの窯なのかまではわかりませんが、春画が描かれた大きな皿です。あけっぴろげなこれにはちょっと驚きました。ぼくなんかは、性は隠すもの、といった感覚があって、人前でこういう光景を見る、あるいは人がいる処で見る、ということに羞恥心を抱いてしまう性格です。でも、最近は、この類なんか有名出版社から出版物になって発行されたり、美術館で展示されたり、日の目を浴びてきているから、露店の店先に並んでいても決しておかしくはない状況です。興味が尽きない光景です。

-18- 170522
<性の光景>
縄文人が使った道具のなかに男子のシンボルをかたどった棒が展示されていました。これには驚きました。何に使ったのか、性具を連想させる棒。双方に頭が作られた棒は40センチはあろうかと思う寸法です。太さだってそれに近い太さではないでしょうか。ほかにもいくつもの寸法の棒が展示されていました。なにより、縄文時代だから四千年は以前の道具なのです。
老年の性欲について、NHKで放送していたけれど、詳しくは見ていなくて、途中で別のチャンネルの変え、お笑いの方を見たところです。本音をいうと、老年になっても性欲というより性にまつわる妄想がからだに起こってきます。昔なら、浮世絵とか、陶器に焼かれた春画とか、近年でもまだネットがなかった頃には、雑誌や単行本が主流で、一般にはなかなかお目にかかれない領域にあったことでした。老年になるにつれ性への関心が薄れる、というのは嘘でした。性欲が無くなる、というのはある程度正しいと思います。男の性欲は、精子を作る機能と関連しているように思えます。肉体的に、というよりも、精神面で、というほうがいいのかも知れません。

-19-
<性の風景>1
最近の性の風景は、ネットの中で、大きな領域を占めているように思えます。
まだネット社会になっていなかった1990年代の半ばまで、性の風景といえば本であり書店でした。
いつのころから下の毛つまり陰毛が写真や映像に写りだしたのでしょうか。
樋口可南子の写真集が1990年代にはいってからだったか、解禁だと騒いだ気がします。
その昔、といっても1945年の戦争終結以降のことですが、性が解禁になった感がします。
とはいっても、現在のネットのなかの、きわどい画像なんか、当時には想像外でした。
あまり深入りすると、領域外になってしまうので、追々、書き続けていきます。

-20-
花の写真を載せますが、その理由のひとつは、公開するには無難なイメージだからです。ネットの時代だから、というわけではないが、創作して人に見せようとするとき、いろいろと制約があるように思います。公開する側は、そのことを意識して、どこまでが公開が許される範囲か、ということを考えます。そのあたりのことを、自分の感覚に基づいて記しておこうと思います。というのも、かなりきわどいところで、イメージ表現しているからです。いいえ、花の写真を公開することには、何の制約もないから、気楽なものですが。

18禁というのがあります。成人向きというのがあります。アダルトという言い方があります。ネット上でそういうイメージの画像や映像が置かれている領域をアダルトサイトと名付けているようです。いるようです、と推測形になるのは、明確なことがわからないからです。報道用語では使ってはいけない語句とかあると思いますが、一般にはわからないんです。画像については、性器が露わになっていないこと、このことが条件であるようです。ただし、日本の法律が適用される地域内で発信される範囲であって、外国からの発信では、そうではないようです。

文化の領域で、文学にしても、絵画にしても、映像にしても、性の描写にはかなりの制約があると考えられます。ところが、それらの表現領域において、その制約を破るというか枠を狭めるというか、そのことを試みることがあるのです。芸術表現とは、既存の価値を変容させていく役割を持つものだし、そのことによって芸術表現として成立するものだと考えます。性を扱うことは、それだけで犯罪と紙一重の表現となっていくわけで、まどろっこしいですが、そのことを意識して、枠を推測して、逸脱していく必要があるようです。

-21-
<自分研究について>-1-
最近、パソコンソフトのバージョンアップがあって、それからかと思うが、記述している途中で止まってしまって、書いた文章がおじゃんになる、ということが頻繁に起こります。以前にもよくあったことですが、これには困ります。でも、考えようによっては、その文章は発表しない、人目に晒さないほうがいい、とパソコンが判断してくれているんだ、つまり人工知能ってやつですかね。すざまじいじゃないですか、人工知能。でも、怖い時代になったのかも知れない。

ぼくの年齢はいまや71歳を過ぎましたよ。1946年4月の生誕だから、戦後まもなく。ここに載せた写真はある本の複写ですが、そこに現わされている時期は、ぼくの誕生から記憶が残っていない頃の出来事のことです。自分の作られ方というのを客観的に見れないかなぁ、と思っていて、客観と主観をクロスさせることで、自分の成り立ちが観察できるのではないかとも思うのです。というのも、表現研究、表現ということを研究する、という枠組みを設定したところだからです。

自分の作られ方、客観的に見れたらいいな。それと自分が人として動物として、本能に属する部分だと思うレベルにまで及んで、自分の作られた方を考察したいと思うのです。たとえば生殖本能は動物としての基本的な部分ですが、この生殖本能に基づく性行為、そのバリエーションとして文化領域にひろがる社会の中での構成とか。それから生存にかかる部分、食物のこと、住居のこと、それらが自分という生命体にまといつく外世界に対しての内世界。この内世界から外世界への発信が、表現ということになるのだろうと思うところです。

-22-
<自分研究について>-2-
ぼくの家族のアルバムのなかに、自分の姿が写った写真があります。ここに載せた写真は、幼少の頃のなかでも一番古い写真です。三歳までに撮ってもらった写真だと思われますが、どこかの写真館で写真屋さんに撮ってもらった一枚です。幼少の頃の写真は、これしか残っていなくて、自分が写っているという貴重な資料なのです。自分とは何か、という質問を、自分に対して投げかけることが、大人になる前の青春期から芽生えだしていたと記憶します。自分を相対化して、写真に写った自分を、自分の姿にして、光景を創り出すわけです。自分がいる風景が自分の中に生成しているのです。

自分とは何か、この問いに対する答えも、時代によっていくつかの捉え方があるように思えます。環境から作られる人間の所作、環境の中での思考方法、そういう時代の中で作られる個人が、自分にあてはめられる。簡単に言ってしまえば、こういうことになるのかと思いますが、それなが、自分という存在の核となるものは、環境あるいは個人が生きる社会によって形成される、ということなのでしょう。自分とは何か。これではわからない、解決できない、というのが現状の思いで、迷宮入りになってしまいそう。だから、自分なんていう核はなくて、その都度生成して消えていきながら変化していくものだ。

感情というものがあると思う。なんだろうか、情、情を感じる、この情ということの中身です。感覚というのもある。崩れていくような感覚とか、高揚していく感覚とか、いつも揺れ動いているように思えます。身体的な要素なのかも知れません。好き嫌いなんてことも起こってきます。好き、自分の好みに合うという感覚でしょうか。好きな食べ物、好きな異性、好きな同性、好きな感覚なっていうのもあろうかと思います。この好き嫌いがどこからやってくるのか。もちろん、自分のなかにおいて、どこからやってくるのか。無意識と仮定されるところから意識にのぼってくる感覚、あるいはイメージのことです。

-23-
 ここには文章を載せているから、文章を載せようと試みているから、ついつい億劫になってしまって、ブログの更新ができにくい。文章を書くという意欲が退潮気味で、うっとおしいというかめっどくさいというか。文を書くというのは、体力がいるんだと思います。けっこう頭を使うし、脳の消費エネルギーもけっこうなものだと思えます。どないしょうかな、淡水というのはペンネームです。古希をこえた男が、その生きざまを綴るという試みなのですが、どうなんでしょうか、続けられるんやろか、思うところ大です。

-24- 170704
今日は午前中、上京診療所へ診察を受けに行ってきました。
血圧が高くなって治療の薬をもらいに行きだして一年半ほどになります。
その他は、元気そのものとは思っているけれど、老体であることは間違いない。
疲れる、ぐっと気持ちが入らない、浮ついている、感度が鈍い、等々。
老人特有の兆候がいっぱいあって、外から見れば老人そのものなんでしょうね。