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最新更新日 2012.12.9
写真ノート第二部
中川繁夫:著



写真ノート 第二部


第二部 1985〜1986 10〜20


19851125
フォトハウスの企画としては、ゾーンシステムが全てではない。また、その他のジャンルをも開催していくのが建前だ。それなら、写真に関する研究コースについてのみ、大隈さんのスタジオだまた、もうひとつ懸念されることは、分派行動を誘発しないかどうかだ。一人に権力が集中することは、その危険性がある。今から心配するのはどうかと思うが、彼自身の体質には、どうもクラブといった形態に持っていきそうな気配が見られる。

これが問題となるところだ。フォトハウスの趣旨といったものが、伝わっていないのだと思う。あとのメンバーについては、最初から、もしくはこの春から、フォトハウスに関わっており、それなりの目的といったものが理解されていると思う。どうかな、大隈さんには、どうも率直に言って、この辺が理解されていないように感じられる。仕方のないことだとも思う。

フォトハウスの最初の趣旨といったものも読んでいただいていないし、フォトハウスの運動としての行動に賛同するといったことも確認していないのだ。研究コースの全てをまかせることはできないな、と思う。やはり会場をフォトハウスが借り、企画事務は事務局が担うべきであろう。

権力の集中を避けなければならない。一人で全てを持ったなかでの運営は危険だ。徹底的にボランティアでやっていける体質の人なあば、信頼できる。そうしたことがよいとは言わないが、当面の形態においては、無報酬ということも考えた上での信頼だ。場所を持ち、事務能力を持ち、そこに人が集まり、その場のオーナーがそういったことをやる、ということは弊害となる。

フォトハウスに関わる人、一人ひとりが完結してしまうことは、権力を構築することになるのだ。たった一人のときはよい。考え方が分裂し、意見が分裂したときに、場所、人、事務を集中していることは、崩壊、分裂の危険性を持つ。

研究コースの事務一切は、フォトハウス事務局が取り仕切り、金銭決済も参加確認も、すべて事務局が責任を持つ。フォトハウス事務局は、場所を持たない、だから権力が集中することもない。また複数での運営だから、事務一切は事務局で担うべきだろう。また、研究コースのすべてを大隈さんのスタジオだけでやってしまう、というのではなく、鈴鹿さんの場所でも開催すべきだ。大隈さんのところでは、写真に関することのなかでも、実験による研究発表だけに留める。


19851125
先日、金井杜男さんと会う。フォトハウスの今後と来年秋の講座内容について協議する。

すでに島尾伸三さん、金子隆一さん、この二人の講座が予定されているところだが、オリジナルプリント制作の専門的な技術としては、このメンバーだけでは納得できないので、という話になり、平木収さんを介して、日大助手の高橋英則さんにアーカイバルプリントの調色を、PGIの山崎信さんにはポートフォリオの制作などについて、島尾さん、金子さんらと組みなおすことになった。

平木収さんとの面識がないので、金井杜男さんを通じての話となっているが、今日の金井さんの連絡によれば、平木さんが京都まで来てくれて、具体的な講座内容にまで立ち入ってきてもらえるということだ。

東京のメンバーを京都に、という企画は、現在の状況からすれば、京都を活性化させていくための方法として仕方がないことだと思っている。東京に媚を売るのではなく、全く、新しい、組織ではないような組織を創ろうというなかで、必要なことなのだ。

情報が東京に集中し、京都の出来事も東京を経由してからでないと信用情報とはならないと思われるのだ。これは、何よりも私自身の側に問題があるのだろうけれど、情報が一方的に流されてくる中で、それを逆手に取っていかなければならないのだ。

私たちの世代による京都の活性化。フォトハウスの心材意義は、京都の写真界における価値観を転換させることにある。新しい写真とは何か、という問題は私自身においてもテーマとなる内容だが、質として、現代美術のコンセプトを持って作品を制作すること。とはいっても自分自身で本当に作家活動を行っているわけでもなく、東松さんの言うように、本当は作品を作らなければならないのであろう。

オリジナルプリントが、京都には定着していない。だから定着させよう、というのも一つの手だと思う。写真の基礎がゾーンシステムだということも、これが全てだとは言い切れない。しかし、今となっては、フォトハウスの方針として、そういわざるを得ない。

学としての写真。写真学の体系を京都から発信させようというのだ。世界に向けて。このためには何が必要かといったときに、フォトハウスの出番があるのだ。

フォトハウス写真学総合研究所の設立については、将来展望のなかの一部門として、計画しているものです。
「フォトハウス写真学総合研究所」
第一課 1、薬品研究 2、フィルム現像特性研究 3、完全処理プリント研究
(化学事実験を中心とした分析学術)
第二課 1、写真美学研究 2、写真システム研究 3、カラー写真研究
(光学、工学理論を中心にした分析学術)
第三課 1、写真史研究 2、写真社会学研究 3、写真教育学研究
(歴史、社会構造、思想を中心とした分析学術)
第四課 1、内外歴代写真家研究 2、内外歴代写真作品研究 3、現代写真研究
(作家及び作品の解析を中心とした学術評論等)
第五課 1、写真応用美術研究 2、周辺表現ジャンル研究
(写真をベースとした表現、写真から派生した表現の学術研究)
以上


19851204
フォトハウスの写真データベースづくりについて。
フォトハウスの事業のひとつとして、写真家、美術家、写真などに関するデータベースお作成し、研究に寄与しなければならない。
写真家リスト、美術家リスト、技術情報、出版情報、技法、保存、など。
1、写真家らの作品特徴、得意技術などの個人情報。
2、写真諸団体の組織情報。
3、部門別伝統技法などの技術情報。
4、博物館、美術館などのミュージアム情報。
データー整理、データ蓄積の手法の確率。積極的な情報提供。

データベース整備で、狭い世界に閉じこもりがちな写真家、美術家たちの他のジャンル、他地域のメンバーなどとの交流が活発になる。また、交流を通じて写真、美術の新たな発展の方向が探れると考えられる。また、永年の伝統に培われた各種技法の保存が容易にできること、写真や美術を学びたいという人に、適切な情報提供が可能になる。

19851205
フォトハウスの広告。ワークショップ!!
フォトハウスより本年最初の特別講座、第一回、1月、暗室技術編。
写真技術上達シリーズ・特別公開ワークショップ開催。

●モノクローム写真に魅力を感じているが思うように表現できない、と悩んでいるハイクラスな写真愛好家に必須、必聴のワークショップです。
●モノクローム写真が見直され、オリジナルプリント制作が写真の中心となりつつある現代の写真界の情勢から1986年は、よりクオリティーの高い、高度な暗室技術が必要となることが予想されます。
●また世界的な情勢としてもその方向へ急速に移行しつつあります。今こそ写真家の基礎的技術力が問われています。そこでフォトハウスでは、こうした時代の趨勢に対応し、より安定かつ高度な写真制作を実現していただくために、ここに写真技術上達シリーズと題して、特別公開ワークショップを開催。

本ワークショップは、日本では最初のコンサルタンティング写真指導を導入したフォトハウスの、豊富な写真技法習得指導の実績をもとに、初歩的な暗室技術、暗室設計計画から実技向上策まで、写真家が抱えているあらゆる問題点や疑問点を、実践的に徹底指導いたします。第一回は、暗室技術編です。ぜひ最寄りの会場へお気軽にご来場ください。

本ワークショップでは、つぎのような問題を抜本的に解決する写真技術ノウハウを公開いたします。
●フィルム現像が思うようにできない。
●プリント制作が思うようにできない。
●カメラの特性がつかみにくい。
●先を見通した写真制作計画が立てられない。
●いつも不安定な状態で本当のオリジナルプリントがどのようなものなのかわからない。

「特別公開ワークショップのご案内」
■テーマ:ゾーンシステムに基づく写真制作(1)フィルム現像編
■講師:フォトハウスマ・ネジメントコンサルタント 里博文
■会場:京都市左京区静市静原町 鈴鹿芳康方
    フォトハウスワークショップ静原教場
以上


19860100
ノートとして書き始めた記録も46番となった。1986年最初の記述である。書くことは沢山あるように思う。フォトハウスの事についてが中心になるのだ。フォトハウスとして名乗り上げてから丸一年が経った。そうしてこの一年間の足跡を見てみると、当初、予測もできなかっらおどに展開を見せた。一年の経験で、これからの一年が企画どうりに展開できれば、もう一年。計三年でおおかたのフォトハウスの概略が完成することだろう。

フォトハウスの構想は、際限なく拡大していく。昨年一月、ミーティングの第一回目を持ってから、実質的な展開が始まったのだが、当初三ヶ月程は、理解も得られず、もちろん今までに無かった形の物であるだけに仕方のないことかも知れないが、四月、里博文さんと出会い、鈴鹿芳康さんと出会い、講師、場所が揃った中で、私の事務能力を付足して完成したものだ。とはいえ、まだまだ未熟な段階である。今後の展望を達成するためには膨大な時間と人材と金が必要となってくる。それをどこまで克服できるかだ。

当初、フォトハウスの構想として打ち上げた内容について、構想自体においても、運動としての概念にしても、ことごとく批判の対象となった。でっかいことを最初から言っておかないと、後になって大きくならない。戦略的なまずさ、といったものがあったかも知れない。また最初からアドバルーンを打ち上げたことに対する反発もあった。しかし、一年が経過した今、メンバーも徐々にではあるが揃ってきており、東京のメンバーも私の思惑どうりに揃いつつあるといったところだ。

写真界の動向が大きく変わろうとしている。この実感は、昨年三月、カメラ毎日の終わりによって、実感されたところだった。私としては、今がチャンスといった気持ちだった。新しい企画でもって揺さぶりを掛ける。写真界自体が動揺している中で、京都といった地理的な知名度、また、東京ではない場所、もろもろの条件を勘案したなかで、フォトハウスの構想が実現できるかも知れない、と思ったわけだ。しかし当初そこに集まったメンバーにおいては、新しい状況の到来といったものを肌で感じるような人はなく、旧態依然とした発想でしか状況を把握していなかったのだ。


19860100
昨日も、その当初の会議資料を読んでみたところだ。これは私が会議に先だち作成したものだったが、第一回目の会議で、ことごとく拒否されたのは言うまでもない。「総務事務局構成のための会議・資料」と名づけられた資料である。いま読み返してみると、かなりあいまいな表現があり、具体的な形態にまで及んでいないのは仕方がないとしても、大方の方向は出されているのだ。

これらの機構の組織化に対して理解出来なかったメンバーで、始めなければならなかったというところに写真の現状の困難さがあるのだ。京都において、関西において、いや日本において、写真の現状といったら、私の実感では程度の低い、お遊びでしかないようい見受けられる。そこで写真の質を上げ、写真をもっとアカデミックなものに為していかなければならないと思うのだ。

そうゆうところから出発して、一年が経った今、講師として東京のメンバーが講座を維持してくれることになり、ハードルを超えることができる、と思われる。評論家、金子隆一、平木収、飯沢耕太郎、写真家として島尾伸三。それにまた日本大学、PGIといったところへつながり、銀一カメラ、ポラロイドといったメーカー等への広がり、シルクスクリーンの小本章さん、というように単に京都での小さな動きといったものではなく、日本の写真について変動させていけるだけの地下が出来つつある、と見たほうが妥当か、とも思う。

今後、写真研究機構といった構造を明確にしていく段階で、フォトハウスが名実ともに日本の新しい写真の波を創り出していける要素、素質をも持つのだ。歴史にくさびを打ち込む。フォトハウスがその中心となろうというわけだ。フォトハウスっていったい何、といったよな質問があって、フォトハウスとは、見るようで見えない組織、組織であって組織でないよな組織、どこまで機能していけるかが問題だ。


19860100
「フォトハウス企画展」開催について。
フォトハウスでは、当面はフォトハウス・ワークショップによって活動を行っていくところですが、これを成功させるためにイベントを、と思う。「コンポラ20年。資料展、日本の作家、アメリカの作家、その後」。当時の資料については、金子隆一氏が5年前に東京で資料展を開催しているので、その資料を拝借し、なおその後に収集された資料を含め、コンテンポラリー現在の写真の状況を眺めてみようというもの。


場所:京都・アメリカ文化センター
時期:1986年10月
形式:資料展 コンポラ20年
この20年間の日本の代表作家の作品とアメリカ作家の代表作品の展示。
当時の資料。
展示会とシンポジューム。
キューレターを入れる。
雑誌にて特集を組んでもらう。
カタログを発行する。
評論家により評論特集を組む。
フォトハウス企画
アメリカ文化センターとフォトハウスの共催
協賛メーカーを探し、資金拠出させる
この企画が可能かどうかを検討する

フォトハウスの総合企画展
「今日の写真と写真家25年展 1960〜1985」
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本
Cobtemporary Photographic Expression 1966
Toward A Social Landccape
Contemporary Photograpers Toward A Social landscape
コンポラ25年。資料展、日本の作家、アメリカの作家、その後。
当時のアメリカ資料については金子隆一氏が5年前に東京で資料展を開催されています。
その後に収集された資料を含め、この25年間の世界各国のコンテンポラリー現在の写真の状況を眺めてみようとするもの。


19860200
案をまとめた。フォトハウスの総合企画展覧会「今日の写真と写真家25年展1960〜1985」アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本。

現在と今後の写真の有様を見極めるため、「今日の写真と写真家25年展」開催を企画します。1960年以降、現在までの写真の潮流を概観してみますと、その表現形態と方法が大きく変化してきていることが推定でkます。現代美術と写真、また写真表現としての写真、こういった観点からの総括として、今後の写真の有様を探っていくためにも、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本、といった写真先進国において、この25年間発表されたコンテンポラリー写真の系譜をたどって見ようとする企画は、意義深いものだと考えます。

特に日本においては、コンポラ写真として導入された状況を鑑み、当時のアメリカほか各国の資料を収集し、資料展として開催することに、多大な価値があることと思われます。

(案の概略)
京都に所在する各国の会館およびセンターにおいて、1986年以降早い時期に各々の国で影響をあたえた写真家とその作品の総合展を開催する。

フォトハウスにより作家リストおよび出品作品等のリストを作成し、より具体的な企画立案を行ったのち、各国により本国よりあく品および資料を貸し出してもらう。

例、アメリカの場合には1966年に発表された「Toward a Social Landsucape」の作家たちのオリジナルを中心として、現在までの代表作品を収集展示する。

場所は京都・アメリカ文化センター、関西日仏会館、日伊会館、日独会館など該当の各国の文化センター。
展示時期は1986年秋以降、おおむね1年以内に開催。

形式は資料展「コンポラ25年世界展」、この25年間のアメリカの代表作家の作品の展示。展示会場で日を区切ってシンポジュームを開催。

各界へ影響を与え、今後の写真に方向性を持たせることにより、意識変革を目論むために。
1、雑誌(アサヒカメラ、日本カメラ、フォトジャポン、ZOOM、美術手帳など)の誌上にて、日本の若手評論家等により、評論特集を組んでもらう。
2、カタログ写真集を発行する。
3、会場にてシンポジュームを行なう。

各国文化センターとフォトハウスの共催またはフォトハウス主催。作品搬入搬出は各国において行なう。運搬諸経費を含む。協賛メーカーを探し、開催資金を拠出してもらう。
(予算案は省略)

※この企画は、企画に終わり、実行されていません.


19860200
定例研究会の開催について。
1986年2月以降、フォトハウス写真研究機構の構築についての具体的なダイアグラム、スケジュール等を検討するための定例研究会を開催する。

これは研究講座事務局が主催する研究会とは別個に「フォトハウス」が主催し、将来のフォトハウスのビジョンとして「写真学総合研究機構」といった構造を構築していくための、青写真つくりを行うものです。すでに案については概略ながら作成されている。「フォトハウス研究所の設定について」の課目を具体的な分類と内容について検討する。

システム化された研究機構(組織または個人)を有機的につなぎ、研究者、研究生らは、それら機関を通じてフォトハウスの提唱する育成の範囲の研究者を育成する。各専門家として必要な研究項目(カリキュラム)を作成し、フォトハウスの傘下のもとに設定し配置して、学ばせる

つまり学舎を持たない大学以上のレベルを持った研究機構を構築する。これまでの研究機関というのは大学であれ研究所であれ、おおむね閉鎖された機構として存在している。フォトハウスが考えるところの機構は、それら大学や研究所を含め、なお不足部分について所定の条件で設立し、総合的に、研究の場をオープンさせていこうとするものである。

日本のあらゆる機関を有機的につなぎ連携を持ったなかで、人材を育成していこうとするものである。


19860200
フォトハウスが開催する講座について。
技術修得講座
・ゾーンシステム
・ブループリント、ガムプリント、ゴム印画法
・古典的印画法各種
・シルクスクリーン、リトグラフ、石版画、銅版画
・写真のアーカイバル処理、各種調色
・ポートフォリオ制作、オリジナルプリント保存法
・造本、オリジナル写真集
・出版、出版ノウハウ
・ポラロイド写真の応用
・映像関係、ビデオ、映画、コンピューターグラフィクス
・コピー機材の応用による制作
・カラープリント
技能修得講座
・写真史、美術史(歴史、社会構造、思想など各種細分化)
・現代解析(写真、美術などの現代思潮)
研究コースとセミナー
・ワークショップ受講済みのメンバーによる各研究講座
(より専門知識を修得し、制作・研究された成果が一級の商品としての価値が付加されるまでをめどとする。)
・専門分野の専門知識を持って専門レベルで講義
(フォトハウスワークショップ受講者以外の受講希望者をも受け入れ、ワークショップなどへの参加の情宣を兼ねる。)


19860200
2月1日、飯沢耕太郎氏が京都に来る。フォトハウスの企画書を平木収さんから渡してもらい、秋の講座の講師として参加してもらうことになっているところだが、この件においてはOKということだ。

若手の評論家として、金子隆一、平木収、飯沢耕太郎、伊藤俊治といったメンバーが有望視されており、私もこの人たちが本筋と思うところだ。これらの人がフォトハウスの企画に賛同し、参加してくれることは、今後の発展において成功への道につながっていくものだと思う。また実作者として写真家や研究家が参加してくれることもよいと思う。

中川繁夫、岡田悦子、鈴木俊宏、大隈剛芳のメンバーで、飯沢耕太郎氏と会う。ギャラリー・DOTで、夕方まで話をし、食事はプリンスホテルへ行く。

写真においては、技術においても、歴史においても、評論においても、現在のところ基準となるものがない。そこで今後、私たちはこの基準を作るための活動を行っていかなければならない。平木収さんと会ったときにもやはりこのことが話題になった。基準。フォトハウスとしてもこの基準を作る母体として存在していかなければならないだろう。

フォトハウスワークショップの内容が、現在のところオリジナルプリント制作の講座となっているが、今後は全く別の講座を作っていかなければならないところだ。しかし当面はゾーンシステムを基礎とする講座で、今年の企画の講座でやっていかなければならない。


19860202
私のこの6年間というものは、一気に駆け抜けてきたマラソンランナーのごとしのものであった。
1980年という年号の最初の日、私は釜ヶ崎で写真を撮っていた。もちろんそれまでにも、すでに写真展に出品していた。京都の主だった写真の合同展、たとえば全日本写真連盟の主催する京都写真サロン、そのクラブ代表等と委員で構成される選抜展、関西二科会展、光影展。

もともと私は京都のアマチュア写真クラブの一員であった。関西にはアマチュア写真クラブの伝統があり、光影会は、そういった関西お伝統を多少は受け継いだ組織であった。大阪を中心とした戦前の写真クラブから丹平クラブがあり、昭和30年代に関西で論争があったと聞く。この論争は、写真するもの、天アマチュアレベルで後進の指導にあたる、といった意見と、プロをめざすべきだ、といった意見とに分かれたのだそうだ。そこでプロをめざすグループとして、関西の有名クラブからその志を持つものが集まって、シュピーゲル写真家協会なるものを作った、という。

京都においては、丹平クラブというのが勢力を持っており、京都での指導的役割をはたしていたのだそうだ。そこでだ。大阪での旗揚げから少し遅れて京都シュピーゲルが誕生することになるのだ。木村勝正という写真家がいて、そこの会長になる。この時、一緒に京都の丹平を脱退し、旗揚げに加わったのが達栄作たちであった。私はこの京都シュピーゲルが結成されて15年ほど経って、木村勝正が死んで、シュピーゲルという名称が使えなくなった。これは棚橋紫水氏がシュピーゲルの名は木村に貸したもので木村が死んでしまった以上、この名称は使うな、といったということだ。そこで京都シュピーゲルは光影会と名乗ったという。

私はこの光影会に入会したのだった。1975年の秋だったと思う。写真の基礎とは言わないが、写真することをここで学んだ。達栄作さんとは懇意になり、写真の考え方といったものの基本を教えてもらった。写真は記録だ、といったこと、もちろん現在の私は、この当時に学んだおと全てを現在も考えていう訳ではない。その後、様々に変化していくことになる。釜ヶ崎へ取材にいくようになるのは、光影会に入会して2年ほど経ったころだった。

1978年ごろから本格的に釜ヶ崎の取材と取り組む。79年には、単独で釜ヶ崎の中で青空写真展を開く。夏のことだ。このころには写真界の動向、特に東京からの情報にのみこだわっていたようだ。なぜなら、カメラ雑誌が唯一の情報源であり、私にとって写真の情報の窓口は、ここにしかなかったのだから。これは今もって大部分のカメラマンが、そうなのである。