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最新更新日 2013.9.30

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ 1978.9~
中川繁夫:著


     

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-5-


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1979年1月13日(土)
釜日労事務所へ行く。前回の炊き出しの写真を持参。そこで小柳、福田氏と会う。組合の何人かとも会った。撮影は夜、7時過ぎからの炊き出しとデモ行進、それにセンター脇での青カン現場、と写す。夜の撮影は初めてのことである。希望の家を訪ねる。小柳さんより釜ヶ崎の現状を、医療を中心として聞く。彼はいう「行政は莫大な金を使っているが、結局は病院を肥やすだけにしかすぎない」と。

実際、どういう医療が行われているかという具体例をもって、労働者が再生できるようなものでなく、実際にはひとりの労働者に対して、何十万もの治療費を使ったといっても、現状では、決して労働者のためのものではない。あらゆる施策が、労働者を抜きにしたところで、資本の理論があらわになっている。また住民のための行政指導といっても、ドヤの主人や商店主のためのものであって、労働者のものではない。といったように、いつも労働者は忘れられている、という。

炊き出し風景。釜日労の越冬斗争として、1日3回、炊き出しをやっている。その日、その時、食にありつけない者なら誰でも食べることができる。そこに集まった人たちは、皆、それぞれに昨日があって明日がある。たまたま、その日のその時間、この炊き出しの世話になる訳だ。

12月25日から1月11日までの青カン延べ人数は4200人余りだという。18日間でこれだけだから、毎日平均200人強が寒空のもと青カンしている訳だ。釜日労という組織の実態は、実のところわからない、という。活動家という人たちが、かならずしも日雇労働者にあらずという感を受ける。あるいは大学生なのだろうか。いずれにせよ、若い人たちが多い。ヘルメットこそかぶらないが、もしかそういうセクトの雑居なのかと案ずる気もある。

センターにある職安は、就労のあっせんはやらない。ただ失業手当を支給する事務だけだという。労働福祉センターは、一応民間団体だが、就労さっせんはここがやっている。雇人は、ここを通すことによって、正規の就労募集となるが、もぐりが多い。そこで労災等の問題でややこしくなるケースが多い。もうひとつの職安が、萩ノ茶屋二丁目にあるが、ここはふつうの職安であって、失対事業等をやっているという。

就労の形態には3つのケースがあうという。
①毎朝寄せ場で応募する
②グループで請け負って仕事をする
③直接会社等へ通う
しかし作業内容はいずれも雑役等であったり、また重労働であったりして、かなりきつい労働である場合が多い、ゆえに、身障者、年寄りはみじめである。


-26-

1979年1月13日(土)-2-
今、釜ヶ崎では何が起こっているのか、ということが写真を通じて明らかになればよい。ぼくの見るもの聞くもの、釜ヶ崎へはいる前にはとうてい知りえることのなかった諸々の問題点が、見えてきたと言えばカッコよいが、実際、写真家は、その内の問題を把握できずして、写すことはできないだろう。正月以降、釜日労の越冬斗争の内容をおもに写していることになるのだが、これらのことも内にはいってくるまでは解らなかったこと。

青カンの現場で、ぼくがシャッターを切っていると、青カンやっていた30才前後の男が、近寄って言う。いわゆる浮浪者風、髪の毛はボウボウ、顔は真っ黒けというやつだ。暗くてよく見えないが、口の中だけピンク色、つまり肌の色を残している、その男が言った。

<昼間、すわってパンを食べていたら、カメラを持った男が近づいてきて、写真をとらせてくれという。いやだったけれど、いいよ、ってやけっぱちにいうと、二・三枚写したあと、コンクリートに敷いていた布を拡げて、そこに座れといった、そして500円やるから、もっと写させてくれといった、という。そこで500円なんていらねぇ、500円くらいで写させてやるもんか、あかんべえをしてやったり、唇であかんべえをしてやったり、そんなやつがいたよ>

ぼくは「そんな奴がいたのか、けしからん奴だな」といった。しかし、写真を写しているぼく自身、おそらくそういった写真も写すだろう、写したい、写したいと思ったとき、そうするかも知れないと思ったとき、その男に対して、うしろめたい気がしたものだ。自責の念とはこのことだ。ぼくはその男に握手を求めた。男は応じた。暗がりで手を見ることはできなかったが、大きくてザラザラした腕の手だった。

この男は、この夜、釜日労の炊き出しにすがり、そして布団にくるまって青カンする羊たちの群れのなかの一人である。炊き出しにすがる労働者は、様々なひとたちである。先にも書いたように、どうしようもなく、一回だけあずかる人がいるだろう。また、炊き出しをあてにして生活をしている人もいるだろう。

炊き出しの撮影にポーズをとってくれる男、いいのが撮れるかと声をかける男、暗やみで顔すらはっきりわからない中での撮影なので、顔なんぞ写らないよ、暗すぎて、とぼくはいう。だが本当は、そんな暗やみでも写って欲しい、と切に願いながら、シャッターを切り続ける。時間のある限り、フィルムを詰め、シャッターを押す。

そこに集まった羊の群れたちよ、一団となって身を寄せ合い、おたがいをかばいあうように、集まった羊の群れたちよ。ぼくはどうすればよいか、ただ、シャッターを切りまくって、写真を写すしか能がないのだ。

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1979年1月13日(土)-3-
現像時間1時間、いったいASAいくらぐらいなのだろうか。3200以上だったのではないか。とりあえず解放2.8、1/15、1/30、1/5、と切ったが・・・・。夜の釜ヶ崎はひっそりと静かだ。冬の夜のせいもあるだろう。市民館前の炊き出し現場から、一団となってセンターまで行進していく。もうデモである。

シュピレヒコールに拳をあげて、がんばるぞ~、と。しかし何と弱弱しいことか。何とおとなしいことか。水銀灯のわずかな光のとどくアスファルト道路を、一群の羊が行進していく。そんな光景であった。隊列があるようでない。ひとかたまりの集団だ。昼間なら、この光景を見た世間のひとたちは、何を思い感じるだろうか。この世に、この光景があるということ、そのことを不思議がるだろうか。浮浪者がデモ行進をしている。しかしまぎれもない現実の一駒なのだ。

越冬闘争は第九回目だという。最初の頃はテント村を作り、そこで炊き出しをやり、等していたというが、今は、三角公園を除いて公園はすべてロックアウトされており、特に冬場は立ち入りが禁止されている。これは釜日労の越冬闘争への不当な弾圧以外の何ものでもないが、さらに釜日労の越冬闘争によって、どれだけの労働者が救われているかを考えたとき、イデオロギーはさておいて、やはり当局行政側の一連の行為は不当なものといわざるをえない、と感じる。

全く人権を無視された人々。行政によって多少でも救われる人々はまだよい。しかし行政の手すら届かない人々の救済、行政によって切り捨てられていく層のひとり一人のいのち、生命のことを考えたとき、やはり、どんな場においても一個の人間として尊重されるべきではないか。行政に限界があるなら、そこは目をつむって、釜日労の慈悲にすがって、それらの人々の救済をゆだねるべきではないかと思う。

実際には、釜日労は過激派の集団と見られているふしもあって、行為そのものはよくても、やはり当局にしてみれば、置いておけない組織なのであろう。そのことは、解体させようとの、もくろみなのだ。ゆえに、この弱者の救済をも弾圧するのだ、と思う。

-28-

1979年1月22日~23日
本日、初めて、釜ヶ崎で夜を迎える。夜中の医療パトロールに参加する目的を持って。今、この正月以来、当面ぼくは越冬闘争に主題をしぼって、写真を写そうとしているところだ。

正式名称は次のとおり。「第九回釜ヶ崎越冬闘争実行委員会、越冬本部」この組合の闘争とは別に、釜ヶ崎に関わりを持っているキリスト教者で、「キリスト教釜ヶ崎越冬委員会」が組織され、この両者が共闘することによって一体化した越冬闘争が展開されている。

スローガン。
1、釜ヶ崎差別治安弾圧をうちやぶれ
2、日雇労働者使いすて「行路病死」を許さんぞ
3、仕事よこせ、病気の仲間を入院させろ
4、政治反動と戦争への道をうちくだけ

このスローガンは釜日労の委員長がかかげるものである。そして12月25日から翌年2月28日までの期間中の活動は、次のとうりである。

1、朝九時、午後一時、夜七時に、公園(海道公園のこと、実際はロックアウトされ、市民会館前路上にておこなわれている)にて、ぞうすいの炊き出し。
2、夜間パトロール。前半12月25日から1月10日までは、夜七時と11時の2回、1月11日以降は夜11時から。
3、医療券の発行。
4、医療センター前にてアオカンのためのふとん敷き。
5、日刊えっとうの発行、12月25日から1月10日までは連日、以降は1日おき。

また「キリスト教釜ヶ崎越冬委員会」は、炊き出しへの資金提供を(前年は100万円)、死者を出さない活動の一つとして支援している。また、夜間医療パトロールで組合と共同して人員を提供し、すでに入院している労働者への病院訪問がある。

項目をあげてみると
1、大阪市、府への抜本的な解決を求める働きかけ。要望書の提出と、その実現。
2、労働組合を中心にしてなされている炊き出しへの支援カンパ・・・・100万円以上。
3、飢死者、凍死者、病死者を出さないための夜間医療パトロール。
4、炊き出しの手伝い、準備と給食。
5、その他必要な活動。
これらの事柄とアピールを記載したパンフが、全国へまかれ、支援、カンパ等をつのった。

これらの具体的行動の模様、ルポ等は後に述べることにして、とりあえず釜ヶ崎の冬はきびしい。生か死かの境にいる人々にとってはことさら「生きて春を迎えられるかどうか」という声明そのものの問題なのである。ときかく、現実を垣間見てきたぼくの実感は、きびしい、としかいいようがない。追って、具体的に、レポートしなければならぬことだと思う。写真家として、そしてその写真のレポーターとして、ぼくに出来ることはそのことぐらいだ。

-29-

1979年1月22日(晴)
午後2時過ぎ、三角公園北側一帯に青空とばく(シゴイチ)を開いていたところを西成警察署の一斉摘発を受けた。賭場は西側に十軒ぐらい開かれていただろうか。それに群がる労働者の数は数百に及んでいる。ぼくはたまたま遅れた昼食をとり(1:30)岡さんの東萩荘へ立ち寄り、不在を確かめたあと三角公園へと行ったのだった。カメラは一応セットしてあり、1/250、F8、無限に合わせてあった。

今日も天気が良く、あったかいからなーと丸ベンチに寝入っている労働者を見渡したあと、公園の北側でやっている賭博の人の群れをながめて、やっぱり写真を写すことはできない、と思っていたところ、灰色のマイクロバス(一見して警察とわかった)が近づいていったのだった。ぼくは一瞬、手入れだとは気がつかなかった。むしろ今、こんなところへ警察が来るなんてなんだろう、と疑問に思ったくらいだった。

公園の隅のところへマイクロバスが到着するに前後して、一団となっていた労働者の群れが、公園内に散らばって道路へ背を向け、ドラム缶に燃えあがっている火にあたっていたふりをし、又は遠巻きに見、又は逃げてしまい、ぼくは一瞬、カメラマンであることを忘れていたが、今写さなければと思いながら、この群衆と警察の中で、カメラをとり出せないので、やむなく肩からのカバンからレンズを覗かせてノーファインダーで三点からシャッターを切ったのだ。

警察が手入れ中だからといって、カメラを持ち出せない。カメラを出しても労働者のほうからは文句を言ってくる状況ではないとしても、警察から狙われる恐れがあるためのことなのだ。写っておればいいのだが、一斉手入れに出くわすということは、幸運といえば幸運だ。カメラに収まってくれていればいいのだが。一本通して、フィルムの詰め替え場所がなく、もう一度東萩荘へ戻ってフィルムを詰め替えた。しかし、もう、写すということができなかった。

警察は7~8人だったろうか、まず、トバクの台(かんたんにベニヤ板を箱の上にならべただけ)や、賭けるためのレース表なんかを次々と、ドラム缶へくべる。ドラム缶は火の手をあげる。煙と炎と、それを取り巻く無言の群衆。けたたましく木片を折る音。一帯は騒然とするなか、何人かがマイクバスに連れられ、連行されていった。

-30-

1979年1月22日(晴)、午後1時の炊き出しのこと。
今日は12、時頃釜日労の事務所へ着く。そこで釜食堂へ、豊貞さんに、もちつきの写真と夜の炊き出しの写真を渡す。稲垣委員長来る。そこで今日、昼と夜、そして明朝の炊き出し取材を告げ、OKをとる。12時半過ぎ、炊き出し準備の釜食堂の台所を撮影、委員長を記念に写して、出発するところから、西成市民会館前の炊き出し現場へ、炊き出し風景を取材する。

今日はおおむねたくさんの人が、並んでいる方だったというべきか。リヤカーのあとから並ぶ労働者を入れながら作画していく。取材中、まだ30過ぎぐらいの労働者から、釜共闘の人ですか、聞かれた。ぼくは「違う、カメラマンだから内部の人は知らない」と警戒していう。その労働者は、組合に相談したいことがある、といった。だから、だれか組合の幹部の人と面を通してほしい、との申し出だった。それで、ぼくは豊貞さんに事情を告げ、その労働者に炊き出しが終わるまで待っているように告げた。悩みの種類は知らないが、組合へ相談したいということは、この釜ヶ崎のなかで唯一労働者の話しを聞けるところは、組合しかないということなのである。

豊貞さんのこと。
炊き出しまでの待ち時間、豊貞さんが釜食堂でいろいろと、自分のことを含めて話をしてくださった。豊貞さんが最近インタビュー記事を載せた新聞(不死鳥)というのを見せてくださった。ここに豊貞さんの今までの軌跡が載っている。不死鳥という新聞は、刑の執行中の人々へ渡す新聞だという。だからこの新聞は受刑者が読んでいるのだ。

話をかいつまんで書いてみるとこうだ。豊貞さんは、すでに何度も、各地の刑務所を転々と渡りあるいている。いわゆる、ものとりとか、どうこういう犯罪ではなく、労働者として飯場生活をしていて、待遇改善などを要求して、それが組織を持たないため、暴力沙汰となって、刑をくらうとうケースの繰り返しだったようだ。今は全く酒は飲まないという豊貞さんだが、それまでは大酒飲みだったという。そして酒をくらったうえでの失敗が、全て刑務所暮らしとなっているのだった。

だが、今は違う、と言う。委員長の言ってることは正しい。これから先(解放に向けて)、まだまだ困難な道だが、やりとげねばならないという。彼らがどんな理論でもって釜ヶ崎解放を目指しているのか、今のところぼくにはわからない。だけども、いま組合にいる人はそれぞれ考え方も違うという。だが、目前にある現実に対して、思想の違いは、一時休戦というところだろうか。「私はむつかしいことは解らない、だが、身体を動かしてやるということが、第一に必要なのだから、身体を動かし行動する」という。

戦後に発展してきた横浜寿町の場合は、労働者の数が約4000名と規模がちいさいため、解放運動家同志の衝突もあるが、釜ヶ崎は肥大なため、緩衝地帯があって、今、表面的な衝突はない、とは小柳さんの話であったが、ひところ、釜共闘が新左翼連中の活動拠点だったころは、いろいろと複雑だったことだろうと察する。

豊貞さんは、受刑者にとっては、立派に更生した人という形で、紹介されている。
1979.1.22、午後、ナンバ地下の喫茶店にて記す。