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最新更新日 2013.1.13
写真ノート第二部
中川繁夫:著



写真ノート 第二部


第二部 1986~1986 21~28


19860300
いま、ショパンを聴きながら映像情報のバックナンバーを読み返していました。もう3年もまえ、最終号を出してから2年が経ってしまいました。なぜ、また映像情報を引っ張り出してきたのかというと、フォトハウスの構想の最初のころのことを探ってみたくなったのです。

ショパンのピアノ曲を聴きながら、ふっと今やってることが一体何なのだろう、自分の行動の痕跡を追ってみたくなったのです。写真を写さなくなり、文章も評論や感性的な文章を書かなくなって、ついついそれまでの感性を忘れてしまったように思うのです。その頃、評論として、また自己史として文章を買いつらねてきたところですが、最近は連絡事項や起案文書ばかりで、ちっとも面白くないわけです。


評論が書けないのは、自分に知識がないからにほかなりません。また、感性もナイーブさが保てないのは、あまりに時間的な余裕がなくなってしまったせいかも知れません。世界の全体を眺めて見る。こういった姿勢、視点がどうしても一人よがりになってしまうのではないか、と自分では思ってしまうのです。

昨日、東松照明さんに電話を掛けました。フォトハウスの今秋のワークショップの講座の企画を報告したところでした。さめてしまっている写真界において、気長に継続してやっていくことしかないね、と言われ、そのとおりです、と答える。

1986年3月1日、第一回定例運営研究会を京都国立博物館で開催しました。参加者は金井杜男、鈴木俊宏、大隈剛芳、琴浦香代子、鈴鹿芳康、それに中川繁夫でした。


19860400
最近、1968年から69年にかけて、私たちの回りを取り囲んでいた、全共闘運動についていろいろと話題になることが多い。すでに、あれから15年が経ってしまっており、一種のノスタルジー的な雰囲気で語られることが多いようにも見受けられるのだが、特に写真の回顧展でもあるまいが、写真集や、またビデオの販売やらで、けっこう話題になっている。

今やそれらを担った者も三十代の後半にさしかかっており、私も含めて社会的にもそろそろ責任の所在を明らかにしなければならに年代であることも、影響しているのだろうか。全共闘運動に参加した者にとって、そこで見、また体験した光景は、決して忘れることのできない光景ばかりだ、と言わなければならない。今、全共闘運動とは何だったのか、と問うことは決して意味のないことではないと思うが、さりとて今、語ってみようとも、あえて思わないでいた。

しかし、この時代、私たち三十代後半の世代にとって、今さしかかっている位置というものを考えてみると、今、思いだしておかないと永遠に忘れてしまうのではないかとさえ思われるのだ。何故ならば、先にも言ったようい私たちの年代は、普通、生活者としている限り、社会の諸制度に組み込まれて、がんじがらめになっていく年代でもあるのだ。日常、思いだそうとしても思いだせるほど、時間的な余裕も持ちえず、何時も何者ものかに追われ続けているのだ。日常性への埋没。今、15年が経ってみて、ようやくそれがわかる。

私が釜ヶ崎へ通いだした理由のひとつに、あれから10年が経つ、という危機感であった。1978年、まさにそのことが釜ヶ崎へとかり立てていった動機としてあった。そのころはまだ30代の前半であり、日常の生活に追われていたとしても、まだ時間的な余裕というものがあった。しかし社会的に一定の位置をしめる立場になってしまうと、それらは単にノスタルジーとしてしか作用しないようだ。もちろん他人様のことはしらないが、私においてはそのようだ。


19860400
最近、私は、私の家を改装することになり、この夏から秋にかけて工事を行なったところだ。そして、私は、増築完成した自分の部屋に、何を運び入れたかというと、私が今までに購入した書物の全てであった。今まで、たまりにたまったそれらの書物を、何か所かに分散していたものをひとつの部屋に集めることが出来たのだ。こうして眺めてみると、その時代の事がよみがえってくるのだ。古い流行歌を聴いて、その時代をよみがえらせるように、古い書物のほこりを払いながら、よみがえってきたのは、その書物を購入したときの有様であった。

今から思えば、コーヒー一杯分の定価の本であるのに、私の記憶では大変思い切った買い物をしたように思いながら、購入した記憶である。また同人雑誌を創っていた頃に購入した本は、最近になって購入した写真に関する書物よりも遥かに冊数も多く、書棚には、むしろ文学にまつわる書籍でいっぱいなのだ。文庫本、新書版、単行本、また文学全集といった、今ではとても時間的な余裕もないのに、本棚にいっぱい並べてみたのだった。言ってみれば、これらは、明らかに何物かを喪失してしまう事への危機感に他ならないのだ。またノスタルジーの一種であるに、違いないのだ。

このような訳で、今、その頃の全共闘の回顧展がひらかれているのであろう。ともあれ私も、私の記憶を留めておかないと、もう永遠に忘れてしまう年代に突入しはじめているのかも知れない。そこでは、やはり私は、私の記憶は此処で語っておかなくてはならないのかも知れない。

そのころ私は大学の夜間部へ入学した。高校をかろうじて卒業してから3年が経っていた。1968年である。高校を出てから2年間ほど働いており、それから1年、浪人をやっていたから、3年遅れたのだった。この大学へ入った年早々に、フランスはパリで5月のあの革命が報道された。私たちは当然それらについて語ったものだった。その前年の秋には、羽田事件がおこっており、学生運動もまだ広範な学生を組織するところまでは進んでいなかったが、けっこう盛りあがりを見せていたようだった。三派全学連、日共民青。私はどちらかというと、体質的なというよりも、高校時代の環境から、後者の質をもっていたようだった。

その頃、私は文学、とりわけ小説に興味を持っていた。日毎、昼間は寝て、夜になるとがぜん元気がでてくる、といった生活だった。しかし、気分的には、いつも爽快だったわけではなかった。夜には、深きしじまのなかで、闇と向い会っていたのだった。


19860500
久しぶりにノートをつけるといった感じだ。フォトハウスのワークショップも来週の応用編で春の講座は終了します。いよいよ秋の講座、東京からの客を迎えての講座開設となります。ここしばらく、フォトハウスの全ての懸案について、あまり考えていなかったようです。そろそろ気を引き締めてかからないと、このままズルズルといっていまいそうな気配もしています。

先週の土曜日には里博文sんが自宅へ来られて、朝まで話をしていました。本当はテキストを作ろうということだったのですが、すぐに帰らなければならない、ということで話をはじめたところ、朝までになってしまったということです。

フォトハウスの講座が始まったがのが1985年6月1日から2日にかけてでした。ちょうど一年が経過しました。この間、二回のゾーンシステム講座を開設し、私がフォトハウスの事務局として事務の一切を切り盛りしてきたのでした。当面は皆さん方の協力を得るためにも、一切の批判なんかはつつしみ、事務屋さんに徹しようとしたわけです。

東京のメンバー、たとえば金子隆一さん、平木収さん、といった人たちに来てもらう、といったことは現実のこととして、開設当時には想像もできなかったことでした。もちろん、そうなればいいな、とは考えていた結果として、こうなったわけだ。私が積極的にのっかったから、こういった結果になったのだと思う。秋の講座については、完全に赤字開講だし、どのようになっていくのか見当もつかず、かなり自分としても負担になっていることは事実です。しかし、ここでやっておかないと、と思う気持ちがいけないのだろうか。さまざまに困難がある。

本日、里博文さんが来訪されます。今、電話アリ。応用編のテキスト作り。いま(1986.6.22)、大阪のピクチャーギャラリーで里博文さんの個展、「誘惑の森」が開催されている。昨日、これのパーティーということで久しぶりに大阪へ出向いていった。ちょうど一年ぶりに大阪ということになる。

そこで集まったメンバーは、フォトハウスのワークショップに参加した人たちが多かった。もちろん私としてもそのメンバーの一人であった。下関から清水さんも見え、京都からは鈴鹿芳康さん、鈴木俊宏さん、金井杜男さんといった人々でした。また、フォトハウスのワークショップに参加していた女性たち、その他大勢が集合したというわけだ。旧知のメンバーでは浅井さん、高嶋さんといった人たち、いすれも久しぶりに会った。


19860622
1986年の現在、私は京都でフォトハウスでワークショップを実践しており、実質的に行動し、注目されているところだと思う。一年前とは比較にならない注目だと思う。良きにつけ悪きにつけ、注目を与えている、当然メディアの力によるわけではなく、むしろ様々な人々、ここに集まったメンバーの力によろものだ。

一人では何もできないのだ。そういう意味でも、鈴鹿さん、里さん、岡田さんといったメンバーに拠るところが大きい。東京のメンバー、平木さん、金子さん、飯沢さんらが名を連ねているということも、見方によってはすごいことなのだ。

フォトハウスが話題になるということは、いいことだと思う。なによりも状況の中で、起立している部分があることは、全体において刺激になるものだ。畑さんのインターフォームへも行った。PPSが濃厚に絡んでいる、としても新しいスペース。オリジナルプリントグッズのお店。大阪を中心としてスペースがたくさん出来つつあります。そこで京都のフォトハウスワークショップが異彩を放ってくるのだろう。

継続的な講座を開催していくことには、困難さがあるが、何処ででも出来るといったものでない以上、新しいギャラリー運動の底辺を形成するものだろう。関西がふたたび面白くなってきているが、以前とは違ったレベルで、今後、展開していくことが予想される。

19860625
朝から梅雨の晴れ間といったところで良い天気の気配。植木の様子を見て、そして二階へあがってきた。写真集を見る。最初に手に取ったのが、松本路子さんの「ニューヨークの女たち」、たまたま書架のなかで目にとまった。なかにサインをもらっているやつです。1984年OCTの日付だ。ぱらぱらとめくりながら文章に目を通してみる。また東松照明さんの「昭和写真全仕事」の一巻を手に取って見る。これには東松照明さんのサインが入っている。もう2年前だ。この2年ほどが一気に過ぎ去ってしまったような気がする。

フォトハウスをやりはじめ、これにかかりっぱなしだった。その結果として現在のところは成功している部類だろう。まだまだ当初の計画までにはいたらず、ほんのかけだしのところだが、それでも成功しているところだろうと思う。今後の展開には、ちょっとむつかしいところもあるが、ここまでは順調にやってきたというところだ。


19860625
ワープロを購入して2年。それまでのペン書きからキーボードで打つといった感じにも慣れてしまったといったところだ。しかし、その当時、書き始めていた評論ジャンルへは、今はまったくできていないような状態になっている。フォトハウスについての論は、そこそこ書けているが、批評の感覚がまったく欠けていまったかのようだ。写真撮影にも気が向かないし、批評もできない。ちょっと気を入れて、再度、何かにつけ手をつけていかなければならないと思っている、が、どうなることか。

このままフォトハウスの企画だけでは、自分の存在がなくなってしまうのではないか。とはいえ、今さら、作家の感性が戻ってくるわけでもなく、周辺のサポート役といったところが、適任となるのだろう。たまに写真を写してみようかな、という気にならなくもない。また評論を手がけてみようかな、という気にもならなくもない。しかし、現実には、時間もなく、実現にいたらない。

この一年で私の周辺は一気に変わった。昨年の6月にフォトハウスワークショップをやってから、2回のゾーンシステムをこなしたいま、秋には東京から評論家を引いてくる。そうそうたるメンバー、と言った人がいたが、実際に周辺から見ると、そうったことになる。平木収さん、金子隆一さん、飯沢耕太郎さん、今、写真界で大衆に向けた評論筋では、最大限の活躍中といったメンバーなのだから、将来の形態としては、彼らに各々講座を持ってもらい、フォトハウスの中核となるメンバーの育成を考えている。

京都に評論の拠点を。京都から写真家の輩出を。単に京都の状況を変える、といったことではなく、写真の状況を変えるべくフォトハウスの企画は存在する、と本当は言いたいところだ。彼らが京都に来ることで、もうひとつ大きく展開ができるだろう。企画する側としては不安がいっぱいといったところ。小本章さんのワークショップはついに延期となった。おそらく、もうできないだろうな、という気もしなくはない。

新しい展開としてシルクスクリーンやリトグラフといったジャンルが包括できるようにというのが、当初のフォトハウスの企画であったが、現在のところ、そこまでは展開できないような気になっている。これらの企画は私の力ではできない。もちろん将来、この方向でコーディネートできるメンバーが出てきたときには実現するであろうが。またメンバーの問題としても、本気でフォトハウスのことを理解してのっかってくるメンバーが出てこないと、何もできない結果となってしまうだろう。

昨年の秋、私は里博文さんに、フォトハウスワークショップの開催中、喫茶店で出版には金子隆一さん、といったことがあった。現在では金子さんに限らないという気にはなっているが、展開としてそれの実現も可能なのだ。このような展開は、当初には想像もできなかったことだ。そこで私の存在を考えてみて、ほんとうは単なる企画屋であってはいけないのだ。やはり評論ができるとか、写真が写せるとかの部分がなければならないのだ。


19860600
京都静原芸術村の構想、1985年5月初版構想、1986年6月二版構想。
フォトハウスワークショップを軸として。
構想の概要。
1、京都市北部お山間部に、現代芸術の拠点を構築する。
京都市内の拠点、大学、ギャラリー、企業等をネットワークしていく。
講座の開講場所として、展覧会の開催場所として、ミーティングんどに使用できる場所として、研究できる場所として、等。
(1)ワークショップは静原
(2)展覧会はギャラリー・DOT、京都書院
(3)出版関係と図書館機能は紫野
(4)公的部門は、府立総合資料館、アメリカンセンター
(5)ミティングは、ギャラリー・DOT、京都国立博物館。

2、芸術ジャンルとしては、写真の周辺に位置するところの諸ジャンルとする。

3、年に一回程度の各ジャンル横断・重層のシンポジウムを開催する。
将来、1~2ヶ月を区切って、写真月間といった連続企画を考えてみる。
その中でシンポジウムを考える。

4、講座の講師には、なるべく多くのメンバーを迎え、各講師の連続した講座を開催する。
現在、金子隆一、平木収、飯沢耕太郎、島尾伸三、各氏ら東京在住の評論家・写真家たち。
里博文、鈴鹿芳康、畑祥雄、各氏ら関西サイドの作家たち。及びその周辺の協力者。

5、発表形態は
(1)展覧会。講座に集まったひとの作品を中心として開催。開催実行は出品するひとたちで。企画展は当面公的機関などに協力するなかで開催に協力する。
(2)出版。講座に集まったひとの作品集を、合同で、単独で出版

6、制作された作品は、独自のルートで販売される。


19860604
6月4日里博文さんと会う。鈴鹿さんの自宅で塾形式の教育機関に類似のものを作りたい、といっているがどうしよう、というもの。里さんにしてみれば代表者ということで、やる気になっているのだ。フォトハウスのからみをどうするのか。このあたりが問題になりそうだ。私としては、以前から鈴鹿さんから、このような案を聞いたこともあったけれども、将来的にはそういったことも実現可能だと思っていたが、具体的な話には乗らなかったのだった。それが今回、鈴鹿さんが本気で考えているというのだ。

話の概略は、
1、年間を通じて生徒を募集。授業料は50万円ぐらいとする。
2、内容は写真とその周辺を、毎週末に教える。
3、専用のハウスを作り、この建設資金として一人25万円の出資を募る。
4、メンバーは、鈴鹿芳康、里博文、金井杜男、中川繁夫、鈴木俊宏、岡田悦子に、当面は話を持っていく。
こういった話が主な内容であるという。

この概略については、以前に鈴鹿さんから聴いていることであった。しかし、この話が、私としてげせないのは、私抜きで話し合われたことなのだ。別にこのこと自体は、どうこういったことではないかも知れないが、私としての立場から言えば、フォトハウスの事務一切を引き受けている立場として、どうして事前にその場に呼ばれなかったのかということだ。不快感を抱かざるを得ない。しかし、鈴鹿さんとしては、私が宛にならなかったのだろうと思われる。

フォトハウスをどうするかといったことだ。いろいろと案もあるようだが、フォトハウスの一セクションとして設定するといったことになれば、それなりの私のかかわりができようが、頭からフォトハウスとは関係ないものだ、ということで進められると不快な気分だ。というのも、私としてもフォトハウスの将来的な展望の中には、同様の形態を考えているからにほかならない。もちろんフォトハウスとして、今すぐ実現できるといった内容でないだけに、将来に実現するといった保証もない。

フォトハウスのワークショップと並行して、同じ事務レベルでというのなら話は簡単。しかしフォトハウスと関係ないと言われると、問題なのだ。私としてもフォトハウスの名称に、最後までとらわれるつもりはない。たとえ名称が変わっても、実質的には同じであれば、それよいと思っている。また、より進化した形態が取れるならそれに越したことはない。しかし問題は、私個人としてみれば、私の介在する余地がないのではないかということだ。私の立場がない。そこが個人的な問題だ。フォトハウス抜きで塾を考える。これは何よりも私抜きで、今までの成果だけを持ていくといったことにほかならない。

フォトハウスの乗っ取りが当初から予想されていた。東松照明さんとのセッションでそのように指摘されていた。企画を出してはいけない、時期がくるまで暖めておくのがよい。でも発出したのだからフォトハウス構想。それはメーカーなどが別に同様の企画をぶつけてくるのではにかといった懸念であった。それが今、側近から発生したと私は見る。フォトハウスの形態が、現在のところ、あやふやなものであることは、私自身がよく知っている。それを組織化しなければならないことも良く知っている。

しかしフォトハウスの理念を説くなかで、組織化の問題は、すぐには着手できないのだ。そういう意味で、私が理念を説いている限りにおいては、現状のままであろう。そこで一気に、別の構成メンバーで組織化を計る、ということだ。こういうことでは、私はよりグレードアップされるので賛成をする。ここでも私が介入する余地がないとなれば、私から言えば、横取りのなにでもないわけだ。当初の苦労の段階でお金を使い、労力を使い、いざ成功となったところで、お前はいらない。これでは、あまりに承知できない。要は感情レベルでの問題なのだ。鈴鹿さんも感情的なところで私を切るつもりなのかしら。

(写真ノート第二部、おわり)