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最新更新日 2014.3.4

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ 1978.9~
中川繁夫:著


     

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-6-


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1979年1月23日、朝、梅田。
22日午後7時の炊き出し、11:00~12:30越冬パトロール。23日午前5時半~6時、センター寄せ場にて、9時からの炊き出し撮影ののち現場を離れる。

夜の炊き出しは2日目だが、今回は集まった人々がたき火をしている。越冬パトロールは初めての体、、験。やたらと警察官のパトロールが目立った。越冬パトロールは、2班に別れて、ぼくと北部行、小柳さんの隊列に加わる。三角公園より北側、主に南海本線高架ぞいに、くらくて大増感しても間にあうかどうか、あまりよい結果は望めそうでない。

夜の炊き出しからセンターでの青カン現場で、光山弘という30半ばの優男と話をする。彼は結核だという。毎日血痰をはき、もうだめだという。もう早く死んでしまいたいが、なかなか死ねないという。病院へも何度か入院したが、自主退院のくりかえしだという。着物をたくさん着こんでいるから、太っているように見えるが、手や足は、もう骨だけのよう、と説明する。

彼とは翌朝の炊き出しでも会い、こちらから声をかける。「どう、寒くなかった」と月並みな声のかけようしかできない。ぐったりと沈んだ優男、身なりもそんなに乱れていない。このひと、最後に、「たばこを一本くれませんか」といった。

また、ある老人、もう60前くらいだろうか、青カン現場で、足のむくみを見る。手はまるで象の皮膚のようにも見えたが、足は白い、その足、指でおさえると、その部分がへこんだままなのだ。カッケだと思われるが、原因は?

医療パト、浪速区内は定住者が多いと聞いていたが、その人たちはとりあえず住めるだけの住まいを持っているという点で、まだよい。また、ある青カン者は、ふとんを着て寝ているからまだよい。しかし、その日、しのぎで紙を広げ、それをふとんがわりに、かぶって寝ている人は、この暖冬とはいえ小一時間も戸外にいると、ふるえなければならぬ。この日、何ということだ、青カン者は、明日の労働意欲などがある筈がない。こうして一歩一歩、死へと近づいていくのだ。

この冬が越えられる人々は幸運というべきか。毎月平均120人前後の行路病死者があるという釜ヶ崎において、この冬を越えることのできない人たちの冥福を祈るほか、言葉はない。

-32-

1979.1.23
組合が、釜ヶ崎には二つあるそのひとつは、全港湾西成分会であり、そして釜日労である。前者は西成の日雇手帳を持っている人とセンター職員で構成されているといい、その数は一万数千に及ぶとされる。そして釜日労は約三千人という。

全港湾の場合、いわゆる総評系の組合であり、世間一般にある組合とほぼ同質のものとの感触を得た。釜日労の場合は、性格を大分異にするといえるだろう。炊き出しを例にとれば、まず組合員ではない人々に施すという点、現実に生活の保障のない人々が、その救済の対象であるというところ。

釜ヶ崎解放を旗じるしにする、その基礎的理論の詳しくは知らないが、とりあえず人権そのものの基本を救済するところから出発しているようだ。キリスト教者がこの越冬に支援という形で、釜日労に連帯しているのは、おのずと思想が違うにもかかわらず、現実へのかかわりかた、つまり物を与える、あるいは生命を救済するという現実の問題が、連帯させているのであろう。

そういう意味で、今、釜ヶ崎では、釜日労とキリスト教者が、下層労働者の救済に積極的に取り組んでいるといえるだろうか。そして、ここでは、今、住民の参加はない。今年で9年目を迎えるこの越冬闘争も、最初は地域の住民を含めてのことであったという。しかし、その組合(そのころは釜共闘)の、むしろ過激さに、住民は反発したという。

それで今は住民参加はないという。しかし山谷や寿となると、ちょっと事情がちがうようだ。寿は約4000人、そのうち労働者は2000人位いという。そして規模が小さいゆえ、サークル活動、地域住民の地域問題への取り組みが見られるといい、山谷はまた別の問題をかかえているという。

釜ヶ崎が今ある状態は、やはり最大人口45000人、手帳所持者一万数千人ということの大きさが起因しているようだ。まとめようにもまとめようがない、というのが現実問題なのだろうか。

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1979年2月3日(土)
土曜日としては3週間ぶり、10日ぶりの釜ヶ崎の取材である。実はカメラを持って釜ヶ崎へ行くのが、とてもおっくうなのだ。越冬闘争の記録として、正月以降、1月いっぱい、おもに炊き出し風景を撮ってきて、つまり組合をバックにして写真を写してきたものであったが、ふつうのスナップとしては、もう、物足りないという気持ちと、だからといってもう一歩突っ込んだものに触れられない、ということで、撮影がおっくうになっているものと思う。

それと少し釜ヶ崎から離れていたせいもあるのだろうか。だから、ノーファインダーで写して、岡さんのところへしけ込む。以前、岡さんと知りあうまでは、釜ヶ崎が何であるかを知らなかったものだけど、ただ歩いて歩いて写すしか道がなかったものだ。が、様子を知るようになるにつれて、写せなくなるのは、写真をやるものの常なのだろうか。

医療センター前で組合のひとたちが、ふとんの入れ替えをやっている。聞くと、雨で濡れて、のことだという。夕方までかかって、ぼくが釜を去る時に、帰りだというところを出会った。そこで、ぼくは、ドヤ証明をたまたま見る機会があった。50過ぎぐらいの小柄な男の人が、中川氏のところで、これでよいか見てくれ、といって出したのがそれである。わら半紙の半分の大きさに、あらかじめ氏名欄等があって、その下部が、ドヤの経営者又は管理人のゴム印が押してあるものである。実に、かんたんな書類である。が、労働者にとって大切なものなのだ。それをセンターへ持って行けば手帳の交付となるのだ。

岡さんは今、大学のレポート作成に追われていると聞く。福祉労働というもの、福祉の労働に携わる人の立場というもの。そして社会福祉というものの存在のあり様等を知る。また、岡さんの今、たずさわる問題の話しを聞く。

その1、中学3年生の就職問題について、こうだ。A君は中学3年生である。もともと施設にはいって、新今宮中学校に籍を置いていたものだが、このたび、学校のある施設へ移ることになった。岡さんは、今までA君の就職問題と取り組んできて、そのめどがついたような様子。その矢先に転校となれば、新今宮小中学校から離れることになるのだが、今のところ、卒業証書は新今宮小中学校が出すというが、転校すれば、A君の就職も移転先のこととなり、心痛であるという。

その2、外国人登録証を7年前に亡失したまま、切りかえなしに今まで来た女の人。その人B子さんは、日本人C夫さんの妻となり、今年小学校一年生の子供がいるという。もちろん入籍なく子供は萩之茶屋小学校へ仮入学しているという。何かのきっかけで、B子さんが登録証を所持しないことが判明したが、区役所は再交付というかたちで発行してくれたが、短期滞留許可のもので、再々切りかえねばならないという(期間は1ヶ月ときく)、だがそれも切りかえないでいるので、問題はこじれて、法務局から呼び出しがかかっているという。

ぼくには、もちろん、これらの2つのケースについいての、どうすればよいのかの知識は持ち合わせていないので、何ともいえないが、岡さんから聞いた話だからここに記しておく。そして帰りに、沖縄ラーメンを食べる。岡さんと2人で、写真を写さないカメラマンの一日だった。労務者渡世を借りる。夜、光影研究会、達氏と5日、釜ヶ崎へ行くことを約束する。

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1979年2月10日~11日、泊まり。
1979年2月26日記録。

この前、2月10日から11日の泊まり込みのあと、釜ヶ崎へは行っていない。そしてこの記録もされぬまま、今日、その時の夜の四本のフィルムを現像中。しばらく離れていると、気持ちがゆるんでしまう。一月中のあの気負いはどこへ行ったのだろう。もう三月になる。釜ヶ崎は越冬闘争も終わる。

3月から、また、あたらしいかっこうで、釜へ乗りこんでいかなければならない。研修所の分の処理だけが原因ではないのだが、2週間、釜を訪問しないと、こんなにも遠くに見えるのだろうか。

岡さん、福田さん、小柳さん、どうしているのだろうか。釜日労の方々はどうしているのだろうか。彼らにとって、日常はやはり釜の日常なのだ。ぼくがお世話になった日々の連続が、彼らの日常なのだ。ぼくは、今、釜ヶ崎とは何だ、と問う。

-35-

1979年3月10日雨
1ヶ月ぶりに釜を訪れる。まず岡さんの部屋、東萩荘405号を訪ねたが不在。山にてコーヒーを飲み、再度岡さんを訪ねたが不在。そして希望の家を、小柳さん、福田さんを訪ねたが不在。雨の中ついてないと想いながら、釜食堂を訪問。中川さんと労働者が在り、写真を手渡す。1月の第一回目の泊まり込みの、炊き出し写真だ。

越冬闘争が終って、中川氏は、何をやったらよいのか、とにかくしんどかった、という。今、豊貞さんは、再び(半年ぶりという)酒をのみ出して手をつけられない状態という。アル中の人間が再び酒をのむと、すぐまたその事態になるという。あのとき、もう酒はやめた、と断言しておられたのに、と思う。

原因は女のこともあるという。中川氏はいう、放り出すのはかんたんだが、そうでなくて断酒させるには、そこがむつかしい、という。釜食堂で写した、あの日来たという青年は、もういなかった。どこかへ行ってしまったという。そして豊貞さんと一緒に写っている調理服の男の人も、ケンカしていなくなったという。人の出入りのはげしいところだ。

写真について、背の高い労働者はいう。炊き出し現場の写真を見て、この男は、今、飯場だ、という。またこの男は、この前たおれていた、といい、この男は、世話を焼かせた、といい。炊き出しの恩恵にあずかった人々は今、どうしているだろう。今、ぼくの手元にある写真に写った人々は、どうしているだろう。市民館前は、何もなかったように、静かだった。結局、写真は写さず、写真家はいつもシャッターを押さなければならないとわかっていながら、もう、今、何を写すべきか、写す被写体がわからないというところだ。

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1979年3月17日

37日ぶりに岡さんと会う。いつの間にやら3月半ばとなった。
2月11日以来、写真を写していない自分。
岡さんに連れられて、今池生活館を訪ねる。
そこの人とは誰とも話をしていないが、共同炊事場などを見る。
2階の今池こどもの家は、休館であった。
再び訪ねてみることとする。
岡さんを経由して、稲垣さんのフィルムを6本あずかる。
約1ヶ月前に、岡さんにあずけられたものである。

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1979年3月24日
釜の日曜日は3週間連続で雨。今日は釜日労を訪ねる。稲垣氏からあづかったネガを持参するためであったが、訪問すると稲垣氏と林さんがおられた。稲垣氏は今期の市会議員選挙に立候補するとのこと。すでに選管へ供託金をも納めてあるとのこと。

立候補に踏み切ったのは最近のことであるが、ということで約1時間、会談する。選挙に出て、当選は望むべくもないが、ただこの期間中は、妨害されることなく釜の現状を、釜以外の場所でも訴えることができる、という点であるという。

選挙事務所は釜食堂。すでに後援会もできたというが実態は?、無所属出身であるが、解放同盟からも組織内候補がでるから、どうなることやら、とのこと。いずれにせよ、釜の労働者を母体として、ここからの立候補は初めてのことである。

以前であれば議会はナンセンスと一喝だったものが、今は、何とか、この方法によっても変革できる方策を考えている、とのこと。釜解放の一手段として、議員となることによって、行政のつきあげができるし、資料も手に入れることができるという。

稲垣氏は昭和18年生まれである。今日はじめて差しでお話を交わした訳だが。現状、諸政党の政治活動の中で、全く政治のはいってこなかった地域から、政治家が生まれようとしていることに、新しい波をみることができるだろう。

人民新聞3月15日号に炊き出しの写真が掲載される。ぼくが写した分で、組合へ渡したものである。フィルム1本写す、ノーファインダー、久しぶりのことだ。釜の写真家として世間へ出る!

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1978年3月31日~4月1日
釜は燃えている。統一地方選の大阪市議会議員候補に稲垣浩氏が出ているからである。ぼくは31日の夜と1日の午後から夜、稲垣氏の選挙運動の模様を取材してまわった。

史上初めて寄せ場労働者の中から、選挙に立つ。釜の中に初めて選挙事務所が開設される。釜ヶ崎は今まで、選挙すら素通りしてきた地帯だったのだ。釜ヶ崎は湧いている。労働者の反応は、まるで祭りごとのように、熱しているといっていい。

夜七時からの西成署前の、あの選挙カーをとりまいた群衆の熱し様。そして事務所へ訪れる労働者の激励。約1万8000人の労働者、そのうち住民票を持つ、つまり選挙の投票ができる人は5000人という。初めての試みが、達成できるか否かは、来週の結果を待つよりほかないが、労働者の反応はすばらしい。

選挙カーに便乗して半日、釜の外は白けムード、しかしひとたび釜の中へ入ると、確実な反応があった。釜生協前での立ち合いで、握手を求め、そして1000円札を稲垣氏にカンパして激励する自転車に乗った親子づれ。10000円をカンパした商店のおばちゃん。そして、稲垣がんばれよ!、と涙を流すおじいちゃん。稲垣になんとかしてほしいと、希望を託す人々の群れ、釜は燃えている。

こんな選挙は例をみないだろう。何も持たない、全て手作り間に合わせの、作業服姿の候補者と運動員、そしてこの候補者に握手を求め、涙を流してカンパをし。だが一方、選挙妨害ともいえるデマが流れる。釜の人間には選挙権がない、それは税金を払ってないからだ。選挙に行けば税金をとられる・・・・。

選挙公報など見たこともない人々、選挙なんてやったことのない人々。なんとか稲垣に一票をと思い、住民票を持って相談に来るが、西成区以外のもので、稲垣氏に入れられない人。いままで選挙なんて無縁だった人々に、今、選挙とは何か、という問い以前に、どうしたら稲垣に一票入れことができるかと、自分の権利の行為すらわからない人々、稲垣氏もたいへんだ。

夜の立会演説会は、新今宮小中学校三階の講堂で、約300人は集まったと思われる会場で、入口で履物を脱ぎ、おとなしく、これが世にいう釜ヶ崎なのかと思わせるほど、行儀よく、恐らくこんなに行儀のよい聴衆は、ほかにはいないのではないかと思うほどだ。

労働者は今、この歴史的事実の前で、何かを期待しているのだ。はっきりと読みとれる、現実だ。釜の労働者が、これほどに、真剣なまなざしで、この選挙を見ているとは、恐らく外の人々には解るまい。今、釜ヶ崎は、どんな状況なのか。世間に流れる、釜は恐いところ、などという考えは、全く否定しなければならないだろう。稲垣氏の健闘を心より祈る!。

-39-

1979.4.28
選挙戦以来、約1ヶ月ぶりに釜を訪れる。メーデーの様子を見るためであった。4月31日PM7:00~、前夜祭、5月1日は、AM8:00、三角公園に集合とのことである。岡さんと会い、新世界を歩く。釜日労の釜食堂にて焼そばを食べる。

岡さんに連れられて「今池こどもの家」へ行く。指導員の小椋さんを紹介される。写真を写して、この「今池こどもの家」を記録したいと申し出る。小椋さんは快くOKしてくれた。

今、自分にとって、釜を永続的に写していくにあたって、子供たちもそのプログラムに加えたいと、かねてより思っていたところである。そのため、岡さんに、撮影したい旨を申し出、それにて紹介してもらった次第である。「今池のこどもたち」を写し込んでいくことによって、釜ヶ崎の子供たちの問題が、浮き彫りにされてくればと思っている。

釜ヶ崎に通いだして、もう半年をすぎ、冬場のあの越冬闘争を写し終えて、中だるみ状態であったが、稲垣氏の選挙戦を取材し、そして今、子供たちに目を向けることによって、とりあえず永続的に、この地において、写真を写していけるよう、考えている次第である。

釜では写真家で通ってきたようだ。組合の中川さんより、労働党の今度の衆議院議員選挙に出る人物の写真を写してほしいという申し出があったことを告げられる。写真を写して、より政治的になっていくというのではないが、これも、よい記録とさせたいと思うところだ。実は稲垣氏の選挙の写真を見て、そう願われたそうであったという。

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1979年4月30日、5月1日
4/30、メーデー前夜祭
5/1、第10回釜ヶ崎メーデー
メーデー前夜祭はPM7:00から、釜ヶ崎、三角公園で行われた。組合とそれに連帯する代表からのあいさつのあと、映画会。この日の夕方6:00からの炊き出しを写す。

豊さんも今、再び復帰して、炊き出しにあたっている。公園内に運び込まれたリヤカー。それは冬場の路上とはちがって、フェンスの張られた海道公園、刑事がトランシーバーで連絡をとりあっている。

5/1はメーデー、朝8時から三角公園で集会。参加者より、刑事、警官のほうが多い。公園の外にはたくさんの労働者。釜のメーデーも第10回、ぼくはこの第10回メーデーから写しだすわけだ。

あれから10年、調度あの頃に、釜に全港湾の西成分会が結成され、メーデーが始まったということである。8:40分、三角公園から銀座通りを通ってセンターまでデモ行進。機動隊にはさまれての行進。ぼくにとって、こんなデモは10年来のことである。今もなお、機動隊の警備については、以前と変わらないことを認識する。そして刑事、写真を写している釜日労側としてはぼく一人、デモの先頭にて撮影する。

センターからバス<勝利号>に乗って、大阪城の会場へ、機動隊ともみあう中で、バスに乗り込む。実のところ、今から思えば、写真を写すぼくには、光と影が見えていなかった。もちろんデモ隊の中にいる、ということから外部が見渡せなかったというのが、本当のところであるが。もっと冷静に状況を見、そしてカメラワークを考えなければならなかったのではないかと反省。しかし、このデモの隊列の中で撮影に専念できたことは、よかったことと思う。

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1979年5月12日(土)
今池こどもの家へ行く。おたんじょう会には時間的に間に合わなかったのだが、あと卓球をやりながら2本通す。卓球クラブというのがあって、11級から1級まで、さすが2級コーチという男の子は強かった。

子供たち、小、中学生がここ釜ヶ崎、今池こどもの家に集まっているのだが、今後どんなことになるのか、見当もつかないが、要するに子供の仲間になって行くことが大切だと思い、子供と遊んだ。

いつの間にかぼく自身が、釜の中であちこちと歩き回れるようになって、去年の今頃には想像すらできなかった地平にいるのだ。

釜ヶ崎、その底辺といわれる生活者の中で、写真をしていくこと。そう釜日労の稲垣氏、中川氏、そして労働者諸氏。様々な人たちを知った。人間とは何だろう。生活と何だろう。そういった疑問の中で、労働者たちの問題を、そう、どうすれば救済できるか、などという大げさなものではなくてもよい。

今、現在の社会の中で、その結果として釜ヶ崎が存在し、その結果を記録していくことによってのみ、現実が把握されていくような気がする。今、写真は、結果を記録していけばよい。釜食堂に立ち寄り、市議選の写真を置く。

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1979年5月19日
岡さんを訪ねる。小一時間、岡さんの部屋で話しをす。そして釜食堂前で稲垣氏に会う。今、病院まわりをしているといい、釜ヶ崎結核患者の会を結成したという。釜の労働者のうち、約2000人といわれる結核患者だが、潜在数は、はるかに多いと推定されている。

これらの人々への治療について、病院に入院している間はよいが、退院をしてきて、釜の状況の中では。再度、入院していかねばならぬという。このことの繰り返しの中の患者は、いっそう重体となっていくのだ。

このことから、釜の中で、退院してきた人たちが治療できるよう、生活保護等を受け、そして、釜の中で治療ができる体制をつくっていくことを、行政側にやらせることを目的として、患者の会の結成となったようである。

柴山さんが、いこいの家へ引っ越したというので、その部屋へ行き、一時間ばかり話す。柴山さんは今、稲垣さんと一緒に、病院まわりをやっているのだ。柴山さんもメーデー以来、行動しだしたということであるが、知り合いの中から、こうした行動をすることは、いろいろと話しを聞く上でも、ぼくのためになることだ。中川さんも釜の人、と思ってもらえる日が来ることを、ぼくは思う。

1979年5月20日
今池こどもの家から、浜甲子園へハイキングに行く。ハイキングといっても、海辺での潮干狩りだ。子供17名。はじめての参加であったが、もう帰るころには、子供たちと知りあいになれた。小椋さんと岡さんと三人で、帰り、「山」へ寄る。

-43-

1979年5月23日
今日、結核患者の会の第一回交渉が西成福祉事務所で開かれるということで、撮影に行く。

11時前に釜食堂に行くと、各病院の入院者からの代表者が来ておられた。結核の問題については、いずれ時間があれば論考したいところだが、結核患者の会が結成されたことは、ひとつの前進というべきか。

そこで小沢氏に会う。彼は高校時代の同級生だった。前、選挙のときに会ったとき、もしかしたらと思いはしたが、まさかまさかである。彼は人民新聞の専従ということ。いずれ話し合う機会があろう。

午後三時より、萩原氏に会い、労組の座り込みを写し、夕方より中之島での解放同盟の集会に参加し、写真を写す。