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最新更新日 2012.5.26

現代写真の視座・1984
-ドキュメンタリー写真のゆくえ-
中川繁夫:著



<ドキュメンタリー写真のゆくえ>

注:この写真評論は最初、1983年から1984年にかけて記述されました。未発表のまま二十数年が経過しましたが、改稿ふくめここに掲載することとしました。原題は「現代写真の視座・1984」で、先に掲載の「私性の創出と解体」及び「追録」はこの論の第三章及び終章にあたるものです。


<はじめに>1

現在、写真という表現手段における「ドキュメンタリー」の問題は、すでに写真評論史のうえでは、すでに使い古され、手垢にまみれた、古典的な<意味>をまといつかせた言葉として考えられているように思われます。

私が生を受けたこの世界、よりグローバルな言い方をすれば、「文明」というひとつの規範世界の内部で、日常、様々な事象が起承転結する巷で、現実に起こっている様々なイベント(事件)があります。

たとえば、二度にわたる世界大戦があり、その後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、といった南北、東西の限定戦争、これは一面、異質な文明と文明のぶつかりあいであったと見ることもできるでしょう。

流れ流れてきた世界の歴史は、文明の文明による侵略の歴史であった、と定義づけることもできるでしょう。そうして戦場となった文明の内部で起きる様々な相克と、そこに生活を営む民衆、血なまぐさい戦い。

また近代には、新旧のイデオロギー対立が武力を伴った形態として起きる革命。

こういった戦火の中で、現在の私たちが目にすることのできる、幾多の写真が生み出されてきました。また、こういった物理的な暴力行為は伴わないけれど、毎日、世界中のいたるところで、様々に起こる事件。

このように生々しい現実の姿と、その現場で撮られた写真との関係を見てみるならば、まず私は、第一に、写真の持つ<記録性>というものに注目せざるをえないのです。

<はじめに>2

「記録とは何か」という問題は、現在においては様々な意味合いにおいて考察され、論じられているところです。

また、こ問題は、もちろん明確に、花びらを一枚一枚はがしていくように、丹念に解明していかなければならない問題であり、表現することの根底からの問いかけとしてあります。

しかし現時点で、このように写真の持つ<記録性>といったとき、私にはドキュメンタリーという写真制作の方法を、再検討してみる必要があると思えるのです。

ドキュメンタリーという概念が導入されてくる以前には、リアリズムという概念がありました。

いずれの方法も、単純化していえば、その作家をとりまく外界の世界に対する、その作家固有の視点が重視されるのであり、その内には、鋭く社会的告発という契機をはらませていました。

その方法は「現実に迫る方法」の問題として、作家主体つまり個性が写真手段をもってする表現という行為を、どのような観点からとらえるか、という自己表現の問題でもありました。

私はすでに1960年代の初めには使われており、それから半世紀、現時点では遠い昔に手垢にまみれてしまった概念である「ドキュメンタリー」という言葉を、あえて基本言語として使っていくことにします。

しかしここでは、すでにかって持ちえていたドキュメンタリーの意味概念とは、感性的にも指示的にも、異質の内容を持たせた言葉としてとらえています。

<はじめに>3

その後、私たちの周辺では「シリアス・フォトグラフィー」とか「オリジナル・プリント」とかの言葉が出現してきて「ドキュメンタリー」に変わる新しい表現の概念を構築しようとしてきたかのようにも見えます。

しかし、それらがすっかり定着したかと問えば、そうでもなかったともいえます。その概念におけるコンセプトの側面においては、従前からのドキュメンタリーの概念にとって代わる方法の総称としては、まだ未熟であるように思われます。

また、私観からいえば、それらは<絵画芸術的>な匂いがたちこめるニュアンスで、理解されているようにも感じられます。もちろん、現代写真が持つ空間には、様々な概念が存在し、様々なジャンルとの境界線上での作業です。しいていえば、写真家は現代美術作家ともいわれる立場です。そうして思想的背景はジャンルにこだわることなく同じである、といっても過言ではないと思えます。

私はドキュメンタリーだけが絶対唯一であるというのではありません。私は、自らの問題として、現在を記録する写真作家でありたいと願っているだけのことあり、自らの写真制作の一助となりうる方向で、現代写真の視座というものを獲得したいと考えているのです。

写真はすでに発明から170年余の歴史を持ちますが、ここに至って写真独自の表現と思想を持ちえたとは、まだまだ言い難いのではないかとの実感です。

「独自の表現と思想を持つ」、常にこのための考察には、「新しい写真の質を発見していくためのベースになれば最良なのだが」、という想いが私自身の内部にあって、そのためにも私は、あえて、現代写真の視座と題した文章を書き起こしていくのです。

これは何よりも、私自身のためにです。
写真は何処へ行こうとしているのか。現在の写真にいたる歴史的過程を行きつ戻りつ、辿っていきながら論じ、語り、書き進めていきたいと思います。