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最新更新日 2014.12.10
釜ヶ崎物語 1979~
中川繁夫:著


季刊釜ヶ崎に掲載


    

釜ヶ崎物語-06-


1981.6.4の記録-1-

炊き出しの現場にて

 1981年6月4日。仕事の保障と生活保護の適用を求めるデモ行進と、あいりん労働公共職業安定所及び大阪市更生相談所に対する要求書を提出する要求行動があった。
 朝九時、炊き出し。雑炊を積んだリヤカーが、西成警察署裏の公園に到着する。すでに公園には、この炊き出しを待ち並ぶ労働者の列が長く続いていた。その数二百人以上。例年であればこの時期は、炊き出しに並ぶ人の数は数十人程度ということであるが、今年の、この数はケタ外れに多いという。

 仕事がない。これが今年の春の釜ヶ崎の状況である。現場で労働者の声をきく。
「夜中の二時ごろに起きて仕事を探しに行っても、求人そのものがないのだから、どうしようもない。」
「センターで待っていても求人車が来ない。仕事はない。求人は周辺の路上で行われている。求人数が少なくてセンターまで来れないのだよ。」
 労働者は困惑した顔つきでこの春からの仕事不足の現状を語る。
「求人があっても顔づけばかりで、並んでいてもダメだと断られる。もう十日も仕事に行っていないのです。」
 仕事のない原因が何かはわからない。だが、あるべきはずの仕事が、今年はない。労働者は、仕方なく炊き出しに並んでいるのだろう。

 センターを通した求人数と、炊き出しを受ける労働者の数とが逆比例している分析結果を、釜ヶ崎炊き出しの会の資料から見せてもらった。そこから連日二百人以上の人達が炊き出しを受けている現状は、いかに仕事の求人が少なく、各々の労働者がいかにせっぱ詰まっているかが、この炊き出しの現状を見ているだけでも想像がつくのである。

この六月四日の行動に先立つ五月二五日、釜ヶ崎地域合同労組は大阪府・市に対して、次の五項目の要求を行っている。
1、釜ヶ崎の日雇労働者の雇用安定のための特別公共事業をおこすこと。
2、公共事業に関する請負業者が釜ヶ崎日雇労働者を雇用し、使用する場合は、必ずあいりん職安を通じて求人するよう行政指導すること。
3、あいりん公共職業安定所は、職業紹介業務を実施すること。
4、釜ヶ崎の日雇労働者を公共事業に優先雇用すること。
5、生活困窮者には生活保護を適用すること。
 (釜合労組合ニュース第六号から抜粋)

 この五項目について府労働部・市民生局と交渉の席が持たれたのであった。こうした府および市に対する要求を背景として、六月四日の、釜ヶ崎地域でのデモとあいりん職安、市更相への要求提出ということになるのだ。


あいりん職安にて

 九時半、炊き出しを終えてデモ行進に移った。参加人数二百数十人。釜ヶ崎の、これまでに行われたどのデモよりも、はるかに多くの人達がこのデモに参加した。ぼくは記録者として幾度か、当地のデモ風景を取材しているが、この日の隊列、そして盛りあがりは、目をみはるものがあった。参加する労働者はみな真剣そのものであり、この仕事がない現状をなんとかして切り抜けようとする結束が、結果となって現れているのだろう。

 デモ隊は西成警察署裏の公園から釜ヶ崎銀座通りへ出て、そこからセンターまでのコースであった。十時少し前、センターに着く。そこで流れ解散となったが、この後の、あいりん職安への要求書提出に立ち会うため、ほぼ全員が職安前まで来て、そこに座り込むかっこうとなった。

 要求書提出のための事前打ち合わせで、職安の中へ入る。時間は十時を少し過ぎたところだ。手渡す要求書の内容説明のための時間を三十分程度とってほしいと、労働者側からの申し入れだ。職安側は、これに対して、十一時の失業手当支給のための準備があり、十五分しか認められないというのであった。押し問答していても時間が経過するばかりであり、職安側の時間制約を受け入れることとして、四人の代表が要求書を手渡したのであった。

 ぼくはこの要求書提出の模様について取材を申し入れたのであったが、職安側の、内部ではいっさいの取材はさせない、ということであるため、成り行きを見守る人達と共に、職安側のフロアーで待つことになった。この要求書内容説明の要旨は、職業紹介業務を実施せよ、ということであると聞いたが、この件については職安側から、実施する方向で対処したい、という意向が示されたという。

 そもそもこの職安が、職業紹介業務を行わないというのは、設置当時の暫定処置としてであった。その間は福祉センターが肩代わりしているにすぎなく、もとより放棄しているのではないのである。だから労働者側から職業紹介業務の実施を申し入れられて、拒否回答が出せるはずもなく、実施の方向へとの見解がなされて当然なのである。こうして意向が示された以上、早急に正規運用に向けて取り組んでほしいと願うものである。こうして、六月四日、午前中の行動は終わった。


市更相にて

 昼の炊き出しは午後一時から行われた。相変らずの人数である。人の行列である。曇り空から太陽が出て、大分むし暑くなった。じっとり汗ばんで来る。炊き出しを頼りにしている労働者は、厚さで体力を消耗している。これから梅雨期になってますます仕事が少なくなることが予測され、さあ仕事が出てきた、といったとき、このままでは体力がついていかないのではないか、と危惧される。

 一方、炊き出しを行っている「釜ヶ崎炊き出しの会」の財政も、連日多数の人達に十分なことが、このままではできなくなってしまうのではないか。ここにこうして炊き出しを受けている人達は、もちろん夜になれば泊まるところもなく、青カンせざるをえないのだ。だから、炊き出しを受けざるをえない現状に置かれた人達に、生活保護の適用を求めるべく市立更生相談所へ行った。みんなで相談してみようというのである。これまでの経緯から見て、この地域の相談窓口である市更相で、個別に相談をしに行っても、保護の適用を受けることが少ないとの判断により、要求書を提出することになっていた。生活保護の適用を、仕事がないこの現状にかんがみて、強力に行なうよう要望するものであった。

 炊き出しの後、市立更生相談所の玄関まで行く。釜ヶ崎地域合同労働組合執行部が先に入り、職員と二三言話しをする。要求書を持っているので受理していただきたい、という話だ。市更相職員は、とりあえず相談に来た人達を中に入れろということで、労働者は一団となって玄関から二階へ上がっていった。そして最後に、組合執行部が続こうとすると、職員から、その場でストップをかけられたのである。要求書提出にあたって、説明のための席を設けてほしい、という申し入れに対して、市更相側は、玄関のこの場所で要求書だけを受け取る、というのだった。

 つまり労働者の個別相談には応じるが、そのことについての話を聞くことはできない、ということである。組合側としてはやむなく、いったん二階へ上がった労働者を呼び戻し、全員玄関前路上に出て待機するかっこうで、要求書の受理と説明のための席を設けるよう折衝するのだったが、市更相側とは平行線のまま、時間だけが経過していくのだった。

 市更相は、個別の面談はするが、要求のための席は設けられない、という主張である。今までの経緯から判断して、要求を背景としたうえでの個別の面接に委ねないと、結局は大部分が生活保護の適用(施設収容)を受けられないだろう、というのが組合の見解である。この両者の主張のくいちがいが、午後二時から代表による要求書提出の前段階での折衝が長びく原因となった。路上に座り込んだままの労働者。何度も席を設けるよう申し入れるのだったが、儲けられないと言う職員。結局、午後五時前、全員が個別の面接を受けないまま、もの別れに終わったのだった。
(1981・6)