ご案内です
HOME
むくむくアーカイブス

物語&評論ページ

書簡001

収穫・共同生活体

神話的物語-1-

神話的物語-2-

宇宙と身体感覚論-1-

宇宙と身体感覚論-2-

絵画・音楽・19世紀末

ハンス・ベルメール論



むくむくアーカイブス

最新更新日 2013.7.7
中川繁夫の書簡集 2001~
中川繁夫:著


中川繁夫の書簡集

    

書簡001 shigeo nakagawa 2001.10.17~

神話的物語-2-

(6)

神は存在するか。この設問についてわたしは無神論者を名乗っていましたから、否という答えであったはずです。いつのころから生じはじめたのか、確かな記憶ではないけれど、皮膚の内側が淋しさに疼いているという感覚の発生を辿ってみると、幼年を越えたあたりに行き着いてしまったのです。

奈落の底に転げ落ちるような崩壊感覚として自覚されたのは、16歳のときでした。神は存在しない、という断定をくだしたのは、そのころからでしたから、すでに40年間、神は不在でした。

いまわたしは、人の姿をした神の化身を認めようとしています。磔刑のキリスト像とはいいませんが、花精霊や木精霊といった化身。それらの神への物語を、どのように理解するかという思いが、生じはじめているのです。

現実の生活の日々。生の在処を探しに旅たちはじめて数年がたったころ、日々が苦のように感じられた日々、情欲が希薄になりつつあった身体の変化のなかで、わたしは神の痕跡を探す旅にでかけたのでした。それは存在するかも知れません。存在するとしたら、どのように存在するのでしょうか。神が存在することとは、どのような状態を言い当てるのでしょうか。

わたしの神のイメージは、母なるものの中にあるように思われます。神は、一つの文化圏および歴史的時間経過のなかで、その文化特有の世界観、価値観、そしてさまざまなイデオロギーが収斂した結果としての存在であると云われています。ある文化圏において、神に反抗することの結末は、虚しく出口の見いだせない状況を、わたし自身のなかに創り出すことに他ならないようにも思われました。

そうした生活の日々のなかで、ある日、救済されるイメージの総体としての化身を<神>と名づけるのだとの想いが、立ち現われてきました。わたしを構成している全てのものを統括しているものそれ自体。わたしを包み込む気分の全体、目をあげて全てを告白する存在。光そのもの。あたかも母の姿が記憶の写真となってよみがえってくるのでした。

わたしは、自然現象と共に生きようと思っていました。わたしたちの物語が余りにも悲惨だったようにも思われたから。信頼を喪失した関係のゆくえは、自らの肉体を滅ぼすことにつながるのではないか、という恐怖が襲ってきていました。そのことをいかにして無化していくのか、母の呼ぶ声が幻想のうちに聴こえてくるとき、わたしは目に涙を浮かべていたのでしょう。

母との想い出は、最後の日のうしろ姿でした。ベッドに横たえられた母の肉体には、反射的にもがき苦しんでいました。もうこっちへおいでと手招きで、わたしに微笑みかける母の記憶のタブローを想起しながら、明確には返事をしませんでした。

母の記憶は、深くて遠いところにあるようにも思われます。宇宙という、存在と不在の統合の彼方に、母の居場所があるようにも思われます。いつもわたしに呼びかけてくるときは、上方の彼方からであるからです。わたしのなかの記憶の像は、何枚かの光景として組まれています。小学校に上がったばかりのわたしが迷子になったとき、母はわたしを探しに来てくれました。三条商店街の入り口の場所でした。

夜の繁華街は賑わっていた。人々の欲望の回路が集積している場所として、繁華街はあった。わたしの欲望は街を徘徊彷徨した。書店にはいり書棚から何冊かの古本を買う。暗い欲望の河を渡っていくわたしの気分はあさやかな欲情に満たされた。生のなまなましさが、そこにはあったようだった。生の根拠はねじれた欲情であった。わたしの神への共感と反抗が入り乱れて、生きている実感を得ようとしていた。わたしはもの言わぬ母の化身を求めていたのだろうか。

密室での記憶は遠い昔に舞い戻っていった。そしてイメージのなかの欲望の化身、ハンス・ベルメールの表出した世界を思い起こす。いくつかの写真に撮られた女の部分の組み合わせが与えてくるインパクトについて、わたしは密かに感覚を共有している交差を見つめていた。


(7)

神は女神です。神話は男と女の共同体です。これまでの神の存在は、存在を認めた共同体内部のさまざまな関係が、文化・社会の力として権力の関係を形成してきたようです。

※社会構造論<男社会と母性原理>
性的関係を<自明視><自然化>し、文化・社会的に規範化する力、客観化、普遍化を標榜する近代の諸学が無視してきた<性>の権力関係を、自然とはみなさずに歴史・社会化すること。

※歴史・社会化することとは、ベルメール論の作家としての視点から男としての視点へ、その上でのエロス・芸術をどう乗り越えるか。

豊穣をもたらす力の象徴として、心の構造の核心にある<母性原理>がある。
※反対に<男性原理>があり、わたしのなかの女性性(両性具有論)を見つめる。

近代以降の国家・公的な秩序維持システムは、神や神秘的な力が宇宙、世界、人間関係、人間の運命を支配しているという信仰、信念を前提としないことになった。しかし別立ての<文化>により、神秘的・呪術的な力という信念を共有する。意識化することがないままに、神・神秘的な力への信念とその表層が収斂されてきた。

だからこそ、この社会では苦境におちいったものが神に憑かれる。女の持つ霊力が、近代社会の荒波に苦闘する男たちの、寂寞を癒しえるものである。
※現代は女性も参入した社会の<男性原理>である。<女の霊力>は神と人間との関係、神に関わる表象のジェンダー分析が必要だ。

<女神>表象に結果する大文字の政治的な力学が、作り出している状況のなかで、人間の女が神に憑かれ、女が神になるという事態が、両性具有の女性部分として、そこに作用している力である。

人間の身体は表情豊かな霊体である。この微細な身体はsyべての臓器と器官によって体験される。それは生き生きしており、柔らかくかすんでいて、<意味>に満ちていて、詩的で、音楽的で、表現に富む。それは感情や気分と深く結びついており、セクシュアルに美しい。これこそがセックスで活動する身体であり、魂とともにある身体なのだ。

神々と人間。感情や想像力を喚起しない人間の身体はない、という根本的なこと。物質主義的な観点からは接近できない、そうした観点を越えたところにセクシュアリティの意味の世界が広がっている。欲望の核心と満足の源泉を見いだすことができる。

魂のあるセックスは常に存在の、別の不在領域との交感である。自然の美しさがセクシュアリティーの本質である。もしセックスとは何かを知りたければ、花について、特にその美しさと感覚へ訴える力について考えるとよい。人間の奥深くの何かが永遠なるものを求める。魂は時間と空間から自由になることを求める。魂は日常の生活、人間関係、生産から定期的な逸脱を必要としているのだ。

この逸脱は黙想でありセックスである。魂はまた他の次元、永遠の次元、不滅の次元、神話的な次元、等々との結びつきを求める。私たちは魂が神秘な恋人を渇望していることを知る。恋人を含む物質的な世界が、障害物ではなく、永遠なる霊性的な領域への実際的な道となるのだ。

愛し合うときにセックスの聖霊を欠くことはできない。私たちはこの聖霊を呼び覚ますことができるパートナーを見つけなければならない。単に肉体的な出来事ではなく、「魂」(物語として性行為の現場をどのように筋立てるか・・・・)は常にその欲望を満足させる何かを探している。肉の眼は決して魂の眼と分離することはできない。


自然の聖霊は特定の場所と特定の時間にしか現れない。感じる愛情、愛しあうための準備、前戯の全ては聖霊を呼び覚ますためのものである。これによって二人に聖霊の霊気が吹き込まれるのだ。魂は永遠ある領域に存在することを求めている。深い感情や高い願望という垂直的な次元のなかに魂とのつながりを得る。性行為は宗教儀式のように人間の活動を魔術的に有効化する聖霊を存在させようとする儀式である。強制するのではなく、ある種の謙遜が必要である。

深い直感と想像力に導かれて愛し合う。すべての営みによって快楽を得るだけではなく、自我の冷たい世界から性的な忘我と恍惚にあふれるあたたかい夢の雲へと運ばれるのだ。エロスとは全宇宙を結びつける磁力であり、愛はその大いなるエロスへの参加である。誘惑、欲望と調和して生きること。その魂を捜し求める鍵としての概念である。セックスはその人を深い方法で知ることであり、新しい仕方で人生を知ることである。特別なやり方で他者を知ることになる。

私たちはセックスにおいて最も深い欲望の力と志向性を発見する。私たちが何者であるか、魂が私たちをどこに導こうとしているのか、そして私たちのコンプレックス、抵抗、自己抑制がどのようなものであるかを示す情欲と、非常に密接に絡んでいる。エロスとは肉体と感情が結合されたものである。愛し合っている人によって感じられ理解される意味深い結びつきである。宇宙をひとつに結びつける広大な磁力であり聖霊である。これはエロスを求める魂の欲求への反応であり、世界が一つになることであり、創造的で愛に動機つけられた生なのである。

バタイユは、エロスには常にある種の逸脱が含まれると述べ、逸脱がなければ、決して性的な行為の完全な達成という自由の感覚を得ることはない、という。エロティシズムとは本質的に悪であり罪であるという「恐れ」にぴったり符合する。逸脱とは道徳的というより心理学的である。エロティックな欲望の中で、美、純粋さ、簡素さを探し求めているのかも知れない。愛する人は美の魂、そして魂それ自体の美しさに導いてくれる。

魂にとっては美が何よりも大切であり、欲望において重要な役割を果たしている。クリムトの油彩・・・・、それはセクシュアリティーの核心である。そこには、充足と空虚があり、それを同時に感じるかもしれない、しかしこれは自然であることである。自然のリズムに身をゆだねて生きることができる。

私たちの社会では、セックスは深い根を持つマゾヒズムに傷つけられている。欲望が抑圧され、歪んだ満足が求められているのだ。これは自己放棄の病理的かつ破壊的な形である。私たちは身近な権威に人生の喜びを引き渡し、欲望や快楽を支配するさまざまな権威にすがる。セックスの中核には人生に対する深い肯定がある。しかし何処へ行ってもエロスには制限が課せられ、情欲に溺れないように慎重になるように求められる。そしてエロスは地下で煮え立つ暗い欲望になり、人生の表面は機械的かつ抑圧的になる。欲望の河、セックス産業・・・・。