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最新更新日 2013.4.7
中川繁夫の書簡集 2001~
中川繁夫:著


中川繁夫の書簡集

     

書簡001 shigeo nakagawa 2001.10.17~

神話的物語-1-

(1)

森の奥深くにいてふと顔をあげると、光が木の葉のさらさら揺れる間から洩れてきているのが感知できました。木漏れ日の光がわたしの目の中に入ってきたのです。透明で真っ白な光の糸が網膜に映ります。わたしは一瞬、目を細めて光の侵入を避けようとしました。

光のまぶしさに皮膚が反応しました。顔をそむけます。不意打ちをくらってしまいました。あっ!という感じで、目の皮膚を開き身体の内側を開く感覚が起こってきます。そうしてゆっくりと、あらためてわたしは顔をあげ、木の葉の間から洩れてくる光に目をあてたのです。

光はわたしの内臓の淵にまで刺し込んでくるようでした。透明な糸の束のようなものが身体から抜けていく感覚を味わいます。心地よい感情が湧いていました。野鳥がさえずりながら梢を渡っていくのが聞こえます。光の間で二羽がたわむれているようです。さえずりは森の風のなかに深く吸い込まれていきます。

野鳥の姿は見えません。濃い緑の葉はかすかな風にちいさく揺れています。葉のひとつ一つが揺れあい重なりあっています。光はその透き間を縫って這入ってきます。わたしの身体は微妙に奮えています。わたしの皮膚は光と野鳥がさえずる甲高い声に反応しているのです。

身体の中の臓器と器官が内側からひらかれて森の霊気のなかにほどけていく感覚。開放される感覚。まるで自然と交感しているようなのです。森で動かされているものは、わたしが開放へ向かっていく感覚のようです。身体はふるえナイフでえぐられたような深淵を見ています。その深淵から立ち昇ってくる感情は快感につながっています。微妙に揺れ動いている魂は感じ始めています。

森の中の陽だまりに、ピンクの花びらを開かせはじめた花精霊がいました。花芯は黄色いおしべに満たされています。光を受けた花びらは濡れたようにも見え、花芯は困惑しているようにも見えます。別の精霊が花芯に這入りこみ身体をめまぐるしく動かしています。ゆらゆらとした情動が気分を支配しはじめます。花は生命の根元を光に向けます。あたかも受精の神秘を開示するというように全てを開き受け入れています。

生命とはなんだろう、との疑問が生じてきています。そして、何故、わたしがここに居るのか、どこから来て、どこへ行こうとしているのか、わたしとは一体なにものなのか。こんな疑問がわいてきます。根元についての疑問です。この疑問を解明していくことは宇宙創生の存在と不在、生命創生の存在と不在、といったような謎について、解明していくことなのでしょう。わたしの物語はこの謎について問い続ける終わりのない旅なのでしょう。

わたしが生きた痕跡を残していくために、この物語を創ろうと思っています。わたしが想起する記憶の像は、すでにわたしが喪失してしまったものでした。母への記憶が想起されるとき、、すでに不在のその場所は、わたしにとっての生きる根拠を問うてくるものです。母のいる風景を思い出すとき、わたしに悔恨の気分を伴わせてきます。

わたしはわたしの身体から湧き起る情動と、その昇華の痕跡をじっとみつめています。わたしの内に想起されてくる像<イメージ>は、宇宙の気象といったものであり、身体とともにある魂の無意識領域の深淵のようでもあります。この像は無限大の<球体、時間、空間>といった概念を超える、円環のなかにあるようにも思えます。

わたしのこの想念を相対化してみると、いまを介してあらたな神話が創生されていくことの、意味を有しているようなのです。わたし自身の根元から、社会の現象へと向けるまなざしは、無限の宇宙から社会の現象へと向かうまなざしと、交感しているようなのです。

わたしはその探求の過程で、根元にある疼きのようなもの、性的なものへのまなざしに、傾斜させていくのではないでしょうか。わたしはその領域での<神話>とは何かと問おうと思います。おそらくその感覚は、かって<愛>と包括された領域のなかで、とらえはじめていけばよいのではないでしょうか。そしてその領域をどのように拡大変容させていくか・・・・。

わたしは身体のなかから湧き出てくる宇宙感覚から無意識領域までをもって、存在している像とわたしが想起する不在の像<記憶>を伝承していく必然に迫られているようなのです。そこから派生する意味の解体と創生。それら伝承の物語の根元は、あなたとわたしが出会ってしまったことから始まったのです。

わたしが宇宙感覚というとき、そこには生命が最初に誕生してきたプロセスと、身体が意識を発生させてきたプロセスの、それ以前とその後についての空想領域があります。生命の起源についての空想は、未知の世界への旅立ちとしてとらえます。未知の世界へ入っていくと知覚する、そのときに生じてくる、深いところの疼きのような怖れる気分は、いったいなんなのでしょうか。


(2)

雪の季節にはまだ日々がありました。森の小鳥や昆虫たちは、来たりくる幻冬にむけて、準備をしています。生命に凍える日々が到来することを、どのようにして感知するのでしょうか。1995年正月三日、森で写真していりを撮りました。森のなだらかな起伏の斜面の断層に、土の露出しているところがありました。

そこには苔と羊歯が生えていました。それまでの探索で、何度もそこを探求しながら通過していた一角でした。夏は木の茂りと群生する草で覆い隠されています。冬は雪に埋もれて、わたしたちの侵入を拒んでいました。雪が解ける春と雪が積もる冬の前、森にはいる小道では、春先の水辺に、ふきのとうやせりやぜんまいなどの山菜が採れました。冬の前には銀杏とか胡桃と栗とかが採れました。

わたしたちはその場所に、生の息吹を感じていました。その森の生誕の起源について、わたしたちは計り知れない時間が経過しているのだと思っていました。わたしたちのその場所の発見は、ひとの魂が生じるはるか以前のような気分になっていました。

さかのぼること10年前、わたしは死の過程とその後の世界の写真を撮りました。それは地獄絵の複写でした。わたしにとって最後の撮影は夏の盆に行いました。いま、そのときの光景が想起されてくるとともに、最後の決意をした前後の感情を思い出しています。それからの10年間はわたしを封印することでした。もう写真機は持たないでおこうと決意しての夏の盆でした。

森のそばでの日々が始まっていったなかで、わたしの再生、つまり生の霊気がよみがえる記念碑、は密かにその断層の斜面の光景から始めようと思いだしたのです。その間、10年間は一切の撮影行為を断りました。全てを記憶の海に埋没させてきたのです。

その光景<森の斜面に生える苔と羊歯>に遭遇したとき、光景はわたしの生命を死からよみがえらせてくれるものとして、知覚したのです。わたしの再生の場所として、そこを選択することになんの躊躇もありませんでした。むしろこの場所は、わたしに畏怖を感じさせてくれたのでした。

生命の起源についての問いかけは、わたしの生における変遷を代表するかのようにふるまっていました。そのうちに、情動のままに生きることに、身体と感性をまかせてみようとの思いが生じてきました。それはわたしの喪失と不在が訪れた数年後にやってきたのです。

いつごろから嫌悪感が漂いはじめていたのでしょうか。制度として組み編まれてきた生活の原理。その原理は、労働力として体制を維持するものとしてありました。父権制原理と分析される社会の構造に、色濃く染め上げられたなかに生息するわたしは、感性の部分において全く交差しない嫌悪の日々にありました。

1994年1月17日、わたしは残された生の時間を、もうひとつの価値のなかで営む決心をしました。その前に記述されていたわたしの思いを「写真への手紙・覚書」というタイトルでまとめて、手許においていました。写真における記録の解体と、新たなるイメージ過程説の創生へ、と向けられていた写真論は、わたしの未来に向けた概論そのものとなりました。

そこは、わたしの死を引き受けていく作業場でした。写真の本質を探っていくことは、基本的にわたし自身の未来における死を告げたようでした。いつの頃からか、時代の宙吊り感覚に遭遇していたわたしは、その場所において、わたし自身の喪失と不在を確認していたようでした。その結果として、生の在処としての写真のあり様を、模索しだしていたのです。

二十世紀が始まったばかりの頃の写真家ステーグリッツがオキーフに向けたまなざしを根拠にして、わたしは人と人との関係のあり様の根底を模索していました。写真は愛の形である、として認定されたわたしのイメージは、その後も変容を繰り返しながら、いまに至っています。わたしは、いま、その風景の細部を探求していく探検家になったような気分なのです。

わたし再生の最初は、生命のよみがえりがテーマとなりました。わたしにおいて、生命が誕生するイメージの最初は、苔と羊歯でした。このよみがえりの光景が撮られた1995年は、わたしにとっての神話を創りはじめた記念すべき日々となりました。その前後に構想されていたのは<スイートルーム>と名づけられていました。それらはわたしの極私的時間における恍惚感に満たされた光景でした。

しかし一方で、時代の宙吊り感覚は去りませんでした。喪失と不在がもたらしてきた結果として、わたしの生は枯渇しつつありました。そうした日々の結果としてのあの日の出来事は、わたしに一条の希望の光を与えてもらったようなのでした。ことの成り行きは偶然のなかで起こりました。初対面のひとが共にする時間の共有でした。神への開示。巫女の降誕。わたしの幻覚は、魂を揺り動かせました。それは生の時間のなかから、必然的に生じてきたようでした。

それからの時間経過のなかで、わたしの魂は、ことあるごとに深く反応していくのでした。物語は、あのとき、すでに始まっていたのだと思います。あの日以降のわたしの時間は、全く別の領域の時間と交差しながら編み上げられてきたようにも思います。わたしは、それらの日々に想起されてきた時空を<神話的物語>として、認知しはじめていたのです。

わたしたちの神話的物語の領域は、時間、空間、身体感覚といったすべての領域において創造されていくようです。わたしは目覚めようとしているのかも知れません。その領域は人類が、科学の名において編み上げてきたさまざまな原理を超えていく予感がしています。その外側のむこうに、おぼろげながら信仰と呼ばれてきた領域を超えるなにかに属する、そのことを超えた感覚を、得ていくことへと近づいていくようなのです。

わたしは仄かな明かりが見えてきています。何処からか、ほら、見てごらんよ、あれを・・・・と開示されたかなたに見えているもの、新たな<神話>創造のかたちのイメージ、その過程を、あなたとともにある日々のために、物語を与えていこうと思うのです。


(3)

雪の季節にはまだ日々がありました。小鳥や昆虫たちは、来たる冬にむけて準備をしています。生命の凍える日々が到来することを、どのようにして感知するのでしょうか。

風のなかに立っていると、黄ばんだ木の葉が舞い落ちてきます。わたしは風に吹かれる皮膚が快く共振しているのを、感じています。生とは何か、という問題を解いていくわたしの魂は、振り子のように振れています。これまで、わたしの経験として培われてきたことごとくの価値、と呼ばれるものが溶解しはじめているようなのです。

わたしの身体内部にあって、共振する魂は、身体と切り離すことができないものであろうと思われます。自然現象のなかに、わたしの感性を委ねていくことは、わたしの生命現象を確認していく手段となるものだとの想いがあるのです。わたしが自然現象と共にあるなかで、わたしが体験するさまざまな事柄についての興味です。そして、わたしの体験と想念を書き連ねていくことは、あなたとわたしが織り成す物語の発端となるようなのです。

わたしたちがいま生きていることの意味を問う物語として、それらは書き連ねられていくのでしょう。しかしそれらの物語は、多くの真であると同時に、虚をはらんでいるとの前提にたっています。真と虚を前提としたわたしの物語は、わたしの身体の奥底の、目に見えないところから発生してくるイメージ総体の、断片であるようなのです。

かってわたしは、イメージ過程説という概念を想い描いたことがありました。わたしとあなたが共有の磁場を発生させることができるとしたら、その磁場における磁力は、どこまで交感し重なりあうか、という命題でした。わたしが描いていくイメージの断片である言葉を、あなたにつなげること。あたかも一枚のマテリアルとしての写真のように、目を閉じてまぶたに浮かぶ記憶のイメージを、まるで写真のように見えるその見えかたで、重ねあえることができるかどうかの試みとして、でした。

かって人類が経験してきた神話発生の場は、どのようなものだったのだろうと、想像します。いまのわたしの内面にある風景は、わたしの幼年体験のなかから導き出されてくるようです。わたしの風景の発見は、、わたしの内面の発見につながっているようです。これらを発見していくことは、新しい領域(神話)を創生する場の起源となるべく質を孕んでいるだろうと思われます。

これから起こると想定される、わたしにとっての理解不能の現象は「おどろき」の感情を誘発してくることでしょう。そのこと自体を空想すること。幻覚を呼び込むこと。その幻覚の像を、語りはじめることで、わたしたちのシンボルの体系が、培われていくのではないでしょうか。<神話的物語>は、そうした磁場の形成により磁場がはたらきはじめるのでしょう。

自然現象とわたしが対話していくなかで、わたしの感性を編んだものが神話として、記憶される体系へ、と変換されるのでしょうか。いま、わたしは、自然現象のなかのわたしとして生成されてきたのが、文化(知識)に参入していくことで、自然とわたしの交感を得ます。ゆっくりと時間がながれています。その時間という概念を解体する試みを、行わなければならないのです。その試みを行うことそれ自体をもって、あたらしい共同体の形へと、移行させていかなければならないのでしょう。わたしの神話の編成過程と、わたしの情動の発生過程の、根元を見つめます。


(4)メモ

記憶。

垂直軸と水平軸。
垂直軸は、国家、文明、文化・・・・。
水平軸は、遺物の拡散・・・・。
第三の記憶は<想起される歴史>、第三の記憶は声による伝承。

わたくし個人の記憶。

1、垂直関係。幼年から現在までの歴史軸と共有して、記憶位の光景が位置付けられる。時代背景とともに・・・・。

2、身体関係性の中での性的背景もよる変容の記憶を中心として、性的成長の背景として、幼年から現在、そしてトランスパーソナル・・・・。

3、感情の記憶、想起の記憶、風土の記憶、モラル。

4、わたくしの裏面史、思想史はいつも反権力。わたくし独自の思想展開をこころみる。18歳のころから自分の思想を創ろうと思った。革命戦士として、そしてタブーへの自分史、反モラルを培う土壌として、土民として庶民として、世界の構図と人間のとらえ方として、庶民史、底辺から・・・・、わたくしの底辺意識・・・・。

「死」を引き受ける寫眞の本質を探る物語。

・自分の未来における死が告げられている。
・圧縮されている時間を読み取ることによって、世界の構造に気が付いた。
・寫眞が人間に与えた記憶と感情の関係を鮮やかに伝える。
・<哀悼>の感情、・・・・不在を見る経験である。
・瞑想、伝説、回想。
・物が光によって物自身の姿を永遠に残すという不思議。



(5)

わたしは森のなかに棲んでいる精霊です。ひそかに思いをよせる<恋人>は、わたしと同じ森のなかに棲んでいる<花>精霊です。花精霊はわたしの生命の源となっています。わたしの情動<性の欲求>は、森の草木の美しさと生命力をつかさどる花精霊を通して、いつもわたしの世界に棲んでいる魂へ導いてくれています。

わたしたち精霊の交わりは、いつも太陽に導かれては、わたしたちを内なる自然の根源に、結びつけてくれています。わたしのこの魂を大切にすれば激しく欲望し、そして苦悩するこころを鎮めることができるかも知れません。

わたしが精霊として生きている場所には、、草や木や花という<物質>として存在するものと、物質でないが存在するものとがあります。この存在の第一の相は、実在といわれるもので、眼や望遠鏡や顕微鏡で確認できる物質および物質の集合体です。たとえば光の粒子、原子、遺伝子といったミクロなものから天体の星、星雲といったマクロなものまで、科学の領域が拡大させてきた結果として、知覚される物質の存在があります。

存在の第二は、そうではないが存在するものです。たとえば、記憶としてわたしの内部から想起されてくるイメージとして、存在するものがあります。その存在を知覚するとき、いつもいっしょに感情と呼ばれるものが、湧き出してきます。その感情を突き動かしている情動というようなものです。

ここでわたしは<存在>ということの意味を、拡大していることに遭遇しています。これまで<存在と不在>、あるいは<存在と存在しないもの>という分類で仕切られてきた枠を超えて、わたしは不在や存在しないとされているものをも、<存在>の範疇に含めることにしているようなのです。

これは精霊と呼ばれるわたしそのものが、存在していることをもさしています。わたしはいま概念というものが溶解し消滅していく姿を見ています。この消滅により衝動的に湧き起ってきた情動そのものが存在としてすがたを見せはじめるのでした。情動に注視するわたしのなかの、磁場の力に強弱は、すでに消滅していました。磁力は交じりあい解けあっていました。わたしの感覚は、花精霊のあなたと同化してしまっていました。