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いま、写真行為とは何か はじめに

いま、写真行為とは何か

なぜ、釜ヶ崎なのか

釜ヶ崎からの報告-越冬-

映像のはん濫 日常の光景へ

何故、釜ヶ崎なのか

再び、写真とは何かー

ある労働者の死

釜ヶ崎-夏-

あとがきとして


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最新更新日 2013.1.29
いま、写真行為とは何か 1978~
中川繁夫:著


    

いま、写真行為とは何か

<釜ヶ崎-夏->
日替写真展について

釜ヶ崎の夏、当地では夏祭りが行われようとしている。その中で、ぼくの脳裏に次第に明確になってきた、ぼく自身の参加の方法がある。夏祭りの期間中、会場で写真展をやろうというのである。毎日二百枚、ベニヤ板のパネルにキャビネ判で張り尽くそう、というのである。今までの経験から、この程度が、ぼくの体力の限界であろうと思うのだ。

今、写真はぼくたちの生活の中に氾濫している。ひとつには広告をその主体とする写真群であり、ひとつにはファミリー写真と呼ばれる写真群である。そして言うならば、ぼくは今、それのどちらにも属さないタイプの写真を写しているのである。

ぼくが現在持っている写真発表の場は、展覧会という空間である。写真を本業とする人間の趣味的な部分と、写真を全く趣味とする人間の趣味の部分とが合体した、いわゆるプロとアマチュアを混合したところの、写真界と呼ばれる奇妙な集団の場なのである。

写真を写す側と写される側、そして、その両者の関係を全く無視したところで営まれる写真展という形式。写した側と第三者として見る側。この複雑に入り組んだ在り方、そのものから今、その初原に帰って、写す側と写される側、この両者の共有の場で写真が、介在しなければならないのではないか、と考えるのである。

今、どこの家庭にもある写真帳、あるいは学校の遠足で、会社の旅行で、これらの中で写された写真が、写された当事者にのみ価値があって、陳列され保存されている、いわゆるファミリー写真の系譜の内から、ぼくは写真をはじめていかなければならないのではないか、と考えるのである。

釜ヶ崎というひとつのファミリーとの関わりの中で、ぼくは今、写真を考えているのだから、当然、今そうあらねばならないはずだ。恐らく今、写真そのものについて、新たなる価値が生じてくるならば、この地点から、始めなければならないだろう。プライベートからパブリックへ。写す側と写される側との間にのみ価値ある写真が、なおかつ第三者に価値を持つもの、とならなければならぬ。

写真家と被写体となるべき人々。この二者が共有する空間は、単に撮影現場においてだけであっていい訳がない。写真が大衆のものとなりえた今、ファミリー写真として、つまりそのファミリーの歴史を刻むものとして写真は存在する。写真の持つ記録性は、まさにこの中から発生して定着していくのだ。

写真家と被写体と、そして撮影という行為を通して生じる空間。この空間そのものが今や、写真は写真として意味を持ちはじめるのだ。そしてそれらの記録が、第三者にも意味を与えるものとなってはじめて、パブリックなものとなるのだ。
ぼくが今、思考するプライベートな写真は、まさにドキュメンタリーそのものである。
1979年8月