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最新更新日 2013.9.30

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ 1978.9~
中川繁夫:著


     

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-4-


-19-

1979年1月3日晴
本年最初の撮影。釜ヶ崎は三角公園にて、釜日労主催の団結もちつき大会があった。キネを持ちたいと申し出る労働者。力まかせにキネをおろす労働者。そしてまわりから「みんな、田舎じゃ、よくやった連中ばかりだもの」とのつぶやきが聞こえた。今は釜ヶ崎の労働者なのだが、かって故郷で、それらの人々は、正月前にはもちつきを、その日課としていたのだろう。

正月のふるさとを思うこころで、もちつき大会となるのだろうか。ところがこのもちつき大会には裏がある。1月4日は市役所へデモをかける日。そのために団結の盛りあがりも必要なのだと、地域研のメンバーは言う。いずれにせよ、労働者、そしてすでに労働意欲をなくした人、そして労働したくても労働できない人、様々な釜ヶ崎に住む人たちが、正月の年中行事として、もちつきをやるのだ。つきあがった餅は、皆に配られる。解放旗のもとに、長い長い行列ができる。用意された一合ビン酒、そして4斗のもち。腹を空かした人の行列で、皆のよろこぶ顔、顔、顔。

沖縄出身の32才の労働者と、<みやらび>という沖縄料理店で会う。沖縄を出てブラジル移民を夢見たが、自衛隊へ2年、任地は北海道であったそうな。そうして除隊後まわりまわって釜ヶ崎へ。
「男、30才を過ぎて男盛りじゃないか」とぼくが言う。
「もう30才になって、夢も希望もない」と彼が言う。

写真を、もう四年も写しておられるという、ぼくより1才年上の中和田厚生さんとめぐりあう、住所、大阪市西淀川区大和田3-4-1山本荘内、<山>でコーヒーをのみながら、写真の現状を話しあう。グループを作ろうかと誘いかけたら乗り気のよう。いずれ連絡をとることになろう。

<みやらび>で、沖縄そばを食ったのは、岡さんとぼく、それに地域研メンバーの中山さん(男)吉田さん(女)。地域研メンバーの福田さんは、ミノルタでもちつき大会を写しておられた。ぼくのモータードライブを見て、モータードライブには勝てない、って。福田さんは、小杉さんの撮影の助手のような立場で写しておられたらしいが、小杉さんがぬけられたあと、写しだされたらしい。今後も引き続き写されるのかどうかわからないが、ぼくは知り合いになれてうれしい。

岡さんのアパートで、夕方、労働者二人が来る。37才の、去年夏釜へ来た人と、31才、岡さんの友だち、名前は、今、知らない。うわさのぼく、中川さんでしょうか、とたずねられる。

5日から日給8000円の労働に出かけるとのこと。37才のアンコは鹿児島出身、名古屋の工場に三ヶ月勤めていたが、自主退職。その後、釜ヶ崎へ来てアンコとなったという。いまは元気、だけど酒を飲むと一升位といい、すっぱい酸がこみあがってくるという。体調に気をつけてほしいところだ。

ふつう交通費や食費は別で、5500円位が相場だという。そして手配師は一人について1500円位のピンハネだという。彼は手帳を持っていない。だから失業の手当てはもらえない。住民票が移してないからだという。手帳を手に入れるには、住民登録がしてあるか、またはドヤの滞留証明が必要だ。しかし、最近は、行政当局は、なかなか手帳を発行しないとも聞く。いずれにしても問題が多いが、いい男だった。

釜ヶ崎の撮影は、あらゆる面で、困難さがつきまとう。だが、今、ぼくはその第一歩を踏み出したのだ。今日のもちつき大会にも、制服、私服の警察官がいたという。撮影にあたっては、気をつけなければ、という。

-20-

1979年1月5日(金)
今日は撮影日ではないが、京都新聞の記事によると、委員長が逮捕されたというので、ペンを握ることとなった。まず新聞記事全文を転載してみる。

(京都新聞、昭和54年1月5日朝刊、16版、18ページ中央、写真なし10行)
釜日労の委員長ら建造物侵入で逮捕。大阪府警警備部は四日午前、釜ヶ崎日雇労働組合委員長稲垣浩(34)ら二人を建造物侵入などで現行犯逮捕した。調べによると、同日午前十一時十五分ごろ、大阪市住之江区南港南六、市南港臨時宿泊所にバスで押しかけ「市の日雇い労働者に対する宿泊行政は見せかけだ」と抗議、宿泊所内に侵入した。

この記事だけを読んだ読者には、何のことだか訳がわからないだろう。このことを補足説明すると次のようになる。「市南港臨時宿泊所」とは、年末年始、釜ヶ崎へ帰ってくる労働者のために食事つきで当局による施設に収容するというもので、およそ1000人の収容が可能だということである。そして年末28日29日と受付が「市立愛隣開館」で行われ、そこで登録をした者だけが宿泊できるということとなる。

そこで登録できる人の条件を書きしるしてみると、まず第一に、手帳を持っていることが条件となる。この手帳とは、釜ヶ崎の日雇労働者が、西成労働福祉センター職業紹介部に登録した登録労働者に交付される、日雇労働手帳のことである。そして登録するには、あいりん地区に居住していることが建前であって、住民登録をしているか、又は、ドヤ生活者であることの証明を、その経営者や管理人にしてもらわなくてはならないのである。

この手帳保持者が対象ということは、すなわち釜ヶ崎にあっては恵まれた、いわば特権階級の人々である。手帳の交付を受けようにも住居の定まらない人が、実数は把握できないとしても、ほぼ同数程度いるのである。本当に施設に収容しなければ生きていけない人が、全くオフリミットなのだから、組合の抗議する主張は当然だと思う。

この前日、正月三日は三角公園で組合主催なる「もちつき大会」が行なわれるのだが、そこにその施しを受けようとする群集の実態を見るがよい。行政の手の届かぬ真に冬場、救済しなければならぬ人たちは、置き去りにされたままなのだ。組合が炊き出しをやって施される人々の群れを見よ。数時間も前から一杯の雑炊を求めて長蛇の列ではないか。-宿泊行政は見せかけだーとの抗議は、良識のある者なら、だれもが思うことではないのだろうか。(続く)

-21-

これら一連の行政当局の施策は、常に警察機動隊の護衛のもとに行われる。まず年末の受付について(残念ながらぼくは勤務のつごうで見られなかったが、聞くところによると)制服私服の警察官が見張る中、労組組合員、地域研メンバーは一歩たりとて近寄れないとのこと。もちろんぼくがカメラを持ち出して取材をするなどは不可能なことという。つまり、取材妨害されるわけ。そして官憲による暴力が公然と白昼行われるという。

取材に際しての抗議しようものなら、公務執行妨害で逮捕ということになるだろう。だから、もちろん南港宿泊所への取材などありえない、見聞すらできない。こういう状況のもとで、稲垣委員長の逮捕が発生しているのだが、三角公園のあのもちつき大会決行による見せしめのための、不当逮捕の感はまぬがれないだろう。いずれぼく自身も取材妨害ということを、身をもって体験するときがあるだろう。

今、釜ヶ崎では、公園は封鎖され、三角公園だけが残されている。そして、そこでの集会はままならぬのだが、正月のもちつき大会のように、一種の祭り的気分を持った集会、それがすでに慣例となった今、かろうじて許される集会なのである。実際、公園を埋め尽くした労働者を前にして、警察当局もおいそれと圧殺はできない。だから、これからが越冬斗争のやま場となる時期に、稲垣委員長が逮捕されるのは、組合と組合の施しで生きながらえている労働者への、挑戦以外の何ものでもないであろう。

なぜ、警察は、圧殺しなければならないのであろうか。10年前、学生運動が圧殺されたと同じように。ぼくは考える。社会構造が円形と仮定した場合、その円の外線をとりまいて警察機構があるわけだけれど、そこからはみ出そうとする者、またはスレスレのところにいる者は、警察機構、つまり国家権力によって円形の中に押し込まれてしまうのだが、そこから一歩ふみ出した者は、もう円の内側へ戻されるというよりも、そこで圧殺されるのだ。

秩序をみだすという国家の側からの視点で見た場合の、つまり醒めた部分は国家の側にとって、一番おそろしい存在であるのだ。だから、ほんの少しのこととて視座をずらして見ることのできる者は圧殺される。文学者の視点がそうであらねばならないように、写真家の視点もそうであらねばならないとしたら、そして、そこからでしか、今や告発を含む作品の止揚が可能でないとするならば、敢えてそこから叫ばなければならないであろう。

稲垣委員長の逮捕は、当局の圧殺意図と、その口実だけで、内側はでっちあげ不当であることは、明白である。一連の釜日労の斗争、越冬斗争、それが住民・労働者によろこばれ、受け入れられれば受け入れられるほど、当局は圧力をかけてくるであろう。

-22-

1979年1月6日(土)
希望の家にて、稲垣委員長と会う。
三時過ぎ、岡さんの部屋を訪ねる。岡さんはどうも気分がすっきりしないらしい顔つきで、「山」へコーヒーを飲みに行く。その後、釜ヶ崎を徘徊し、希望の家へ行く。委員長は釈放されたと岡さんから聞き、小柳さん、福田さんから状況を聞く。

臨時宿泊所は金網が二重になっていて、本来ならば施錠されているのだが、たまたま錠があいていたので網戸を押して入った(岡さんのはなし)。実は、飛び越えた、と稲垣委員長のはなし。いずれにせよ委員長が逮捕され二泊三日をこえて今日、会ったわけだ。温和そうな人柄、小型のデートマチックカメラのストロボの使い方を、教えてもらいに来たというので、話はそこから始まって、ぼくのニコンを見て、手に取ってモーターを作動させていた。

警察官との対峙のなか、写真を撮られるから、自分もカメラを持っているということ。それはいつも首からぶらさげておこうという。フィルム1カン進呈する。そしてフィルムライブラリーの件について試案が出る。越冬で支援に来た労組員は、ただ待ちぼうけ、だから写真アルバムを作成すればどうか。そうすればPRの役にも立つのではないか。

それよりも、釜ヶ崎において、写真取材については困難をきわめるところだが、写真家が単にひとりずつではどうにもならないので、写真家グループを作ってはどうだろうかと思う。ぼく、中和田さん、小杉さん、福田さん。今、写真を写している人たちで、情報交換の場を持ち、そして共同作業として写真展etcの開催等。いま、釜ヶ崎の写真家は、手をむすばなければならないのではないか、と思う。欲をいえば、現在の写真界に何らかの問題を提起しうるようなもの、でありたいと思う。

-23-

1979年1月8日(月)
10時釜ヶ崎着、岡さんと待ち合わせ、部屋へ行く、そこでクリスマスの写真を渡す。
市営住宅12階より解放会館を撮影。空気の条件が悪く、スモッグいっぱい。再度写すことにする。11時からセンター3階で、失業手当の支給風景を見る。窓口で一枚シャッターを切り、抗議される。やめる。結局、ノーファインアーで隠し撮り1本のみ。あまり近寄らない方がよいところ、カメラを出して写すなどできそうな条件ではない。

1時から釜日労の炊き出しを撮影する。組合側の市民会館前から、身の安全を守ることも考えて写す。私服に写真を撮られているはずだ。炊き出し風景の撮影にあたって、労働者には組合のための写真であることを強調して写す。ここにいる労働者はだれだって被写体となることは嫌なわけだ。その気持ちもよくわかる。しかし写さなければならない。ということはどういうことなのであろうか、と考えなければならぬ。

今、釜ヶ崎はどういう状況か、ということを写真にて問わねばならない。あの狭い土地、世間から隔離された土地、この世にあるとは思えぬ土地。しかし、これが現実として存在する土地。こんな地域があるなどと、人は知らない、否、釜ヶ崎という悪名高い名前は、知らぬ人がない程よく知られているにもかかわらず、その実態がどうなっているのかを知る人は、まれであるといえよう。

人間構成がどうなっているのか。人権はどうなっているのか。福祉はどうなっているのか。そして何よりも、労働者の生活はどんなものなのだろうかと問われて、知る人は少ない。写真を写すことが、当局によって妨害されるのは、このことの重要さを示している。資本主義大国日本の恥部。統治する者の立場に立てば、必要悪なのだとするならば、この地域を世間一般から隔離して、要はこの地域だけの問題とするように限定しようとするのだろう。

世界にその比を見ない高い人口密度と、すさんだ生活実態。これが、大阪、梅田や心斎橋という繁華街をかかえた大都市の、すぐそばの一面にあるということが、信じられるか。想像を絶する光景が、そこには拡がっている。這入りこんでしまえば、そこは生き地獄の様相を呈している。ここに住まう人々は、まぎれもなく我らと同じ、同じ人間であり、日本国に住む人間であり、そして都市生活者なのだ。

にもかかわらず、ここに這入ってくるまでは、普通の生活人であっても、ここへ這入ってきたその日から、世間とは隔離されてしまう。ここだけで通用する人間として、世間とかかわるのだ。人々の心がすさんでいるのは、その人だけのせいではない。人の心の内側に問題があるといえばそれまでだが、単にそれだけではなく、環境そのものが、人々の心を虫ばんで行くことも見逃せないのだ。

24-

1979年1月8日(月)
釜ヶ崎地域の特殊性は、この地域以外の世間一般の生活のあり様と異質であることが特殊性なのだが、実は、この特殊性は、世間一般どこにでも散見できる事柄、人間の行動や生活条件が集約的に表出しているということに外ならないのである。このことは、実は特殊性とはいいながらも、決して特殊な事柄ではないということではないか。にもかかわらず当局、行政者が特殊視し、また他の世間一般に、あたかも特殊なように見せかけ、うすっぺらな日本資本主義の実態を、いんぺいしようとするもくろみ以外の何ものでもないのだ。

常にこの地域が、特別悪人どもが居住する地域、のように見せしめるその方法は、マスコミ、口コミ、あらゆる宣伝手段を使って、特殊性を世間に印象づけようとしている。だがしかし、日雇労働者が多くいることは事実だし、ルンペン同様の人たちが数知れず存在することも事実だ。そしてこの条件のなかで死んでいく人間が数知れずいることも事実なのである。

だから世間一般とは、ちょっと違うといえば言えるのであって、世間一般においてもこういうことは、ないとは言えない。唯、都市生活において、生活の条件として、つまり生存する条件として、釜ヶ崎には、それらの底辺、下部構造を集中的に持っているといえるだけなのだ。

今や都市生活者は、本当は釜ヶ崎の労働者と同じ条件下に置かれている。あえて区別できるものといえば、少しばかりたくさんものを持っている、といえることだろうか。それは地位であり、勤め先があるということであり、家であり、家庭であり、テレビや自動車などの物。そして多少たくさんの、お金を動かすことができるということ等であろうか。

しかし今や都市生活者の大部分が、これらの人たちより多少豊かなことによって、自分たちは底辺層でない、と思う思い込み方は、なお釜ヶ崎の住人のような劣悪な環境のもとで生活している人がある、ということを引き合いにだしていわれることなのである。昔、部落が作為的に創られたように、釜ヶ崎もまた、近代資本主義の発展の過程で作為的に構成されてきたといえる。

為政者当局が、釜ヶ崎を特殊視扱いしてコントロールするのは、何よりもその現実を空想物語として、恐いところ、近寄ってはいけないいけないところ、というように分断してしまうのは、都市生活者一般が、その問題に目覚めることを恐れるがためでであろう。そしてそのことが、たん的にこの地域での取材妨害となって表出しているにすぎない。

ともあれ、当局、管理者、為政者にとって、写真に写されることは困ることなのだ。世間に知れることが恐ろしいのだ。いま、唯一、最底辺のこの世界が、世間一般に明らかになることが、いちばん困るのではないか。
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