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最新更新日 2012.8.29
写真への手紙 覚書
中川繁夫:著



写真への手紙 覚書

写真記録論/試論-2-

<記録を超えて>

その後「写真」イコール「記録」の定説を覆すべく推論した結果、新しい論が展開できそうな気配が見えてきた。ここで私は「イメージ発生論」という題目を設定し、この中味を積み重ねていくこととする。

その内容概略は、写真には写真による「記録」という範囲を限定したうえで、
(1)社会通念上「記録」の範疇に収まるもの、と
(2)範疇から外れるもの、とがある。
(3)パーソナルな見るひとの位置によって、記録の範疇に収まるものと外れるものとがある。

記録と記録でないものの分類からイメージ昇華の方法へ。これが現在云うところの「方法の問題」つまり「選択の問題」となるのではないか。そしてあくまで「自分を写す鏡」として捉えること。

「記録」という意味の限定。「記録」には日付が必要とされる。だから日付のある場面に、写真・映像・文章が向かったとき、記録となる。その向かい方には、背景やテーマに歴史的イメージを持つときや、その時代の社会性に接点を見出すとき「記録」となる。

自分自身の記録として自分の内部でのみ記録となり、他者との間には記録が成立しない場合がある。自分だけのもの、あるいはふたりだけの、家族だけのものは、メモリアルであって関係者以外は記録と認めない。写真はこのように個別に見ていくしか判断のしようがない。

こうして写真の分類には、プロセスとしては写真作業だが、これまであった写真とそうでない写真に区分する必要があるのではないかと思われる。この「そうではない写真」のコンセプトに、現代美術の方法等を持つものがある。これをこれまであった概念の中で「写真」と認識しようとすることが、困惑の原因だった。むしろいま、新しいそれらの写真は、これまであった「写真」ではないとういうべきであり、かっての写真論の範疇から解き放たれるものだと思われる。

イメージ発生論の立場から云うと「写真」イコール「記録」ではないと判断した写真の群がある。この写真の群の理解の手がかりは、写真論ではなくて、イメージとしての発生論を展開、つまり意味論や主体論を根拠において、意味は何処にあるのかというイメージにおける意味論を生成し、イメージ過程説を導きだして心的状況を探っていく。

このような方法をとったとき、テーマをどのように捉えるかという問題につきあたる。ここでは、その文明文化、あるいは教養文化固有の「母または神なるもの=全体=愛」といったテーマの肯定または否定的展開こそ、写真がこの時代を超える可能性だとみえるようになった。母の渇望、母の獲得のために。そこには「美、世間で美しいといわれているもの、の解体」と「新たなる美、美しいものが本当に美しいと感じる感性、の創造」が必要とされるのではないか。

この発想からみてみると、写真的方法をもって写真でないテーマを持った写真や、写真的方法では創りえないテーマを持った写真というのがあって、見る人を困惑させる。背景のイメージを持たない写真や、背景のイメージを創出できていない写真というのは、写真家の単純な被写体への撮り誤り。現代写真の混乱は、このことが分からなかったからではないかと思われる。写真家は汝のイメージを凝視せよ、である。


<新たなる美>

ロラン・バルトが著した「恋愛のディスクール・断章」の一遍に「豊かさは美である」と云うのがある。「恋愛の「消費」が歯止めも繕いもなしに確認されつづけるとき、そこに生起する輝しくも稀有なるものが「豊かさ」である。それは美に等しい。」「豊かさとは美である。(中略)恋愛の豊かさとは、自由なナルチシズムの展開と無数の喜悦を(いまだ)抑え込まれていない子供の豊かさである。」

まるでバイブルのような言葉の数々、とでも表現できるだろうか。私は大きな感動とこころの揺らぎを覚える。この抄「豊かさとは美である」はまるで子供に帰ったような気分で、私の感性にしんしんと浸透してくるものだった。男女の恋愛が、その当事者同士を美しくさせるのは、あたかも子供のように、そこに無償の消費があるからなのであろう。

かって「聖母マリア」の像が、あの大聖堂にあって王の収奪に打ちひしがれた人々に感動を与えたのは、そこに搾取され抑圧された人々のこころの母が存在したからではないだろうか。私は、立ち現われては消えゆく感情に、私を委ねながら私のイメージは拡大していく。中世の絵画としていまの時代には何の価値も見いだせないようにも感じられ、現代では形式としての祈りの対象でしかないとしても、愛を欲する人々にとって聖母マリアはどれだけ偉大なこころの支えであったことだろう、と思われる。

愛がその偶像としてのマリアを求めているのだとしたら、私はきっとマリアの前にひざまづき祈るならば、涙があふれるだろう。中世の権力構造にあって、作為的に聖堂が構築せられた、と分析するのは簡単なことだが、そこにひざまづき祈り、涙をあふれさせた人の気持ちが私に理解できるかどうかである。

美の解体と新たなる美の創造というときの「新たなる美」とは、たとえばそのマリア像を見たときに自分のものとして、その気持ちが感性で理解できること、涙をあふれさせること、ではないかと私は思う。「美しいものが美しくみえる」とはこのこと。決して憐れみという感覚ではなく、また与えてもらう存在でもなく、自分自身の気持ちとして。これは私にとっての「恋愛」の裏返しとしての、そのことではないかと思えるのだ。

イメージ発生論あるいはイメージ過程説から云うと、この「マリア像」または「マリアの絵」に匹敵する「一枚の写真」が存在しうるかどうかであるだろう。死のうと思っていたひとが、その写真(マリア像)を見たことによって生きていく希望がわいてくる。そのような写真。こういう写真は永遠にイメージの中で輪郭のぼやけたタブローとしてしか、存在しないのであろうか。写真を一体どのように捉えていけばよいのだろうか。つまりは一枚一枚と個別に捉えていくしか論じようがないものなのであろうか。

一枚のかけがえのない写真に出遭うことは、かけがえのない人となるひとに出遭うことと同じインパクトである。あなたとはほんの些細なきっかけで偶然に出遭ってしまったが、宿命とでもいうのがあったのであろうか。何がこのような結びつきにしてしまったのだろう。

私と写真が出遭う。私とあなたが出遭う。日常の光景のなかでの出遭いは掃いて捨てるほどあるが、特別の関係にまで昇華してしまうと云うのには、何が作用しているのであろうか。あなたが私の感性の淵に鋭い刃物で傷つける。何故。それらのときはいつも私の感性が全く無防備な状態だったからであろうか。それはいつも不意打ちをくらったと言うしかない方法で、私に?みつき、心を掻きむしる。

ベルメールの人形。モリニエの自写像。もう六、七年も前だったが、写真集を次から次へと買い込んでいた頃、書店で開けたとたんに、私の感性を深く咬んできた。私は、あの光景での、私が与えられたインパクトの質を思い出している。ベルメールの作品の魅力は何なのだろうか。モリニエの作品のインパクトは何なのだろうか。シュールリアリストである彼らに深く共鳴するというのは、私自身がシュールリアリスト的感性を持っているからだと思われるが、あなたの感性の中にも同種のものがあって、それで何か感じるものがあったのだろうかと考える。

私は少年のころから空想家だった。それにナルシストであった。自分にこだわる習性というのは誰にでもあることだと思われるが、私にはそれがかなり強いようだ。幼年の頃から家庭に馴染まず、街をひとり徘徊する癖があったという特異な経験がこのような人格を創ってきたのかも知れないと考える。

人間の精神構造とは無限の深淵だと感じている。私自身の構造を分析して、他人を類推するしかないのだが、おとことおんなという分類も、外形としてははっきりと識別できるようになっているが、メンタルというのは識別不能なのではないか、と思うことがある。自分の精神構造のなかに、世間的には男女の趣向分類されるものが混在しているからである。

この「写真への手紙・覚書」では、「新しい写真論」を生み出すためのトレーニングをやってきたつもりだし、引き続きやって行こうと考えている。そして記録でない写真の論を展開しようとしている。「写真への手紙・覚書」の試行が、これまであったドキュメントの終焉と「写真でない写真」論への移行過程を展開していこうと考え、現在の写真の在処を呈示したいと思っているのだが、一方で「記録」イコール「ドキュメント」の現在をも確認しておかなければならないのであろう。

「現代写真の視座1984」のなかで最後に示唆した「民族の精神あるいは文明の質に立ち入ることによって成立する」という、あの当時の直感で、現在の世界レベルで見つめてみたとき、サルガド、ルイス・ボルツ、アンセルム・キーファーといった作家たちの作業は、極めて現代的なドキュメントの質となって具体化されている。ドキュメントの現在は、テーマとして文明の質を批評し告発する、という図式になっている。見つける「方法の問題」はソーシャル・ランドスケープとして、つまり風景を文明の質として捉え、臨界点を明確にするもの、として当面は解決できそうである。

「写真への手紙・覚書」第一部のための付録として、ベートーベン作曲ピアノソナタ第29番変ロ長調ハンマークラヴィーア第三楽章譜面が付けられた。

写真への手紙・覚書」第一部<終>
Shigeo Nakagawa 1994.1.10