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最新更新日 2018.1.7
徒然にっき
中川繁夫:著

 徒然にっきblogに連載の文章

徒然にっき-4-

 37~47 2016.9.19~2016.12.18

   

-37-
心の中で区切りをつけ、電話でその旨を伝えて、清々しました。
終わって始まる、つまり詰まってきて、終わって始まる。
もう気持ちの後戻りはないと思う。
理事を辞めてもいい、むしろ辞めて清々したい。
過去を一掃する、粛正される、自分で粛正する。
とやかくはいわない、今月で終わりにしようと思う。

1992年からか、図書館のオープン、長い関わりでした。
さようなら、いろいろと思うことあるけれど、何もいいません。
なにもかも、差し上げて、終わりにします。
気持ちが、かなり落ち着いてきて、正常にもどる。
評論、作品つくり、フィクションも手がける、自己満だけど。
結局、そういうことで、自分への評価は自分でするだけです。

釜ヶ崎、東松照明さん、畑さん、写専、専門学校、表大、図書館。
1980年映像情報、1984年フォトハウス京都、写真ワークショップ京都。
自分の歩んできた道を、閉ざすことはない、継続させようと思う。
この歳になって、何ができるかということだけど、まとめができる。
関西写真史も中途半端なままだし、少しは進めるか。
自分のフィルムスキャンもまだまだ残っている。
やることは、いっぱいある、そうしよう、作品つくりは「風景論」だ。

-38- 2016.9.26
これまで写真で培ってきた関係がすべて終わったということだ。
図書館も、写真学校も、ぼく自身としてはここで終わりということだ。
新たな関係を求めて、つぎを模索していかないといけない、と思う。
淋しいと言えば淋しい気持ちが込み上がってきます。
空しいと言えば空しい気持ちになってきます。
いったん全てを終える、失う気持ちですが、ぼくの方も悪い。

総合文化研究所、むくむく通信社、この領域は2004年から始めた。
今朝、そこに立ち戻って、再構築か、とも思ったところです。
写真の学校に特化してきたけれど、その結果がいまです。
文筆とか写真とかで表現をつくっていこうか、と思う。
1978年、大阪に立つ、1984年、京都に立つ、終わって立った記憶。
いま、2016年、終わって立ちあがる、とはいっても70歳だ。

あわてることはない、まず自分の表現の原点に戻れ、ということか。
欲をだせば崩れる、まず自分の領域を知ってそこから、再び、だろうか。
さようならを言わなければなりませんね、図書館へはもう行きません。
もうだいじょうぶ、忘れていきます、諸々といっしょに、忘れます。
なにかと思い出すことがあると思うけど、感情は伴わないように。
さようなら、新しい関係を、新たに結んでいきます、ありがとう。

-39- 2016.9.30
なにかしら恥ずかしいことをしているような気持ちになります。
おとといの写真講座で図書館での仕事がおわりました。
昨日は、陶芸教室へ、久しぶりに行かせてもらいました。
かれこれ10年、それほど上達してないけど、器はたくさん。
今日は朝から、静かな気分でしたが、いま、乱れています。
音楽はピアノ三重奏曲「大公」とでています、ベートーベン?

これからどうしようかと思うばかり、思いがつのります。
あの子のことは、一年まえにおわり、半年まえにお別れ、そうして今。
ぼくがそこから去る最後の理由は、あなたがいた処にいるのが辛い。
そんな思いの生き方があってもいいんじゃないか、まるで小説ですけれど。
小説に書こうとして、二度も書けていない、中途半端ですね。
様々な場面でのお顔が、思い出されて、気が動転します。

かわりのひとを求めて、気持ちを静めようとしています。
まだ、まだ、過去とはなりきっていないですね。
この気持ちを打ち明けようかと思うけど、打ち明けてどうなるものでもない。
なにやら、恥ずかしいことばかり、滑稽な自分の存在を、いけないな。
この先、どないして、自己実現させていけばいいのだろう、多難ですかね。
ああ、もう一度、会いたい、いまはそんな気持ちに、耐えていきます。

-40- 2016.10.4
新しいシリーズでタイトルは「つれづれに」です。
写真は最新のモノを使おうと思ってます。
文章は、そのつど、思うことを書き記していこうと思います。
かなり本音で、そのとき直面している気持ちを記していきたい。
というのも、内面の記録として残しておきたいとおもうからです。
もうええかっこなんてしていても空しいばかりでしやないです。
そうおもっていても、本心が言える、書けるということでもありませんが。

記憶がもうろくする年頃で、さきに写真を選んだけれど、どんな写真だったか。
iPhoneで撮った9月25日の写真ですが、思い出せない、困ったことだ。
なにせ、しょせん、こんなことだから、じぶんながらに、なさけない。
まだ、認知症とはいえないのかもしれないが、それに近づいている。
メディア図書館の関連を辞めた、理由はさまざまいえるけど、本心は。
じぶんの思い込みにしかすぎないが、あなたがいない処にはいられない。
一緒にいた処は思い出ばかり、そこから出発するためにも、辞職をえらんだ。

いくつものひととの関係を断ち切ってしまうけど、新たな関係も生まれる。
これまでに、身を切る思いで、関係を絶った日があります、思い出します。
辛い、淋しい、空しい気持ち、たいていこんな気持ちが底辺にある。
前向いて、前途を祝う、希望に満ちた、なんてことはなかった。
いつも負け犬みたいな感覚になっていたのが自分だったと思う。
さて、この先、どうしようかと、思う気持ちが先立っています。
あたらしく、ひととの関係がつくれるのだろうか、おもっています。

-41-
2016年10月13日、これが本日の日付、この先、どうしようかと。
昨日、iPhoneをやめて、別のにしました、あんまり変わらないな。
これで写真を撮るのをやめようと思うが、インスタグラムを使った。
写真集で風景論を発行していたが、中断することにした。
8号まで発行したけれど、止めろと言われて、止めようと思う。
この先、どうすればいいのか、本当に迷っています。
Xperiaという機種で、グーグルがやっている。

この一年、iPhoneを使ってきたが、一区切りということでよい。
解約して、電話番号などが変わってもいいと思っていたけど。
そうはならなくて、金額的には高く付いたけれど、変れるかな。
思い出が一杯詰まったiPhone、それを忘れてしまわなければ。
そう思って、新しいのに切り替えたというのが、本当です。
10月10日、動画を撮ったことで、ひと事件になったことを反省して。

いままで作ってきた自分の世界に対してのクレームといってよい。
彼女が反対している、これがなによりこたえています。
生活をともにする一番近い関係にあるひとだから、これが最優先だと思う。
それ以外は考えてはいけない、まず、いまの生活を維持していくことだ。
そこから、できることをやっていくしかないのだと判断します。
昨日今日、これまでのこと、いったんリセット、ここから始めないといけない。

-42- 2016.10.14
文字さんとキトラ古墳へ行き、そこから壺阪寺へ行き、写真はそこで撮ったもの。
この先、どうしたらいいのかと想いあぐねていたところでしたが、希望の星が見えてきた。
ギャラリー176の運営主体となっている友長氏と、昨日9/22、話をすることができました。
彼はIMIで学ばれたメンバーで、そのクオリティーをイメージ的につかめる人だと思えます。
結局、かってIMIお初期で学ばれたメンバーが、ゆるやかに群として見えてきたところです。
新しい塾をつくれないか、そのための枠組みを提示させてもらって、若い世代にやってほしい。

友長氏は東松さんが長崎移住のころに知り合って、子供さんの名前をつけてもらった、と。
東松照明さん、京都取材に入られた1981年末、ぼくは1982年正月、京都で会ってもらった。
それからの三年間、フォトハウスの企画がつくれるまでのレベルで、会話、誘発してもらえた。
そういう経験が、ぼくにあるんですが、その流れの延長線上に、これからの枠組みができる。
なにかしら、救われたような気持ちになってきたぼく自身、なにか始まっていく予兆です。
写真ワークショップ豊中、写真学校豊中、学びの器をつくる、これが当面の作業でしょうか。

ベーシックなところで、現代アートの心のなか、というか、その深層部分を明るみに出す。
表現として、画像によるイメージが優先されるが、いっぽうで文字によるイメージも必要。
画像イメージだけでインパクトを産む表現と、文イメージを底辺にした表現と、ふたつです。
文章作業を行なうときの文章の形ですが、これは文体の問題になのでしょう。
イメージがひろげられる文体、論理的ではなくても、詩文であり散文であり、そういうもの。
写真学校と文学校が、その背景というか、奥行きは自然学校、農学校、総合文化の枠組みだね。

-43- 2016.11.1
時代が変わるということが実感できます。
別のブログ、イオブログが来年3月で終了となるとの告知。
表面世界は、ずんずんと変わっていきます。
iPhoneからアンドロイドに乗り換えたが、そこはグーグルです。
グーグルの勢力が拡大してきて、ネットではここにお世話になる。
そういえばコンビニだって、セブン、ローソン、それにファミマですか。

使い勝手のよいカードが、セブンカードだと思えます。
セブンの店とガソリンを入れているが、重宝しています。
カードの時代になって、クレジットカードは使いたくない。
プリペイドカードというのでしょうか、先払いカードです。
電車はイコカカードを使って、ICカードですね、便利。
ひところでは考えられなかったような生活様式の変化です。

表層は、どんどんと変わっていって、生活の様式が変化します。
心のなかはどうなんだろう、やっぱり、変化していくんでしょうね。
カメラを持って、神社仏閣を訪問して、足跡を残していこうと思う。
おおよそ千年から千五百年前、後昔に設営された神社仏閣。
そこに我ら日本人の精神のルーツがあるのではないか、。
その精神性というものを感じられないか、と思ってみるところです。

-44- 2016.11.11
アメリカの大統領にトランプ氏が選ばれたというニュース。
時代が変わる、たぶん、世界の枠組みが少し変わるんじゃないか。
べつにトランプ氏でなくても、世界構造なんて少しずつ変化していく。
そういうものだけど、保守が大半だから、極度の変化を嫌います。
国際政治の世界だけじゃなくて、日常の在り方も変わる。
自分が変わらないと思っても、生活のシステムが変わっていきます。

グローバル化する世界は、富の集中と貧富の差が大きくなる。
世界経済は、この方向にむかって加速していると思っています。
そういうことでいえばトランプ氏は、富を集中させてきた人かもしれない。
それらは大きな世界の問題で、小さな世界、自分の世界の問題は。
これですね、自分のまわりの問題、それが大きな問題をはらんでいる。
写真であれ文章であれ、表現の問題をとらえようとしています。

新しい学びの場を作るべく、枠組みを考えています。
総合文化研究、むくむく通信、学校、それらは2004年だから12年前。
フォトハウスは1984年だから34年前になるのか、と思う。
結局は自分が携わったことのアレンジだから、大体の枠組みはできる。
新しい技術環境、それにともなったスキル、なによりも表現する中身。
何よりも今を具現するカリキュラムでないといけないわけです。

-45-
第九がパソコンのスピーカーから流れ出てきています。
聴き慣れた旋律、ベートーベンの最大の交響曲、12月に聴く。
音楽については、素人の部類だけど、ずっと聴いています。
とくにベートーベンというのは、相性がいいのか、よく聴きます。
なんだかんだといいながら、結局、ベートーベンに戻って来る。
偉大な作曲家だと、つくづく思います。

ベートーベンは、音の構成組み立てにおいて、天才だと思います。
ある部分にだけ突出した才能を発揮する人間でこれが天才です。
そうおもうと、ぼくなんて、くらべようもなく、おこがましいことです。
いろいろと興味を持って、やってきたことだけど、結局、モノにならない。
音楽という楽器演奏、文学という小説書き、写真という撮り手、というところ。
ここまできて、モノになっていなくて、こんな人たくさんいるんだろうな。

古希を迎えて、何をどのようにしていこうかと、迷うところです。
もう一度、何か作り上げられないか、との挑戦です。
でも、気持ちが高揚したり萎えたり、今日は萎えているところです。
もっとゆっくり、思うところを、書いていけばいいのではないか。
ここに、こうして、あれやこれやと言っていること、つまらないこと。
こころを落ち着けて、社会における自分の立場を、反省してみるといい。

-46- 2016.12.7
文字清さんと飛鳥へ連れて行ってもらっています。
このまえ11月29日には天の香久山へ上ってきました。
それから藤原宮の発掘中のところ、そのあとは今井町へ。
古事記の世界ですが、ここまで来たかという感じですね。
命あるあいだに、神話の世界に触れだしてよかったと思う。
なにより、文字さんと、こうして同行できるのが、うれしいですよ。

あれらから一年が過ぎて、あれらが過去のこととなっていきます。
写真図書館から手を引き、新しい勉強がはじまったという感じです。
最後の、未知への挑戦ということになると思うところ、古代史です。
未練を持ってちゃいけない、棄てきらなければ、次がないです。
辛さも、もう過ぎ去っていくじゃないですか、もういいじゃないですか。
東松さんとのことを書いておかなくちゃ、フォトハウスの創世記。

稲垣さんがん治療、こんなことになるなんて、本人もいうとおりです。
闘志がある人だから、尊敬します、なんというか強い人です、尊敬します。
70歳を越えて、釜ヶ崎の運動一徹、素晴らしいと感動します。
当分はレンタイフェスタと裁判傍聴、ぼくにはこれしかできない。
梅澤さん、昔のことは、もう話さないで、このまま終えるのがいいですね。
なんかしら、人間模様、古事記の時代から現代まで、よく似たものですね。

-47- 2016.12.18
今年の反省をしとかなくちゃいけないな。
最悪だと思える一年だったと、朝から思っています。
一月の初めから、壊れていくことでしかなくて、一年が終わります。
こんな年、古希を迎えたという、身体的なこともあるのだろうけれど。
心的に、つらいことが続いたと思えます。
高揚していくときには阻まれ、袋小路に追い込まれ、フリーとなった。

ちょっとパソコンでやってる作業も、整理していかなくちゃいけないな。
学校の広報用にとっておいたブログも、もういらないな。
整理しようとして、整理できなかったけれど、踏ん切りですね。
新しい環境を自分で作っていかなければならないから。
フォトハウスの見直し、カフェ&プレスの構想、これまでの総決算。
思いはあるけど、からだと、気力が、ついてこないですね。

年末になって、どうしたらいいのか、わからないことばかり。
過去をどこまで捨てて、これからのことに繋げるのか。
繋がらないかもしれないし、繋げることもないのかもしれないし。
これまでやってきたことを整理していきたいと思ってきたけど。
それらのことも必要ないのかもしれないな。
古事記を最後まで読んだ、とはいっても超簡単ダイジェストですけど。