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最新更新日 2013.5.21
写真ノート第三部
中川繁夫:著



写真ノート 第三部-1-


第三部 2013 1~6

20130330
写真ノート第一部と第二部は、1980年代の半ばに、メモとして書いた文章でした。ワードプロセッサー、つまりワープロなる道具が世に出てきて、それのためしも含め、キーボードをたたいて文字を起こしていたものです。その頃に書かれた文章は、出版物として出さないと、他者に見せることができない状況でした。いまならこうしてブログに記事を掲載したら、どうゆうわけか、多数のひとの目にふれます。即、かっての出版にまで至ってしまうわけです。

あれから30年ほどの年月が過ぎ去ってしまったけれど、いま30歳のひとなら、生まれたところ、そのころのメモでした。その前には、1980年から、映像情報という小雑誌を発行していました。全部で12号まで出して休刊にして、フォトハウスの構想を文書化していたころ。その当時の自分のメモでした。発表するなどとは、思ってもいなかったんですが、今書いてるこれは、他者に読んでもらうことを想定しています。

現在の地点から、過去をひも解いていく作業、歴史を作っていく作業、なんてかっこよく言えばそうなんですが、戯れ、戯言(ざれごと)、その類のものです。とはいえ、写真ノートと名付けているから、内容は写真についての文章です。いまは作家まがいのこともしてるから、創作ノートとなるのかも知れません。そんな戯言を、この第三部では、書いていきたいと思います。

桜を撮りに行ってきました。今日の話です。ここ数年、京都をテーマにして写真を撮って、ホームページやブログ、ネットアルバムに、発表しています。そうゆうことで言えば、桜は京都シリーズの、花の項に位置するわけで、昨年には写真集にまとめたところです。その延長線上にある桜取材になるわけです。桜は華やかな花です。怖いくらいに華やかやと感じます。小説家なら、坂口安吾か、梶井基次郎か、谷崎潤一郎。写真家なら東松照明とか。日本画にも東山魁夷とか。とかく桜は話題になりすぎます。

なぜ桜を撮るのか、なんて、考えてみるのもいいじゃにですか。考えてみることが、写真家であることの証なのかもしれない。だって、カメラって、桜に向けてシャッターを切れば、写っています。もちろん、露出とかアングルとかの調整はしますけど、写ります。わけなく写るんです。だから、写った桜を、どのように考えるのか、ここが重要だと思うんです。ドキュメント論なんてことを先にやらないと、いけないのかも知れませんが、写真論ですね、でもわけわからなくなってしまうから、あうんの呼吸で「いいでしょ!?」かなぁ。言葉
がいらない。

写真は言葉がいらない。写真は言葉で語るのもんではない。写真は言葉で語れないからこそ写真なんだ。写真と言葉、つまり二者対立項として、写真と言葉があるように思えます。わたくし、写真と言語の関係に興味あります。写真に言葉はいらない、という枠組みもわかります、わたくし流にですが。でも、写真には言語が必要だという枠組みも、わたくし流にですがわかります。じゃあ、わたくしの場合は、どうなのか。わたくしはドキュメンタリストだから、言語を必要とします。


20130404
そのころの話をするとなると、どうしても死んでしまった人への記憶が甦ってきます。わたくしより年長、あるいは年少の人の死についてより、同年代の人の死が、深いところから惜別の気持ちも含め、記憶がよみがえってきます。その一人に平木収さんがいます。平木さんは、京都出身の、なんていえばいいのか、写真批評家、としておきます。というのも平木さんの活動は、たとえば川崎市民ミュージアムの開館にむけて業績を残された人だし、関西との関係においても、京都出身ということで、ひときわ関係が深いといえます。

フォトハウスでワークショップを開催することになった1984年ごろ、東京メンバーとの窓口が平木さん。そのころ定期的に東京へ情報収集にでかけていたんですが、たいがい平木さんと会っていたと思います。その前には東松照明さんの代々木のマンションへ行かせていただきましたけど、その後、川崎市民ミュージアムの開館準備室の平木さんのデスクのまえで、お話することが何度かありました。わたくしのフォトハウスを前にだした写真活動に、平木さんは欠かせない人だったと思えます。

それから10年、1994年だったか、わたくしが畑祥雄さんの紹介で、大阪ビジュアルコミュニケーション専門学校(現:大阪写真映像専門学校)の副校長に就任する運びとなった直後、平木さんから電話がありました。その専門学校で講師として招いてもらえないか、という打診でした。わたくしの専門学校での仕事として、特別講師を年間契約で来てもらうというアバウトな取り決めで承諾したものでした。京都造形芸術大学から、講師に来てほしいと要請をうけているけど、金額面で行けない、という話だったから、京都と大阪のセットで、来てもらえる日程等を調整しようという話をしました。


20130407
今日は京都写真学校9年目の入学式の日です。4名のかたが入学される予定です。雨が降っていて、今日予定の屋外撮影実習が危ぶまれるところです。講師にOBの竹内豊さんを立てています。それと今日は、宝塚メディア図書館が主催の写真講座、宝塚ぶらり撮影会が行なわれます。長野一晃さん、大石忠彦さん、それをまとめたのが畑祥雄さん、JPSつながりですね、いまの時間行われだしたところでしょうか。

昨年の夏から、毎週金曜日に、宝塚メディア図書館がある阪急逆瀬川駅前まで、ボランティアで通っているんですが、この4月からはもう少し経営の資料作成の立場で関わろうとしています。なんてったて写真図書館から20年、IMIから退いて10年、いま、あらためて、関わりだしているところです。いまさら、なんていう人もいるかも知れないけれど、わたくしのこころはリニューアル、すべて水に流して、いま、ここにいるって感じですね。

関西の写真史を書き始めています。1980年代の出来事、まあ、わたくし自身に関係することを中心に書いていこうと思っているところです。まあ、自分の存在を、まとめておこう、日本書紀みたいなもの、正当性を示す、ねつ造は極力しません。といいながらも、あったことだけを書いてるんじゃなくて、わたくしのまとめを、言葉にして、書き写しているから、わたくし自身の宣伝でしょうかね。

前回のこの項で、平木収さんのことを書いて、なんか中途半端な書き方になったと思っています。もう少し詳しく書いてもいいのかな、とも思っていて、最初のいきさつ都か、時間経過とかを、想い描いてます。平木さんと最初に会ったのは、当時、京都国立博物館の技官をしてられた金井杜男さんを介してでした。フォトハウスが立ちあがってからだから1985年ごろだったんでしょうか。平木さんと金井さんは早稲田の先輩と後輩の関係。平木さんにおいては、東松さんからわたくしの話を聞いていたと言っていました。

東松さんも昨年末にお亡くなりになり、わたくしとの話は、どこまでが事実なのかを、相手方にたずねることがいまやできないから、作り話はしませんが、わたくしの個人見解が、そのまま残っていくということですね。あと、西井一夫さんのこともあるけど、彼とは、東川の写真フェスティバルで同じ部屋になった。それが初対面でした。


20130411
shadowtimes、シャドータイムス、毎週木曜日発行のWEB写真雑誌といえばいいのか、有料の読者向けのサービスです。このシャドウタイムス、筆者というか写真者は、港千尋氏と勝又邦彦氏、それに編集人に三木学氏、発行者がは葛城真氏、そう、インターメディウム研究所の第一期生と写真の講師で来ていた港さん。知っているひとばかりなので、近親感を覚えます。購読することにして、先日、お金も支払ったところです。

わたくしの環境でいうと、昨年の夏から、宝塚メディア図書館へボランティアに行っています。週に一日、金曜日に行くことにしています。いま4月ですが、引き続き行くことにして、経理の手伝いをしようと思っているところです。あれから10年少しが過ぎて、あらたな関係がつくっていけそう。シャドータイムスといい、宝塚メディア図書館といい、です。

京都写真学校は第9期生を迎えることになりました。京都で、DOTの岡田さんと共催で始めた写真学校。時代の流れについていけてないのかも、と思ったり。昨年あたりから、新しい写真を学ぶ場所が出来てきていて、若い世代の人たちがそういった場所で、学び始めているようなのです。昨年あたりから若い人が来ない。今年だって40歳代からうえの人たち。もっとイージーにとらえて、写真を学ぶ枠を考えないといけないのでしょうね。

京都写真学校はそれなりのコンセプトでやっていて、それ以外に展開のしようがない。それはわたくしの、手法に拠っているわけだから、そんなに簡単に変えられるものではありません。時代の流れ、写真をとりまく環境が大きく変わってきていて、対処しているつもりが、できていないのだと思う。若い世代が何を求め何を表現しようとしているのか。このところの感覚が、わたくしには不透明、わからない、たぶん、感じ方が、です。

写真を学ぶ枠組みもさることながら、その内容、何を学ぶのか、とか、何を根拠に何を撮るのか、とか。あまり深入りしないのがいいのかも知れないけれど、そうだ、ドキュメンタリーが話題になってきています。今年は、このドキュメンタリーの構造とかに議論を及ぼすのがいいかも。ドキュメンタリー写真とは、どんな構造をもっているのか。そのことから、新たなドキュメンタリー作品が生まれてきたらいいんです。これですね、今年のテーマは、これで決まりかな。


20130414
1976年のことだったかと思うんですけど、わたくし、初めて撮影会というイベントに参加したんです。全日本写真連盟京都支部主催。これは朝日新聞社が主宰しているアマチュアカメラ組織で、わたくし、朝日新聞を購読していて、社告としてモデル撮影会の案内が載っていたので、参加したわけです。宇治川のあたりでの撮影。それが終わって帰る京阪電車のなかで、撮影会の指導をしていた先生と座席で向きあってしまったんです。話しかけたのは、わたくし、の方からで、なにを話したのか、撮影会に初めて来ました、とか、カメラクラブってあるんですね、とか。

その先生の名前、達栄作といって、頭がはげていて分厚い眼鏡をかけていて、一見怖そうな人です。話のながれのなかで、カメラクラブやってるから来てもいいよ、という話になったと思う。達さんの家の場所は深草藤森、電話番号を聞いていました。後日、その達さんのお家を訪問したのです。玄関入った左の三畳間の応接室、そこにソファーがあって、テーブルがあって、向かい合ってお話をしました。何を話したのかなんて記憶にありませんが、光影会というカメラクラブに入会するということになったのだと思います。

いよいよ、わたくしの写真生活がはじまります。当時、わたくしは伏見郵便局に勤めていて、深草藤森は通勤経路にありました。達さんのお家へ、かなりの頻度で訪問するようになります。月一回の撮影会、月一回の例会、それに朝日新聞京都支局の会議室で行われる全日本写真連盟(全日写連)の例会、じぶんでモノクロでフィルム現像とプリント制作も始めていました。カメラはニコマート、そのうちニコンF2を買います。レンズをそろえていきます。わたくしの写真生活が始まったわけです。

その達栄作さん、のちに千原栄作って名前になりますが、わたくしの手元に、達さんが写った写真が、一枚だけ残っています。知りあって二年ぐらいが過ぎていて1977年ごろ、達さんは余呉湖を取材されはじめて、同行するようになります。当時高校生だった滋賀在住の伸子さんが撮影に参加し、モデルにもなって、何度かいっしょになります。達さんは頻繁に会われてモデルとして撮影されていたようですが、同行した冬の帰りの列車の中で、わたくし、記念写真を撮ったそれ、ここに載せておきます。


20130423
達栄作さんを先生として、わたくしの写真経歴がはじまったと思います。光影会、京都シュピーゲルという名称で組織された写真倶楽部でしたが、わたくしが入会する数年前に「光影会」と名前を変えたとの話。木村勝正さんという京都で写真店を経営するかたわら、大阪のシュピーゲル写真家協会の会員でもあった木村さんが、京都で組織して、シュピーゲルの名前を会の名前にしたそうです。木村勝正さんが亡くなられて、名称変更を余儀なくされたというのです。

わたくしが知りあった頃の達さんは、奥さんを癌で亡くされていて、大学生の息子さんと二人暮らしでした。本業は写真家、とはいえそれで飯が食えるほどの収入にはなかったと思えます。「写真とは何か」わたくしの問題に、達さんも同様の問題を抱えだされていたんです。かなりの頻度で藤森の達さんの家を訪ね、達さんの話を聞いていきました。写真とは何か、いまでもこの問いは命題ですが、そのころは土門拳さんの全集が出ていたころでした。室生寺の写真集、リアリズム、その手法、達さんの手本は、土門拳に傾斜しておられたように思います。

わたくしは、文学系から写真にアプローチしているタイプ。そのことを、達さんに指摘されました。写真の他のジャンルの芸術から、写真をとらえるべきだ、とか、達さんとて、試行錯誤で、わたくしのまえで、論を展開しておられたように思えます。二科会写真部の会友、全日本写真連盟京都支部の役員、光影会の会長。まあ肩書きとしては、地方の名士とでもいえばいいかも知れません。かなり、議論させていただいたなかから、わたくしは、大阪を取材地に選んで、写真を撮りにいくことになります。1978年のことです。

わたくしの写真の先生は、と問われれば、今なら達栄作さんと答えたいと思います。つまりかけだしの、右も左もわからない初心者に、写真のことをいろいろ教えていただいた人。倶楽部の撮影会とは別に、達さんが取り組みだされた「余呉」の撮影に同行しています。泊りがけで同行したこともあります。わたくし、入会して三年目には、関西二科会写真部の会員にもなっていました。全日写連の展覧会にもクラブ代表で出品したり、なんかしら有名になっていたように思います。これでいのか、と思うようになるのが、三年目あたりです。