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最新更新日 2012.8.29
写真ノート第一部
中川繁夫:著



写真ノート 第一部

※ここに連載の文章は、「写真への手紙・覚書」と題され、<写真ノート1984−86>と副題のある未発表文です。すでに28年の時間が経過した現在、実名入りで掲載もよかろうと思い、再録していきます。
掲載写真は、当時取材を終えつつあった釜ヶ崎のシリーズから載せていきたいと思っています。


第一部 1984〜1986 1〜7

19840609
これまでは年に数回「映像情報」という雑誌を発刊していたのですが、創刊から三年経った今年のはじめ、第12号を発行して終刊としました。

これは、次のステップとしての写真の批評と評論を中心とした雑誌の発行を考えていたからでした。少なくなった時間と、新しい形の創造をやっていこうと思えば、何らかのかたちで生活スタイルを変えていかないと、やっていけないわけです。行使状況のなかで、雑誌発刊までのノートをつけていくこととしていきたい。よろしくお願いします。

19840703
久しぶりにフィルム現像をしています。いまちょうど定着を終えて、これから水洗に入るところです。7月1日の夜、ホリデイ・イン・ジャパンで白虎社の公演がありました。白塗りではなくて、キャバレーショーのスタイルでした。私自身としては、撮影自体が久しぶりのことでした。モノクロ20本を撮りました。その時の現像をやっているところです。

写真の撮影もこの頃は思うに任せぬところですが、なんとかしてマイペースを取り戻さなくてはならないと思っていたところでしたので、ここで自分のペーズを取り戻そうとしたところです。
実は、今日は、仕事での付き合いで、一杯飲んできたところでしたが、ここで負けてはならない、とさっそく現像を始めたところです。

何よりも最近、時間が取れなくなって、六月の初めにワープロを購入して文書については、それまでのように原稿用紙に書いたのをタイプで打って、校正版下をつくるという作業ができなくなってきましたので、金銭で解決できることならば、と思い無理をしてワープロを買ったというわけです。

ところで、本当に最近は写真を写しに行くことが出来にくくなって、このままできなくなってしまうという危機感もなくはなかった。が、というところです。

19840706
今日、東松照明さんのところへ電話をいれました。四月以降、音沙汰もないままに今日まできたものでしたから。京都は祇園祭も近づいていることだし、近々京都へ来られるのではないかと思い、連絡を入れたのでした。
「やあ、ひさしぶり!」と受話器の向こうで聞きなれた東松さんの声が聞こえました。丸二か月半のご無沙汰で、カメラ毎日に京都の写真を発表されてからも、その感想も述べないままになっているのでした。

その後、京都にはやってきていないと云うことでした。自動車(スカイライン)のバッテリーが上がっているのではないかと、心配していました。スペアキーを預かっておれば、私としても対処できるのだがと、私は話していたところです。京都の最近の動きについては、写真壁が中心になってやっている祇園祭の写真展企画についてが話題になりました。

私は、いま新しい雑誌の発行準備をはじめていること。そのためにワープロを購入したことなどを話しました。雑誌発行については「力になるよ」と言ってもらえたので、私個人としては心強いかぎりです。秋には、何とか発行したいと話しておきましたが、そのための企画文書を現在作成しているところです。

19840714
釜ヶ崎へ久しぶりに行きました。庄司丈太郎さんが釜ヶ崎で写真展をやりたいと云っていると、釜合労の稲垣さんから連絡があり、庄司さん本人と電話で話をして、この日の午前11時に会う約束をしていたからでした。
庄司さんは、70年前後に釜ヶ崎の写真取材をやっていました。当時は万博景気に沸いていた頃。71年にカメラ毎日に32ページにわたって「釜ヶ崎」が掲載されました。その写真家です。最近の仕事では、野坂昭如さんの新潟での選挙に取材した写真集を出版した人であります。

また橋口譲二さんとも顔を会わしました。釜ヶ崎を撮ってる三人の写真家が顔を会わしたわけです。橋口さんは今ベルリンで取材を続けており、先ごろ帰国したところだと云っていました。日本においては今、釜ヶ崎をテーマに写真を撮っているというのです。釜ヶ崎の現役写真家というところです。

庄司さんが十数年前の釜ヶ崎を、私が五年前の釜ヶ崎を、そして橋口さんは今。庄司さんはまた、釜ヶ崎を写し始めるといいます。私は、私にとっての釜ヶ崎はすでに終わったと、考えています。

19840714
写真家が本当に特定のひとつの被写体を追いかけて、何年もの間、緊張を持続できるものではないようです。もちろんその写真家の資質によって、その長さは一様ではないと思いますが、ひとつのテーマを何十年にわたって連続していくということは、私には考えられないのです。もちろんテーマそれ自体は継続して追及されるものだと思いますが、関係深く関われば関わるほど、おなじ被写体ということにおいて、継続できるものではありません。

特に釜ヶ崎を被写体に撮るということは、精神的にそんなに長くは持続できないように思うのです。それは何故か。釜ヶ崎には底知れぬ魅力があるからです。人間にはだれしも、はだかのままのの自由があるはずです。泣きたいときには泣き、笑いたいときには笑う。そしてそこは地獄でもあります。しかし底知れぬ魅力があるからゆえに、写真家としての自分がわからなくなってしまうことも多いのだと感じます。

私においての釜ヶ崎は、もう五年前になってしまいましたが、その頃のことを思い出すと、やはり異様な精神状態だったと思わずにはいられないのです。庄司さんは今また十数年ぶりに戻ってきましたが、彼の話によると、やはり釜ヶ崎は人間の帰るべきところ、はだかのままでいられるところだ、というのです。

釜ヶ崎の魅力は、そのあたたかい人間臭さがあるところだと私も思います。ただ私の場合には、取材撮影の途中から「季刊釜ヶ崎」の編集に係わったことや、その他のことに係わりを持ったことによって、撮影者と被写体との関係を踏み外してしまい、写真撮影そのものから遠ざかったのだったと、いえるでしょう。

釜ヶ崎を被写体として選んだ写真家は、どのくらいいるのでしょうか。その各々が、各々の方法で、釜ヶ崎をとらえており、それなりの発表をやってきています。釜ヶ崎は、これまで数多くの写真家によって撮影された被写体のひとつであります。そういったなかで、私には私なりの方法がありました。

人々を正面から撮るということでした。これは逃げも隠れもしないよ、という証としての作業でした。それが写真のすべてだったとは言えないまでも、私には「無名碑」シリーズとなって残されたのです。私は釜ヶ崎の写真集を発刊するところまで、気持ちのうえで出来ていませんが、いずれまとめるべき日が来てもいいな、と思うこともあります。

19840717
今日は京都では、祇園祭のハイライトである山鉾巡行がおこなわれています。三年続きの曇り空です。私は、きょうはこの祇園祭を取材しようと思って、仕事を休んだところでしたが、どうも出かけていく気になれません。そこで朝からワープロの前に座ったというわけです。そしてこの写真ノートをつけています。

昨夜、河原町で東松さんと現在は東京にいる野口賢一郎さん、そして建築家の松本健さんたちと会っておりました。東松さんが祇園の大村に宿をとっていると云うので、野口さんたちと七時に六曜社で待ち合わせ、しばらく話を交わした後、祇園の大村へ行き、その足で近所の東北料理をたべさせてくれるという店へ行ったのでした。

東松さんは、二、三日前から京都へ来ていました。野口さんは昨日の昼ごろに京都へやってきたのだと云っていました。東松さんが京都へやってきたのは四月の終わり以来です。野口さんは三月の終わりに東京へ行って以来だから、やはり三カ月ぶりです。野口さんは松本さんのところに泊まると云っていました。

ちょうどいま京都では、祇園祭にひっかけて、写真のほうで「京都ライブストリート」というイベントをやっていて、野口さんは、これへの参加のために、京都へやって来たのでした。東松さんも二日前から京都に来ており、十二会場あるギャラリーや野外展会場を回っていたのだと云っていました。私は今回のこのイベントには、まったく参加しておりませんが、京都を舞台の写真のイベントに拍手を贈ろうと思っています。

いま、私の手元では「フォトハウス」構想を練っているところですが、構想を練っていて、今ひとつスッキリいかないと思うことは、それに参加してくれる人材が京都にはいないと考えられることです。すでに「フォトハウス」の概略の構想については、文書の形式にまとめつつあり、その一部を東松さんに見せたのでしたが、やはり「映像情報」のときの失敗、、結局個人誌となってしまった必然、を繰り返さないためにも、一人だけでやっていっては何にもならない、ということです。

確かにそのとうりだと思っています。しかしそれなら、いつになったら人材が集まるのか、ということもあります。写真をやっている人たちというのは、個性派が多いから一筋縄ではいかない事の方が多いと想定します。誰かが言い出して大将となり、ひとつのセクトをつくる。こうゆうことがままあります。私が「フォトハウス」の構想を実行してみても、しょせんそれらと同じことになるのでしょう。

久しぶりに東松さんを囲んで飲むお酒は、やはり美味しいと思いました。京都で写真をやっていて、それもあまり上手でない写真を撮っていて、あまり人を感動させることもないような文章を書き連ねて、そのうえこれを本職とする人たちと渡りあっていこうとするのだから、彼らの立場から逆にみれば、反発されて当然のことと思います。

19840720
北井一夫個展「1960年代バリケード」が、フォトスペース・ピクチャーで開かれています。写真家北井一夫さんの撮った六十年代の学生運動に取材した写真の個展です。北井さんは1964年の横須賀原潜闘争を撮ることから始まり、1968年から1970年にかけて高揚した学生運動の中にあってそれを取材し。またみずからそこの学生であった日大の闘争を撮ったのでした。

その後「村へ」というタイトルで、アサヒカメラに約4年間連載し、崩壊していく日本の農村風景を撮り、発表し、第一回木村伊兵衛賞を受賞した作家です。1944年生まれの北井さんは、私と同世代の人です。壁面に展示された写真は、彼の初期の作品群「街頭での闘争現場」であり「日大の学園闘争」の現場です。

「謄写版」「壁にかけられたハンバー」「はきつぶされた靴」といったその現場にあった「物」、あるいは闘争に係わった学生のヘルメットにゲバ棒といった光景が、そこにありました。

それらの日々から最早十五年以上、北井さんの撮りはじめからいえば二十年の歳月が、経ってしまいましたが、今、ギャラリーの壁面に額装されて展示されてみると、その後の5000日の日々を越えて、それらの日々に短絡してしまうのは私だけでしょうか。

それらの日々とは、一体、何だったのでしょうか、と今あらためて問いなおさせられるところです。しかし問いなおすととしても、一言ではとうてい言いあらわせるものではありません。ただ、それら状況の中を一緒に生きてきた一人として、展示された写真の光景を軸にして、当時の様々な記憶がよみがえってくるのでした。

「記録」と「記憶」、ということについては、後の機会に考えることとして、ここでは、この日会場で行われました北井さんを囲んだ話し合いの中身を記録しておきたいと思います。
当日は午後六時過ぎから、個展会場で作家を囲んで缶ビールを飲みながら、フロアにそのまま座り込んで話し合いが始まりました。

太田順一さんが司会、聞き手は百々俊二さん。まず北井さんが撮った三里塚での彼の立場がどうであったかということについて。
<セクトと関係があり、そこの機関誌に載せた写真は、当時、ほとんど私が撮っていましたが、私としては写真家としての係わりで撮影していましたし、セクトの要求するものも撮りましたが、むしろそこにあった生活を撮りたかったのです。三里塚に於いては、報道陣らも取材にはいってくるのですが、彼らはそれぞれに社の腕章を巻いていて、私は巻いていないわけでしたから、腕章があればいいなと思うこともありましたが、それはしませんでした。運動体側に立ち入れたことは逆に報道の方からは、うらやましがられた面もありました。>

19840720
北井一夫作品集「抵抗」について。
<これは日大に在学中に撮ったもので最初から写真集にするつもりでした。発行は未来社となっていますが、そんなに多くは売れませんでした。三千部発行したいと云ったら、まあ良いとこ五百部と云われ、それが正解だったようです。運動には係わっていましたが、あくまで写真を撮るということが第一の目的でした。>

その後北井さんには1974年ころから「村へ」のシリーズが始まりますが、この頃はちょうど農村が崩壊していく時で、やはりこの崩壊ということはテーマであったわけですか。
<このテーマは、一緒にやった大崎紀夫さんの感性に影響された部分が多分にあると思います。最初は一年間の連載でやり始めたのですが、好評で四年ほど続きました。

私のことに即して云えば、当時、北井さんは私にとっては半ばライバルとでもいった気持ちでとらえていました。私が写真を写しはじめた頃に、ちょうどその「村へ」シリーズがアサヒカメラに連載されており、非情に興味を持って拝見したものでした。

私は京都にいて、光影会という写真クラブに所属しており、そこで写され発表される写真がすべてだと思っていた矢先のことでした。北井さんの「村へ」シリーズは、私にとって「写真とは何か」と疑問をいだかせてくれた最初の作家だったのです。

19840723
「現在写真の視座・1984」というタイトルで、写真評論を試みています。最近は撮影はほとんどせずに、ワープロで文章作りばかりやっているのです。評論したからといって、何になろうというのだろう、と考えています。出版といってもこのままでは、どうにもならないような気がしておりますし、さりとて「書かずにはいられない」というところなのです。何の足しになるのでしょうか。むなしい気持ちばかりです。

以前のように原稿用紙を使わずに、キー操作だけで綴っていくというのも、なんだか軽いタッチで書いているような気がしています。間違った字を入れてもそのままいってしまうような機械です。しかし、良いこともあります。これまででしたらタイプを打って版下を作成していましたが、テレビ画面での操作によって版下の形まで出来てしまうことです。そのうえ馴れればペンで原稿用紙に書き込んでいたよりも早く出来るようです。進歩する世の中に対していくためにも、新しい形の生活体系を作らなければならないのでしょう。

19840811
夏の暑さの盛りです。京都のお盆の諸行事が始まったと思い「六道の辻」をたずねていきましたが、すでに終わっていて何もありませんでした。

去年の夏、「六道の辻」で地獄絵図を見ました。今年はその地獄絵図を撮影しようと構えていたのでしたが、今日でも間に合うだろうと考えていたのがいけなかったようです。8日から昨日までの三日間だけで、今日はもう何もないのです。写真はその「もの」がある現場でしか写らないから、もう今年はどうにもならないのですね、仕方がありません。

私自身は最近ほとんどカメラで写真を写すことがなくなって、もう写真を写すことを忘れてしまったのではないかと思うほどです。これではいけないのかなと思います。これまでお世話になった光影会展、京都府立文化芸術会館で恒例の写真展を帰りに見にいきましたが、会場には誰れもいなかったのでサインだけして帰ってきました。

去年、今年と出品していないし、今は休会という形をとっていますが、実質は退会したようなものです。しかし私の心情としては最近また復帰してみようかなと、ふと思うことがあります。しかし今更もう戻れないなとも思います。カメラを持ちだしてもう十年が経ちました。最初の頃は何もわからずで、光影会に入れてもらっらのでしたが、数年するうちに釜ヶ崎へ通うようになって、次第に会から遠ざかっていったのでした。

もう五年も以前のことになってしまいました釜ヶ崎での夏。青空写真展を企画実行し、私自身としては結構活発な活動をやってきたつもりでした。云ってみればその頃が、私のカメラマンとしてのピークだったと云えるのかも知れません。その後は「写真と写真家」をめぐる様々な運動みたいなものに係わりだし、そのぶんだけ写真撮影がおろそかになってしまいました。

このような危惧を抱きながら、ここ二、三年を過ごしてきたのでしたが、特に昨年十一月からは月給をもらえる仕事のほうが多忙になり、それまでのように気ままに行動することが出来なくなって、それでも何とかやっていかなければならないと思っているところです。

この間、たくさんの友達ができました。若手のカメラマン達です。それらの友達と一緒にやってきたことは、それなりに評価されていいことだと思っています。ところがそれらの日々、若い人々の先頭にたっていたつもりが、いつの間にか独走していただけだったと思っています。最近、それらの日々に一緒にやってきた人々とも縁が切れてしまいそうな気がしています。