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最新更新日 2012.10.11
写真ノート第一部
中川繁夫:著



写真ノート 第二部


第二部 1985〜1986 1〜9


19850820
ようやく夏も終わりに近づいたようだ。残暑きびしい日々が続いてはいるが、盆も過ぎ、もう8月20日。里さんに電話をかける。ワークショップの案内葉書の件で。明日、校正があがるという。6月に二回おこなって、この秋から本格的に開講していくことになるのだが、心配ばっかりで、うまく行くかなぁ、と思っている。

8月になって、なんだか多忙な日々が続いた。ここに座ってワープロを打つことも少なく、疲労も感じている。秋、ワークショップ。白虎社の山野さんから連絡があったのが7月の終わり、昨日から合宿。

フォトハウス・ワークショップのこと。

いよいよ来週から秋の講座が始まる。第三回目になる。里さんの講座としては第一期というところ、シリーズの基礎編である。

ワークショップが、フォトハウスのメインとなることは、今さらのことではないが、機構としては、研究講座事務局、出版局、業務企画局と組織図を描いているところ、このフォトハウス機構について、賛否両論がある。しかし、このようにして形として発表し、稼働させ始めたからには、もう止めることはできない。

ある形が出現すれば賛成反対あることはしかたがないことである。だからフォトハウスの機構を、反対者があるからといってやめるわけにはいかないし、やめる必要もない。

今回9月、来週には基礎編が始まる。今のところ、3名が受講申し込みをしている。定員12名だが、実際に12名集まるかどうかだ。感触としては、7〜8名くらいではないかと思うところだ。私自身に人集めのつてがないものだから、いきおい人の紹介などで集めなければならないことになってしまう。里さんには大変協力していただいている。感謝の至りだ。


19850930
現代の写真を考えていくことに様々な方法があると思うが、何をメインにすえるかによって、その事業が成功するか不成功に終わるかが決定するのでは、と思っている。もちろん戦略的に目新しいものをやらないと注目されないのだ。何も人気取りのためにやるのではなく、京都の為という大義名分のもとに写真界を変化させてしまおうというのだ。些細なことで変化できるものか、との思いもある。

しかしやりだして、現代写真といったものが何であるかは、正確には解らないとしても、関西で今までになかったものである、ということはできるだろう。フォトハウスは、京都から世界へ!といっている。このくらいの気負いをもって良いのだと思う。

レベルの低い、写真で満足。これでは話しにならない。ここでいうレベルとは、現代アートのなかでの、コンセプトといったものが有るか無いか、といったものだ。写真をやっている人がシャッターを押せば写るからといって、それだけで満足している。また何が現代をえぐって歴史に残るかといったことや、現代の表現を追求しなくて何が写真だ、といいたいところだ。こういったものを解決していくためにも、フォトハウスが必要だと私は思うわけだ。

9月30日、東松照明さんと会う。東松照明さんが久しぶりに京都へ来た。ずいき祭りの取材のためだ。今年2月、東京へ、東松照明さんの自宅を訪問し、一泊させていただいて以来の再会だ。六曜社で待ち合わせ、それからジャワカレーを食べに行き、甲斐さんの八文字屋へ行った。

東松照明さんに、フォトハウスの件を話す。今後、東松照明さんのフォトハウスワークショップの企画の打診をする。来年の秋ごろにどうだろうかと思っている。東松照明さんのフォトハウスワークショップ、京都での開催については、慎重を期すところだと思っているが、これは京都の情況を考えたときに、すぐにやってしまうと失敗してしまう大物だからである。

東松照明さんは沖縄でこの10年、毎年夏にワークショップをやってきた。沖縄のワークショップの方法を聞く。一泊二日で実費のみ、という。たまたま東松照明さんが夏、鹿児島での審査があり、鹿児島へ行ったそのつなぎに沖縄へいくのだという。京都でのワークショップについては、現在、京都での取材を中止している段階であるが、関係各位において、そんなに影響を及ぼさないのであればやってもいい、という話しになった。86年秋、東松照明ワークショップを、ぜひ実現したいところだ。


19850930
なぜ、京都なのか。東松照明さんにおける京都。話のなかで、あえて対置するものがあるとすれば、という設定で話を聞く。原爆の長崎、戦後占領の沖縄、と対置するなら、京都は天皇だという。苔が出、桜が出てくるのは、天皇を対置させるからだとも言った。ところで京都を取材したフィルムは、まだセレクトしないまま、積まれているという。京都の奥の深さに、ようやく表面を撮り終えたといったところだろう。そこでひとつまとめてしまうことによって、次の展開がなされるのだろうと思うところだが、そのまとめがなかなかできない、というのが本当のとこらだろうか。

甲斐さんとは何年かぶりでの再開だ。フォトハウスの企画の中に、甲斐さんの協力と思うところだが、出町の文化人をバックにはあくがありすぎてという話もあって、そのままにしておいたというのが本音だ。私としてはそのあたりをも巻き込んだなかでのフォトハウスとしていきたいという希望も持っているのだか。

ワークショップを終えた休日の朝。次の企画のためにあれこれと考えをまとめているところ。ピアノの演奏が流れている。外は昨夜からの雨も上がり、曇りというところ。電気もつけずに、ワープロ遊び。ノートをつけているところだ。日記のかわりとしてワープロで気ままに打ち続けてきて、思うことを記録しているところだ。しかし、思いは、常に流れており、いざ記録しようと思うときには、言葉が浮かんでこないものだ。

19851123
今年にはいって6月には、第一回目のフォトハウスワークショップ京都を鈴鹿さんのところで開催し、実践をふまえたところで、そこに集まった人たちで何かが始まろうとしている。今日、11月23日、夕方から大隈剛芳さんのスタジオで、第一回目のミーティングを開催する段取りになっている。具体的な今後の話をするところまではいかないだろうけれども、フォトハウスのワークショップを経てきたメンバーによって、話される最初というところだ。

集まる予定者は、私、里博文、大隈剛芳、鈴木俊宏、金井杜男、琴浦香代子の6人となっている。このメンバーが今後どういった展開のなかで結束していけるかは未定だけれども、フォトハウスワークショップの成果のひとつとして、大切にしていかなければならないと思う。岡田悦子氏、鈴鹿芳康氏といったブレーンたち、今後の講師として、島尾伸三氏、金子隆一氏、小本章氏といたメンバー、すでに10人を越えた。


19851123
ちょうどフォトハウスを公表してから1年が経った。その間、さまざまな曲折もあり、メンバーの変動もあった。当初のメンバーは、すでに誰もいない。これは内容が明確になったところで、やるものだけが集まらざるをえなくなってきたからであろう。というよりもフォトハウスが指向する目的といったものが受け入れられる基盤がその当時は無く、行動があって初めて見えてきた部分があって、賛同する人達が集まった、ということだろうか。

今月始め、11月2日から5日まで、東京に行ってきた。そこで、東松照明さんに会い、野口賢一郎さんに会い、島尾伸三さんに会い、金子隆一さんに会い、また銀一の松上興司さんにお会いしてフォトハウスの今後を打診してきた、といったところだ。松上さんには、鈴鹿さんからの紹介で、快く会っていただけた。また島尾さん、金子さんについては、野口さんからの紹介であった。私としては成果あり、と思います。

フォトハウスの構想が、現在の状況に対応して、間違った方向ではなかったという実感だ。

オリジナルプリントの方向。写真の新しい方向。とは言え、すでに何年も前から話題になっていることで、今更とりたてて言うことではないが、こと関西においては、まだまだこういった指向が定着しておらず、ゆえにフォトハウスとして打ち出したこの方向が、今更、新しい試みという訳だ。

それからコンセプトとして、現代美術のコンセプトを導入するということ、私は、これまでの関西にはなかった質といっているが、戦略として成功する概念だと考えている。もちろん自分の表現者としての立場を放棄してしまったかのような最近ではあるが、このへんのところを、東松照明さんに指摘されて、叱られたところだ。

フォトハウスの報告文を作成するにあたって、私自身の中でいつごろからフォトハウスのことを言いだしているのかを調べてみようと思って、映像情報を見ることになった。まず、1983年4月10日付で、映像情報号外5号が出されている。この号は私の写真展として、釜ヶ崎をやった時のもので、4月25日から5月14日まで、写真壁で「ドキュメント釜ヶ崎」をやったのだったが、この期間中の5月7日に「現代写真の潮流を考える」といったタイトルで、討論会を設定しており、ここで話したのが最初だったように思う。

<今後の早い時期に、私たちは「開かれた」作家集団組織を形成し、協同研究を重ねる場の設定を目論まなければならない。何よりも来たるべき写真のために。今世紀初期、ワイマール国立「バウハウス」が設立されたように、理想と理念を追求する機関として、来たるべき写真のために、「フォトハウス」の設立と「ワークショップの開講」を、である。>このようにアピール文の中で言っているのである。


19851123
前記のアピールが提起されるまでの何年か以前から構想があり、その時期に文章となったのだったが、まだまだ具体的な内容の構築といったところまでには至っていなかった。この当時、私としては、話題として言いだしたものの実際には、どのような形に発展させていけばよいのか、また、具体的にはどのような形になっていくのか、また、どのような形態を取ればよいのかなど、かいもく何もわからない状態だった、と記憶している。このアピールを見て、野口賢一郎くんが、この討論会に参加してくれたのだった。当日の討論会といえば、5人くらいが集まったにすぎなく、ぼそぼそと、心もとなく、まだ明確にならない「フォトハウス」のイメージを語っていたような記憶がある。

どんな話をしていたのだろうか。私にはすでに記憶はないが、この時、野口くんからいろいろと問われて、私はしどろもどろになりながら、フォトハウスのイメージを説明していたような記憶だけがあr。今までにない形、機構、形態。今までにあった組織すべてを乗り越えたもの。開かれた作家集団。このあと、同1983年8月に映像情報11号が発行されているが、この中の情報欄で若干のフォトハウス構想に対しての評論を試みている。

ここでは、<すでに「映像情報」では、「フォトハウス構想を打ち出しているが、これの理念として、展覧会機能と出版機能と論議による共同研究の三機能を、有機的に結合させたコミューンの建設である。>といっており、また<もちろんこれらの機能を持った場が単独でできる見通しは現下のところない。

現状において、たとえこういう機能が備わった場が創出されたとしても、単に新しいスペースのひとつになるにすぎないだろう。そういったすでに存在するスペースと同軸に対置させるのではなく、よりグローバルに、個々の場を包み込むものとして、全ての起立する個々や団体を包括するものとして、かりに「フォトハウス」と名づけるのである。>


19851123
<こういう全体的な構図の中で、あくまで個の営為をベースにした行動の統合として、現代の状況に対応し、共同歩調をとるための共同理念としてのフォトハウスなのである>

<関西写真界の質的な変換を当面の課題として、私たちは今、目論むべき方向、ありうべき写真の姿を、個々のパワーにおいて模索していかなければならないであろう。私は「開かれた」作家集団組織を形成しよう、と提起しているが、これは相互に挑発しあえる装置を想定しているのであって、あくまで個人の主体性を中心にすえた連合体である。こういった動向を生み出す全てを包括したものとしての理念的形態「フォトハウス」、こうしてつなげてきた個をより相互に挑発しうる装置としての「ワークショップ」の開講。これらの展望は、より今後の長期的課題として残されているが、ともかく現在、関西の写真現場にはどうやら新しい潮流が起こっているようである。>(1983.6.1)

これらが明らかにされたのはすでに1983年6月というところで、このたびの「フォトハウスワークショップ」が開講されるちょうど2年前のことである。そして1984年1月発行の「映像情報」最終号において、映像情報誌の総括と今後の展望の中で、やはりフォトハウス構想に触れて、次のように語っている。

<理想形といえばやはり映像情報が単独で発行されるのではなくて、複数の人間で、何かやっているうちに必然的に発行されてくる。この場合の「何か」とは、たとえばワークショップ形式の集合体でもいいでしょうし、写真を研究する有志グループでもいいでしょうし、具体的には今後の課題として背負っていかなければならないことなのですが、個人が主体的に関わって、よりすぐれた写真活動ができる質を創っていきたいわけです。>

里博文さんから電話。10月30日、メーカーサイドの人と会う約束が出来たというもの。フォトハウスの企画として「ワークショップin京都」を開講しているが、来春の第二期の準備として、現在、企画中のところだが、一方でメーカーサイドからの協賛を得ようとしているところ、TOYO酒井特殊がのっかってくれそうな気配なので、打診をしてもらっていたところコンタクトがとれて、30日に会うことになった。


19851023
私としては、フォトハウスワークショップの現場として、鈴鹿さんの自宅を開放してもらっているところだが、その場所を見たいということである。また第二会場として大隈さんのスタジオを借りることになりそうだが、ここも見てもらう、ということ。いずれにしても当方の持ちうるコマを見せるわけで、酒井特殊がある。がどのように出てくるかを、見てみようというところだ。相手は商売として、販売戦略の一環としてやってくるわけで、そのへんを見越したうえで、対応していかなければならない。

フォトハウスの企画を実現していこうと思えば、必然的に必要なものがある。人材、場所、金、といったものだ。このうち金の面について企業、ここでは法人と表現するが、ここから資金を引き出さなければならないというところだ。どのように対応してくれるか、フォトハウスの意思を貫き、なおかつその上で資金援助をしてもらえればよいと思っている。

フォトハウス研究所の設定について

フォトハウスワークショップを開講してきたなかで、基礎部分が終わり、研究分野に進んでいくことになり数人のメンバーによって研究会が開催されることになる。そこで以前から私も構想の中にあった形態だが、写真学研究所といったものを開設し、ここを写真研究の中軸としていくことが望ましいと考えています。

具体的には、大隈剛芳さんのスタジオを当面の所在地とし、写真の基礎技術をフォローする化学的メカニズムを研究する母体としていくことを目的とする。

「フォトハウス写真学総合研究所」
第一課 1、薬品研究 2、フィルム現像特性研究 3、完全処理プリント研究
(化学事実験を中心とした分析学術)
第二課 1、写真美学研究 2、写真システム研究 3、カラー写真研究
(光学、工学理論を中心にした分析学術)
第三課 1、写真史研究 2、写真社会学研究 3、写真教育学研究
(歴史、社会構造、思想を中心とした分析学術)
第四課 1、内外歴代写真家研究 2、内外歴代写真作品研究 3、現代写真研究
(作家及び作品の解析を中心とした学術評論等)
第五課 1、写真応用美術研究 2、周辺表現ジャンル研究
(写真をベースとした表現、写真から派生した表現の学術研究)
以上


19851023
フォトハウスギャラリーの開設について(案)

フォトハウスが生み出した作家をフォローしていくための場として、発表を行っていくためのギャラリーの開設が、将来必要になってくると考えられます。また、作品制作のための材料を扱い、発表までのプロセスにいたる諸材料を取り揃えておくショップを開店していかなければならないと考えます。

「フォトハウスギャラリー」
1、ギャラリー部門
   作品の展覧会
2、完成作品販売部門
   オリジナル、印刷物
   イメージ商品などの企画と販売
3、制作材料販売部門
   特殊薬品類、特殊機器類
   額装のための備品類などの制作と販売
4、印刷あっせん、トータルプランニング請負など

フォトハウスギャラリーの機能としては、作家と作品を流通に乗せ、商品価値物として需要を喚起し、作品を世に送り出すことを目的とします。このためには、制作途上において、様々な材料や薬品などが必要になり、また作品収納のための額、ケース、マット、などが必要となりますが、一般には得がたい商品でもあるので、フォトハウスギャラリーの特選品として、販売に提供し制作者のための利便を図っていきたいと考えます。

19851125
フォトハウス研究コースについての話し合い。11月23日の夕方から24日の朝まで、大隈さんのスタジオで、参加者は中川繁夫、里博文、大隈剛芳、金井杜男、琴浦香代子、鈴木俊宏の6名であった。フォトハウス事務局の新メンバーによる第一回目の会議というところでしょうか。名称を「事務局会議」と名付ければよいのだ。フォトハウス構想の中での、フォトハウス事務局がようやく一定の要件を備えだした、ととらえればよいだろう。

研究コースについての運営といったものがどういう形で実行されればよいか、といったことが問題となった。形態、運営費、運営主体、コースの内容、その他。お金の問題が一番大きな問題。そして人材、内容。本当は、人材、内容だと思う。とりあえず最高のレベルを保つこと。フォトハウスのワークショップにおいてはもちろんのこと、研究コースにおいても同じことだ。といったところで、私の実感として、研究コースがハイレベルを保てるだろうか。これはメンバーを信じるしかない。

当面、大隈さんのスタジオで研究コースを開催する、ということになっているが、問題はないか。鈴鹿さんの場所では、都合が悪いのか。悪くはない。なんの支障もない。もしあるとすれば、交通の便だけの問題だ。また、フォトハウスとして、二カ所での会場を持っている、ということのメリットがあるやいなや、といったところだろう。