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最新更新日 2013.3.19
中川繁夫の書簡集 2001~
中川繁夫:著


中川繁夫の書簡集

    

書簡000 shigeo nakagawa 2001.11.4

収穫・共同体生活-貨幣経済を超えるもの-

栗、柿、銀杏、胡桃、米、馬鈴薯、薩摩芋、白菜、大根、ほうれん草、大豆。 鶏卵、牛乳、鮎、鱒、鰯、鯖、烏賊、秋刀魚。 海と山の収穫、天然・自然からの収穫及び栽培のもの。

(1)
わたしの周辺で起こっていることについて書きしるしていきたいと思います。 現在2001年の秋です。
わたしの生活をつくっていくことの現在の形とネットワークのことです。 わたし自身は現在、給与生活者です。 わたしはメディア系の職場で、仕事をしています。
職種はともあれ、わたしの本来的かかわりの趣旨では、 この組織体は資本主義制度のなかにあって、 制度批判が内在する共同体として存在しているはずなのです。
といいながらも給与形式で現金収入を得ている給与生活者なのです。
つまり労働について貨幣という対価を得ています。
労働に対する報酬として、商品を得ることができる貨幣です。
信用経済といいますが、その対価は銀行に振り込まれます。
わたしが生存している場所は、 この資本主義制度から原則的に逃れることができない場所です。
でも、この制度のなかにあって、その構造を解消していくことが、 できないものかと考えているひとりです。
その構造を解消したときに現われてくる制度があります。
この新たに現われてくる制度を、 どのように考えてとらえていくかが課題になってきます。
わたしの考えでは、自給自足というシステムを作っていこうとしていました。
そのことが個人的にできるかどうかが将来の課題だと思っていました。
これは、現実生活に絶望していたところから出てきました。
その理想的な生き方として自分自身を捉えた形式でした。

わたし自身の考えと、採ろうとしている行動が、矛盾していると思っています。
生活レベルで共同体から逸脱することを模索していました。
極力自給自足に近いスタイルで、 生活を編み上げていきたいと思っていましたが、 貨幣(お金)は必要になります。
10年後の年金をあてにしているわたしがあります。 国家というものを心情的に否定しているにもかかわらず、 国家をあてにしているという自己矛盾です。
これは、その後、地域通貨の領域が拡大して、 わたしもその領域の一員となっていくとしても、 そのことで貨幣のない領域へはいけないように思います。
この先のそのころのわたしには、 その領域で労働が提供できるかどうかわからないですから、 労働が提供できないとしたらそれに変わるものとしての貨幣の準備が必要です。
(地域通貨が貨幣の補完的役割をはたすものとして存在するかぎりの話しですが)

(2)
将来、自給自足を究極とする生活に入っていこうとする考えは、 一定の時間が経過した後には田舎生活に入っていこうと思うjことでした。
母が亡くなった直後の年、すでに十数年前になりますが、 生涯を過ごすことができる自分の家を持ちたいと思いました。
京都の家は、将来、住まないかもしれない。 そんな思いもあって、農地に転用できる土地を物色しました。
都市近郊の土地は高くって手が出せませんでした。 そこで彼女の故郷の金沢周辺で土地を探しました。 坪10万円くらいの原野で120坪ほどの土地がありました。
手元の貯金と保険を解約して、その土地を現金で買い取りました。
その土地は住宅団地の入り口で、ちょっと高台になっていて、 東西北の三方向が開けています。
土地を確保しておいて住宅の建設はもっと老いてからの予定でした。

しかし7年前に郵政省を退職するときに、 家族はその土地に家を建てることを進めたので、 急遽、建てる決断をして、 自己資金と1400万円の住宅金融公庫ローンを組んで建設しました。
このような行為はまったく、 国家体制に組み入れられた枠のなかでの方法でしかないわけです。
しかしこの方法のみが、この先を生きることの選択ができたのです。
生活の安定はそれなりにわたしを感動させるものにしていこうと思いました。
収穫の畑スペースを除いて草木を植え込んでいきました。 少しずつ手を入れていきました。
桜の木は数年前から花が咲き始めました。
梅の実は昨年から実をつけましたが、今年初めて梅干しにしました。
柿が昨年初めて実をつけました。 今年は二本に実がつきました。
栗が今年初めて実をつけました。
数個の実でした。
集落の外れのお寺へいく沿道に銀杏の木があるのを数年前に発見しました。
ひとりでは抱えきれない大きさの幹です。
秋には銀杏の実が落ちていました。
少し小粒の実ですが、味はしっかりしています。
毎年、晩秋に収穫にいきます。
今年は家の横の傍らに胡桃の木を発見しました。
草むらを入ると胡桃が落ちていました。
数十個を拾いました。
生きることへの深い悲しみが、いつごろから意識しだしたのか定かではありません。
いま悲しみという表現を使いましたが、 それは淋しさと同居しているような複雑な心境があります。
身体が生きることの根元に、食することがあります。
わたしはこれまで、 食うことができない状態になったことはありません。
そのことを確保してきましたし、確保することができてきました。
わたしは食についての深い関心はあまりありませんでした。
よくグルメといわれるような食通ではありません。
食にお金を使うことは、今もってもったいないということが先にたちます。
料亭で、あるいはレストランで材料を加工して出される料理というものには、 あまり興味がありません。
いつの頃からか食の素材をなるべく生のままに食べることに、 共感を覚えるようになってきました。
火を通したり味付けしたり、保存用に加工したりをしないというのではありませんが、 なるべく素材を素材のまま、食したいと思います。
これが最高の贅沢だと思います。

(3)
記憶をたどれば、生きることが悲しい、あるいは淋しいものだという感覚は、 もう16歳のころには芽生えていたことに気がつきます。
食べることへの執着があまりありませんでした。
空腹感をよいこととしていました。
寿司屋の出前のアルバイトで、冬の朝にはお茶漬けをいただいておりました。
漬物と梅干しで、お茶は番茶でした。
食べているとき、わたしに襲ってきたあの悲しさの気分といったものは、 淋しさだったのかもしれない。
深い悲しみと淋しさ。
わたしは嵯峨にある病院へ診てもらいにいこうかと、ひとりで悩みました。
その病院は精神科病院で友だちのお父さんが経営されていたことを知っていたからです。
誰にも言えなかったけれど、わたしは精神科の患者だと思っていました。
もう目の前がクラクラするくらいに、じっとしていられないようでした。
大晦日、自転車をゆっくりこぎながら嵐山までいきました。
闇の堤防をゆっくりとこいでいきましたが、 もう胸がつかえて、でも涙は流しませんでした。
それ以上に空漠感といいますか虚しさといいますか、 そんな感情にみたされていました。
お寺の沿道に落ちている銀杏を足先で踏みつけて、 実をはじき出しながら、そんなことを思い出していました。
あのころはじき出されていたのかもしれない。
だとしたら、なにからはじき出されていたのだろうか。

(4)
昨年、柿の木に柿の実が数個なった。
あしかけ7年、初めて実ができていることがわかった、
春から秋までのあいだ、わたしはワクワクの気持ちと同時に、 甘いのか渋いのかがわからないので、イライラの気持ちもありました。
そこそこに赤く熟れてきたひとつをもぎって噛んでみました。
甘柿でした。
人生において最高のラッキーを得たような気分になりました。
たぶん、ひとり微笑んでいたんでしょう。
甘柿だったことは、わたしのこれからの人生において、 随分と得したように思います。
柿は、収穫のころになると、いつも末妹のところから貰っていました。
もうこれからはその必要がなくなると思うと、 たいへんなうれしさがこみあがってきました。
このうれしい気持ちには、不安はまったく伴なっていませんでした。
収穫のよろこびとは、こういう気持ちをいうのだな、と思いました。