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最新更新日 2012.5.26

現代写真の視座・1984
-ドキュメンタリー写真のゆくえ-
中川繁夫:著


不可視の現在


<不可視の現在>

-1-

写真は、発明された時から、写真固有の価値と、固有の領域を持っていました。そしていつの時代にあっても、同時代の他の表現ジャンルと相互に、相通じる脈絡を持ちうることが予想されます。
その時代のそこに流れる精神、あるいは一定の方向にむかって流れていこうとするもの。

芸術と呼ばれている諸ジャンルにあっては、作家自体が流そうとする意志を介在させるのです。
「時代の精神」あるいは「創造のための方法論」と呼ぶべく底流があるとするなら、あらゆる芸術は、この「時代の精神」や「創造のための方法論」を反映させているのです。

そお時代の精神とは、目に見えるものでではなく、形として触れることができるものでもありません。それはあたかも宇宙に存在するガス状星雲のようなものでしょう。日々流れいく世情のなかで、きらびやかに輝くものではありません。ファッションやそのイメージは移ろい、表層を形成しますが、それを求めるもの、求められるものの底流にあるもの。

色とりどりの現象。人々が織りなす人間模様。それらを集約した意識の底部にうずくまっているもの。人はそれを「本質」と呼んできました。本質は見ようとして見えてくるものではなく、私たちには常に表層の現象が見えているのにすぎません。

人々の存在が、私をも含めた各々に、その内面で幾層にも意識が積み重ねられて、流れ、意識の深層において意識化されないにもかかわらず、そこからの突き上げによって、その人の行動が規定されるように、時代の精神というのもまた、あたかもこの深層意識のようなものではないでしょうか。

-2-

今の時代がどのようなベクトルを持ち、どのような精神を持ちつつ流れ移ろいでいるのか、定かではありません。人々は各々に自分のベクトルを持ち、価値軸を持って流れ移ろいでいきます。巷にあふれる情報は、どれもが真実のような顔をして、私の目の前に現われます。

明確に見える主義といったものが、もはや見る影もなく、ことごとくが霧散していて、それを追い求めること自体が、うとん臭く感じられる現在です。そして世相はかったるく、あたかも繁殖しすぎたネズミの群が、方向感覚を失って海をめざす、あの一直線に突進する悲哀に似たイメージの中、現在やはり何も見えない霧の中のようにも思えます。

この高度に進化した文明の内部における限界でしょうか。この限界に対して、異質な文明を投射することによってしか、いま、私たちが持つ文明の輪郭は見えてこないのではないでしょうか。
脳裏によぎる言葉は、すでに定型化していて、すでに十年、二十年、あるいは半世紀も以前に言いふるされた、手垢にまみれた言葉の群ばかりです。

写真はいま、何を求めているのでしょうか。あるいは写真家は、何を求めなければならないのでしょうか。二元論的に、現象の根底に真理があるという定理も、いまやどこまでが真理であるのかと、疑わざるをえないのです。

-3-

現在、写真家はなおかつ表層の現象を撮り連ねていくことによってしか、始まりません、とはいえ、この行為によって真理が浮上するなどという幻像は捨てよう。真理なんてすでに永久普遍のものではありえません。現在において、なおかつ存在するとしたら、それはまずイメージの内にしか構築されえないものです。そうしてそれは相対的価値として、より自分に近い感触をもって、それであろうと断定するのにすぎません。

今やことごとくが、総体的な中での価値としてしか、判断基準が見いだせない時代なのでしょう。常にモノを計測する尺度として、比較されるべき相手が存在して、みずからの計測をなすこと、これによってしか価値基準は成立しえない時代なのです。

ところで現在、この相手足るべき存在そのものが希薄になっているように思います。ことを写真に即していうなれば、写真家をとりまく現実社会が、余りにもかったるく、余りにも不透明です。だからゆえに、テーマそのものを持ちえなくなっているのです。

現実社会の時間空間の中で、過去に拡がる時間軸をいまに引き寄せる手段として、写真作業を設定するときはじめて、写真はリアリティを獲得するのです。といいながら多くは、より現実の不鮮明さを、写真を不鮮明にさせることによって、不鮮明のリアリティを獲得しようとするのでしょうか。

-4-

いずれにせよ現在、現代写真と写真家の葛藤は、いまに至っては頭をぶつけて死にたえるしかない様相を帯びているようにも感じられます。

写真家の視点は、私性と社会性の間を振り子のように振れてきました。そして現在、従来からの価値基準ではつかみきれず、判断できない事態が生じているようにも見えます。ゆえにこそ、手探りで、みずからの視座軸を設定していかなければならないのです。

日毎、おびただしく生産される写真の群。書店の棚の前に立ってみれば、またパソコンの前に座ってみればよろしい。続々とつくられアップされるそれらの類は、ことごとくが内容の主流は写真であり動画です。「もの」のカタログフェア展開中とでもいえばよいのでしょうか。あらゆる商品の類が、あるいは芸能界アイドルたちのオンパレードが、日々企画され生産されて消費されていきます。

また一方で、街角のあちこちにカラープリントの引き受け所があり、プリント仕上げの時間を競い、値段を競い、バーゲンセールよろしく写真の品位を落としめています。またデジカメ画像は、そのままパソコンで見られ、コンビニのコピー機でプリントアウトできます。

これらの写真をめぐる営業が成り立っていると見るかぎり、需要があるわけで、個人が生産する写真の量は、ひとつの産業を形成する規模なのです。

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このように見てくる限り、写真と写真をめぐる現状は、かってないほどの氾濫状況を呈していて、従来の単一な切り口からでは、現在の写真状況は何ら見えてこないように思えるのです。

写真はファッションであり、ファッショナブルな生き方をアドバイスしてくれるのがカメラであり、カラープリントやパソコンなのです。

写真技術応用の分野はいっそう拡大し、とくにデジタル時代の写真は映像につながり、メディアアートにつながります。それらを含めて、写真の応用分野は、私たちには漠然としたイメージすら見えてこないのではないでしょうか。

私はこのように見えてこないのではないか、と言ってしまうことにいら立ちを感じます。そして少なからぬ疑問を感じるのです。なぜならば、それらをすべて含んだ状況が写真の現在であるからです。これが写真の置かれている現実なのです。

また私が、何も見えてこないだろう、と言ってしまうとき、そこには暗黙のうちに見えてくるだろうと予測する方法を、展開してみようとの目論みがあります。

不可視の現在。いつの時代においても、その時々の現在は、不可視の現在だったのではないでしょうか。ただその時代において、見る能力を持ちえた人だけが、不可視を明晰なクリアーサウンドに置き換えてくれるのです。

十年昔にも、二十年昔にも、やはり巷に写真家を自認する人々が限るなく存在したはずです。しかし大部分の自認写真家にとっては、やはり時代は不可視であったと思います。

写真をめぐる小手先の技術論に埋没している巷の自認写真家たちの世界。その世界は、いま私がいる地平とは別次元の世界にいらっしゃるのだといわざるをえません。

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私はいま、私の視野に収まらない写真のカテゴリーを捨て、選別して写真論を組み立てなおす必要にかられています。写真を真の表現の問題としてです。現実社会を素材として、そうして私という主体をもって、表現行為とは何か、です。

この問題を意識的にとりあげて見るならば、私の当面の課題となる問題は、表現行為を具現化する写真家自身の問題と、写真そのものの問題とです。
写真とは何か。まず大上段に構えて、このような問題設定をなしてみます。写真固有の価値と表現の問題とは何か、ということです。

固有の価値と表現。「価値とは何なんだろう」「表現とは何なんだろう」。
写真の価値、写真の表現。私はこの両者が対をなした位置ではじめて、現代写真への視座が、私の内に構築され、何ものかが見えてくるように思えるのです。
不可視の状況から可視の状況へ、私は現在における写真の起立をもくろみます。

不可視の時代、この現在です。すべての事象の本質が見えにくくなっている、と言われています。問題は、私をとりまく外部世界と私の内部世界のことです。この二つの世界が、相関関係を持って、不可視の現状をつくりだしているのではないか。

全てのもの。この「もの」とは常に巷にあふれる物質だけを指すのではありません。精神的な営みの形態や抽象概念化された事象をも指しているところの「もの」なのです。このことを、私自身に即して、この「もの」のありようを考えてみたいと思います。

いわゆる商品といわれるもの、目にふれ形となって存在するものは、現在、なんでも手に入れようとすれば出来ます。巷には乱れ咲く花のごとく、大量の商品があふれています。日々、送りだされてくるマスメディアの主流は商品知識であり、その間をぬって、これもまた商品として、他国のきな臭い出来事や、政治経済のゆくえや、巷に起こるセンセーショナルなイベントが報道されます。

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私たちにはすでに飢えの状態は存在しえないほどに、様々な商品に取りまかれ、私たちの精神は所有欲にその大部分が費やされます。巷に氾濫する商品は、マスメディアにのせられて、あたかもすでに私自身の所有物であるかのような錯覚に陥らせます。

甘味な幸福がパックされた旅行案内。幸福が商品として販売され、私たちは幸福を商品として買う。たとえば旅行は、いまや日本国内にとどまらなくて、地球上の何処へでも、美しいイメージに装飾された辺境の地へと出向いていくことができるのです。

問題は、こうした現在の私たちをとりまく商品価値としてしか存在しえない諸々の「もの」たちの深部にあると思われます。不可視の状況を創り成している現在とは、こういった商品群に幻惑され尽くしている私たち自身が、私たち自身の内部の構造を問いかけられないことに拠っているのではないでしょうか。

だから、まず私自身における内面の構造を、不可視世界から可視的現実を獲得すること。これがいま私に鋭く突きつけられた問題の質なのでしょう。

写真行為が、主体の起立なくして成立しないのならば、逆に主体の起立のない写真行為は、真に可視状況を獲得するための行為とはなりえないのです。写真家は、まず自己の内部葛藤を獲得せよ、ですね。

写真家の視点がそこから外部の世界へ向けられるとき、同時に内部の世界へも向けられるのではないでしょうか。現実を冷静に分析しえる能力とは、自己を創りなしている内面を冷静に分析しえる能力を持ち合わせていることと、同じレベルでの計測値となるのではないでしょうか。

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まぎれもなく現在が見えにくいというのは、私そのものの存在に責任があるようです。本来的には、現在をつくりなすベクトル内には、やはり明確な問題が存在しているはずです。これに対処するには、私自身に対する明確な問題点を発見することであり、その問題と私における外部世界の問題とが、全く新しい形で、意味を組み替え、イメージを変換して、新たなる問題提起を設定していかなければならないのです。

現代写真において、リアリズムからドキュメンタリーへ、ドキュメンタリーからコンテンポラリーフォトへ、このように移行してくる写真の表現方法の変遷について、私は新たなる考察を加えていかなければならないのです。そうしてその内にこそ、現代写真の視座を獲得していかなければならないのでしょう。いまなお、政治的に、経済的に、芸術的に、なおさら見えない時代に遭遇しているがゆえに、です。

現代写真の歴史の変遷は、作家主体が持った外部世界と内部世界の相克による、絶えざる葛藤の変遷史であったと思われます。外部現象を重点的にとらえていく視点から、内部的視座を獲得していく過程としてありました。作家主体の現実世界へのかかわりと内部世界、つまり私性へのかかわりの、方向感覚とその比重が、私においての写真の価値基準を決定してきたのです。

現在におけるコンテンポラリー写真のなし崩し的解体は、写真だけが体験する現象ではありません。この十数年来、飢えたる精神がより豊かなる商品の群によって充足され、精神的飢えの状況が拡散されるように、錯覚させられてくる過程があります。この状況を写真家みずからが体得し、豊かさの錯覚が転じて事実となってしまったのが現在であるとすれば、今後の写真のゆくえは、写真自体の内部問題として、写真家に課せられた克服すべき問題として、提起されているように思われます。

これら写真自体の問題は、写真表現の方法によってしか解決できない宿命を背負っています。ゆえにいまこそ、あらためて、写真家は、写真家自身の新たなる肉声を獲得し、新たなる回路を模索していかなければならないのです。
(この項おわり)