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最新更新日 2013.1.13
いま、写真行為とは何か 1978~
中川繁夫:著


    

いま、写真行為とは何か

<ある労働者の死>
(1979・6・20)

1979年6月20日、ひとりの労働者が死す。死因は性急心不全。柏原市の某病院にて午後九時四十五分。享年48才であった。

翌日、釜ヶ崎の労働者たちの手によって通夜が営まれ、22日夏至、釜ヶ崎解放会館一階釜食堂において、死んだ労働者Oさんの葬式が行なわれた。「釜ヶ崎結核患者の会」の代表者である稲垣氏が、葬儀委員長として、行政サイドでの交渉、遺体の引き受け、葬儀段取りの手配等、いっさいを手際よく運営されたのであった。

無名の労働者の死に、質素な祭壇。茶碗に盛られた飯、サイダーとカップヌードル、そしてパッケージされた果物盛り合わせとお皿に盛られたあられ。質素な、といえばもうこれ以上省略しようがない最小限の祭壇ではあったが、この葬式の意味するものは深く大きいのである。

ひつぎの前にOさんの生前の、たった一枚きりの写真が、ぼくたち生者を振り向くようにポーズをとって、ほほえんでいる。Oさんが無名の労働者としてこの世に生きていた証として、ぼくたちが所有する、たった一枚きりの写真だ。このOさんは昭和五年生まれ、四国宇和島の出身だというが、その経歴は、今のところ明らかではない。

Oさん自身がかってふっともらした言葉の中に、警察官だった、というのを聞いたとしても、Oさんの経歴については、Oさん以外のだれも知る由はない。しかし確かに、Oさんは存在していたのである。

    

この半世紀の激動の時代を、黙々として生活を営んできたのである。おそらくOさん自身が、その生の軌跡を語り始めたならば、それは一人の無名の労働者の個人史として、大なるぼくらの遺産となるだろう。しかし今、すでにその自らの証言者は、死す。

かって釜ヶ崎では、無数の、無名の労働者が死に、ひと知れず葬られていった。身も心もボロボロになって道端にたおれていき、無縁仏となるのである。年間三百人を越えるともいわれているこうした死者たちは、今日のこの時まで、全て、ひと知れず葬られていったのであった。

Oさんの場合、質素なといえば、これ以上のものはない質素さでの葬式ではあったが、釜ヶ崎において労働者の死を、労働者自身の力によって葬式が営まれた最初のものとして、1979年6月20日、このことは記念碑となるものだ。


葬式の場で合掌し、あるいは首をうなだれて立ち尽くす労働者たちの脳裏に、いったい何がこみあがっているのだろうか。ぼく自身に即していうならば、悲しみ、という感情はむしろなかった。手にグッと力を込めて歯をかみしめたところで、Oさんがよみがえってくる訳ではなく、かりによみがえって来たところで、「もういやだよ、こんな生活は・・・・」というだろうことがわかって、ぼくの身を震撼させるのは、結果として死に至らしめた「もの」に対する心の底からの怒りに他ならない。

ぼくをふり向くOさんのポートレートが、Oさん自身の苦悩に隠せば隠すほど、そのほほえみの裏にひそむ苦悩を知らずには、いられないのだ。おそらくひつぎの前で合掌し、あるいは首をうなだれて立ちつくしていた一人ひとりの労働者の胸中は、計り知れなく複雑であるだろう。寡黙な労働者は、放心しきってひつぎの前に、ただ立ちつくしている。あるいはまた、涙をおろおろ流してなく。

「葬式を出してもらっているのか」という驚きとも困惑ともつかぬ、ある労働者のつぶやきは、釜ヶ崎における労働者の心情とその意味を象徴的に暗示している。
    


Oさんの直接の死因は、急性心不全であるが、心臓がピタッと止るに到った過程は複雑である。そしてOさんの場合は、決して特異な死様ではなく、いわば釜ヶ崎の労働者の典型的な死様であるといえる。その病状は、結核、アルコール依存症による内臓諸器官の最悪のむしばまれである。常に、生存ギリギリの極限状態に置かれていたその肉体が、かろうじて保っていた生命の糸を、プツリと切ってしまった、というしかないだろう。

そしてOさんの死は、単にOさん自身の内にあった病根だけが原因ではないのだ。Oさんの死を考えるとき、ぼくは激しい怒りを感じるのである。Oさんを取り巻いていた現実、そして釜ヶ崎に生活する労働者を取り巻いている現実と、その社会的政治的側面、それら外因とOさん自身の内因の両方に、その原因を求めて行かなければならないだろう。

ともあれ、労働者の死を労働者自身の手によって悼むことができたという、このことの持つ意味の大きさはさておき、今、はじめて「人民葬」ともいうべき形で、死者に対する葬式がとり行なえたこと、そのことは労働者の生命は労働者自身の手によってまもっていかねばならなぬ、という最小限の確認と捕えられはしないだろうか。


ぼくがOさんの死を知ったのは、稲垣さんからの電話によってであった。ぼくの手元にあるネガの中に、Oさんの葬式に飾る写真が見つからないだろうか、ということであった。ぼくは、手元にある写真は、その大部分が彼の手元にある旨を告げ、その中から探してくれるように頼み、五時までに連絡してほしい、とお願いした。そのうち折り返しの電話で、写っていることが判明した。そしてその写真を持って、、京都へ来てくれることとなった。ぼくはまだ、どの顔なのか見当がつかなかった。

稲垣さんと京都で会い、写真を見たとき、それはまさかと思う思いで、その写真をながめた。その写真は、この4月1日、稲垣さんの選挙を取材しているとき、Oさんから選挙事務所の前で、「写してください。」と言われて、何コマかシャッターを切ったなかの一枚であったからである。

さっそく暗室で、引き伸ばし作業にとりかかった。顔の部分だけをトリミングし、稲垣さんと雑談を交わしながら、小一時間その作業も九時には終わった。

    

翌朝ぼくは、Oさんの葬式に参列するため釜食堂を訪ねた。まだ告別式まで時間はあった。ぼくは祭壇の横に座った。時折、労働者が祭壇の前に立っていった。また、名前は知らなくてもこの顔なら知っている、というふうに、写真を見て手を合わす労働者。そして何分間も黙とうをささげていった労働者。そのどの人たちの顔にも、他人事ではない、といっや感情、あるいは大事な友を失った、という悲しみが充ちているようだった。

もう夏の陽を思わせる太陽が、釜食堂の前に濃い影をつくっていた。その日陰に人々は集まり、雑談を交わして告別式を待った。希望の家の重野牧師、小柳さん、結核患者の会のメンバー、そして釜食堂の人々、労働者。

告別式の始まる時刻、炊き出しのリヤカーが出発していった。経読の続く中、焼香の人が絶えた。しばらくしてリヤカーが返ってきた。そのあと、炊き出しを受けた労働者たちが、ひとり、ひとり、と焼香したのであった。

この光景は痛々しいものであった。
仲間の死。そして告別式。
だれからともなく
「葬式を出してもらっているのか。」
という声がもれる。

明日は我が身であるかも知れない、という実感そのものを死者の地平でとらえられる労働者たちの最初であり、これが最後の言葉であった。そして労働者たちの間で、すすりなく涙を見た。居合わせた労働者たちは絶句するほか、言葉を持たないのだ。

ぼくは、この光景にカメラを向けることができなかった。背中に流れ落ちる汗、手にかかえたカメラのシャッターには、指がかかっているのだ。しかし、この労働者たちの涙に、敢えてカメラを向けることができなかった。

    

火葬場へは、稲垣さん、小柳さん、釜食堂の中川さん、それにぼくが行くことになった。真っ青な空、梅雨のうっとおしさもなく、夏に至った日の午後を、ぼくたちは住吉の方にある火葬場で過ごした。稲垣さんは作業服、小柳さんはカッターシャツにズボン、中川さんはジーンズの半ズボン、そしてぼくはジーンズの上下であった。

待合室でテーブルを囲んで話をする。
釜ヶ崎で今回のように、労働者自身の手によって葬式が出せたケースは初めてだという。
かって何度か労働者の死にも立ち合ったが、そして何度か葬式を出そうと試みたのだが、このように完全な形で遺骨を受け取って帰るにいたるのは、初めてのことだという。

釜ヶ崎の労働者は、たとえ死んでも、その死の悲しみをともに分かち合うことすら拒絶されていたのだ。肉親の悲しみからも拒絶された労働者の死を、仲間の労働者が悲しみ、哀悼を表明するのは、人間の気持ちとして当然認められてよいはずであろう。だのに、かってはその悲しみをすら、分かち合えないのだった。それはとりもなおさず、行政がその介入によってさせなかったのだ。だから、この点から見て、今回の、無事とり行なえた葬式は、釜ヶ崎の歴史において、記念すべき第一歩をしるしたといえる。

火葬場へ来て、ぼくにはもう感傷はなかった。数時間後には土に帰してしまうOさんの最後の姿を見ても、「とにかく安らかに眠れ・・・・」とつぶやくだけだった。
台の上の焼けた骨を前にして、係員が、
「この部分が頭、この部分が手、この部分が・・・・」
と、指し示しながら説明してくれる。そしてちょうど内臓にあたる部分、つまり中心部は、血が焼けたそのままの色、赤茶色であった。疾患部は焼け残る、といわれているが、Oさんの焼けがらお見る限り腹部はそのまま焼け残されたことになる。

特に胸部、つまり肺のあたりはチョコレートのような色であった。もう内臓全体がボロボロにむしばまれていたのであったろう、と思われるのだ。
行くあてのない遺骨。今は、Oさんの冥福を、ただ祈るだけだ。
1979年6月22日