ご案内です
HOME
むくむくアーカイブス

物語&評論ページ

書簡002

収穫・共同生活体

神話的物語-1-

神話的物語-2-

宇宙と身体感覚論-1-

宇宙と身体感覚論-2-

絵画・音楽・19世紀末

ハンス・ベルメール論

カオスと秩序

記憶・メモリアム

生きることの希望について

これからの生き方の模索

ミクロとマクロ




むくむくアーカイブス

最新更新日 2013.9.30
中川繁夫の書簡集 2001~
中川繁夫:著


中川繁夫の書簡集

    

書簡002 shigeo nakagawa 2001.10.16~

宇宙と身体感覚論-2-

(6)

天体の起源や生命の起源については、近代から現代の科学諸分野で解明が行なわれてきていて、それなりにぼくを説得させてくれるものだと思っています。それらの知識を、書物や映像で得ると同時に、ある感情をともなって、ぼくの内に記憶されていきます。この記憶の、ぼくの内にある総量において、別の知識が訪れたとき、ぼくはその知識に対して、新たな認識と感情を記憶します。ぼくは記憶を呼び覚まされ、記憶と出会います。そして新たな記憶として、記憶されます。

これは概念であって、こういった図式について興味をもっていない、というのは嘘になります。このような生命についての知識への興味は、むしろぼくの生きることに等しいくらいに重要なことだと思っています。ところで、いくらこれらの論とイメージを膨らませていっても、感情の交差が起こっても、なおかつ解明できないところのぼくの内部、つまり感性の源泉のこと、欲求の源泉のこと、これらについて興味が尽きないのです。ぼくとしては、なにを論拠に組み上げていけばようのか、と途方に暮れてしまうのです。これが2001年現在のぼくが立っている場所です。

かってぼくは、生命のイメージを描いたことがありました。ぼくという生命体の誕生を中心としての展開です。そのイメージは、あたかも曼荼羅のように、ぼくのイメージは際限なくシームレスに拡がっていくのでした。

生命の誕生の前には生命の素があって、その生命の素の内から、部分として偶然にぼくが生成される、というものです。別の生命の素の部分からは、別の生命が生成され、これが無数に繰り返されるのです。この生命の素を形成するものは、宇宙の元素の集合なのです。宇宙の生誕から140億年の、時間と空間の集積があっての、今、なのです。

生命体の誕生は、そのこと自体、自然現象だとぼくは認めます。ぼくを含むほかの生命の全ても、それ自体、自然です。地球や太陽や惑星、天体を構成するあらゆる物資と同様に、物質が組成された状態までを、自然の領域だとぼくは認知します。こうして自然現象としてのぼくの基本的条件は、ある空間を通り抜けることによって、自然変化を生じさせながら、生命としての活動を始め、ついには停止してしまうことになります。停止は解体、つまり死の現象です。

その後には解体された身体は元素に還元されて拡散していきます。生成から解体までの進行を、時間という概念で秩序化すれば、変化し続ける宇宙の、ある時期にぼくがいて消滅していくということになります。たえず変化を繰り返しながら、生命が生成されて消滅していくという、イメージです。

生命としてぼくが誕生するとき、ぼくの身体のなかに種としての記憶が保存されているそうです。この種としての記憶は、身体の内臓の諸活動だけではなく、聴覚、視覚、味覚、臭覚、触覚という感覚の中枢を原形としてもって誕生してきます。しかし誕生直後においては、感覚はまだ未発達であり、その後の時間経過によって形成されてくるようです。これは脳の生成変化により、しだいに感覚認知が、自分の中で行われるのではないかと思うんです。

こういった領域は学術的に研究されているので、ぼく自身は一般的興味レベルでしか知識は必要としませんが、むしろ興味の対象は、このように生成してくる過程における外部環境との接触で、外部環境と個体との関係のつくりかたについてです。あるいは感覚の受容に個人差がある、ということにです。これは脳機能の特性なのかも知れませんが、立体把握力やイメージ化力には、個人差があるということです。それはいびつに拡がる能力態の立体地図であると思います。

その後の成長過程において、外環境と関係をもつことで、人格というものが形成されてくるのだとしても、そこには個体としての特性が表出されるのではないでしょうか。個体はすでにある環境に順応していくことになりますが、この順応の仕方は均一ではなくて、ばらつきがあるように考えられます。ある尺度により計測された領域が、共同の幻想体の許容範囲に収まるかどうかは、その時々の幻想の領域と質によって変容するのです。

個体がするイメージ化の能力は、おおむねこの順応の形に対しての拒否を示すようにも思います。拒否するそのとき、人はどのようにして、このことを解決していくのでしょうか。ぼくの記憶と他者の記憶の融合ということは、あるのでしょうか。あるいは特定のものに感じてしまう能力特性といったものが、あるのでしょうか。

ぼくという個体の内部に存在する意識と無意識、そうして生成される感情についての考察をおこなおうと思います。その中心になるのは、視覚における記憶の呼び覚ましであり、聴覚における記憶の呼び覚まし、そのことです。

ぼくの場合を考えてみます。視覚における場面は、目からのイメージとしての認識と、そのときそこに発生する感覚と感情です。また耳からの聴覚における場面は、音楽曲における受容感覚と感情です。

視覚における場面は、絵画や写真についての考察です。特に個別の作品についての考察で、ぼくが感じるものの質について、解明していくことであろうと思います。聴覚においては音楽の楽曲のなかで特にぼく自身が興味をもって考察したい楽曲があるので、それらについて、個別に観察していきたいと思うのです。



(7)

視覚におけるイメージ認識と情動に感じる心の発生について。ハンス・ベルメールの人形の写真を偶然に見たのは1988年ころだったと思います。シュールリアリズムがブームとしてよみがえってきていたのかも知れません。人形の写真、それは女性体の部分としての脚、股間、関節といった部分、また胴体といった部分、虚ろで泣きだしそうな虐待された天使の表情をもった顔の部分、このようなオブジェ化された女性体でした。および一連の実写の写真群がありました。

次に手に入れたのは、線描画集でした。それら一連の作品、女性体の交錯するイメージは、ぼくの感性を深く噛んできました。なぜぼくがそのイメージに深く傾斜していくのでしょうか。そのことがわからないままに、今に至っています。たぶんベルメールの生い立ちや、彼が発表した地域と時代の背景を考察したところで、、明確な答えは返ってこないようにも思います。

ではいったい何に、直感として感じさせるものがあったのでしょうか。かなり確証的にいえることは、性的欲情の抑圧にたいするリアクションとして、ぼくの内面をとらえた、といえるのではないかと思っています。そしていま、この欲情の抑圧といったものとしてぼくが認知するとき、ぼくは身体と感性との生成の関係に及ばなくては解決しないように思えるのです。

ぼくはこれらの認識の過程において、ぼく自身がとらえる領域についての範囲を知る必要がありました。ここには開かれた身体と感性の関係は存在しませんでした。現実の社会生活における日々の怠惰からやってくる閉ざされた出口付近に、ベルメールの写真として感じる感じ方があったようです。

その場所はカオスの縁としてあるのでしょうか。その一歩先の領域は、混沌とした感性の崩壊する場所、といったイメージです。感性の崩壊は、そのまま身体の解放につながり、そうして自我と肉体が重なることそのものです。おそらくその場所は、そのことによってエクスタシー状態に入ることの入り口領域なのでしょう。

ぼくの身体へのこだわりは自虐的です。崩壊感覚とでもいえばいいのかも知れません。ナルシストとの裏返しの衝動だと思いますが、それはぼくの青春の頃からの傾向といえばいいかもしれません。身体を持つことの重さ、身体を維持することの嫌悪感、身体の消滅を欲した日々の苦悶・・・・。そういった記憶の光景から導き出される言葉は、美しい光景を夢見ると同時に、暗い深部の欲望を虐めることで、解消しようとしていたのではないでしょうか。

異常と正常の境界があるとすれば、ぼくは異常の領域に棲んでいたのだと思います。小学校上級の頃のぼくの最大の恐怖は、ぼくの心に写しだされたイメージが、映しだされるテレビが発明されることでした。その頃のぼくの異常な領域とは、女体を想像することと自慰することのふたつであったように思います。イメージとぼくの身体が交差する場所として、それはあったようなのです。

聴覚における感情の生成について。ここではベートーベンのピアノソナタ第29番をとりあげてみます。ぼくがこだわるのは、ハンマグラービアと名付けられたこのソナタの、特に第三楽章です。確かにピアノの音に対しての、ぼくの感覚の反応は、通常を超えていたのかも知れません。その音色への執着とでもいえばいいのでしょうか。小学生の頃からピアノの音色と弦を打つ音には、特別の執着があったように思えます。

みづから稼いだ労働の対価としての賃金は、ベートーベンピアノソナタ全集を購入のための資金に使ってしまったから、おそらく魅了されていたのだと思います。しかしベートーベンのピアノ曲を聴きだすのは、そののち10年ほど経ってからでした。すでに30才をこえていたと思います。ここで取り上げる第29番の第三楽章に、何かしら不思議な感触を得るのは、30代の後半になっていました。

何が不思議かといえば、聴くたびにぼくの中に生成されてくる感情が違うということに気づいたことでした。それよりもなによりも、このピアノの音の連なりを聴いていて、感じることは、感性が崩壊していく感覚と救済される感覚が入り乱れることでした。不思議な楽章です。終わりそうで終わらない、怠惰で退屈でイライラさせられるかと思えば、徹底的にセンチメンタルを誘発します。

奈落にある精神が、よりおおきな見上げる存在にひざまずく、あるいは祈る、といった感覚を誘発するのです。これはぼくだけが感じとる感じ方なのかも知れないと思いますが、音楽を超えた音の連なりのようにも思えます。この音の空間は、きっと秩序を逸脱していく場所なのでしょう。

音はカオスの闇からやってくるようなのです。人間の知覚の根元の縁から生じてくる音のようにも思えるのです。この先はきっと人間の意識を超えた領域であるのでしょう。音とぼくという身体の、交差する場所がそこにはあるようなのです。

二つの個体が引力に引かれるように交差する、ということはありうることだと思います。ここでの考察は、二つの個体が交差するその根底の、共有するものがあるとすれば、それは何か、ということなのです。それはある作品を介して交差することでしょうか。あるいは作品が存在しないときは、その作品に変わりうる「なにか」と交差することでしょうか。


(8)

人と人が交差するという感覚は存在する。無限・無量の彼方から無意識・混沌の領域を通過してなお、無意識と可意識領域へやってきた波が、身体の営みによって意識のうえに昇ってきます。身体のレベルから見渡すと、はるか向こうに意識のうえの縁がおぼろげながらに感じられるようです。そこは浮遊した領域のようにも感じられます。身体は、誕生してから様々な学習により記憶の層に刻まれてきます。種としての進化の過程で刻まれた記憶の層に、あらたな記憶が重ねられるというイメージです。

記憶は記憶としてあるのではなく浮遊しているようです。外からのインパクトにより記憶の層で反応するなにかが、、ぼくにイメージを、あるいは言葉を、紡ぎださせるてくるのでした。無限・無量のなかに漂う身体と感性が、<ある場所>の記憶を交差させることによる出会いを、体験します。<ある場所>とは、それぞれ固有の領域が共有しあう場所のことです。感じ方が共有される場所です。

身体の境界をこえて感性が交感する場所です。この場所は個体が主体となる発想からは断絶としかみえないようですが、イメージ発生の磁場を融合させていくことから、その場所は生み出すことができると思えます。記憶についての考察は、イメージ発生論の原点です。人間には認識の手段として、イメージと感情の領域しかないのではないか、との仮説をぼくは持っています。

言葉はより高次のコミュニケーションを行うために取得される文化の形態ですから。言葉以前の場所での交感は、イメージの交感でしょう。共有する領域を感じあうことは、言葉の以前にある感情です。ぼくのイメージの中に、他者を取り込むことは、自然のレベルでの作用です。自己を開示することを可能にするのは、基本的信頼の関係を認知する作業からはじまるのではないかと思われます。

心を自然の中に開くことと同じレベルで人の中に開くこと。このことの価値そのものを感じること、無限・無量の未だ形とならない無意識領域から、感情をともないながらイメージ化の作用に昇華させていくことなのです。この作用は、心の開きかたの方法であると思われます。

ぼくが光を受け入れる受け入れ方、音を受け入れる受け入れ方、といった受け入れ方に伴なって湧き起る感性の感じ方といったもの。これらと同様に視覚と感性の感じ方の特性というもの。たとえば色彩の感じ方、たとえば形象の見え方といったもの。触覚と感性の感じ方の特性といったもの。たとえば風にふれる頬の感触、清流にふれる足首の感触といったもの。味覚と感性の感じ方といったもの、ハーブの匂いと感性の揺らぎの特性といったもの、などなどそれぞれが個別にもっている受容の仕方といった感覚の広げ方に、それは由来するものなのでしょう。

イメージの発生は感情を伴なうものです。自然の造作物にこころを開いて受容することと、目の前にいる人にこころを開いて受容することは、同じ関係の構図であると認知します。そこから見えるこころの領域があるでしょう。この領域が交感の領域であると思います。みつめあう心の領域は、感情を伴ないます。この感情は恍惚感覚の最初の源泉となるように思われます。イメージの中の自分を意識化することは、カオスの縁に立っていることを自覚することであるでしょう。記憶の中の自分の姿を、意識に登場させることで、身体に感じる不思議なエネルギーが発生してくるように感じられます。

自分の意識を超えていくような感覚が、そこにはあるように感じます。解脱状態といわれたり、忘我状態といわれる状態が、その場に発生しています。磁場はイメージを湧き立たせてくるでしょう。磁場を湧き立たせるイメージは、たとえばベルメールの人形が、恍惚感とも寂寞感ともしれない表情を、見せるその領域であると思われます。意識は煌々と光り輝く状態となっていきます。変性意識と呼ばれる領域に踏み込んでいくと感じられます。

目を開けると光がいっぱいです。知覚の領域は露出過多の写真のように、真っ白です。あたかも臨死の体験を得ているようなエクスタシー状態が、そこに訪れているのでしょう。イメージ発生論の究極は、その状態に入りこむことなのでしょう。見つめあい触れあうことで受ける至高の領域です。ベルメールの人形を支える感覚であり、ピアノソナタ29番が連れていってくれる究極の場所が、そこに生成するのだと思われるのです。