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最新更新日 2013.9.30

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ 1978.9~
中川繁夫:著


     

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-3-


-13-

1978年11月19日(日)
あさ:30~9:00、三角公園の朝市風景を写す。
それから岡さんを訪ねる。
午後1時過ぎまで岡さんと同行。

写真の少女の家を訪ねたが不在であった。
少女たちを写す。
岡さんと喫茶店「山」で歓談し、そして花園町北1-2を歩く。

途中徳永老人(後で知った)へカメラを向けて、勝手に写ししたと、しかられる。
そしてフィルムを自分の手で感光させ、ボツにする。徳永氏のもっともな説に、ただあやまるしかない。
次回、もう一度話しあって、知りあいにならなければと思う。

岡氏の同行でいろいろな点がわかってくる。
いろいろと勉強しなければならない。
別れて後、大阪西局の松尾氏と心斎橋にて合う。


-14-

1978年12月2日(土)
3時過ぎ、岡さんを訪問す。そこで向かいの部屋の小学校2年生の少女を写す。三人兄弟だという。弟はまだ幼児とのこと。父親は今、足の骨折で部屋にいるという。その少女を2本撮り、あとはノーファインダーで2本。

岡さんは12月3日の小杉さんの結婚式の準備で、西成教会へ手伝いにいくという。ぼくもついて行こうかと迷ったが、夕方から高槻局の宮本氏のところへ行く約束であったため、現地で別れた。岡さんとは三度目の会合である。釜ヶ崎のなかに這入り、そして三ヶ月が経った今、岡さんと知りあうことによって、ぼくの撮影の方向が変わっていくのだと思う。

それまではセンターの労働者や三角公園の労働者を写す。写すといっても、それは表面的な労働者の顔でしかなかった。しかし今、岡さんと知りあうようになって、それから今後、岡さんを通じて、いろいろな人と接するようになるだろう。今後、よくいえば、釜ヶ崎の写真を写すうえで、内部的な視座から見えてくるものが写せるかも知れない、と思うのである。

ぼくは、今こそ、写真作家として、どうあるべきかを考えなければならないし、また、釜ヶ崎を写すとは、どういうことかを考えなければならない、と思う。と同時に、写真のみならず、それを含めて、この世界の考察を、言葉によっても書きしるすことも必要であろうか。

いずれにせよ、この冬の撮影の照準は、釜ヶ崎の冬を取材することになる。この点、岡さんにはたよりすぎとなるが、岡さんを通じて、取材の対象を選んでいくことになるだろう。

岡さんのスクラップブックに、最近、大阪ミナミの百貨店で2人の少年がスリをしてつかまった記事を読む。萩ノ茶屋2丁目の小学校6年生と4年生の2人組だ。岡さんの指導の対象となっているこどもらしいが、こづかい銭ほしさの犯行ということ。問題は何か。

そういえば岡さんと知りあって、何人かの子供の実態がわかってきた。名前を聞いたのだが、わすれてしまった。岡さんから子供たちの名前を聞き、そしてその経歴を記録しておかないといけない。こうして子供を写しはじめると、その被写体になった子供の背景となる生活環境を記録していくことによって、さらにそれらの写真群がリアリティをもつことになるのかも知れない、いや、もってくるだろう。


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1978年12月2日(土)
今、ぼくは、釜ヶ崎を写しだして、思うことに、ぼく自身としては、はじめての仕事であるような気持ちをもっている。写真をはじめる前に小説を書き、文章の勉強もした。たいしたことはなかったが、同人誌に発表する、ということもやった。そして写真を始めて4年足らず、写真をやろうとの気をもって2年半、その間、達栄作氏の指導もあって、写真とは何か、を教わってきた。そして今、第一番目の仕事として、釜ヶ崎を選んだということである。

思えば、こういったところでの仕事は10年前の学園紛争の体験から、小説のテーマの選択といった過程を経て、行きつくるべくところへ行きついたものと思う。常に考えていたわけではなかったにしろ、その主題となるべきものが、政治との関わりあいの中で、人間とは何か、と考えるほか、とらえようのないものではないだろか。学園紛争のあと、一方で連合赤軍やアラブへ行った赤軍、一方で深く自己を見つめようと、同人誌等へ参加していった者たち、いずれにせよ、あの政治的季節を生きてきた者にとって、それは逃れえることのできない、思考の原点ではないだろうか。

かならずしも、釜ヶ崎を選んだことは、偶然ではない。写真の被写体として選んでいくときに、釜ヶ崎へ行くべくして、たどりついたと、いえるだろう。だがしかし、写真家が決して運動家であってはいけないように、写真の目的が決して政治的に意図したものであってはいけない、という写真家の自覚のうえにたっての、写真でなければならないであろう。

写真が社会的に告発するべく武器であるとか、あるいは、そのことによって社会を変革しようとかの目的によって、写真は撮られるべきではない。写真は、単に、現実を記録していくだけでいい。ただ、全ての歴史的記述がそうであるように、写真もまた、人間の感性を通して、記録されるものであるから、そこには、その人間のパーソナリティーというべきか、この言葉は否定しよう、その人間の全人格が被写体を切りとるということであろうか。ブレッソン氏の言葉を借りれば、写真以前の、社会学的、心理学的視点をもって、物を見なければならないだろうし、そうして写されてきた一連のものは、作家の生きざまそのものであることを、銘記しておかねばならない。

この意味では、ぼくが釜ヶ崎へ這入っていく必然的な事柄は、つまり10年前の事件にさかのぼり、常に、そのことにこだわり続けながら、全く関係のないところで職業人として生活していた事実を突きぬけて明確になってくるのではないだろうか。郵便局員として、体制を擁護する立場にあって、なおかつ反体制的であった運動を思うとき、今ある立場が、非常に屈辱的なものであることは、自分自身、常に思うことであった。だからといって、この立場を捨てることもできない、という現実生活者の立場から、釜ヶ崎を見ることしかできないだろう。とするならば、むしろ記録者としては、傍観的立場で、仕事ができるかも知れない。

-16-

1978年12月9日(土)
3時過ぎ、岡さんの部屋を訪ねると小学生2年頃の女の子がさわいでいる。仲間にはいり写真を写す。フィルム8本、カメラのシャッターを押させながら、こちらも写す。なんとかかんとかで子供たちばかり8本となった。そのあと戸外で少し写す。

子供の問題と取り組んでおられる岡さんと知りあって、子供たちを写すのは、そして写せるのは、すべて岡さんのおかげである。岡さんと知りあうこととなって、釜ヶ崎における写真活動の第一歩がはじまったといってよい。夕方、ふるさとの家、を訪問し顔をつなぐ。次はクリスマスパーティーの取材だ。

子供会や、こうした子供のための公私施設の取材を、当分続けることになる。子供会行事等の公式な写真の記録者として、気がねなく写せることとなるよう、だが、それらは全て岡さんのおかげである。それと共に、今はまだ、釜ヶ崎の問題については何も知らないといってよい。だが、少しづつ知りあう人を通じて、諸々の問題を勉強していかなければならない。

釜ヶ崎の少女たち、と銘うてる程、前回も今回も被写体となったのは少女たちばかりだった。姉妹、友だちどうし、、そしてひとり、と。それらの少女たちは環境がそうであるのか、皆、口は悪いしガチャガチャしている。だが少女として、皆同じように見える、同じようにではなくて、同じなのだ、だがしかし集約的に問題児が多いのも事実だ。この子供たちが大きくなっていく過程はどんなんだろう、環境に負けず、すなわち、反社会的な存在とならずして、成長していってほしいと願おう。

写真が、今、有効なのは、今、少女たちの純粋さを記録して何年か後、一枚の写真によって自分の少女の頃のことを思い出して、出発できるような思い出を作ってやりたいと思う。一枚の写真が成せることなど、しれたことだが、この子供たちが何年か後、ふりかえれる材料になってほしい。

今、いちように純な少女たち、あるいは少年たち、これらの子供たちが、1978年12月9日に釜ヶ崎にて写された写真を、何年か後、ああこのような時があったのだ、なと、様々な立場から思い起こしてくれることを願って、ある時は希望とし、ある時はなぐさめとし、ある時は勇気づけられるような写真を写してやりたい。

そうなのだ、一枚の写真とは、写された人間にとって、何年か後になって、価値が生じてくるのだ。明日にはどんな境遇が待ち受けているか知れない少年や少女たちに、これからの写真の一群を捧げなければならないだろう。

-17-

1978年12月16日
三時半ごろ、岡氏を訪ねる。先週、彼の部屋で写した子供たちの写真を渡すためだ。部屋にはいったときはだれもいなかったが、集まってきた。写真を岡氏より、各人に配る。よろこんでいる様子の子、あまりよろこんでいない様子の子、ともあれ先週写して、持ってくることを約束したものだから、子供らも楽しみにしていたようであった。

先週、初めて会った子供らの印象とはちがった。口の悪さ、しつけのなさ、という点では、ぼくがどぎまぎするくらい。特に口の悪さについては、どうしようもない。そして移り気というか気分屋というか、とりあえず行動に落ち着きがない。自制するとか、人のことを考えるとか、全くない、とにかく自分の思うこと、やりたいことをやる。これらをしつけというならば、しつけが全くなっていないということであろう。

釜ヶ崎の環境は、子供たちにとって、劣悪であるといわねばならない。全く大人の世界を、そのまま知っているというべきだろうか。粗暴さといえば並みではない。例えば非行の問題、学校へ行かない、当然に、だからそれ相応の学力がつかないのではないか。この点については、今後、岡さんとの会話の中で、明らかになってくるかと思う。

新今宮小・中学校の生徒は12人だったと前に聞いたが、今、1人、釜ヶ崎から出て行った生徒があったとのこと。市立住宅に当選して脱出できたのだという。おそらく今池生活館に収容されていた家族であるだろう。

帰り、暗くなって、岡氏とコーヒーを飲む。30分少し話をしていただろうか。10年前の思い出にひたる。学生運動へのかかわりを問う。第四インター系の知り合いだったという。

-18-

1978年12月24日
’78年最後の撮影となる釜ヶ崎の今日は、午前中は金井愛明牧師の西成教会にて、日曜礼拝とクリスマスのささやかな昼食会、午後は2時から「ふるさとの家」にてクリスマスパーティー。

三角公園の周辺は、いま、越冬のための労働者があふれている。釜日労の斗争もはじまったということだ。こちらの方の取材を進めていきたいのだが、いまのところ関係が持てないので、事実上、撮影できないこととなっているし、また、今、あえてカメラを向けない。

まず西成教会の方だが、釜ヶ崎からは徒歩で15分くらい離れているせいか、釜ヶ崎とは全く雰囲気は違うが、この辺りは、在日韓国人の問題や、同和問題が多いところだという。金井牧師は、こういった差別問題と取り組んでおられると聞く。今日の礼拝にも、韓国人の方がほとんどだったようだ。ぼくの横に座っておられた初老のおばさんは、黒い礼服だった。お話はしなかったので、名前も何もわからないが、近所の路地に住んでいるといったこのおばさんの聖書は、ハングル文字のものであった。

また、韓さん親子四人、韓さんはまだ30半ばを少しこえたくらいだろうか。実は、二年前に密航してきて大阪に落ちついたところだそうです。在留許可が今のところ、毎月更新しなければならない身の上なので、一般の韓国籍のひとのように、年度更新に切り替える運動を、教会を通じてやっているとのこと。考えてみれば、毎月、更新しなければならないということは、身の上が非常に不安定だということではないか。そして子供は今やっと、学校に通いだしたという報告であった。

ふるさとの家では、子供たちを中心に撮影していったのだが、名前は知らないが、おばさんに子供といっしょに写してほしいと頼まれた。聞くところによると、施設にはいっている子供に、写真を送ってやりたいとのこと、ぼくは、いいよ、と引き受けた。岡さんの話では、少し話がちがうが、彼女と子供は、やはり、以前、密航者だったそうだ。子供がすこし知恵おくれなのか、岡さんがいうには自閉症、その件で養護へいくか一般へいくかで、相談にのったという。養護へいくということ、知恵おくれと認定されることは、将来において不安だからということである、という。

身体の大きい大声をあげる子、名前は知らない、自閉症の子だという。言っていることを聞いてみると色について、一生懸命、言っている。この地に、このような障害児が多いのは、どんな原因があるのだろうか、やはり幼児のころに閉じ込められた生活を送っている場合に起こるのだろうか。ぼくにはわからない。

今日、ふるさとの家では、すでになじみとなった子供たちが、何人かいたので、撮影はスムーズにいった。記念写真風のものも何枚かある。そして親子、姉妹、つまり身内同士の写真も何枚か写すことができた。場所の設定については、今のところ、やむをえないだろう。西成教会でフォークのギターを弾いていたのは、地域問題研究会のメンバーだった。

来年は、いよいよ西成、釜ヶ崎を精力的に写す体制を作るのだが、こうして一歩一歩、あゆみよって、知り合いをふやしていくことが、自己の生きざまとしての写真の第一歩ではあるまいか、と思う。ともあれ、今年は終わる。冬は労働者にとって、つらい、最悪の日々だ。ぼくは、ぼく自身の問題として、釜ヶ崎と取り組んでいくだろう。人間とは何か、生とは何か、生きるとは何か、ぼくは問い続けるだろう。