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最新更新日 2013.7.7

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ 1978.9~
中川繁夫:著


     

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-2-


-7-

1978年10月14日
新今宮下車、あいりん労働福祉センター、三角公園。

萩ノ茶屋1丁目、あいりん労働福祉センター気付
塩田公博

あいりん労働福祉センター内で取材中、50歳前位の男に声をかけられ、10分程度雑談す。名前は塩田さん、高知県出身。典型的な釜ヶ崎の建築関係労働者である。からだの調子がよくなくて、今日は休みだとのこと。職安の日やとい登録者だから、毎日、仕事にありつけるとのこと。労働条件とかを話してくれた。

大体、日当5000円前後、食事代800円。重労働な現場は、もう疲れたとのこと。そしてからだをやられても、労働者だから、働きたくて仕方がないけど、からだも、そんなに重労働に、たえられない・・・・と。だが、くず拾いはていさいが悪くってできない、と。

○○の組の飯場には、20日ほどいたが、半タコ同様で、とてもつらかった。もういかない。○○の組もきついよ、・・・・と言った。だがやはり労働者だから働きたい、と。今、肝臓をやられて酒を飲んじゃあいけないんだが、といいつつ酒を飲んだらしい。そしてからだを悪くしていくのだろう。倒れりゃ救急車で運ばれよ、朝、5時にシャッターが開くよ、すぐに仕事にありつける、なかなかあんたは紳士じゃないか、記者さんだろうー記者さんだろうーと何度も訊かれる。中日新聞の記者さんに、名古屋でお世話になったんだ、と。


-8-

1978年10月14日(2)
三角公園で30半ばの男に声をかけられる。
「新聞記者かい」と、ぼくは否定する。
「フリーだ」と、そしてしばらく立ち話しをする。
男は自分の処世術を語る。

先日梅田へ行って橋幸夫ショーを見た。おれは橋幸夫のファンなんだ。そして酒を飲んだかね、梅田の連中は上手に飲むねえ。それに比べて釜ヶ崎の酒は陰にこもっているねえ。酒をのみゃ、からんでくる。もっとも相手にせんことにしているがね、相手になりゃ、損すれど得することなんかありゃしない。すぐ警察が駆けつけてきて連れて行かれて、勝っても負けても同じこと、だから相手にならない。

まあ、釜ヶ崎ってとこは、日本で一番大きいスラムだっていうじゃない、いろいろな人間がいるよ、どんな事情があってここに来たのか知らないけれど、そんな運命だったんだな。死ぬ奴は死ぬ。生きる奴は生きる。それは寿命ってやつだ。この間も自動車で事故にあって相棒二人は死んだがね、わしは一週間のむち打ちだけだった。これも運命だな。

だけどわしは宿をもっている、野宿のやつらみたいにゃならない、運が向いてくりゃ、ここから抜け出せることもできるしさ、家は岸和田なんだけど、いつでも帰れるけれど、ここにいるんだ。くず拾いして、のたれ死んで、ふところに2000万の貯金通帳を持っていたやつがいる。中には本当の文無しもいるけど、案外、持っているやつもいるんだ。・・・・・・・・・。

帰途、ニコンサロンへ、藤原新也<逍遥遊歩>写真展を見る、第三回木村伊兵衛賞作品。


-9-

1978年10月21日
釜ヶ崎三角公園周辺

9月の初めから毎週連続で撮影に入っている。今日は10月21日、10年前の1968.10.21は国際反戦デー、新宿のあの日であった。あれから10年、ぼくは今、写真家として釜ヶ崎である。10年前、ぼくは大学へはいった。そしてその一年はアルバイトで過ごし、小説を書こうと思っていた。文芸サークルで最初の短編を発表したのは、この年だった。それから翌年、東京へ行くようになって、政治、労働組合結成へ、理論ではなく身をもって体験した。結局は挫折だったが。

今、釜ヶ崎を写し出して、今日は体調の悪かったしもあってか、少し、とまどい気味である。釜ヶ崎とその周辺を写すことに、ぼくは意味をみいだしている。だけど、それが政治の手段とはなしえずして、写真をつくるということ。<因果の地平-釜ヶ崎からの報告>と題しようか、こうすれば、写真が、今の記録であると同時に、社会性を帯びたものとなるのだろう。

土門拳が筑豊を取材したのは、1959年~1960年の三池闘争であった。しかし、彼の作品群の中に、闘争の記録は、最終にあるだけだ。それより、子供たちに視点を置き、そして炭田炭坑の生活を記録することによって、当時の筑豊を記録した。写真が、ある面では政治的告発を伴なうのは必要なことである。ただダイレクトに、告発の形をとるのは、どうもいけない、むしろ間接的に表現すべきであろうか。

釜ヶ崎は、大阪市のちょうど中央部に位置し、日本では最大の都市スラムである。釜ヶ崎という地名は、正式にはない。

単に都市労働者の供給地というにとどまらず、ここには世間の生活形態とは別の生活形態があるようだ。入り口は様々にあるだろう。そして様々の理由があるだろう。しかし、生きるからには、働かねばならぬのは、この土地でも同じだ。ただ、その変わり、何をしても自由勝手だ。

他人の所有するものにちょっかいを出さない限り、自由だ。私たちは、たとえば、彼らのもっている自由を持とうとすれば、たいへん大きいぎせいを共なわなければならないだろう。彼らは、どんな理由で、ここの住人になったのだろうか。それは、ぼくの知るところではない。各人が各人の理由で・・・・、そして一度足をふみ入れれば、再びぬけることができないように、彼らは恐らく夢も希望も持たないのだろうか。


-10-

1978年10月28日(雨)
釜ヶ崎は雨。行きはじめて初めての雨の日。福祉センター二階で、雨で労働できない労働者が、窓辺で将棋を打っているのを、写させてもらう。三角公園では、近所の子供を写す。めぐみちゃんと西村くんといったかな。どこの世界においても子供は無邪気なものだ。

雨の降るせいか撮影の方は少し落ち着いてファインダーが覗けた。やはり本当はファインダーを覗いて、そしてじっくりと落ち着いて写さなければならないのだろう。ノーファインダーのスナップでは、いかにもスナップ風になってしまうのだから。

釜ヶ崎へはいって2ヶ月がたった。本当はとってもおっくうな気持ちなのだ。しかし一週、理由もなく抜けるとおそらく、おっくうさが頭をもたげてくるであろう。何のために釜ヶ崎なのか。そして釜ヶ崎の何を写すのか。テーマを設定し、そのテーマにそぐうものを写さなければ、安定した写真は写らないだろうし、もちろん、ドキュメンタリーとはなりえない。

事件でない日常を、まず第一に記録し、第三者に報告する行為・・・・・・。

写真の一枚一枚が、意味をもたなければならない。たとえばキャプションのつかない写真は捨てるべきだ。キャプションがついてなおかつ、そのキャプションと写真が一体となって、より強固なリアリティを持つ写真・・・・・・。そして、感情におぼれてはいけない。常に確固たる思想のもとに、それは創られなければ、主題がぼやけてしまうだろう。

感覚で写す写真。そう、私の感覚だけで切りとっていく写真。そういうものは否定しなければならない。もちろん写すその時は、全感覚だ。だが、それはいつも、理論というか思想というか、それに立脚した感覚でなければならないだろう。

その写真が現実にあるものを写して、なおかつ意味をもってくるのは、写す以前の作家の視点に由来する。作家の視点が明確でなければ、それはまともに写ってこないだろう。少なくとも小説や絵画や音楽が、全て、そういうものに裏打ちされているなら、写真だけが例外たりえない。

想像力によってつくられるものが、芸術的価値をもつなら、写真は、写される以前に、そのものに対しての想像力を喚起し、そして現実を切りとるときには、そこからの、最も近い角度で、写されねばならぬ。といって、今の自分の態度はどうかといえば、迷い迷い、何もわからぬ、模索ばかりである。


-11-

1978年11月8日(立冬の日)
不就学児童を集めた、あいりん小中学校で、ケースワーカーとして働いておられる、岡さんという26才の男性に会った。彼の住所氏名は、大阪市西成区萩ノ茶屋3-8-28東萩荘405号室、岡繁樹。彼の友だちで写真家小杉邦夫氏(彼は最近-泰平の谷間の生と死-という写真集を出版した)の話題。そのうち岡氏を通じて話しあえることがあるかも知れない。釜ヶ崎の諸問題と取り組んでおられるひとたちと、知り合いになっていくことによって、ひとつの写真の展開も可能か。

11時半頃、三角公園へ行く。小物の店を出していたおばちゃんを写す。押しピンと留め金を買う。買ったことによって、会話がはじまる。人と人との交流とは、こんなものなのだろうか。おばちゃんは最初、よそ者だと思って警戒していたにちがいない。だけど、その広げられた店で品物を買うという行為によって、おばちゃんの方から、話をしてくれる。

朝のうちにくると、こんな店がずらりと並び、たいへんな人だかりができる。特に労働者が休みの多い、土曜日、日曜日は、たくさんの人々である、と。そして、このような露店には警察の鑑札がいるとのこと。つまり、正規の商人というところだろうか。そして、写真は、子供たちをたまには写すが、自分の写真はない・・・・、と。そこでおばちゃんの記念写真を写してあげ、今度来るときに持ってくることを約束する。

人々はみな、話をすれば、きさくな人たちばかりだ。こちらのほうが、うちとけていけば、釜ヶ崎の人はそれなりに善人なのだ。ただ、生活に精一杯の人々が多い・・・・。実のところ、今日はあまり写欲がわかなかった。だが、岡氏と会えたこと、おばちゃんのポートレートが写せたことを、収穫としたい。

釜ヶ崎を写すにあたって、釜ヶ崎を知らねば写らない。今まで二ヶ月間、およそ週に一回、通った訳だが、今、もう、限界が見えはじめていた。それは通りすがりの表面しか、記録できていないということであった。写真家として、そして、そこを記録するものとして、これでは何にもならないことがわかっている。さりとて、その地に住みつくなんて、諸々の条件から不可能なことである。こんなときに、岡氏と会えたことで、彼と知り合いになることによって、いろいろと教えてもらえることができ、そして、一歩踏み入れることができるのではないかと思う。


-12-

1978年11月11日(曇)
三角公園にて、労働者であるおっちゃんと、浮浪者に近いおっちゃんと歓談す。おどりのうまい、一見大工さんのようなおっちゃんは、静岡の出身だといっていた。小柄な男だった。写真を写されるのをいやがったのは、恐らく公表されるのをいやがるためであろう、そんな口ぶりであった。家族を捨ててきたのだろうか。そしてこの公園の住人のような男。目元にヤニをためて、そしてお金を持たない、ということは宿を持たないのだろう。

今日は少しあったかく、そして雨がぱらつき始めた。おっちゃんに「かんとく」と呼ばれた。さしずめカメラを持っていたせいだろうか。おっちゃんは酒に酔っていた。ドスのきいた、いい声だった。何を思っているのだろう、手に200円握らせてあげると、一度はいらんといったが押し問答の末、ポケットにつっこんだ。兄ちゃんはバカやなぁ、とおっちゃんは言った。一体どういう意味なのだろう?、こんな男にかかわりあうな、という意味だろうか。それともその行為がうれしかったのだろうか。別れしな、おおきにありがとうと、頭をさげた。そしてひとり丸いベンチに首をうなだれて座ったまま、さびしそうにうずくまっていた。

いつまでも・・・・。恐らく夜まで、そして今頃はどうしているのだろうか。九州は小倉の出身だといっていた。もう、何をすることもいやなのだろうか。夢とか希望とか、世間とか、一切を持たないような、もうそんなものないのでろうか。こうして一日一日、からだを弱めていって、そして冬、どうするのだろう、どうなるのだろう、冬になれば凍死者が増える、これからは地獄だといっていたのは岡氏だった。釜ヶ崎の冬、冬をむかえてこのひとたちは最悪となるのだ。

写真を写すということ。そしてこの恵まれた自分。ここへきて現実を写す者と写される者。写すことは何にもならないこと。記録者には甘い感傷を入れてはいけない。サルトルが、飢えたる者の前で文学が有効か、という政治と文学の問題を提起したが、今まさに、釜ヶ崎の前でぼくの行為はどういうものかを、あらためて考えなければならない。

写真家として釜ヶ崎で撮影を続けていくということは、本当に遊びで、コンテストがどうのこうのと言っている問題とはちがう。そこにはむきだしの政治性がころがっている。その分だけぼくは真剣にならざるをえない。そして写真家としての自覚、そして自覚から生まれる自信。ジャーナリストが、日々起因する事象の前で、ただ、その現場を、記録していくということが、記録するものにとって、どれだけの決意が必要であるかを、今、知る。

今まで、立場のあいまいさをと、現実を前にしたときのジレンマは、言葉の上では知っていたが、今、こうして釜ヶ崎を写しはじめて、より立場を明確に意識せざるをえないし、ジレンマを自己のものとしなければならない。写真を写すという行為が、そこに住む一人ひとりには、何の効果をもすぐには与えない。だが、それが、それらを告発することによって、さまざまな問題が浮かび上がってくるのだろう。

岡さんはケースワーカーだ。不就学児童をあずかるあいりん小学校の面倒を見ているという。不就学児童を写し、その家族を写すことによって、ひとつの仕事ができればと思う。一度、岡さんに相談してみようと思っている。単に釜ヶ崎の現象を写していてもどうにもならない。プロ写真家の仕事として、こういうことも記録しておかねばならないと思うが、ひとはどういうか。