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最新更新日 2013.7.7
中川繁夫の書簡集 2001~
中川繁夫:著


中川繁夫の書簡集

    

書簡002 shigeo nakagawa 2001.10.16~

宇宙と身体感覚論-1-

(1)

その兆候がいつのころから私のこころに生じはじめていたのでしょうか、確かな記憶は辿れないのですが、私の言説に<さすらい放浪してきた写真の本質はつまるところ生の本質である>という部分があるんです。たしかに私自がの記した文章であったことを、いま、思い起こしています。写真とは何かという設問を立てて、それに答えようとして以来、ついに2001年10月16日のいまに至ってるのです。

たしかに私は、私の感性を快い気分にさせてくれる写真を、選択してきたと思います。しかしいま、私の写真についての基本認識として、写真ではない写真とでも定義すればよいのでしょうか、その記憶の光景も含めて<写真>として扱う必要に迫られているようなのです。そうしてそこから連鎖的に立ち現われてくるイメージを、大切にしようとしているのです。

私は、いま新たな設問を示していこうと思っています。なぜ私にとって、いま<宇宙と身体感覚>という言葉が頭の中に立ち昇ってきたのでしょうか。そのことについて、現実に生きて呼吸していることと、私のいる場所を確定していくこと。これらの作業は、私になたがこれから何処へ漂流していくのかも定かでない彼方への旅立に際してのイメージ生成作業としてあるようでした。

私たちの目の前にあって知覚できる光景と、私たちの内面世界において知覚できる光景とがあると思うんです。そして現実感覚を喪失してしまったような感覚にとらわれてしまうこと。なお自分が何処にいるのか判らなくなってしまう感覚の在処を探し出すことでした。その裏返しとしての浮遊する自分の不思議な体験を記述していくことで、その場所を明確にしていくこと。その作業をとおして解放を目論むこと、とでもいえばよいのかも知れません。

私たちがこれから旅する道筋は、様々なイメージの生成と感情の交感を感じるようなところへ、入っていくのでしょうか。その場所は、怖くて、恐ろしくて、激しい場所。しかし、簡単で、単純で、純粋で、気持ちいいところです。さあ、いっしょに行きましょう。


(2)

私の心が写し撮った一枚の写真があります。この写真は、かって、あった、ものとして私のなかに存在しています。現物のマテリアルとしての写真はありません。しかし私の記憶の光景として、明確にその写真は存在しています。そして、2001年10月14日の今日、私は、そのときにこそかけがえのない1枚の写真に出会ってしまったのだと断定しています。

それは2000年4月4日の午後に起こった出来事についての、私の記憶に鮮明に焼き付けられた<一枚の記憶>のイメージについてです。私の心の中にしまい込まれた一枚のポートレート。このポートレート一枚が記憶の淵から呼び起こされてくるとき、私は記憶の像とともに、深い怖れの感情にも似た疼きが、いっしょにやってくるのを知覚します。この怖れの感情は、まだ訪れてはいない、私のイメージ体系への針の刺し方、あるいは磁場・波紋の描き方について、広げていく深さについての疼きなのかも知れません。

そのポートレートは、ある図書館の中での出来事でした。閲覧テーブルの向こうに座っていて、私を見つめているひと、の記憶の像のことです。その背後にはアウトフォーカスで図書館の書架があります。そのひとは私のほうを、じっと、放心したように見ていました、という記憶が鮮明によみがえってくるのです。物語は、私の心に刻まれた記憶の写真によって始まりました。写真は記憶であるという定理に従って、私は、記憶の写真帖をひもときはじめます。

私にとって、その出逢いは偶発的に起こりました。そのころから永遠の旅を意識していた私。旅に出てしまった私の行く先に、「死」を引き受ける本質を、探ることを始めた道筋での必然として、出会ってしまったのでした。

手元に、ハッブル望遠鏡が見た宇宙、というカラー版の新書本があります。そこに数々の宇宙写真とともに、深宇宙と呼ばれている空間を10日間の露出をかけて撮られた写真があります。140億年かなたの宇宙<赤い点、滲む点、斑点、の集合体>を撮った写真です。宇宙の構造と人体構造が類似しています。秩序とカオスが入り乱れ、可視領域と不可視領域が入り乱れているといったイメージです。


(3)

私はいったい何ものなのかという問いかけが、少年のころからいままで、私が想起するイメージのなかの主流となっていて、ここまで来てしまったように思えます。私がこれまでの生きた痕跡を辿っていくとき、その闇のような空間に漂う風景は、記憶の回廊を歩いていく感触のなかに、写真のような風景としてあるように思えるのです。

私が少年だった日々、夢想空想したなかの宇宙空間には、何があったのだろうかと、今、あらためて思い起こしはじめています。あれらから半世紀以上も生きてしまった私の現在においてさえ、色褪せずに宇宙の風景画像が、そうして感情が、ふっと立ち現われては消えていきます。

この半世紀の時間のなかで、宇宙空間とよばれる天体の構造や、それらを構成している物質の構成といったものが、しだいに明らかになってきています。宇宙生成の原理とでもいえるビッグバーン仮説や生命の起源にせまる論は、私の感情を魅了してしまいます。このように宇宙の輪郭が、かなり鮮明になってきたことに、私は驚異と畏怖の気持ちをもって、迎え入れているのでした。としても、私の本当の関心は、そのことではなくて・・・・、と思ってしまいます。

最近、宇宙とはいったい何なのか、という答えとして、私が思い起こすイメージが、私自身のなかに漂着してくるイメージと同時に、私の魂の深淵、あるいは感情の源泉についてのイメージが、漂着してくるのでした。それは、空の、海の、大地の、苔とか、草とか、樹木とか、ゆれながら、ながれいくイメージが、です。

少年だったころからの半世紀間、その時々にも、それらについて、知識を得たりイメージを膨らませたりいてきたのだと思います。しかし現在の私が感じるような仕方で感情が生成されてくるのは、今の状態においてです。そうして記憶のよみがえりである私の内部に湧いてくる風景が、かって見たものが、その時に伴なった感情をも同時に、誘発してくる再現であることでした。


(4)

いま私は、私の「生の物語」が終わりのない旅であるとは思いません。とすれば、終わりの来るのが何時なのか、との問いがいつの頃からか、はじまってしまったのです。この問いは感情を伴なっていまう。悲しい部類に属する感情のようです。

旅路の果ての「生の終わり」は、身体感覚が消滅するときです。そしてその時から新たな魂の生が始まる、のでしょうか。宇宙の時間は有限です。生成からすでに140億年が経過した、と科学成果は論じています。そうかも知れないなぁ、と思います。そうでないかも知れないとも思います。その二つの端の間で、私の言葉は揺れ動いています。

言葉は、断定と否定と、その中間しか表現の手段を持たないとしても、私はここで言葉遊びをやろうとしているのではありません。その間に揺れ動いているときに湧き昇ってくる感情、感性のレベルに傾斜していくのです。

私のこのような感情の回路を発信する術は、いまのところ言葉をとおしてしかないようです。しかし何よりも私は、数のかぞえ方や年月や時間の区切り方についての本質的な疑問を抱いてしまっているのでした。

なぜそのように数えたり区切ったりするのだろうか、という存在の本質にもかかわると思われる境界についての揺らぎが、私自身の内部に起こっています。これは今はじめて経験する感情ではないようなのです。少年の頃から、多少の違いは認められるけれど、同様の揺らぎが、私のまわりを満たした日々であるのです。

私のこの感性とイメージの向かい方は、どうみても文化という文脈それ自体を、解体していく方向のようだと感じています。危険領域へ入っていこうとしているのだ、と感じています。文化それ自体に立脚して文化を解体するという矛盾は、自己矛盾でも
あります。

多くの内在的批評が矛盾そのものを隠匿したまま隠蔽されること、それ自体を容認したうえで私はこの論を編んでいこうとしているような気がしています。このことは、私の宇宙への観照へとつなげていくための、方法そのものとなるようだと、直観しているようなのです。

もう始めてしまった記憶の回路を紡ぎながらイメージする宇宙について、私は、言説により記述していくことになるのですが、すでにイメージの総体は、言説化できないものとして、捉えています。私は混沌としています。


(5)

宇宙は神でしょうか。天体の姿は望遠鏡の発達でその姿が見えるようになってきました。天体の奥行きは140億光年といわれています。その深い宇宙の姿が、画像としてとらえられています。まだ見ぬ深部が解明されていきますが、ぼくにとっては神秘です。しかしこの膨大な空間を宇宙といったとき、ぼくのイメージのなかで、まだ生成しない物質の原形が「存在」しているのではないか、といった物質的なことではなくて、生命が生成する源としての宇宙のことです。

そうして人間の感情を生み出す構造について想起したとき、驚異におののく感情が生じてくるのです。生命が組成されてきた個体の不思議といったものが、ぼくの内部を不定の極みに連れて行くように感じられるのです。

ぼくは人間として、見ることができる領域と、聴くことがことができる領域にいます。この領域は宇宙という全体からみて、どのレベル、あるいは部分なのだろうかと思うのです。あるいは感じる領域としては風、光、触覚などを想定しますが、これらはぼくにとって、いったい何なんでしょうか。素朴な疑問なのかも知れません。しかしはたしてぼくはこの問いについて、明確な答えを導き出すことができるのだろうかと、思うのです。

様々な科学分野で、これらの解明が行なわれつつあります。しかしぼくが解明していきたいのは、医学的、化学的、天文学的、物理学的、数学的に解明するといったことではなくて、その生成の不思議さに対して、心がおののくそのおののきの質といったものであるような気がするのです。

宇宙とは、ぼくが認知する可視領域および視覚領域の総体を、超えたものとしての認識です。この領域をぼくは秩序領域と名づけます。そこは、明確な形で存在するというイメージではないんですが、まだぼくの感性が、安定的に受け入れられる領域とは、いえないかも知れません。

その先に、不可視領域が、どうも存在するように思われます。しかしすでにこの不可視領域においても人間の、イメージの産物として、秩序立てているものがあります。神話、宗教といった領域とでもいえるでしょうか。そしてなおその外側にあるものについて、なにがあるのだろうかとイメージを膨らませていくのです。

なにがあるのでしょうか。このときに<ある>という領域は、あるいは<ない>ということ、究極の無、ということと同質のものなのかも知れません。ぼくはこの領域を、混沌またはカオスの領域と考えています。こうして思考をめぐらせていくことは、すでに知の領域を構成するので、まだ混沌の領域ではありません。