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最新更新日 2017.1.3
アグリネット
中川繁夫:著

 アグリネットblogに連載の文章

食べることの話です

 1~6 2014.12.24~2016.11.5

  

お米のはなし
2014.12.3
いまから数年前、三年間ほど、お米の生産現場に立ちあっていました。
田植えや刈取りなどを、機械を使うのではなくて、昔のままスタイルです。
そのときの記録を、カメラを携えて田植えや稲刈りをして、残しました。
無農薬田んぼ、減農薬田んぼ、両方を体験するなかで、農業の現在を考えました。
その命題は、自給自足は可能か、ということでした。
貨幣経済から離れて、自給自足が可能かどうか。
結論は、個人では無理、集団だと可能になる、です。
集団の人数ですが、どれくらいでしょうか、60家族300人。
でも、いまどき完全なる自給自足なんて、夢物語ですね。

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この世を生きて渡るのに、きれいごとだけでは生きていけない。たとえば食べ物について、これはお金が無ければ買えません。買えないなら自作したらいい、なんて考えるのは現実的ではありません。お金が無ければお百姓も出来ないことは、説明しなくてもわかるかと思います。基本は、お金があって、食料を買うことができて、そうして日々の生活がなっていく、ということなんです。そこで今日からは、このアグリネットでは、外食について、少し考えてみたいと思っています。というのも実践的に街のなかで外食をするんですが、その外食の値段のことが主たる目的です。

牛丼チェーン店、ラーメンチェーン店、中華料理、洋食、和食、その他にも特色ある店舗があると思うんです。外食するときの気分もあるけど、一人で入れる店ということで、牛丼チェーン、吉野家、すき家、松屋、それに和食系のなか卯などがありますが。ひところ牛丼280円にまで値下げされていたのが、今年は値段が上がって、足並みがそろわなくなりました。このブログ、アグリネットでは、このチェーン店の食の価格についていろいろと詮索しながら、いかに安く、とううことは生活防衛できるか、ということに論及していきたいと考えたのです。

スーパーなどで材料を買ってきて、料理をするのが良いとは思うのですが、諸般の都合で外食に頼ってしまう人もいる訳だから、外食産業の恩恵にあずかる低所得者の実態をもふまえながら、考えてみたいのです。食べることは、生活というよりも生存するための条件なのだから、生活以前に、いかにして生存していけるか、というところからの論及が必要だと思うのです。セーフティーネット、生活保護とかも含め、庶民が中流生活ではなくて下流生活にして、いかに食べることを得るのか、を考えたいところです。

-2-

近所のCOOP、生協のお店へ買い物にいきます。生協が扱う食料品は、品質が良い、と以前は思っていましたが、最近はどうなんでしょう。やっぱり良心的な、生産者に密着した、食料品を扱っていらっしゃるのでしょうか。加工前の商品ですが、もやしが安値になって10円で売られています。うどんが四玉100円前後で売られています。いまどきの貨幣価値からいって、これは余りにも安いのではないかと思うんです。もちろん、安いことは大歓迎ですから、この価格に文句をいうつもりは全くありません。ただ、安く作れるにはそれだけの理由があると思うのですが、安いから材料が安い、というかわけありなのでしょうか。

このまえは外食産業について、その価格について雑感を述べました。安く食べられるのは、消費する側にとってはいいことだと思っています。でも、そこで提供される食品が、感覚的に安全安心を満たしてくれていれば、なおいい訳です。感覚的な安全安心というのは、ぼくは農薬を使わないで有機肥料による栽培、を想定しています。しかし、この安全安心をクリアーするには、とてつもなく価格が高くなるのではないか。食料品の価格のからくりはわかりません。こうして、あれやこれやと言えるのも、高いモノでも買えるという余裕があるからだと思えます。実際、低所得者が、そこまでこだわれないのではないか、と思うわけです。安さと安全安心とのバランスで、なるべく安いのを求めなければならない所得者もいるということを忘れてはならないと思います。

大阪の西成区、ここは労働者の街ですが、行政はあいりん地区と名づけていますが、現地では釜ヶ崎と呼んでいます。略して釜、カマ、です。ここでは、日常的に炊き出しが行なわれています。もう40数年も続けられている炊き出しに並ぶ人たちは、基本として今日の食にありつけない人たちです。日常としてお金を払って食することができることを前提としている社会です。このお金を払って食することが出来ない人々がいる、ということは信じられないことですが事実なのです。釜ヶ崎炊き出しの会では、一般のひとたちからのカンパによって炊き出しを行っています。米が寄せられてきます。現金が寄せられてきます。循環の輪がひろがっています。食えない人には生活保護があるじゃないですか、という向きもあります。行政が手を施さないのではなくて、それに従わないからだ、との見方もあります。世の器に高低をつけてしまうのは意にそぐわないのですが、底辺層の人々、もっとも底辺では、食することがままならないのです。もちろん衣食住がままならない。この現実を自己責任にすり替えてはならなくて、人権を守って、そこへの援助の手が向けられるべきなのです。

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最近は、あんまり贅沢を言ってはいられません。スーパーに並んでいる食料品の値段が、微妙に、すこしずつ値上がりしていますから。安くって、それなりに良品と思える食料品を買います。ただいまぼくは完全なる消費者です。手に入れるすべての食料品は、お金で支払うのが原則です。おすそ分けと言って、いただく食べ物があります。たとえば田舎の方から送ってきたから、といって柿とか野菜とか。またまた知り合いの肉屋さんから切れ端をもらったので、といっておすそ分け。いただく食料品には、あげる食料品があるからで、相互の贈与関係だと言えばいいですね。

どちらかといえば都会地に住んでいるぼくは、野菜やお米を生産する手段を持っていません。だから野菜やお米を生産されている親類からいただくと、それへの見返りに現金で買った菓子箱とか、ハムなど食料品の詰め合わせとかを、贈るわけです。生産しない者が、贈るには現金で買い求めたものを贈る。そんなことで、最近は、あんまり自らの生活に関していえば、あんまり贅沢を言っていられません。世の中の大半の世帯が人が、だいたいぼく同じ環境ではないかと思うのです。財産があるわけでもなく、剰余的にお金が入ってくるわけでもなく、労働の対価か年金受給だけ、こういった世帯とか人のことです。

食べることは、日常、欠かせません。その大半を収入のうちから支払って求めます。家計に占める食料購入の比率をエンゲル係数というのだと教わっていますが、この係数が低いほど俗にいう生活レベルが高い。エンゲル係数が高いほど、生活レベルが低い。実際に食料品にかかる金額って、いかほどのものなのでしょうね。ぼくの家計では、家計簿ってつけていなくて、その場しのぎのやりくりですが、老人家族2人で月に9万円ほどの感じです。平均して1日に3千円くらいでしょうか、もう少し少なめかも知れません。外食費を含むともう少しかかっているかも知れません。

 

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生きるということは、食するということと同じです。生きるということには、もっと別の意味があって、豊かに生きる、満足する、知的に充実する、そのほかにもいろいろな意味を見い出そうとしています。でも、正直なところ、それらは一応食べるということが保障されているからこそ言えるのであって、食べることが出来なければ、それ以上のことは何もできないはずです。一時的な空腹、たとえば一日とか二日とかのレベルで食にありつけない程度なら、それは生存を脅かすというほどのことはないと思うのだが、食べ物がない、食べられない、ということが続くことになると、それどころではなくて、きっと食べることだけを考えるのではないでしょうか。

食べることは、身体的に生きることの根本です。こんなことをつらつらと書いていられるのも、食べ物を得ることが出来ているからです。空腹どころかいつも充足気味な生活です。でも、注視しなければならないことは、この食べることもままならない人たちがいる、ということです。外国の貧困者のことではありません。この国にそんなことがあるわけないと思うのは、浅はかなことです。基本的に自力で食べようと思うと、お金がなくては食べられません。つまりお金がない人がいて、食べられない人の群がある、ということです。そんなことは社会保障で生活保護とか救済の道がある、とはいえそれが出来ない人の群があります。釜ヶ崎なんかで行なわれている「炊き出し」に並ぶ人たち。やむなくホームレスになってしまう人たち。

とはいいながら、わたしは年金生活者で、最低保証されている身です。だから食べられないことはなくて、贅沢はできないものの、外食だってしています。地産地消とか、安心安全に留意してとか、添加物を使っていない食品とか、言いだしたらきりがないのですが、そのことに固守しているわけでもありません。ここに載せた写真ですが、牛丼チエーン店の牛丼です。相対的に安く食せると思っていて、けっこう食べています。牛肉はオーストラリア産でしょうか。最近値上げになっていますが、それでも他の外食品と比べて、相対的に安いと思っています。コンビニとファーストフードの店舗が、いまや日本全国津々浦々にまで侵食している最近です。これが現実だと受け入れて、年金生活者にも手が届く食品たちがそこにはあるのです。

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最近の関心ごとは、いかにして食べ物を安く仕入れるか、ということです。かなり本音で、なりふりかまわず申し上げることなのですが、収入が少ない分、ほかの支出を切り詰め、なおかつ食費を切り詰めるということになります。この論をすすめるうえでの基準となる収入、及び収支ですが、これこそ個人差があるわけですが、基準は、ぼく自身の収入と家族の収入の合計です。おおむね年金生活者であるぼくは、手取り金額で151千円です。これには介護保険料などの源泉徴収が行なわれたあとの振込額です。いわゆる公的年金の手取り月額です。多いのか少ないのかの議論は、これは個人差があるから、いいだしたらきりがないので、それは置いておいて、およそ40年間働いて掛け金して、年金として降りてきてる手取り金額なのです。妻の年金は月額10万円に満たない額のようで、家計としての合計は25万円としておきましょう。

さて支出のことですが、現在は自分名義の土地と家屋に住んでいます。これには固定資産税が年額で10万円ほどだから月額8300円ほどかかってきます。国民健康保険に加入していて月額9800円支払っています。ほかに水光熱費、自動車経費、生命保険料などを積み上げていくと、およそ9万円~10万円ほどが必要となっています。食費は材料の仕入れで月に6万円では済んでいないと思えます。というのも家計簿はつけていなくて、おおむねの概算ですから。食費6万円とすれば、一日2千円です。ふたり分だから一人当たり一日千円の食費という概算ができます。一日千円で何が買えるか、ということを分析しなければいけません。外食なら、最近なら、昼食で、弁当が500円くらいでしょうか。いやはや250円+税という弁当があり、380円の牛丼がありますが、ぼくの場合は100円~200円で押さえようとしています。

最近は朝食にパンを食べなくなりました。ミルクを飲まなくなりました。バターやマーガリンを使わなくなりました。健康のこと思って120円ほどするR-1を週に四本、飲んでいます。朝にはコーヒーを飲みますが、コーヒー豆は100g100円前後で買うように努めています。こう羅列すると朝食に一日100円ほど当てているのでしょうか。そうして夜の食事にはいくらくらいのお金がかかっているのでしょうね。お米、野菜、豆類、肉類、平均して、一日一人いくらくらい使っているのでしょうかね。ここまで書いてきて、はたと困ってしまいました。というのも具体的な積み上げが出来ない。ただ食費、自分で料理する材料の金額、一日一人千円ほど使っているような気配がします。魚一切れ200円?、牛肉なら100g300円?、豚肉なら100g200円・・・・。それだけで済まないです。

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食べるということが満たされているからこそ、天然素材の食べ物だとか、ありのままの食べ物だとか、ああでもない、こうでもない、という話になるのだと思うのだけど、食べることが満たされない、食べることができなくなったら、どうすればいいのか、なんて考えることがままあります。というのも、自分のことを引き合いにだしていうと、ぼくは100%消費者ですから、すべて食べ物はお金で買うわけです。もらい物があるとはいっても、それに対してはお返しもするわけだから、お返しの物品はお金を出して買っているわけです。このお金が捻出できなくなった時、どうすればいいのか、という問題です。かっては残飯漁りというのがありました。ぼくはやっていないけれど、レストランや弁当屋さんのゴミ箱に捨てられた残飯を、探して食料にするというのです。いまは浮浪者なんて言い方はしません。ホームレスという言い方になっているのかも知れません。いまや、そんな残飯なんて手に入るご時世ではないみたい。それなら、どうする、という問題です。

釜ヶ崎では炊き出しが行なわれています。只今、数カ所で、数団体が炊き出しを行っているようです。ぼくが知るのは「釜ヶ崎炊き出しの会」という任意団体が毎日行っている炊き出しです。ともあれ30数年続けられているから敬服するしかないのですが、ここでは善意のカンパが行なわれていて、善意者から送られてきた米俵(とはいってもいまは俵ではなくて袋ですが)を炊いて配給するという仕組みがあります。様々な意見があるのは承知のうえですが、とにかく金が無くて食べられない人がいる。この人たちを救済するための炊き出しネットワークなのです。このアグリネットと銘打ったブログで、紹介する記事は、ファーストフードよりもスローフード、地産地消、無農薬野菜、などのある種、流行りの風潮にのって、記事を書いていくということですが、最近は、そうではなくて、いかに生活防衛していくのか、といったところへ移ってきています。

問題は、現実に、炊き出しが行なわれていて、それを当てにしている人たちがいる、ということです。それは自己責任であって、最低生活が保障されている日本だから、食べられない人がいるなんてありえない。このように思っている人がいて、現実に、そうではなくて、炊き出しで、食にありつけるという人がいる、このことが事実なのです。こういう論議は、迷路にはまっていくような気がしてならないのですが、一度はこのブログで、このレベルの話をしておかないと、その上の話が空しくなってしまう。いかにして食費を安上がりにするか、という話は、多少ともお金が手に入るということが前提となるわけです。そのお金を手に入れるために人は働く、賃労働するわけで、高齢になると年金支給があるといっても、その範囲で食するわけです。生活保護があるとはいっても、現実にホームレス状態になっている人を救済できていないのが現実なのです。どうするのか、これが問題なわけです。掲載の写真は、カンパで集まった米袋を前に、釜ヶ崎炊き出しの会代表の稲垣浩氏、2015年3月10日撮影、です。