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中川繁夫の物語と評論ページ

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最新更新日 2018.1.5
徒然にっき
中川繁夫:著

 徒然にっきblogに連載の文章

徒然にっき-6-

 13~24 2017.3.11~2017.8.12

  

-13-
それは昨日2017.3.10のことでした、写真に写っている稲垣氏と一緒でした。
強制代執行の違法性を求めての裁判に行ったところですが、このバス。
修理に出すというので西淀川区のふそーの工場へ持っていくのにつきあった。
西淀川郵便局がありマクドナルドがありました。
もう二十年以上も前になる、ここで退職したのでしたが。
その時のことが、いっきに思い出されてきて、良も悪くも混在でしたが。
思い出とは、思い出を思い起こすとは、こういうことなのだと思った。

裏が読めるというのは、その当時に養った知見と経験なのかも知れない。
官民癒着の構造が、たぶん、この小学校開校の背景にあると思う。
そんなことに近いこと、そこで見てきたような気がしています。
まあ、そんなこと、どうでもいいけど、善良な市民をだましちゃいけないな。
一気にきな臭い様態が浮上してきているように思えます。
写真研究会を立ち上げます、意地でここまで来た感じがしています。
最後の企画かも知れないと思って、慎重に進めていきたいところです。

なんだろうね、釜ヶ崎というところに関わる自分のことですが。
一番底辺な場所として、これは経済の枠組みにおいて、虐げられる立場。
そこに関わったという自分の資質について、なんなんだろうな、と思う。
家庭的に庶民として底辺に生きていたことが、そこへ傾斜した理由であろうか。
反体制の側に立った自分のことを追憶していっても、明確でない。
生まれ育った土地柄というのがあるのかもしれない。
生まれ育った環境が、西陣の端の異端者的立場に置かれていた感覚なのかも。

-14-
フォトハウス写真研究会なるものを立ち上げようとして動いています。
ここ数日はそのことで時間を費やしているなぁ、といま思います。
4月9日の日曜日が創立の研究会開催、箕面のスペースです。
紆余曲折といえば紆余曲折です。
可能性を求めて、組み合わさってきて、ここにいます。
個人の名前は控えますが、旧知の彼には、背中を押してもらえた。
京都、大阪、神戸、紆余曲折、立ち上げは箕面に行きつきました。

あらためて、これまでの経験値を総合して、場つくりをします。
フォトハウスの前には釜ヶ崎で季刊誌を「季刊釜ヶ崎」を編集。
そのころに「映像情報」を編集、東松照明さんと巡り合う。
東松さんとのセッションから「フォトハウス」の構想が生まれてきます。
1984年、フォトハウス立ち上げ、フォトワークショップを開催します。
もうひとつの流れは写真図書館につながる流れでした。
その後、京都写真学校を岡田さんと共同で、10年やりました。

結局、人との関係の中で作ってきたシステムでした。
この、人との関係ということをベースに置いて、作っていきます。
なによりも有名になることではなくて、自分への満足、でしょうか。
生きている喜びの実感みたいな、それが体感できるシステムです。
総合文化研究、むくむく通信社、アグリネット、それらの総合態です。
ぼくに残された時間は10年と想定しています。
悪夢委から覚めた感じで、がんばっていきたいと思っています。

-15-
今日は4月1日、エイプリルフールといっても嘘が書けない。
嘘が書けないという嘘をついて、本当を装っている気がします。
もう年をここまで取ってしまうと、本当と嘘が区別できないと思ってしまう。
まあ、だいたい、嘘ばっかりというのが世の中みたいな気がします。
嘘で塗り絡めて張りぼてにして、あたかも本当のようにふるまう。
哀しいけれど、そんな人をたくさん見てしまいます。
じゃあ、自分はどうだと問われて、自分は違うなんて言えない。

人間って、自分を正当化しようと思うんですね。
まんざら嘘ではないとしても誇張して人より優位に立とうとする。
なんだか駆け引きの世界で、ほかのことがよく見えて、けなしたくなる。
まあ、まだまだ俗人であることを、思い知ります。
でもこのままじゃ、終わるに終われないじゃないですか。
あまりにも自分がみじめに思えてくるじゃないですか。
だまされたとは思っていないけど、それによく似たことだと思うのです。

久しぶりに嵯峨野の野々宮界隈へ行って写真を撮りました、
われながら、何してるんやろ、と思いながらのスナップです。
そもそものその行為が一体何なのかということも考えてしまうんです。
いやはや矛盾だらけ、説明がつかない、そうしたことか。
文字さんと、いろいろ話をしていると、自分の思い込みが正しくないとも思う。
何が正しくて、何が虚偽なのか、それは本人だけが知ることなのです。
なにかしら、うんざりしてしまう今日この頃です。

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いま実名を使っているブログの数が20個ほどあるなかで、ここがメインだと思っています。でも、ここでは文章を、三段と決めていて、これがけっこう億劫になっています。作成するのに時間がかかる、ということもあるけれど、何を書こうかと迷うからです。写真だけのブログがけっこうあって、そこへも最近はアップできていないです。
欲を出しすぎているのだと思うが、これらは広報のために作り置いてあるブログです。
今月に入って「表GEN研究会ph」という会を立ち上げました。これへの会員募集を、写真学校のときの広報手段を使って、やりだしています。

なんだかんだといっても、お金を使わないで広報しようというのだから、これしかない。ブログを駆使して、ぼくの考え、思い、などを順次まとめていく作業をしている。自分のための、といえばその傾向があって、自分の資料として構築しているんだな、と。けっきょく、ひとりよがり、自己中っていうんですね、自己中心でしかなくて、成果があがらない。いっぽうで、実名をださずにペンネームで書いているブログもあるわけで、これがメインかも。小説を書いていきたいと思って、自己中な小説を書いていて、全体妄想のなかにいる。総合文化研究からはじまって、エロス試行まで、幅をひろげてしまって、収拾がつかない。

いつも、何してるこっちゃ、と懐疑心にさいなまれていて、正常じゃない意識だと思う。この正常じゃないと思うところに、実は正統派思想家の源流みたいなのがあるんかも。阿部公房の「燃えつきた地図」を書架から取り出して、奥付をみたら1967年発行です。今回のプロジェクト名付け親の白川さんとの会話で出てきた本です。今更ながら、燃えつきた地図、いまのぼくには、何度も燃やしてしまったあとの地図。新たな地図を描き始めた、と思いたい、ああ、もう、最後の地図作成だな、と思います。今日使った写真は、21日にメンバーの三人展を見に行ったときのスナップです。

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写真の先輩大八木さんと撮影会した天神さんの縁日記念を張っておきます。
ぼくがカメラを持って写真を始めた最初のころに所属した光影会にいらした人。
もう八年も前だが、DOTで再会、それから光影会の例会と撮影会にいく。
光影会は京都シュピーゲルという名称が変更になった写真倶楽部でした。
いま思うと関西写真史のメインストリートではあった、血統書付です。
当時からの生き残りの先輩といえば、いまや現役では、大八木さんです。
1977年、ぼくは、光影会と全日写連と関西二科会の三組織の会員でした。

今年の初めに、この光影会が実質上解散しました。
それはそれでよかったと思いますが、ぼくの中では継承しています。
ちょうどその後になって4月「表GEN研究会ph」という名称になったグループ。
関西の写真の歴史の血筋を引いた集団として、ぼくは認知しています。
岩宮武二氏、棚橋紫水氏、木村勝正氏、達栄作さんらは先輩になります。
ぼくが1970年代の中盤に、写真を学んだ器の出発点がここにあります。
その後、反発して釜ヶ崎へ行く後に、インディペンデント系と出会います。

1980年代からはじまった関西の写真シーンにコミットしてきて35年以上になる。
伝統的写真倶楽部の系譜を引き受け、新しい潮流を創ったメンバーとして。
フォトハウスを継続し、写真図書館、表大、IMI、京都写真学校のメンバー。
いま、それらの統合を、ぼくは新たな企画で、新しい潮流をつくります。
総合文化研究所、むくむく通信社、それを支える考え方に基づいていきます。
新たな企画は、それらの組み合わせということになるかと思います。
新しい場つくりは、カフェ&プレス構想をアレンジでいいいのではないか、と。

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今日はこの前文字さんと一緒に行った耳成山口神社の写真を使いました。
昨年からの宿題といえばいいのか、大和三山巡りの二番目です。
どうしてだか、写真の被写体に、旅気分で出かけた場所を撮ってみます。
それほどインパクトある写真でもないが、思い入れがでる写真ですね。
なにしてることか、自分で自分の行為を、理屈づけできないでいます。
理屈づけできないのは、写真を撮ることだけじゃなくて、ほかにも及びます。
パソコンに向かって、文章書いたりするけど、なんでするんやろ、と。

このブログは、文章を主体にして記録しているブログです。
でも、ひと頃のような、論理じみた文章にならない、支離滅裂な感がします。
なにしてるこっちゃ、なにしてるん、なんでぇ、こんなことしてるん。
わけもなく、わからないことだらけで、どうしたものかと、憂鬱になります。
学びの枠組みを提案して、それを実現させるとしても、その意味が掴めない。
いや、本当は理屈ずけることは、結構やってるのに、それが虚しくなるのです。
朝から、もたもた、パソコンをメンテナンス中だけど、よくわからない。

過去の栄光にすがるなんて、とってもばかげたことだと思うんです。
いま、なにを、しているのか、これが重要なポイントで、現役でないと意味ない。
じゃあ、いま、なにをしているjのかと自問して、恥ずかしいことばかりしてる。
プライベートなこと、性癖というか、生理的なことだけど、老体をどう認知するか。
頭も、肉体も、衰えてきているのに、妄想は衰えていかないようです。
壮年から老年へ、からだの変化といえばいいのか、そうかも知れない。
感覚が変わってくる、頭の中で、見えるモノが変わってくる、これは変化です。

-19-
かって白虎社で踊り子をしていた今さんが舞踏館で踊られている。
昨年、京都の烏丸三条あたりにオープンした旧家の土蔵が舞台とか。
その情報は知っていたけれど、公演を見る勇気がなかった。
ぼくは1980年から白虎社を取材していて、写真を35年間封印していた。
一昨年あたりから、フィルムスキャンしてアルバムやブログにのせています。
そのメンバーだった今さんが舞踏を続けていらっしゃるのです。
昨日は、その写真展のトークイベントに出席させていただいた。

ほぼ若い人、女性が多い、たちが集まって話を聞いていらした。
セイリー育緒写真展、ギャラリーMainで開催されていて、そのトークです。
ギャラリーは社交場、人と人が交流する場です。
もちろんそこにある展示物を鑑賞することが前提となります。
ぼくは、おもはゆい気持ちになります、恥ずかしさもあります。
アウトサイドな、体制外的な場所で取材してきた身としては、美しすぎる。
ギャラリーという社交場は、やっぱり、眩しくって、気恥ずかしくていけない。

この2年間、大きなうねりのなかで進めてきた企画について、終息宣言です。
昨日、そのことを表明したところで、侘しさと虚しさですが、これでよいと結論。
すべてが終わっていきます、引き際というのがあるから、それが今ということ。
フォトハウスの名称を残し、自分表出を行うことで、つないでいきます。
何を撮ってきたのか、何をしてきたのか、そう思うと、検証がひつようかもなぁ。
意識以上に老人の域だから、それらしく振る舞わないといけないのでしょうね。
反省も込めて、自分のことを考えて、進んでいこうとおもうところです。

-20-
ここのブログもけっこう長いこと利用しています。
タイトルの「徒然にっき」は、兼好さんの「徒然草」をもじったもの。
その徒然草が起草されたのは双ヶ岡の山裾の草庵でした。
その場所は、いま小さなお寺になっていたと思うが、歴史を感じます。
掲載した写真は、先日、双ヶ岡に登って撮ったうちの一枚です。
自分の存在、意識のありよう、自分の価値観を構成しているもの。
それらに興味を持って、自分の全体を把握したいと思うのです。

崩れ落ちた感覚のなかに残ったものは、国破れて山河あり、ですね。
二年前、いやはや五年前、十五年前、ずんずんと過去に戻っていきます。
それらに、一応の終止符を打たれた感じで、なにが残るのか。
双ヶ岡が特別な記憶の場所ではないけれど、記憶に残る場所。
過去の光景を求めて、過去の成功体験を求めて、自分を救済する。
もう七十年も生きた、その痕跡を辿るわけですが、この先がないから。
同窓会の幹事をしていますが、まわりで健康を害したひと、死んだ人。

なんだか、年を取るということは、淋しいことが多すぎる気がします。
なによりも、この先が不安、というのが大きいですかね。
それなりに、以前のような立ち回りができなくなっている。
出来なくなっている自覚を、知りたくない、退けたい、そう思ってしまう。
身体が老化することと反比例して空想がひろがり、現実感覚が喪失する。
自分のなかでぐるぐると妄想がひろがり、現実と間違うというのが現実。
なんだか、世間に申し訳ない、失礼ばかりしている、そんな感覚です。

-21-
もう半世紀も以前の話になります、1966年、昭和41年の写真展。
京都写真サロン展が、京都大丸6Fホールで開かれた。
会期は6月28日から7月3日です。
主催は全日本写真連盟京都府本部と朝日新聞京都支局。
その入選者名簿を大八木元治さんから預からせてもらった。
京都の写真作品制作者の方々、存じ上げる名前がたくさん。
ぼくが参加するのは1976年だったから、それより10年前です。

関西の写真史をまとめてみたいと思っているところですが。
その一環として、ぼくの足元であった京都の写真史を見ています。
アマチュア写真家たちといってしまうと、写真撮影を仕事の方もいます。
ひところ、プロアマ混在、ちうような言い方をしていたが、プロもアマもない。
現在では、プロとかアマとかのいい方は死語で、写真作品制作者ですね。
ぼくは、その行為を表現の一種だと思いだしていて、表現論を考えます。

この半世紀前、フィルムの時代でモノクロにカラーが混じりだしたとき。
京都写真サロン展の特賞(朝日新聞社賞)は二谷和男氏のカラー作品です。
朝日新聞社がバックの全日本写真連盟は、全国組織です。
いまもめんめんと続いている組織で、主にクラブ単位で入会しています。
ぼくが参加していたのは1976年から1980年までだと記憶しています。
いまとなって懐かしい思い出が、特に人たちの顔と名前がなつかしいです。
歴史を書き起こしていかないといけないなぁ、と思うばかりで、進みません。

-22-
暑い日がやってきて、暑い日が去って行って、夏が終わる。
今年はまだ夏が始まったばかりなのに、暑さに負けてしまいそう。
もう70回を越えて、夏を迎える体験をしているわけです。
夏の思い出、カメラを持ったころ、内灘で弾薬庫の跡を撮った。
釜ヶ崎で、1979年と1980年、青空写真展をおこなった。
このように思いだすこといろいろ、この夏は、なにがあるのだろう。
記録をしておかないと、忘れてしまって、そのままになりますね。

近年だと、日記をつけるということもあり、最近ならSNSとかブログとか。
自分を意識する、意識した自分を記録としてのこしていく。
表現する主体が、かっては外にあった出来事を記録してきたものです。
それが近年では、自分という主体を意識して、記録していくことになる。
表現とは、自己を記録して、記憶の中に埋めていく、ということも言える。
かってあったような方法だけではなくて、自分を主観でもって記録し残していく。
そのレベルが、自己表現の現在点だといえるのではないかと思います。

フォトハウス表現研究所なるものを立ち上げました。
そこでは表現塾を主宰しようと思っています。
当分は自分が中心になって呼びかけ、進めていきます。
表現研究会のときは、主体にはならないで、集まったひとが中心に。
でも、キックオフは、だれかがやらないと立ち上がらないと悟りました。
自分のプロジェクトとして立ち上げ、グループ化しないといけない。
金銭の授受が伴わない組織運営は、なかなか難しいことだと思えます。

-23-
2017年8月2日、夏真っ盛り、暑い日になっています。
午後になって、外出するのも億劫になって、家にいます。
フィルムスキャンをして、ノートブックパソコンを開けたところです。
思うこと、多々ありますが、胸につかえたまま、書き出せずにいます。
あれから2年、二年前の出来事が、フェースブックで出てきました。
その人は写っていませんが、その日のことは思い出せます。
その人は、いま、どこでなにをしていらっしゃるのでしょうか。

その後の消息が分からなくなって、もう知る由もありませんね。
その後のことが分からないということが宙ぶらりん感覚です。
区切りがつかない、いつまでも、たぶん、命尽きるまで。
そういう人のことが、何人かいらっしゃいます。
ぼくの気持ちの中のことで、完全に秘密の領域になります。
こころを開けるといっても、秘密はないといっても、秘密は秘密。
知ってほしいと思うけれど、ブログにも具体的には告白できない。

夏の日、小説を書き出して、それも匿名で書きますが、それに専念。
なにしてるんやろ、もうあと何年あるのか、それなのに、です。
成り行き任せで、無責任とはいえ、悶々とします。
新しい領域への展開は、これは公然だから、公表していきます。
秘密のない人生でありたいと思うけど、それは秘密のなかです。
まもなくお盆、今年は、父の七回忌ということで、予定を組んでいます。
人とは、永遠にあることはなくて、無限ではなくて、有限ですね。

-24-
思うこと多いんですが、それを言葉に、なかなかできないです。
この年になって、懐疑心というか、疑い深い心理になってきます。
自分の言う事に対して、はたしてそれでいいのか、とかの疑問です。
他人様のことには、あんまりコメントしませんが、要は自分のことです。
表現塾をつくろうとして、そのコンセプトを探しているところです。
ああでもない、こうでもない、理想は何か、それをどう創るのか。
生きた時代によって価値観とか意味合いが変わるんですよね。

自分が生きた年代、時代という内容を検証してみたい。
おおむねその年代でその時代を経験した者どうしが共有できる。
そうかもしれない、世代が違って、見解とか意見とか、相違するんですね。
なんか、そう思うと、虚しくなってくるんです、これは感情の部分です。
感情は切り捨て、という時代があったとすれば、いまは感情込みです。
感情という厄介なものを基底に置いて、物事は考察されるべきではないか。
わけのわからないことで、コミュニケーションが取れないですね。

いまの時代、というのが正しいのか、今の年齢だから、が正しいのか。
なにを求めているんだろう、と根本的な問いが頭をもたげてきます。
真に必要なことは、避けて通らなければ、コミュニケーションが結べない。
いや、これは従前のコミュニケーション論であって、今は違う。
内面、自分、感情、そういった事柄が具体的テーマとなった時代ですね。
そのように思うことからしか、ことは進まないようにも思えるのですが。
未知の領域へいこうとするのは、不安と虚しさとも、入り交じりですね。