ご案内です
HOME
むくむくアーカイブス

物語&評論ページ




大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-1-

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-2-

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-3-

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-4-

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-5-

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-6-

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-7-

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-8-



むくむくアーカイブス

最新更新日 2013.5.21

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ 1978.9~
中川繁夫:著


     

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-1-


-1-

1978年9月2日(晴れ薄曇り)土曜日午後
京橋から片町線で放出(はなてん)駅前
天王寺、山王町、飛田へ、鶴橋駅前
フィルム、TriX6本、ASA400,ノーフィルター、ノーファインダー。
レンズ、28㎜、55㎜。

大阪とは何か?、何故、今、ぼくは大阪なのか?。当面の課題としてぼくが交感を示す大阪とは、僕にとって何なのだろうか、と自問してみる。

辺境志向。最初、ぼくは、サルトルの嘔吐を読んで、都市と人間の問題を考えようとした。写真の方法としては、いわゆるリアリズムではなく、むしろ観念的と云うか諦念的というか、関西風の一枚、一枚が単独で鑑賞できるだろう現実離れした都市風景を造り出そうと試みたわけだ。

だが、一足、大阪梅田界隈へ足をふみ入れてみて数か月、何のまとまりもないまま、右往左往するばかりであった。しばらくの後、5月ごろから、大阪の南、天王寺から飛田、あいりん地区、と足を向けたが、ほとんどシャッターを押す以前に、カメラをとりだすことすらできなかった。これは怖いもの見たさの興味で、大阪へ行って、南の天王寺からあいりん地区の独特のふんいきに、恐れをなしていたからに他ならなかった。

そして今、再再度、天王寺からあいりん地区を重点的に、写真を撮りこんでいこうと思うところであるが、ここで、ではいったい、何のために、ぼくは、大阪なのか、また大阪の場末なのか、ということを自問し、答えなければならないのだろうと考える。

この夏、ぼくは、ひとつの写真論を試みた。私風景論である。この中でぼくは、写真以前の写真論として、写真とは何か、と問う前に、芸術ないしはその作品の、作者と作品に表される内容との関わりあい。そして鑑賞者と作品との関係から、作者、すなわちクリエイティブなものと鑑賞者すなわち「大衆」との関わりあいを見ようとした。

その中で、ぼくの主題となるのは、作家と、その内面の表出されたところの、作品、との相関関係を見たかったのであった。そして、今、真に重要なことは何か、どういう見方があるのか、そしてあるべきか、表現とは何か、と考えたのであるが、私風景論と題するかぎり、私が中心となるこの社会の現象を、私がとらえるのだが、私という社会化された部分が、私性を通じて、どこまで社会化できるかということであった。

自然主義文学は、後になって、ゆがめられて、私小説の系譜となったけれど、今、写真界は、まさにこの状態に置かれているという基本認識に立って、ありうべき姿の自然を見つめることを、見直さなければならない時が来ていると思う。

問題は、私の問題であるが、しかし、この私は、私個人の見方であってはいけない。そこには多数の共感者を供しなければならないのであって、また、政治性との関わりなしに、自己と自己をとりまく状況を語らずにはいられない。政治性とは単に政治に対する運動ではない。社会化された自己を見つめて、そこに、自己と自己をとりまく社会を形成している基本的な問題を、見つめようとしているのだ。

我々はどこから来たのか。少なくとも私の精神は、どこから来たのか、という問題を政治性抜きには考えられないと思うのだが、自己の葛藤とは、常に外に開かれて考えられなければならないのだ。高橋和巳が云うように、日本古来からある花鳥風月を、なおいっそう深めていくことにももちろん、価値あろうけれど、なお、いま重要なことは、大衆を動かし、規定化している政治性に、目を向けられなければならない、というこのなのである。


-2-

1978年9月9日(曇)
環状線新今宮下車、萩ノ茶屋、天下茶屋方面
フィルム トライX6本、ノーファインダー。
レンズ、24㎜。

ドキュメンタリーは可能か?
大阪、萩ノ茶屋、釜ヶ崎、今、あいりん地区と呼ばれる。そのあたり一帯は、都市の下層を支えるエネルギーがある。プロレタリアートはしょせんプロレタリアート。ぼくたちは今、ちょっと幸福の中にいて、そしてものを所有することによって、中間階級とふつう呼んでいるが、実際を考えてみるとよい。ものに取り囲まれ、ものを人より少しばかり多く所有したからといって、基本的には何をも持たない者と、そんなに多くは変わらない。

学生だった頃-もう10年も前になるか-68年、69年、70年と、学園闘争を経験したぼくらの世代が、闘争そのものが、自己告発であったと同時に、政治的でもあった。官憲との対峙、そして集団と集団の争い、そして解放を叫んで、何を解放しようとしたのだったか。今、あれから10年を経て、ぼくはそれらの問題意識を、写真を写すことによって、解決していかなければならない時がきている。

そこから出発すればよいのだ。何をも持たなかったけれど、政治との関わりの中で生きるとはどういうことだったのか、と・・・・。大阪の南部を特殊地帯と見ることは間違っている。そこに都市を支えている生活がある。政治運動の時は終わって、今、ぼくは自己との関わりの中で、日本とは何か、都市とは何か、人間とは何か、生とは何か、と問わねばならない。

ドキュメンタリーとは、その内に告発という契機を含んでいる。自己に則して、自己の美意識から写真を作る作り方というものをおおむね否定し、写真は写真なのだという証明は、自己と事物との関わりあいの内部だと思うが、自己とその情況を政治性抜きには考えられない。ともすれば忘れがちな政治性の姿を、ぼくは、ぼくの内部のものとして、少なくとも告発という視点を失うことなく、記録をとり続けなければならない。

写真が単に、自己を満足させるだけのものであってはならない。写真はなお、時代情況を告発しなければならない。ただ、その視点をどこに置くかが問題なのではないか。

ぼくが大阪にこだわるのは、もちろん、地理的な条件から見て、大阪という都市が行動可能範囲にあるからである。そして、なぜ、下町か?というと、群衆の、定住地をもたない都市生活者の、つまりルンペンプロレタリアートの、政治的矛盾を知るからである。そしてなお、告発的視点によって写していく。だが写真家は、固定の意味づけをしてはならないのだろう。意味をつけるのは他者だ。自己はそれらの写真を、提出するだけでよい。

なお、ドキュメンタリーは可能だ。自己を中心とする私生活のドキュメンタリーではなく、政治的矛盾の中のドキュメンタリーも、なお可能だ。リアリティーあるドキュメントを創るために。


-3-

1978年9月22日(金)
大阪駅より内回り環状線にて新今宮下車、
新世界にて撮影そして萩ノ茶屋へ、
萩ノ茶屋南公園で12時、休けい後山王、旭を経て天王寺へ

今回は午前中からの撮影であった。始めてのことだ。山王三丁目、飛田界隈でひとりの男に会った。年の頃30過ぎくらい。真昼間から酒の匂いがしていた。「写真を写してくれや」という申し出に「OK」を出して写そうとする。「すぐに出来るやつだな」という「そいつはできない、後日になる」と二言三言、そしてぼくは手を差しのべた。握手を求めたのである。彼は一瞬とまどったようだったが、手を出してくれた。

「また、会えるかね」とぼく
「こんなささくれたところだ、もう二度と会えないよ」と男
「写真の顔を覚えているから、もし会えば声をかけるよ」
何というべきか、彼は目に涙をためて、「兄さん」「兄さん」と何度もつぶやいた。
一瞬の友だち、場外のぼくに、涙を見せた彼。ぼくはこの地区の労働者のささくれた感性のなかに、人生のわびしさときわみを全て感じてなお、この世界にいる人間の集まりであることを知った。

また「あいりん公共職業安定所」前で、後方から「シュツ、シュツ、シュツ」と息をはくような声で、呼びとめる者がいた。後方をふりむくと、労働者だった。ナッパを着ていたから、まともな労働者だろう。
「今日は」とぼくは声をかける。男も少しばかり手をげた。そして寄せ場の方へと這入っていった。
小学生一年の男の子二人、ひとなつっこい少年たち、住所を聞いた。写真を送ってもらうのを楽しみにしている様子。送ってやらねば。
今日は本当、勤務の後でなく、撮影の日という実感で撮影できた。

昨日、土門拳「筑豊の子どもたち」、「アンリ・カルチェ・ブレッソン写真集」を買った。今日、あいりんの公園で休息しながら、何故今、ぼくはあいりん地区のこの公園にいるのかを思う。ブレッソンの写真に対する見解の、ひとつひとつを思い起こしながら、今、1978年9月22日ー事実とその事実に向かっている自分ーについて考えた。
まだ若い男と別れて、まだ10分と過ぎていない時だった。ちょうど12時前後だった。

その事実の向こうに、自己の思想が見えたか?。ただーもう失うべきなにも持たないー彼らを見ることによって、人間として、ぼくは、ある告発を、自らに発しなければならないと思う。帰途ー今、あなたは幸せですかーとマイクで問いかける声を聞きながら、幸せとか不幸とかではない、と思い、では一体何だ、と問わねばならなかった。つまりそれが現実だ。事実だ。事実だけがそこに存在する。それを意味づけるのは自分の、写真以外の、全ての、知恵を結集させた価値観だと・・・・。ぼくの価値観を、ぼく自身でつくらねばならぬ。


-4-

1978年9月30日(土)
国鉄天王寺下車、山王1丁目、市立病院裏の密集地域を取材。
そののちあいりん地区へはいる。

労働福祉センター取材、2階へあがる。
夕方のセンターはひっそりとしたもの。
早朝は仕事につく労働者群であふれることだろう。
あいりん地区内をノーファインダーでスナップ。

人間とは何か、を考える。
労働者の群れ、まだ仕事を持つ者は救われる。
昼間から酒を飲む一群、何の気力もない一群。
夢とか希望とか、いっさいを拒絶された一群。
一体、何だ、人間の夢とは、希望とは。

ぼくが夢を持ち希望を持つのは、幻想なのか。
あの労働者の一群の中にあって、
ただ生命を維持していくことすら出来えないような一群の中にいて、
一体、人間とは何だ!。
ぼくは人間の深淵を覗いているような気分だ。


-5-

1978年10月7日
新今宮下車、釜ヶ崎界隈と浪速区内戎本町2丁目あたりへ。
夕方6時前まで釜ヶ崎内にて取材ス。
福祉センター内で、一部200ミリ望遠を使用ス。
やはり街中のスナップはノーファインダーである。
大分慣れたとはいえ、まだ人の目が気になる。
もっと堂々とした態度で、ASA800~ASA3200、10本。

先日、小杉邦夫写真集ー釜ヶ崎、泰平の生と死ーを見る。今、ぼくが取り組んでいる釜ヶ崎を、内部から告発している。彼は5年間、釜ヶ崎の住人となって撮影を続けられたものでる。写真そのものは技術とか作品うんぬん以前に、記録であるという点で、とうていぼくの手に負える代物ではない。

それは内側から釜ヶ崎を撮られたという視点の違いによる。だが、それらの写真が、告発のための道具として在るような印象を受けたことに対して、写真は決して、告発とかいう政治的意図をもって、編集されるべきものではないと思う。

写真が現実を記録することによって、写真は存在するのだが、そしてもちろん、芸術概念では計れないところに存在するのだが、現実をそのまま提示することによって、作者は政治的効果とかを意図してはならぬと思う。もちろん、作家の内部には、非常に大きな問題意識があり、問題の提起も必要であろうが、それを政治的道具に使用するのは、本来的にあり様が異なると思う。

伊奈信男氏が死去された。


-6-

1978年10月7日
写真とは何か、そしてぼくが写す大阪とは何か。都市とは何か。昨日、光影会研究会で、ウイリアム・クライン氏の「東京」を見る。問題の提起は何もない。いや、クライン氏は表面だたにしない。そこにあるのは、ある時の「東京」であり、東京の記録であった。

また、田村修二氏の持参してくれた、東松照明氏の「太陽の鉛筆」を見る。やはりそこにも沖縄から東南アジアの日常が映し出されているだけにすぎない。1枚1枚が、告発的なものでなければ、映像的価値高いものでもない。東松氏の日常の視点から、一方で沖縄という政治的な頂点にあった現場を、日常の視点でとらえられている、ということに意味がある。

作家の視点はそれぞれに、作家固有の価値観で切り取られ、映し出されている筈だ。そこのところの視点、達氏がいう「記録」であり、そして私にとっての沖縄、つまり東松氏自身の、非常に個人的な関わりのなかでの沖縄があるのだろう。

しかし、政治的には中立ではないし、また政治的に無関心だったわけでもない。東松氏において、当時の沖縄の政治的状況には、多大なる関心事であった筈だのに、彼はそれをふまえてなお、内側から、平凡な、いたって平凡な風をよそおって、日常を写している。

ぼくはいま、大阪を写している。そして今、釜ヶ崎を中心に制作を進めている。そして、そして、なぜ今、大阪であり、釜ヶ崎なのかを考える。ぼくの過去の問題意識を、明確なものにしなければならない、と同時にその視点を据えて、ぼくは、大阪、釜ヶ崎の日常、すなわちぼくの日常を、淡々と語りたい。写真はそのための、ぼく自身の記録であれ。