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最新更新日 2015.3.16
釜ヶ崎物語 1979~
中川繁夫:著


季刊釜ヶ崎に掲載


    

釜ヶ崎物語-09-

1981年8月22日の記録
中山千夏さん釜ヶ崎へ来る-1-

 いま釜ヶ崎は、どのような現状にあるのか。労働をめぐろ現状。この春先から前例がない程に仕事がなかった。世間では結構景気がいいというのになぜなのだろう。手配師がはいかいし、ピンハネが公然と行われている。職業安定所があるにもかかわらず、こうした違法行為が公然と行われているのは、釜ヶ崎だからといって許されてよい筈はない。これは異常なことではないか。あるいは治安の問題。釜ヶ崎地域内の要所に取り付けられた監視用のテレビカメラは何を意味しているのか。路上に警察のこれが設置されているのは、人権無視もはなはだしい。釜ヶ崎だからといって許されていい筈がない。あるいは福祉の問題。増加している結核をどうしてくい止めていくのか。病弱で働けなくなった人が、炊き出しに頼らなくても生きていける施策が、どうして実施できないのか。

 こういった釜ヶ崎地域をとりまく劣悪な環境の実態を少しでも明るみに出していくことによって、改善のためのひとつの方法として、中山千夏さんの釜ヶ崎訪問は意味を持つのだ。釜ヶ崎地域に集約的に現れているこれらの問題点を把握するために、8月22日、中山千夏さんは釜ヶ崎を訪れたのであった。

 この日、国会議員中山千夏さんと革新自由連合代表矢崎泰久さんは、あいりん公共職業安定所を視察する。これは、人夫出しや手配師と呼ばれる人たちが存在するのは「職安が職業紹介業務をやらないからだ」という告発の声に対しての国政調査であった。またその午後には「生きぬくための大集会」が地元の小学校講堂にて開催され、千人を越える労働者の集会は盛況を呼んだ。以下、順を追ってレポートしていこうと思う。

 1981年8月22日(土)、空は曇り、時折にわか雨が降る。午前11時過ぎ、一台のタクシーが「釜ヶ崎労働者生活協同組合」前に到着した。先程まで降っていた雨が止んだ。タクシーからは中山千夏さん(参議院議員)矢崎泰久さん(革新自由連合代表)ら一行三人と案内役の稲垣浩氏が降り立った。本日の釜ヶ崎訪問については事前に報道関係各社にも情報が入っているので、各社取材陣班が釜ヶ崎解放会館に来ているのであった。二人の釜生協訪問は、報道陣にはないしょの突然の訪問という形をとっているのだ。釜ヶ崎の雰囲気に少しなれてもらおうということなのであった。

   

 中山さんと矢崎氏は、タクシーから降りたその足で釜生協の店内にへ入った。ところ狭しと並べられた労働者の生活用品の棚を見ながら、矢継ぎ早に質問する。普段の釜ヶ崎と何ら変わらない静けさだ。中山さんらに気付く労働者もいないようだった。が、めざとく中山さんを見つけた近くの主婦が色紙にサインをしてもらってうれしそうであった。約十分程の短い時間だったが、釜生協での話しを終え、再びタクシーに乗り込み、解放会館へと向かった。

 11時到着の予定が若干遅れている。釜ヶ崎解放会館前では待ち構えていた報道関係者、労働者が一行を迎えた。釜ヶ崎解放会館前では、ちょうど昼の炊き出しが終わって、食器類の後片付けをやっているところだ。毎日欠かすことなく、雨の日も風の日も続けられてきた炊き出しの現場をこそ、見る時間には間に合わなかったが、こうして世話をした後始末の現場に立ち合って、中山さんは
「大変ですねえ。」
と、世話方の苦労に声をかけるのだった。

 ドヤ(簡易宿泊所)を訪問する。一フロアーを上下二段に区切られた部屋。部屋とはいっても一畳弱の広さ。部屋の中では天井に頭がつかえて立つこともできない。居合わせた労働者に、中山さんは質問する。
「値段は?」
「狭いですねえ」
ドヤという名称は知っていたが、入って見るのは初めてという中山さん。労働者の生活空間としてのドヤの実態を見て何を思われたのだろう。

 時間の制約もあり、足早に釜ヶ崎の中をかけぬける。地域内の道路上に取り付けられている警察のテレビカメラを見て、指差しながら
「人権無視もはなはだしいですね。」
と語る。正午、大阪社会医療センターを訪問、本田良寛先生から、釜ヶ崎の医療の実態について聞くのだった。結核、酒害、労働者をとりまいている環境は最悪だ。一医療機関、地方行政レベルではカバーしきれない程に、事態は深刻なのである。国政レベルでの取り組みが、今こそ必要とされているのではないか。

 あいりん公共職業安定所へ。中山千夏さんの国会議員としての仕事でもある視察である。「相対方式」と呼ばれている、仕事の募集形態の実態。この中で人夫出し業者や手配師と呼ばれている違法な就労あっせん業者の存在。そこから起こってくるピンハネといった問題、などの点について職安側の見解を聞くのであった。職安側からは、実際に肌で感じるのとはかなり違った見解が示されていた。

 相対方式そのものは違法ではない。しかし実態は、それを隠れみのとして手配師の介在やピンハネ、賃金不払いの問題が起こっているのに、一部にはそういうことがあるかも知れないが、といったように、形式だけを見て内容を見ない答弁であった。こうして職安側のごまかしや、責任のがれの回答をするかぎりにおいて、中山さんも釜ヶ崎の就労機構の実態把握について、納得されたとは言い難いのではないか。

   

 午後1時から予定されている「生きぬくための大集会」対話講演のために「狭間組」≒中山千夏さん矢崎泰久氏は萩ノ茶屋小学校講堂へ。予定時刻より遅れているというので、会場では集まった労働者たちが待ちに待っているとの伝言が入る。対話講演を聴こうとして待ちわびる労働者の熱気でいっぱいだというのである。校門前にはすでに待ちわびた労働者でいっぱいだ。その中へ中山千夏さん矢崎泰久氏が入っていく。

 会場へ入る早々、握手を求めに労働者が中山さんを囲む。中山さんは気軽に応じる。集まった労働者は千人を越えるのだろうか。釜ヶ崎始まって以来の大集会である。単に有名人を迎える、といった熱気ではない。ここに集まった労働者一人ひとりが、自分たちの生活の場である釜ヶ崎の現状を考え、これを機会になんとか改善の活路を見い出そうとして、集まってきたのである。

 やがて中山千夏、矢崎泰久氏の対話講演が始まる。ふたりの政治対談である。国会の内輪話し、政治の現状、それに対する中山さんの考え方。様々な話題を対話形式の中で、わかりやすく解説していく。対話が終わって、労働者たちとの質疑応答が始まった。労働者から質問があびせられる。
「政治の話しはわかった。だけどわしらの仕事がない問題はどうなるんや。」
「釜ヶ崎が、どんな状態か、わしらがどんな状態に置かれているのか、知らんやろ。」
決してきれい事の質問ではない。

   

 労働者は、この生活実態、この仕事の少なさを訴える。
「今まで、誰一人として国会議員が来てくれたことはなかった。千夏さん、よう来てくれはった。」
涙ながらに話す労働者。
「私は、今日、初めて釜ヶ崎へ来たんです。だから本当の事を言って、釜ヶ崎のことが解ったなんてエエカッコして言えない。しかし、釜ヶ崎のことを解ろうとするきっかけになりました。」
中山さんは言葉をかざらない。体当たりの労働者からの疑問、質問に中山さんは体当たり全身で答えている。

 労働者は、中山千夏さんが釜ヶ崎を訪問したことによって、明日にでも釜ヶ崎の現状が変わるように質問する。それだけ中山さんに対する期待が大きいことの証であるが、それを受けて中山さんは言う。
「今の私の力には限りあります。すぐに改善することは不可能です。みんなと力を合わせればできることがあるかも知れない。

 労働者の反応。労働者は何を期待しているのだろう。熱烈な歓迎は、単にテレビや新聞で知っている人が近くにやってくる、というだけの興味からだけでは決してない。釜ヶ崎の本当の姿を知っているのか。千夏さんは釜ヶ崎をどう考えているのか。できれば千夏さんの力で、自分たちの置かれている現状をなんとか改善してほしい、と願っているのだろう。このことは対談講演が終わったあとの質問の中に、労働者の生の声がぶっつけられたことでも明らかであろう。

   

 会場のあちこちからヤジが飛ばされるのも、否定の意味ではなく、労働者の率直な意見として、この現状を何とかしてほしい、と思うけれどうまく言葉にして発言できない、という半ばイラ立ちの気持ちからのことである。
「千夏さん、聞いてくれ。」
と、マイクを握ったまま時に絶句し、とつとつと語る労働者は、わしらもかんばるから千夏さんは国会でがんばってくれ!という意思表示であっただろう。

 また、労働の実態や福祉の実態を語る言葉には、身をもって体験してきた生の声として、これだけは聞いておいてほしい、といった気持ちのストレートな表現であっただろう。労働者は真剣なのである。今年は春先からほとんどと言ってよいほど、仕事がなかった。なぜ仕事がないのだ、という疑問。そんな中ででも生活をやっていかなければならない現実。労働者は、その気持ちの少しでも知ってほしいという願いを込めているのではなかったか。
 (季刊釜ヶ崎/写真レポート-7-、1982.2.1)