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最新更新日 2014.5.14

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ 1978.9~
中川繁夫:著


     

大阪日記/釜ヶ崎取材メモ-7-


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1979年6月2日
今池こどもの家へ行き、竹馬をに乗る練習をする少女を写す。5.20の浜甲子園での写真を配る。あと釜食堂へメーデーの写真を届ける。

今、釜ヶ崎の撮影にはいって、半年以上が過ぎた。昨年の秋、街頭でスナップ、今年1月から越冬、そして稲垣選挙、メーデーと推移してきたのだけれど、そしていま、ぼくをとりまく状態は、釜食堂の人たちとも顔なじみになったし、その他の人々も知るようになった。

釜日労や稲垣氏の行動する、それらの部分も、いわば自由に立ち入ることができるようになった。また、今池こどもの家へもカメラを持ち込むことができるようになった。が、一方、街頭でのスナップは今さら、やはり写真としての単なるスナップとしてしか価値がないような気がして、今や全くやらなくなった。

実は街頭でカメラを出すことの心経使いからやめたといえなくもない。だが、今、自分の生きざまとしての写真を考えるとき、ぼく自身がまだ釜ヶ崎と釜ヶ崎の人々と、まだ表面的なつきあいでしかないことが実証されるように、写真も、まだ、彼らの日常の中の姿を、とらえることができないでいる。これからのぼくの写真が、日常生活をとらえて行くことができるか否かは、ぼくの釜とのかかわりあいの深さいかんによるところであるが・・・・。

今、ぼくが、やはり、非常にジレンマに落ち入るのは、日常生活が写っていないことにある。越冬といい、メーデーといい、これらぼくが写してきたものは、いわば晴れの舞台、よそ行きの顔、であるにすぎない。だが、日常の生活が、写ってこさせようとなると、そこは、ぼくと彼との共有の世界が、生まれてこなければならないのだ。そうなのだ、共有することこそ、写真の中に日常の記録ができる唯一の方法だろう。

しかし、そこで写真を写すということについて、ぼくは、固有の個人との関係において、写真を写してあげることになるのだが、ひとたび、発表する、ことを前提となると、社会におけるこれらの写真が持つ意味、価値の比重を考えなければならない。

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1979年6月2日
釜ヶ崎の写真を写し発表することに、どれだけの意味があるのか。個人のプライバシーに立ち入って、そのことを公表することによって、ぼくの社会正義の方が優位に立ちうるか、ということが当面の問題となり、課題となるだろう。

ぼくたち人間は非常にパーソナルな状態で結びついている。単に同じ職場にいるだけ、であるとか、身体がただ同じところに置いているだけ、といった場合を除いて、人間とにんげんが何らかのかたちで、自己の内面を語りだすとき、そこには非常にパーソナルな関係が形成されるのだ。

この関係の中でぼくは、今後の写真のあり方を追求していこうと考えているのだが、そして今はもちろん、その段階ではないところにぼく自身のジレンマがあるのだけれど、もし仮に、そうして形成された関係の中で写した写真を、ある目的を持ってぼくが写してしまい、発表するとなった時、いや、その目的をもったとき、すでに持っているところのこの目的のために、彼個人と接触するとき、ぼくは彼を裏切ることになるのではないか、と思う。

こうして写して、それを発表する。もちろんぼくには社会正義という名分があり、発表することによって、現実認識の提示の材料にしたいと思うのであるが、このことによって、個人のプライバシーが公開されることと、どちらが大切でろうか。

人間は、晴れの舞台にいるときこそ、何の抵抗も感じない。写されることが、生活の舞台にあっては、当然、写されたくない、と思うだろう。にもかかわらず、そこを写したいと思う写真家根性というもののいやらしさ。

写真はたとえ結果として表現されたとき、それが虚構であると考えられても、写されたものは現実であり、事実であることの証明である。現実にあったものが最小限記録されるのである。このことから同じ虚構といっても、小説や絵画などと本質的に違うところである。このことの認識をなくして、写真は写せないのであるが、だからこそ、その素材となった人々の生活の重みと比較したとき、発表のもつ重みと比較しなければならないだろう。

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1979年6月9日
岡さんを訪ね、今池こどもの家へ行く。今日は写真を写さず、岡さんと共に卓球を楽しむ。岡さんもケースワーカー2年目。来年はどこかへ就職したいとの意向。今日満27才の誕生日ということ「山」にてクリームコーヒーを飲む。釜食堂へ稲垣氏を訪ねたが不在、柴山さんも今日は仕事に出かけているとのこと。今、彼らともう一歩進んだ話を交わしたいと思うところだ。

釜ヶ崎と自分、釜ヶ崎に向けるぼく自身の視点としては、何だろう。一体ぼくは釜をどう見ようとしているのだろう。これらの問題が、今、ぼくが写真家として現実と関わっていく姿勢と、どうからみあうのだろうか。先だってから野本三吉(加藤)さんの「生活者」を読み進んでいる。彼が寿町の生活館の職員としての立場から、寿の労働者との関わりの中で、自分自身の行動記録を綴っているのだが、今はどうしておられるのか。

ぼくにとっての日常ということ、日常生活ということ。去年の夏、ぼくは、日常性について考えてみたことであった。そして写真の作業の場は、ぼくにとっては日常の営為の中でなさなければならないことを、模索してきたのであった。釜の生活を、ぼくにとって日常化させること。決してぼくが労働者として彼らの内側において共有できえないことは、恐らく今後も続くであろうと思う。

であれば、ぼくの日常生活の中に、釜ヶ崎を組み込んでいこうとすれば、第一に、写真を写すことは、第二の問題としなければならないのではないだろうか。第一にやらねばならぬことは、少なくとも釜ヶ崎の人々と共有しなければならないことだ。それは解放に向けての協力という形、あるいは援助。単に写真だけを撮り歩いていても、何ら共有できるものは、ないのではないか。

もちろん、ぼくがカメラマンとして、釜ヶ崎を訪問することとなったのであるから、この技を捨てるわけにはいかない。しかし、カメラを持った自分が、ぼく自身の日常生活であるわけではない。やはり日常生活の共有という立場から考えてみると、釜の現状を認識し、そしてその人間としての精神面での共有と現状告発へのエネルギーに行動が加わらなければならないだろう。単に写真を写し、記録だ、といって渡すだけでは、それは外部の人間、つまり、ぼくにとっては非日常的営みの枠を越えることはできないであろう。

野本氏の「生活者」の表紙の、労働者たちの写真が、つまり労働者たちのポートレートが生きているのは、まぎれもなく彼が彼自身の日常生活の中で写真を写していたからに他ならないのだ。釜ヶ崎の写真が、ほんとうに満足に思う地点から写ってくるのは、きっと、ぼくの生活が、その中にみいだせるときからであろうか。釜ヶ崎の労働者たちと共有しあえる何かを持ったときから、ぼくの日常となり、その視点から写真を写せることだろう。

実に、釜ヶ崎の中で、労働者として、あるいは労働をしないが釜ヶ崎の、質的変換のために働いておられる数多くの人たちが、労働者や子供や、つまり釜ヶ崎に居住する人々の生活向上や質的向上のために力を注ぎ、そのことによって記録していこうとかという目的を持っていない、ということによって成り立っている彼らの行動。ぼくもそういった行動の中にあってから、写真を写すべきではないだろうか。

単に写真を写し、展覧会に出品するだけで、何ら力を貸さないというのでは、彼らとの共有なんておぼつかないし、彼らの仲間には入れないだろう。このことについて、稲垣氏や柴山氏に話をしてみたいと思ったのであった。

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1979年6月22日
夏至、一番日の長い日、この日、釜ヶ崎で葬式があった。大竹屋さん、49才、昭和5年生まれ、死因、急性心不全。たまたま4月1日、ぼくが釜食堂前で、大竹屋さんの写真を写しておいたものが、柩の前の顔写真として役に立った。

昨日、昼すぎ、稲垣さんから電話があった。そして5時の電話で、写っているのがあったから、ということで、夜八時、自宅へ来訪。暗室にて四つ切に引き伸ばして、稲垣さんに渡す。本日、11時から45分間、解放会館一階、釜食堂にて会葬が行われた。

ちいさな、何もない、ささやかな式であったが、我らの手で葬式を出すのは、はじめてのこと、こんな式を何と名づければよいか。-人民葬ーとだれかが言った。「人民葬なら、赤旗でくるまなければ」と、ならばー大衆葬ー、いずれにせよ身内以外の人々が葬式を出す、遺体をひきとれた、ということがはじめてのことである、という。

大竹屋さんは宇和島の出身であって、故郷にはまだ母が健在だと聞いた。自称、もと警察官というが、身体には入墨があったという。そして、釜で、彼の過去を知る人はない。彼はあまり過去を喋りたがらないふうであったという。

ぼくが会ったのは4月1日、稲垣選挙の取材中だった。その時の写真が、今日使ったものだが、ぼくが最初にポートレートとして写した写真が、このように使うことになるとは、複雑な気持ちである。そして、あれは、メーデーの前夜祭、解放会館前で、明朝まで組合のリヤカーを貸してほしいと、再度頼み込んでいた姿を、思い出すのだ。まだ元気だった、しかし、彼は、死んだのだ。6月20日、大和川病院にて、49才。

稲垣さん、中川さん、小柳さん、それに、ぼく。四人で骨を拾いに、同行する。人間、死んでしまえばそれまで、だが、釜の労働者の死に接して、悲しみと共に怒りがこみあげてくる。

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1979年6月23日(土)
こどもの家へ行くと岡さんが卓球をしていた。4時まで世話になる。子供を写す。岡さんは福祉センターへ就職するかも知れない、という。月曜日、大学の方で推薦を受けて出願するらしい。岡さんも、工学部の大学院を出て、それから福祉短大へ入学という変わり種だが、当方はいつも世話になりっぱなしである。

それから、希望の家へ、小柳さんを訪ねて行く。越冬の総括報告書に転載する写真を届けに行く、と昨日、約束しておいたものである。越冬の各ポイント計5枚を手渡す。そして小柳さんが昨年田端書店から出版された「教育以前」を一部分けてもらう。小柳さんの7年間にわたるケースワーカーの仕事の記録だ。以前、岡さんより借りたのであるが、この度、手に入れたのである。

今、釜ヶ崎では、結核の問題について、真剣に取り組もうという動きが出ている。稲垣氏を中心とする「結核患者の会」の結成。キリスト教関係の取り組み。昨日はネパールから一時帰国されて、釜ヶ崎の実情を改善しようと、各所へ、これから働きかけようとする先生を交えて、希望の家で集会があったという。

朝日新聞が精力的にこれを追って記事にしている。昨日の大竹屋さんの葬式といい、結核の問題が明るみになってくることは、単に釜ヶ崎だけの問題ではなく、下層労働者の改革につながるものだ。ぼくの写真も、その問題を明るみに出すために向かっていくようにも予定するのだ。当面、7月に入ったら、稲垣氏らと共に病院をめぐってみようと考えている。

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1979年7月14日
今池こどもの家からの帰途、釜食堂へ立ち寄る。そこから急遽、稲垣さん、高橋さんとNHKへ出向くことになる。この度、釜ヶ崎の結核患者の問題、各マスコミにとりあげられて、問題となっているが、今、NHKが釜の中でカメラを回し、病院を訪問して、結核問題を報道したいということだ。

稲垣さんの話によると、NHK取材班が、朝のセンターで、手配師にインタビューしたり、その他、カメラを回す時、地元のヤクザで、山口組の幹部となった組の護衛のもとに、カメラを回していたという労働者の告発によって、釜日労の炊き出し取材を、組合として拒否したというものであった。すでに病院での取材が終わっていたという。

この問題については、NHK報道班の釜に対する認識に関する重大な事柄にからんでいるので、NHKとの会談となったものである。たまたまぼくが、便乗して行くことになったのである。NHKで、フィルムを見る。3000フィートを回したという生のものを、かいつまんで見、この部分を使いたいという意見をいれてこられる。

解説も何もはいっていない生である。回せば回すほど救いようのない気持ちになっていくという。暗い、暗い、どこを映しても暗さばかり。この人肉市場、日本の暗部、どのようにしたら、この暗いフィルムが正当に理解されるのであろうか。NHKの質問であった。

稲垣氏は、あとの解説しだいである、という。実にそのとうりであって、映された映像だけでは、ことの現象だけで、実体にはふれられないのだ。写真の場合であればキャプション、映画の場合は解説、それと一体となってはじめて、その映像に意味が込められ、方向づけられるのであろう。

高橋さんとの話しのなかで、ドキュメンタリー写真作家の会を腹案として持っていることを告げると、乗り気になってきているようだ。写真を知りたいという。この夏、発足させようかとも考えているところだ。

一般世間の釜に対する見方は、おおむね新聞や放送、その他、ジャーナリズムの視点を通じて、その認識は決定づけられている。ジャーナリズム、報道、マスメディアのあり方については、今述べるところではないが、この報道の側に立つ人間の認識そのものに関わっていると考えるられるだろう。

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1979年7月14日
現代社会では、私たちが得る知識の全てがこのような形でしか、私たちに知らせえないとするならば、今度のようなNHKの体質、暴力団に護衛されての取材をするという体質については、つまり、その地を取り仕切っている有力者から文句を言われないように、その旧態依然のスタイルによっていること、このことからも判るように、このような裏を持つことによって、公平な問題提起ができるのだろうか、という疑問がわいてくる。

これらの報道が、実は、人民の側ではなく、権力の側に立って見なければならないという必然性のゆえ、この点が限界となるだろう。この体制に許容される範囲内で、問題提起がなされる。この体制に許容される範囲内でしか、その問題は追求されることはない。だから、いきおい、報道のかたちとすれば、本質的な問題を覆い隠したまま、現象のみを追わねばならぬという宿命を持っている。

今度のNHKの場合、結核について、どこまでキャンペーンを張れるというのだろうか。結核患者の会ができた。釜の人々は不安でいる。それは・・・・・・という形で、釜の中の実態が映されていくのであろう。が、映像は映像だけで、どこまで伝えられるであろうか。解説と言っても正当なところで、問題の本質、つまり戦後日本のとってきた成長政策によるところの、失業者たちの群れについての論証ができるというのか。

このことを何ら提起しないで、釜の問題の本質が見えるはずがない。あえて世間一般の人間にしてみれば、放映される映像に対して、なんと恐いところ、そこは特殊なところだ、自分には関係のないところからのことだ、という、差別的、偏見の視点しか持ちえないだろう。ジャーナリズムの限界は、この辺りにあるようだ。

まず、体制をくつがえす、という目的には、映像を使用しない。これは国家権力によって握られているからである。だから、映像は、今、大衆の意識変革のための手段とはならない。大衆がすでに持っているところの価値観、又は認識の中での<やっぱりそうか>と思わせる跡づけしか行いえない。あるいは確認と呼んでもいいだろう。そんな中で、釜の人々は生活不安に見舞われている。結核患者は、今、団結して生活権を勝ち取ろうとしている。人間として当然の権利を要求している、と。

釜からの映像を見、そして釜の実態が明るみに出ることは良いことだと考える。暗い部分が白日のもとにさらされることは良いことだと考える。なぜなら、現象としてあるものが表出されるからである。だがしかし、その表出の仕方が問題となるのだ。どういう形をとれば、その問題点がクローズアップされるのだろうか。現象を現象としてだけとらえず、感情だけに訴えず、理論立てて、この必要悪について、認識させられるか、が、いちばん問題だ、と思われる。興味本位でなく、なお、現状の追認ではなく、第三者に問題の本質を突きつけられるか、が・・・・。

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1979年7月21日
釜食堂を訪ねる。富永さんと高橋さんがいた。そこでしばらく話しをしていると、酒に酔った労働者が入ってきて、テーブルの前に座る。初めて見る顔だという。高橋さんは「食堂は4時からですよ」というが、聞こえないのか聞こえているのか、わかばを一本取り出して吸おうとする。マッチがないので貸してくれとジェスチャーをする。ぼくはライターで火をつけてやる。何か喋っているのだが、言っていることがわからない。

酒に酔っているのだ「稲垣が・・・・」と言っていることだけわかる。そのうちズボンのポケットから日雇健康保険手帳をテーブルの上に置いた。それをみるぼく。高橋さんが「身分証明書のつもりで見せているのでしょう」という。なるほどと思う。その手帳は狭間某、大正11年生まれ(いま、この記憶しかない)とあった。狭間さんは55才というところか、淋しそうな、どうしようもないような顔つきで、ぶつぶつ言っている。

食堂の準備をするから、しばらく出て行ってくれというのだが、通じているのかいないのか、出て行こうとはしない。薬袋を二包テーブルの上に置く。7月21日付のものだ。今日の午前中に病院へ行ってきたものだ。結核らしいと思う。中川君にかかえられて食堂の表へ出たあと、ふらふらと向かい側へ渡ったかと思うと、そのまま尻もちをつくように、仰向けにたおれてしまった。管板に当たる音がして倒れてしまった狭間さんを起こしに、ぼくはかけ寄った。

さあ起きろと、手を肩と頭部にかけると彼は視線をぼくの方に向けて、わかったというようにうなずいた。手を当てた頭部、手を離すとビッショリと血がついていた。狭間さんは頭部をコンクリートのごみ箱にぶつけて地をだしているのだ。確認するところ3㎝程、頭の真後ろが裂けているのだ。そこから血がじんわりと出てきているのだった。通りすがりの労働者が心配そうに声をかける。救急車を呼ばなあかん、という。だいぶ切れているで、という。

ぼくは食堂へ戻り、中川君に処置を頼む。中川君は”もう参ったなぁ”という素振りで、電話をかけようとしたが、病院へ連れ込んでも酒を飲んでるので、なぐられるのが落ちだという。そこで救急箱にて処置することにした。高橋さんにお願いして、まず消毒、そしてガーゼをあててネットを頭部へすっぽりとかぶせる。狭間さんは「痛い」と、ぽつりという。そりゃ痛かろう、切れた傷口から消毒のアワがふき出ているのだもの。

座れというのに座らない。ぼくが立った狭間さんの身体を支え、頭を持つ。あんまり彼が虚ろなので「狭間さん」と声をかける。すると彼はぼくを見てにっこりと笑う。自分の名前を呼ばれて、そして痛みをこらえて、少しは喋り口が正常に戻ってきたようだ。そのあと、狭間さんは、2階の釜日労のドアの前に座ってしまった。ぼくが上がっていって、大丈夫かい、と聞くと、うすら笑ってうなづくのだった。

淋しいのだろう、もうどうしようもなく淋しいのだろう、金がない、という、結核だ、という。狭間さんの淋しさは、ぼくにはわからない。もう疲れ切ったという表情の、その中にあるものは、ぼくにはわからない。どう対処したらよいのか、ぼくにはわからない。しょせんぼくは釜に住む人間でもなければ、労働者の苦悩もわからない、アマチュアのカメラマンにしかすぎないのだ。

共有できる何かがあればよい。だが、もうぼくの想像できる域をはるかに越えたところで、狭間さんは淋しがっているのだ。このような労働者の姿は、彼だけではない筈だ。ぼくはもちろん当事者にはなりえないけれど、ぼくの空しさなんかより、はるかに深いものであるだろう。明日、病院回りをすることになった。

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1979年7月22日(日)
朝から釜入り、昼から病院を回る。高橋さんと同行する。柴山さんは風邪のため、ここ4~5日寝込んでいたという。天王寺まで歩く、暑い日だ。高橋さんもぼくも、もう汗びっしょりだ。近鉄線で藤井寺まで、そこからバスで、羽曳野病院へ行く。この病院は大阪府立だという。12階建ての新館、冷暖房完備、ここで結核患者の会に入会している原田さん、山崎さんに会う。

談話室で写真を写す、1本。そうこうしているうちに中川君が来る。釜ヶ崎へ帰ってきてからの件、原田さんはもう退院許可がおり、あと地元の受入体制をかためるだけのようだ。そのあと阪和病院へ。ここにはすでに入会している人、これから入会しようとする人、高橋さんと一緒に各部屋へまわる。結核患者の会発足2ヶ月半、会報も6号が出た。その活動の具体的な動きは、今、会員獲得のため各病院回りをし、オルグして、当面100名を集めるというもの。9月には第一回の総会を開催することが決まっている。

結核と釜ヶ崎。この問題については、今、すぐに述べられる程、ぼくは知識を持たないが、当面ぼくの写真の課題となっていこうとする。ぼくは今、釜ヶ崎で写真を写しているんだけれど、どういう方法で、そのことをまとめようか。
1、子供の問題
これについては、今池こどもの家を訪問している。
2、結核の問題
結核患者の会に積極的に関わっていくことによって、病院と自宅と、を撮影し形にしたい。
3、釜ヶ崎の諸行事を写す
釜ヶ崎で写真を写すことの目的は一体何か。ぼくはぼく自身に今、何を問おうとしているのか、何を問わねばならないか、釜ヶ崎とは何か。

釜ヶ崎と関わりはじめて1年になろうとする。そして今、やはり1年の足跡は大きいと思う。釜日労、稲垣氏との交流、あるいは釜食堂の皆さんとの交流、その中でカメラマンとして自立している自分。自分の立場は記録者である。記録者は闘争の主体とはなりえない。記録者は傍観者である。この闘争の主体とはなりえないジレンマ、そして主体たる人々とのワンクッション。

釜ヶ崎で文学者、写真家との交流の場を作れるか。高橋さんとも今日、結成する方向で確約をしたのだが、どういう形で結成していくか、その辺からの詰めをやっていかなければならないのだ。高橋さん自身の話しを聞く。この前は釜に骨を埋めるつもりはない、という。写真に興味があるという。まだ若い、立場上、どう立ちふるまったらよいか。自己は労働者ではない。そして一緒に住める身でもない。大体、ぼくと同じところだ。

だから、とぼくは言う。自分と釜ヶ崎との関わりあいは、何であるかを追求しなければならないのではないか、と。そして当面、結核患者の会の記録をとっていけばよい、とアドバイスする。そう、自らが記録者とならなければならないのだ。自ら労働者の主体となりえないならば、一方の視点は記録者であることだろう。そうアドバイスする。それ以外に、ぼくは、釜との関わりはできないのだ。