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最新更新日 2012.8.29
写真ノート第一部
中川繁夫:著



写真ノート 第一部


第一部 1984〜1986 16〜22

19841130
写真舎「フォトハウス」の設立についての文書を郵送しました。里さんから早速電話がありました。出来ることは積極的に協力したいという意向を告げてくれました。オンザ・シーンが終刊するという。この話はこの夏に聞いていたことです。いま里さんのところで印刷をやっているという。写真舎「フォトハウス」が、その後を引き継ぐという意図は毛頭なkが、里さんの話では、ちょうどひとつが終わって、次の企画が出てくるといった見方です。

写真舎「フォトハウス」の構想については、当面の課題です。今すぐ企画が実現するとは思っていない。しかし今後おそらく僕にはこれを発展させたなかでの企画しか生まれてこないだろうと思われる。というより、この企画が最後だ。あとにはこれの発展したものがあるだけだ。

昨日アトリエ象の中川さんに会った。このひとは、この春、野口賢一郎さんが東京へいくという送別会のときに、建築家の松本健さんに紹介されたのだった。この度、現代美術と生活空間というふれこみで制作展をやっておられて、その案内状をいただいたので、写真舎「フォトハウス」の件もあったので、訪問したという訳だ。

企画書を見せたら、学校ですねと言われた。まさにそのとうり学校なのだ。しかしあえて学校と名乗らないのは、教育機関の役割も当然果たすものではあるけれども、いまイメージできる学校とは、ちょっと内容が違うのだといっておこう。その根底のバウハウスのイメージを持ち出したら、納得されたようだった。

写真舎「フォトハウス」を構築していくのは並大抵のことではないことは、すでに了解済のことだ。そんなに簡単に、すんなりと構築できるものではない。人脈の問題だって、お金の問題だって、何か事を起こそうとすればかならずそれを阻害する要因が生じてくるものだ。

この三月に大阪で写真の現在展が開催されたが、そこに参加した49人のメンバーのうち、宛地にぃない人を除いて、この写真舎「フォトハウス」の企画書を郵送したのだった。その後。東京の人々や映像情報を郵送していた人たちに発送したところだ。追って第二段を発信しなければ、と思っています。大阪のメンバーや京都のメンバーがどんな反応を示すか、今後の様子を見ながらということだ。

ショパンのピアノを聴きながら、とりとめなく、こうしてワープロを打っている。ピアノの音は、僕に様々な感情を呼び起こしてくれる。もう遠い昔の話からつい最近の話まで、実に様々な感情を呼び起こしてくるのだ。

19841115
写真舎「フォトハウス」の行う当面の事業について
私たち写真舎「フォトハウス」設立準備会のメンバーは、その構想概容を明確にすべくミーティングを重ねてまいりましたが、ここに、写真舎「フォトハウス」の行う当面の事業についての構想概容が明確になってきましたので、より多くの皆様のご指導を仰ぎたく、ここに列記し、ご賛同をお願い申しあげる次第です。

さて、私たちはかねてから、世界にはばたいていけるイメージ都市<京都>において、現代写真の質を定着させるべく、また現代写真の質を具現化する人材の輩出に向けて、そのバックグラウンド創りとして、幾多の方法を考えてまいりました。

たとえば「図書館に写真集を!」運動(1982.6)や、「フォト・シンポジウム in Kyoto」の開催(1981.11&1982.12)、また写真批評誌「映像情報」の発刊(1980.8〜1984.1)、なによりもそれら写真をめぐる潮流の意をくみとり、今後も引き続き、より発展的にそれらを総括し、新たなる写真をめざして、実践していける母体創出の必要性を痛感してきたところです。

そこで私たちは、写真という表現形態を持って、個々が一層主体的にかかわって、よりすぐれた写真活動のできる土壌を創っていく母体として機能していける、システムの創出を基本とした、写真舎「フォトハウス」の設立をもくろみ、ここにその準備会が発足しました。

写真舎「フォトハウス」として具体的には、次のような企画と形態を考えています。

1、フォト・ワークショップの開講
2、フォト・シンポジウムの開催
3、写真展などの開催
4、写真批評誌の発行
5、写真集など単行本の刊行
6、その他、営業に関する企画

これらの事業を達成していくための形態としては、組織図において明確にされていますが、写真舎「フォトハウス」のありうべき方向を協議するための運営委員会を設定し、その内容を具体化して実行する実務処理機関として総務事務局を設置しました。

また写真舎「フォトハウス」構想の中軸となる研究部門を総括する研究講座事務局の設置、また研究部門で成された成果を媒体として公表することを中軸とする出版局の設置、そしてこれらの流通機能を担当する業務企画局の設置。これらの機構を整備することによって、写真舎「フォトハウス」の外観とします。

こうして外観についての構想はできましたが、要は内容の問題であると思います。そして、これらの事業を行っていく為には、ひとりやふたりの力では、どうすることもできないものです。また事業を成すには、物、金、人という三つの条件が必要とも言われており、この各々について解決していかなければならない問題があります。しかしだからといって、あきらめてしまうのではなく、これらの意に賛同される人々は、今こそ、ここに総結集して、ひとつ一つと問題の解決のために、協同していく必要があるでしょう。

また、私たちは、現在であるがこそ、これらの行為や実験のすべてが意味を持つと考えています。私たちとしては、何よりも現代写真が担わなければならない質は、私たち自身でしか担えないだろうと考えているのです。写真舎「フォトハウス」へ、皆様のより豊かな創造で、積極的な参加を期待しています。
(1984.11.15付けで発信された案内を再録しました)

19841201
雑記帳の伊藤さんから愚考通信というのが送られてきた。雑記帳という雑誌、けっこう立派な本だったのに六号で廃刊となったらいい。そういえばオンザシーンも六号だ。三号を越えると六号が山場となるのだろうか。ともかく映像情報は12号まで続いたのだし、廃刊にいたっては次の展望を出していたのだから、終わりとしては様になっていたのだろう。

写真舎「フォトハウス」構想においても、出版がひとつの大きな柱となるのだから、今度こそは成功させなければならない。12月7日、スタジオ・シーンに電話をかける。半年以上のごぶさただ。今年の三月に大阪でおこなわれた展覧会以来ではなかったかと思う。先日、里さんから写真舎「フォトハウス」の件について電話があり、近々会うことになったが、その時にオンザ・シーンが六号をもってひとます終刊する。これの発行が今月10日の予定だと聞いたので、連絡かたがた久しぶりに電話をかけたという訳だ。

電話には奥野君が出た。風の噂にぽつぽつと聞くところだが、ということから15分くらい話をしただろうか。奥野君の話によると、メンバーも七人いたのが、ばらばらになってしまって今は三人くらいになってしまったという。シーンの人たちとは、東松照明の展覧会以後、ザ・フォーラムの創出からこの春の展覧会直前まで、何かと一緒にやってきたものだったが、ひょんなことから僕が出入りしなくなって、今に至っているのだった。

僕の方としては最近、写真舎「フォトハウス」構想を文書にして郵送したところで、今後どうなっていくのか不安ばかりが先に立って、精神状態が安定しないのだが、こうした構想を持ったからというのではないが、再び関係を作ろうとしていることも事実としてある。シーンも今後どのような展開を成していくのかわからないけれど、また一緒にやっていける部分があれば、やっていきたいと思うところだ。とはいえ僕はもう御免こうむられることであろうが。

奥野君の話で、本当に大阪は燃えていたのだろうか、といったニュアンスの言葉があったが、このことについては、僕も同様に思うところだ。本当に燃えていたのだろうか。燃えていたなんて嘘だよ、と僕は言いたいところだ。自分で映像情報という冊子を作っては配布していたころから、燃えているなんて思ったことは、内心ないのだ。しかし、燃えあがらさなければならないし、連中に燃えてると錯覚させなければならない、と思っていたことは確かだ。また燃えているように書くことによって燃えるという事実もあるのだから。

外部の人間にあっては、そお内部から出てくる言葉だけが唯一の情報となるのだから、その情報において燃えているように表現すれば、燃えているように見えるのだ、という一つのテクニックとして様々にやってきたのだった。とはいっても実際に、様々にやってきたことだけは事実としてあるのだから、全く燃えていなかったとは言えないのだ。

19841200
さて今後、何をやるかといった時に、奥野君は、自分のやりたいことを自分でやっていくしかない、という。その通りだと思うが、写真をやる。写真を写す。写真作家になろうとするのだから、まず写真を写していくことから全てが始まるのだろう。そうしてあくまで作家ということにこだわっていくかぎり、たった独りの作家活動の中に入ってしまう。

すでに協同で何かがなしえられるというのは、幻想なのかも知れないのだ。作家は常に独りだ。決して何人かが集まれば作家となれるといったものではない。しかし、と僕は思う。今もって思う。やっぱり一人だけでやっていってはいけない。これは作家が自立していく為にも必要なことなのだ。独りで写真をやり始めた僕の体験から、独りではなんにもできない。

僕は単なる写真を写す人でありたいとは思わない。やはり底にある運動というものを想定しなければ成立しない何かを、背負っていかなければならないと思うのだ。これは僕の世代の特有の考え方かも知れないが、すでに若い世代が台頭してきている現在において、もう古びた時計よろしくオクラに入ってもよいのかも知れないが、世代共通のパターンだとしたら、どうすることもできないじゃない。いずれにしても関西がやっぱり沈下しなければならないのか。いろいろと思う。

12月5日、建築家の松本健さんと会う。写真舎「フォトハウス」構想について、いってみれば相談というところだろうか。二人で会うのは初めてだ。僕の構想について、真剣に可能性を探ってみようという。そもそも写真舎「フォトハウス」構想は、あくまで構想であって、すぐに実現できる形態ではない。また構想について、賛同してくれる人がいる反面、反対する人もいよう。しかし、もう始まってしまった。いまさら後へ引きことはできない。

フォトハウス構想が最初に出たのは、いつだったか。去年の五月だったか、京都での釜ヶ崎の写真展の時だったか。その当時は、成文化できるほどには固まっていなかったし、自分でも余りにもでかい企画だったので、人に公言するのも、何をたわけたことを、と一笑されるのが落ちだろうと思っていたものだ。

現在においてもこの企画に対して人は、そんなことできるわけがない、と思っていることだろう。しかし建築家の松本健さんや里さんや宮本さんといった少数ではあるものの賛同者を得たということは、かならずしも夢物語ではないと思ってくれている人いるということだ。心強い限りである。しかし、出来るかな、という不安もある。

ここまで、この関西で写真をやってきて、僕の存在はすでに手垢にまみれているように思うのだ。あちこちで事をなしてきたその度において創りあげてきた事と、崩壊させてきた事との繰り返しだったからである。そんなこんなで敵となった人も多いのだ。物事を成そうと思ったら、そこには何らかの摩擦が起こるのだ。しかし、そんなことを恐れていては、何も出来ないというというのが、本当のところだろう。

こういった関係の中で、建築家の松本健さんと会ったことは、きっと何か出来るようにも思うが、ジャンルが違う、ということは良いことでもあり、また外部から反発される事でもあるだろう。いずれにしても一朝一夕で成し得られることではないのだ。今後、成文化していくにあたって、どうも硬くなってしまうので、なるべく柔らかになるように心がけていくつもりではある。そうして、より多くの人材を集めていかなければならない。

19841200
現代写真研究会の開催について。
写真舎「フォトハウス」構想の一環として、現代写真研究所の設定を考えているが、この機関によって「現代写真研究会」を設定したい。現代写真研究会は、現代の個性ある写真家について研究するもので、フォト・ワークショップの開講とは別の機関である。

写真の現場においては、まず撮ることから全てが始まると認識している人が多いなかで、それだけでは決して写真の潮流が理解できにくいことです。また写真を撮る、という行為には当然、それら写真家の作業を理解したうえで自分の行為というものも達成できると考える。よって現代写真研究会の存在は意味を持つと考えるのだ。

現代写真研究会では、内外の歴史的な作家および現在、第一線で写真家として活躍している写真家の作品について、それらが産みだされてくる社会背景といったところまでも掘りさげて研究していきたいと思う。たとえば、東松照明、森山大道、高梨豊、荒木経惟、といった現在の日本の写真家として第一線で写真をやっている作家研究だ。また外国の作家においても研究の必要があろう。

これらは現代写真研究会のイメージを大切にするべきだ、と思う。いかにも高度な内容を持って研究する集団であるように、なおスケールの大きなものとする。会場については、日仏会館のような、またはアメリカ文んか会館のようなイメージ。そうして顧問には、現代日本の第一線で活躍する写真家を招聘し、それら会場が後援団体となり、または共催といった形態を取る。要は見かけのイメージだ。

写真舎「フォトハウス」構想について野口賢一郎から葉書が来た。この計画の実現の可能性について、どこまで具体化しそうなのか、といった質問が反応としてあった、という。この質問については、私のもとで早急に明確にしていかなければならないことだと思う。

構想は、カメ毎の追分日出子、写真批評の金子隆一、ROOM102の田村に、渡したという。東松照明、西井一夫、大島洋にも送付しているから、東京の連中にも若干はアッピールできている。さて、この企画がどこまで具体化できるか、ということだけれども、実際にはどれだけの人間が集まり、どれだけの行動がとれるか、といった質問と同じことだ。

現在においては、具体的には何人もの人間が集合している状態ではない。あえていえば、建築家の松本健さんくらいだろう。もちろん探せば、というより私のほうから声をかければ、賛同する人が出てくるだろう。これも早急に連絡をとらねばならないところだが、とりあえず明日、DOTでパーティーがあるというので、その前にでも行って、コミを計り、岡田悦子さんや鈴鹿芳康さんらの賛同を得ようと思っているところだ。しかし、たった一人でやり始めたということで、何処まで賛同が得られるか、計り知れないところだ。

19841200
実際にこの構想が一歩でも、実現する方向で話を続けていくほかないと思うのだ。そうしてこの写真舎「フォトハウス」構想が、いますぐ実現するとは思ってはいないけれども、こうした文書が出ると今すぐ始まるように考えられがちだ。私としてはこの構想は、十年はかかるのではないかと考えている。もちろんパトロンが見つかって、三億円でも拠出しようか、ということにでもなれば別だし、こんなことが起こるはずはないし、だからといって株のようなものを発行して、資金を集めるということもできないだろう。資金の件はさておいても、ここ当面、三年ぐらいは準備会といったことで、ぼちぼちやっていかなければならないだろう、と思っているところだ。

この構想に興味を示した人に、金子隆一さんがいると野口賢一郎の葉書には書いてあったが、金子さんはすでにDOTで、この夏に、この企画を見ているのだ。今後の成りゆきによっては構成メンバーの一人として、参加してもらえれば大変ありがたいところだ。そうしてやっていかないと、いつまでたっても人材は集まらず、構想も実現しない、ということだ。ただ、京都と東京と離れている距離を、どのように解決するかだ。このことを除いたら、なんのことはない、すぐに実現することだ。「どちらにしても、わたしたちが一度、写真とは何か?と問うたなら、その場をも含めて考えずにはいられない」と野口賢一郎はいう。

19850100
昨年秋から、写真舎「フォトハウス」構想を公表し、この1月19日には第一回目の集まりを持とうというところだ。場所は建築家の松本健さんの事務所を借りての開催だ。当面は学生層を中心としたメンバーによる総務事務局の構成からはいっていかねばならないと思っているところだ。ぼくらの世代の人間が集まって、運営委員会を構成し、たとえば東松照明や森山大道といった、この時代を築いてきた人たちを顧問に迎えて、三代にわたる世代による写真の研究機関とイベントができる集団をめざしていこうというものだ。

もうすでに始まった。どこまでやっていけるか、不安なことばかりだが、とにかく始まったのだ。慎重に、ゆっくりとやっていけば、よいことだ。とはいえ、やはりこの2〜3年の間には、メドをつけておきたいものだ。この正月はどこへも行かずに、家にいた。写真舎「フォトハウス」の構想をまとめようと思いながら、そんなに作業も進まないままだった。年賀状を書いてみたり、ステレオでピアノ曲を聴いてみたりで、過ごしてしまった。

写真を写す方も、評論の方も、最近はまったくすすんでいない。せめて評論の方だけでもと思いながら、時間がないという理由により、作業が進まないのだ。写真舎「フォトハウス」の仕掛け人として、やっていけばよいのかな、とも思うが、やはり自分自身を確立させるための手段としての作業も必要であろうと思う。

19850100
写真舎「フォトハウス」構築について、今日、京都新聞の坂井記者が取材してくれた。いよいよ始まる新しい企画である。DOTの岡田さん、新司さん、長谷川洋子さん、それに大阪芸大の学生ら、DOTで取材してもらった。長い道のりだったと思う。

釜ヶ崎取材から聖家族でのスペース、映像情報、東松照明展、ザ・フォーラム、図書館に写真集を、シンポジューム、それらと並行してやってきた写真発表活動、もうあれから5年がたってしまったのだ。

79年釜ヶ崎の夏、大阪で活動し、京都へ帰ってきたのがもう2年前だ。その当時、長谷川洋子さんに、今後は京都だ、協力を頼む、と言っていたのだった。あれから2年がたってしまったのだ。私の方はといえば、去年は何もなかったといってもよい。映像情報を終刊にし、新たに始めるとはいったものの、どうしてもふんぎりがつかなかったのだった。

東松照明さんと知りあって、もう3年だ。この間、ハッパをかけられながら、思うように身動きできなかった。自分ながらに、もう終わるのではないか、といった危惧もなくはなかった。しかし建築家の松本健さんとの出遭いによって、私の行く先も決定づけられたと思っている。

一昨年の秋、私が夢幻舞台を出版したころ、そのころから知りはじめたのだったが、野口賢一郎君が東京へいってしまって、それ以降、ワープロを導入し、夏には家を改築し。そうして秋になってばったりと建築家の松本健さんと会って、彼の建築事務所へ行って、協力する旨の申し出があって、それならということで夏前に起案していた写真舎「フォトハウス」構想をまとめ、11月に趣意書を発送したというわけだ。

いよいよ第一回目の集まりが開催される。まずは実績を作っていくことだと思う。今までの経験をようく噛みしめて、ゆっくりと歩んでいけばよい。若いメンバーで総務事務局を構成し、イベントが打てる組織を構築するのだ。負けてたまるか、といった気持ちだ。