ご案内です
HOME
むくむくアーカイブス

物語&評論ページ



大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-1-

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-2-

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-3-

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-4-

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-5-

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-6-

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-7-

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-8-








むくむくアーカイブス

最新更新日 2014.7.2

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ 1978.9~
中川繁夫:著


     

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-8-


-53-

1979年8月4日
二週間ぶりの釜訪問、子供の家にて写真を配る。岡さんを訪ねるが不在。釜食堂を訪
ねる。結核患者の会第7号を読む。第3回対福祉事務所との交渉は、居宅保護はできない方向へ回答があったように書かれてあったが・・・・。この問題も、ぼくは楽観していたようだ。すぐにでも居宅保護ができるように思っていたが、実はそうではなくて、釜の労働者の場合は、そう、うまくは行かないようだ。

8月12日から15日までは第8回釜ヶ崎夏祭りだという。諸々の行事が行われるが、ぼくは、初めての試みとして、翌日に夏祭りの写真展をやろうと以前に言ったことがあったが、高橋さんが乗り気(?)というより、お手伝いをするということで、実行委に計って、やれそうなのだ。べニア三枚にキャビネを200枚位い、ということだが、そのつもりになればなんとかなるだろう。

そして今、釜ヶ崎において、そして夏祭りに協賛して、写真展を開くことの意味を問わねばならないだろう。写真のひとつの方法として、ぼくがはじめてではないが、こういう試みは”写真をあげます”ということで、被写体の中で行なうことに、新しい意味を見出すこととなるだろう。

そして9月には、ぼくの案だが、文学会を発足させ、雑誌を作る案が出ている。これも有志が何人か集まれば、具体化するが、経費の面、その実施役について問題があるが、何とかやっていきたいと思うところである。寿に文学研究会があり、釜にも労務者渡世があるが、それらとはまた別の地点で発行の意味を問いたいと考える。少なくとも釜ヶ崎の記録となるものを作りたいと思うのだ。

-54-

1979年8月4日
翌日写真展について
写真の写す側と写される側と、この二者が共有する空間は、単に撮影の瞬間だけであっていい訳がない。本来、写真のあり方として、写真が大衆のものとなりえた今、それは家族写真であり、ファミリー写真として、つまり家族の歴史を刻むものとして、写真は存在する。このプライベート写真については、写真の持つ記録性、そして写す側と写される側との関係、そして写真を介在とした両者の空間。

今やまさに、写真は、この地平で写されるべきなのだ。芸術がどうこう、あるいは写された側から離れて、単に写真家の所有だけで終わることは、今やありえない。というより、写真は今、その地点から考えられなければならないのではないか、と思う。このプライベートさは、家族ー釜ヶ崎ーの中で行なうことによって、写真の空間に対して、問題を提起できうるだろう。

自分と、そしてカメラを向けた人との関係、そしてそこに生まれる空間、スペース。その人的交流があってはじめて、写真は写真として、意味を持ちはじめるだろうと、思われる。そうしてその写真が第三者にも十分見てもらえるものであれば、それでよい。

写真とは何か。写真家が一方的に外に向けて発表することだけを目的とすること、あるいはこの体制のためにのみイメージを売ること、等、このようなことは今、ぼくが思考するプライベート写真にはなじまない。しかしまた、それはすぐ様、記録となりえるのだ。写す側と写される側が共有する空間が生まれる。そしてそれはすかさず記録となってしまう。このことこそ、今、写真のあるべき方向ではないか、と考えるのである。

-55-

1979年8月12日
釜ヶ崎夏祭り、今日は前夜祭ということだ。写真は、日替り写真展と銘打って、三角公園の入り口で、ベニヤ板3枚に150枚を展示することになった。今日は初日で、もちつき大会、選挙、メーデー、と今年の分を展示した。その反響たるや、初めてのことゆえ、少し不安もあったが、常に人がたかっている光景を見、そしてよろこんでくれる労働者がいて、成功だったと思う。

朝日新聞は明日の夕刊に、この写真展について記事を載せるという。日替り写真展がぼくの思考する写真の方向に一助を与えてくれることは事実だが、このことのもつ意味は、前にも書いたが、釜ヶ崎の労働者を被写体とするテーマにした写真は、何度となく発表されているが、、いわば労働者の意向を無視したかたちで、発表されてきたといえるだろう。

ところで、やはり、被写体となった労働者自身が受け入れ、そして、それを、大切に持っていてくれるような写真がありえてよい筈である。というところで、この写真あげます方式が出てきたのであり、ひとつの試みとして、あるのである。

さて、夏祭りであるが、第8回目となるという。ぼくは初めての体験だ。1日200枚の写真を作るということ、写して現像して展示して、そして労働者に見てもらう、ということの意味。そんなものに意味はないが、ぼく自身の体力との戦いだと思うのだ。まあ、これくらいのことはできるだろう。そして出来ることの実践を作っておけば、今後の写真を考えるうえで、たいせつな体験となるだろう。

釜ヶ崎では、15日まで、連日、写真展だ。

-26-

1979.8.14
今、夜中2:44、15日になっている。釜ヶ崎夏祭りの現像をやっているところだ。もう一日、最終日だ。8月13日付夕刊に、朝日新聞の三面トップに10段抜きの記事となって、この写真展が紹介された。

釜の中では、日を増すにつれて、労働者たちに好評をはくしている。12日初日は、まだ労働者たちは半信半疑だった。13日に前夜祭の写真が出はじめた頃から、反応がではじめた。12日、労働者から写して欲しいとの要望は、まだなかった。ぼくの方から群像として写していただけであった。

この日夕方、朝日の田中さんと小一時間、喫茶店で話しをする。そして明日の夕刊の記事にすると、正式に決まった。13日の写真、つまり前夜祭の写真はおよそ半分がはがされ、朝にはわずかとなっていた。そしてそろそろ労働者たちが写して欲しいといいはじめ、ポートレート開始となった。そして今日、労働者たちは、自分の写った写真を抱きしめ、あるいは腹にはさみ、喜んだ。

労働者たちから矢継ぎ早に写して欲しいとの要求、その要求に応じる。200枚のところ250枚位焼き、半分以上は持っていかれた。熱狂的ともいえる夏祭りで、くわしい論説は後にゆずるとして、一枚の写真が、こんなに労働者によろこばれるとは、実は予想外であった。ほんとうは、労働者たちは、今、そんな風体であろうと、一枚の写真が欲しいのだ。自分の姿の写っている写真。どんなによろこんでいるのだろう。むろん、無料、ということもあるだろう。しかし、そんなことは問題外である。

自分たちの写っている写真。自分の写っている写真。何枚も手にしている人。手に入れたくとも写真に写ってない人。そんな人は写してくれという。どんなに人はよろこんでいるか。今日は展示前から写真を見せろといい、張るのを手伝ってくれる。そして人だかりができる。自分の写っている写真をさがす。述べ何千人という人々が、この写真展を見たことだろうか。そしてこの写真展には、労働者自身が参加してきたことである。つまり、展示するための写真を、写して欲しいというのである。

-57-

1979.8.14(2)
ぼくははじめ、毎日200枚の写真を作れるかどうか、あやぶんだものだ。精力的に写し、同じような写真ばかりが並んでしまうのではないか。そして200枚も変わりばえのするネガが並ぶのだろうか、と、そのことばかりが気になって仕方がなかった。しかし、日毎に、この写真展はぼくの努力による写真作り、というより、むしろ労働者が積極的に写して欲しいと参加してきたことによって、成り立つようになり、もうスナップ、労働者が知らない間に写されていたというものではなく、カメラの前に立って、正面を向いて写りだしたものを展示する。

つまり、写真が欲しいと要求されて、労働者個々には手渡すことが出来ないから、展示板に張っておいて、各自とりはずして持っていってもらう、という方向にいったのだ。明日は、昼間の分は、カメラマンの方を向いた写真だけを引き伸ばすことになるだろう。この労働者をひきつけた魅力は、翌日には自分の写った写真がもらえる、ということに由来している。そして目の前に展示版があって、現実にもらっている人がいることを目撃し、内心、自分も欲しい、と思うのであろうか。

自分の部屋に、額に入れて飾っておくと言った労働者、あるいは、写っている写真を人に見せて回る労働者。展示版がぼくの個人的な視角からの写真でうまったというより、単なる告知板になったこと。このことがしいては写真が労働者のものとなった、と見られることである。朝日新聞は、単に田中氏だけのことではなく、上層の論説委員をも動かしはじめた、という。

この試みによって、ひとつの労働者の内面が露呈したと見るのは早計だろうか。今、自分がどんな姿であろうと、ぼくたちが、写った写真を早く見たいと思うように、労働者たちもまた、同じなのだ。一枚の写真によって心なごんでくれた労働者よ、ほんの一時でも、あなたの手に渡ったことを、ぼくはよろこぶ。そして、これから先、きっと思い出すだろう。自分は釜ヶ崎で夏、写真を写したことがあるのだ!、と。

-58-

1979.8.16
釜ヶ崎の夏祭りは終わった。今、最終日の現像中だ。写真展の大成功とともに、今は疲れてもまた快い疲れというところだ。

この写真展についての意義や成功した点、改善すべき点、そして日毎に変わっていった写真展そのものの持つ空間の推移等、おって文章化していくつもりだ。今は只、終わった。自分の体力がよく持った。やれば出来る。そして写真界と今、対等で対峙できると思えることだ。この写真展の成功によって、ひとつの写真の形態、写真のあり方、ということが確立していくということだ。

最終日は、ベニヤのパネルの外に模造紙を張りつけて、公園のフェンス部にまで拡大した。これは、それまではがされなくなった部分にのみ、新しいものを張りつけていたが、こちらの体力的なものを含めて、写真展会場から離れていようという気持ちから。そしてその間、高橋さん、関岡氏と喫茶店へおもむいたのだった。

釜ヶ崎では有名な写真家になったこと。これは新聞による影響が大である。新聞に、写真展の意図、そしてぼくの写真の考え方、素性、それらが明確になったからであると思う。活動家や労働者たちから、好意的に見られ、知られたことは幸いだと思う。夜、本田良寛先生に「おまえはまだボンボンだ、釜のことが解っとらん」といわれる。その通りとしか言い様がない。朝日の田中さんには、感謝のいたりだ。ここで一年目、ひとつの区切りがついた感じだ。
(日記終わり)