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最新更新日 2014.11.3
釜ヶ崎物語 1979~
中川繁夫:著


季刊釜ヶ崎に掲載


    

釜ヶ崎物語-04-

浜本雅さんの個人史-1-

(1)

 浜本さんと、初めて出会ったのがいつだったか、はっきりした記憶はありませんが、去年の春頃ではなかったかと思います。病弱そうに見え、細い体で知的にも見える風采でした。浜本さんは、開店前の釜食堂のテーブルにひじをついておられた。

 今だって、いつも見えてくれるあの笑顔で、ちょっと喋りにくそうな口調で、話しかけてくれるのでした。

 それから暫く、浜本さんと会えない日々が続きました。ふっと、入院している、という話を耳にし、そうして、お見舞いに行きたいな、と思いながら、病院の名前も症状も知りませんでした。

 じつは今年の初めまで、浜本さんの入院生活は続いていたのです。だけど、炊き出しの世話はされているし、食堂の手伝いもされているし、で、もう退院されているものとばかり思っていたのです。

 去年五月、「釜ヶ崎結核患者の会」が結成され、その行政闘争の一環として、ドヤ居住者に生活保護を適用し、居宅保護を行なえ、という目標のために、みずから、ねばり強く福祉事務所とかけあって、その適用第一号となられたのが、浜本さんでした。

 いつも、あのやさしそうな笑顔で話しかけてくれる浜本さん。細い体の浜本さん。まるで観音さまにでも見られているような気持ちにさせてしまう浜本さん。カメラの前に笑ってくれました。

(2)

 浜本雅さんは、昭和五年生まれ、愛媛県の出身です。お父さんは日立造船所の工員、お母さんは子供の世話や家事に明け暮れていました。浜本さんは六人兄弟の長男でした。不況から戦争へ、という時代でしたし、家庭も経済的には貧しいほうでした。

 小学校六年を終え、十三才の時、高等一年で中退しました。もうこの時は戦争の最中、天皇様様のご時世で、朝礼の時、校長先生が立って話をする場所には、コンクリートで固めた天皇様の写真があり、毎朝、手を合わさせられました。十三才でしたが、戦争に行けないことがくやしくてなりませんでした。この気持ちは敗戦直後でさえ変わらず、自分がなぜ外地へ行って戦えなかったのか、と考えると、ほんとうにくやしさがこみあげてきました。

 その頃のことで一番よく思い出すのは、空襲にあったことです。青空の中、飛行機が編隊を組んでやってくるのを、味方のだとばかり思って、ひとつふたつと数えていたのです。百くらいまで数えられたかな、そうしたら突然、高射砲を撃ちだしたものだからびっくりして、あわててパンツ一枚で逃げ出してしまいました。

 また、自分の立っていたところから二十メートル位のところに爆弾が落ち、爆風で飛ばされ尻もちをついてしまったのです。こんな恐い目にあっていても、自分は戦いに行きたいと思っていました。

 敗戦までのこの二年ばかり、出生地の工作所で働いていました。圧延工といって鉄を延棒にする作業でした。そこでは五十人程が作業をしていました。自分は新米でしたから、つらいことばかりでした。足がだるくなって腰を下そうとすると、先輩から焼けた鉄の棒でおどかされる。恐いものだから後ろに引き下がる。そこで転がしてあった棒につまづいてひっくり返り、後頭部をいやというほど打ってしまいました。こうして十五才の時、日本は敗戦を迎えました。

(3)

 もう工作所では働けませんし、自分で職を探そうにも仕事がありません。遊んでいるわけにもいかないので、父の紹介で船に乗ることになりました。西日本汽船という会社で、ここに、この会社が倒産するまでの五年間程勤めました。最初はメシ炊きでしたが、やがて機関員となり、航海中の機械の調子を見守るのが仕事となりました。この頃は、よく遊びました。女遊びもやりましたよ。この遊んだということが、いま記憶に残っています。

 会社が倒産してからは、個人経営の小さな船に乗りました。給料は、前の会社より少なかったのですが、積荷を横流ししたりすることもありましたから、けっこうやっていけました。それから五年程たって、もう船乗りはやめようと思い、横浜で船を下りたのです。丁度、前の会社も含めて十年程、船に乗っていたことになります。この時はもう二十五才でした。

 夏の暑い時でした。横浜で船を下りた直後のことです。船員手帳、移動証明、現金と、所持品いっさいを落としてしまったのです。背広の内ポケットに入れておいた書類全部を、暑さで脱ぎ、腕にかけた時、逆さになって落ちてしまったのです。

 こんなことで横浜から静岡までは、なんとか所持金で帰ってきたのでしたが、そこからは食うや食わずで、京都に着いた頃はもう体力を消耗しつくしてふらふらでした。結局、大阪にたどり着くまで十五日間もかかってしまいました。

 その時は大阪で働き、金を貯めて郷里の愛媛へ帰ろうと思っていました。昭和三十年頃でした。こうして大阪で暫く働くことに決め、港区で港湾関係の仕事をしはじめました。日雇労働でした。昭和四十年頃、一度だけですが会社に勤めました。病院の掃除を請け負ている会社で、池田市立病院というのが、勤務先でした。

 こうしたなかで、体の調子がおかしいのに気付き、日雇健保を持っていましたから、ある病院で診てもらったところ、結核だと言われました。働いてはいけないと医師に言われ、勤務していた池田市立病院に入院しました。約半年程入院し、その後一年二ヶ月間、此花区にある施設にはいりました。おかげで、この時点では完全に結核はなおっていました。

(4)

 会社は、施設にはいった時にやめることになっていましたので、再び港区内に住み、日雇労働に就きました。
 こうして昭和四十五年頃まで、港区に住んでいたのですが、この頃、日雇労働者のたまり場が、港区から築港の方に移ってしまいました。そんなこともあって、西成へやってきたのでした。

 港区の境川にいた時、全自労の委員長と友達になり、自分も組合員として活動しました。三年程やっていましたが、友達が委員長をやめることになって、自分も組合を脱退しました。

 西成へ来てから十年がたちました。この間、街の様子は変わってしまいました。けれども人々の意識は、昔とちっとも変ってないな、と思います。
 炊き出しが始まったばかりの頃、もう四、五年前になりますが、自分も炊き出しの列に並びました。そうして今は、炊き出しを手伝うようになりました。

 こうして釜ヶ崎で、活動にすんなり入ってこれたのは、全自労での経験があったからだと思います。実際に自分が活動しはじめたのは、去年五月の「釜ヶ崎結核患者の会」結成に参加したのがきっかけでした。

 少年の頃、あんなにも戦争に行きたいと思い、天皇はエライ人だと思っていた自分でしたが、あの戦争責任が天皇制にあったのだと考えるようになり、理論的にも認識するようになったのは、やはり、全自労活動での経験のなかだと思っています。
(1980・8)